緋色の下げ緒
真夜中、伊織はふと目を覚ました。
新選組の屯所、いつもの副長室。
衝立の向こうには、土方の寝息が静かに聞こえる。
あれから毎晩よく眠ることが出来ずに、こうして夜中に何度も目覚めてしまう。
目を閉じると、耳の奥に今も鮮明に残る彼の声が自分を呼んでいる気がして、眠りにつくことを阻まれる。
(──眠れない)
浅い惰眠からさえ引き戻され、伊織は気だるく上体を起こすと、深々と息を吐き出した。
そうして結い上げたままの髪に触れ、そこに飾りのように結ばれた下げ緒が手の甲を擽る。
本来は刀の鞘に使用する代物なのだが、美しい緋色が気に入って、何となく髪に結んでいる。
(眠れないのは、この下げ緒のせいかもしれないな……)
伊織は下げ緒に触れた手を胸に押し抱く。
この下げ緒は、彼から贈られた、唯一の物。
けれど、贈り主には一言の礼も言えぬままであった。
「………」
伊織がこれを受け取った時には、ただの贈り物ではなくなっていた。
形見として受け取ったのだった。
(少し、外の空気を吸ってこよう)
今夜も月が明るい。
外に出れば少しは気が紛れて眠れるようになるかもしれない。
こうも連日連夜睡眠がとれないのでは、さすがに身体もまいってしまう。
伊織は土方を起こさぬように気遣いながら、障子戸を開けて縁側へと出た。
しんと冷える外気に晒されて、全身が強ばってしまうほどの寒さだが、月の出た空は悲しいくらいに綺麗だ。
「──伊織」
不意に、伊織の耳の奥とは違う場所で、彼の声が聞こえた。
「え……っ」
驚いて、天を仰いでいた目を正面の庭に向ける。
そうして伊織は瞠目した。
「おーぅ! 久しぶりじゃのうっ!! 会いたかったぜよー!」
月明かりの下で笑う、もうこの世にはいないはずのその人。
今、伊織の目に映るのは、生前の姿そのままであった。
伊織は目を擦って、もう一度その姿を見つめる。
想うあまりの幻かと思ったのだ。
「なぁんぜよー! せっかく会いに来たっちゅうのに、口もきいてくれんがかよ?」
「本当に、隊長……?」
姿ばかりか、話す声さえ生きた人間そのもの。
愕然と立ち尽くす伊織の方へとゆっくり歩み寄り、慎太郎は改めて、会いたかった、と呟いた。
「……なんで、生きて……」
今以て信じられないという色も露わに、伊織は縁側の上から慎太郎を見おろす。
真っ直ぐに伊織の目を見つめたまま、慎太郎はどこか悲しそうに笑った。
「伊織、俺はもう生きちょらんがよ」
「──だって、今ここに……」
「おっ! 何ぜよー、下げ緒、髪に結んじょってくれゆうがか!? しゃれたことしゆうのー!」
ぱっと表情を輝かせて、慎太郎は伊織の髪に結ばれた下げ緒を指し示す。
「ま、そーゆう使い方のほうが似合っちゅうがぜよ。やっぱり伊織は可愛いのーぅ」
「───」
もう、二度と見ることはないと思っていた、屈託のない笑顔。
もう聞くことはないと思っていた、慎太郎の声。
つっぱねてばかりいたけれど、本当はとても嬉しかった慎太郎の言葉。
伊織の目から、ぱたりと大粒の涙がこぼれ、冷たい床に落ちた。
贈り物へのありがとう、最期を看取れなかったことへのごめんなさい。
言いたいことは沢山あるはずなのに、言葉が出てこない。
代わりに、涙ばかりがぱたぱたと落ちる。
そんな伊織の姿を見て、慎太郎が困ったように笑った。
「そんな泣かれちゃあ、俺が期待するがじゃろう?」
伊織の身体から、力までもが抜け落ちる。
ぺたりと床にへたり込んでしまい、今度は伊織のほうが慎太郎を見上げた。
慎太郎の手が伊織の頬に触れ、涙を拭う。
その手は前と変わらず優しいのに、人が持つはずの体温がなかった。
「……『土方副長』には、最期まで勝てんがやったのぅ」
「私……、ごめ、なさい。……慎ちゃ、……好き、けど……、土方さんは……っ、裏切れな……」
涙で息が詰まって、うまく言葉にならない。
けれど、慎太郎はその言葉を察して、伊織の頭を撫でてくれる。
「エエよ。ほんでも、俺は伊織を愛しちゅうきに」
「……慎ちゃ……ッ」
どちらからともなく、抱き合った。
「おまんの望む通りにしたらエエがよ。な?」
最期まで冷たい言葉しか返してやれなかったのに、どうしてこんなにも優しくしてくれるのか、伊織には理解できなかった。
ただわかるのは、慎太郎はやっぱりとても大きな人で、自分をとても大切に思っていてくれるということ。
もし、土方よりも先に慎太郎と出逢っていたなら、きっと慎太郎のために命を擲つ覚悟をしていたに違いない。
同情だったなどと、言うのではなかった。
「けど、一つだけでエエきに、俺の頼みも聞いとうせ」
声が出ない代わりに、伊織は慎太郎の胸でこくりと頷く。
すると慎太郎がさらに深く伊織の身体を抱き込んで、耳元で囁いた。
「この下げ緒だけは、俺と思って生涯手離さんでくれ」
穏やかな声とは裏腹に、伊織を抱く腕の力が一層強まる。
「──約束……する……」
伊織は出せる限りの力でもって、慎太郎を抱き締め返す。
そうして、最期の口付けを交わした。
***
翌朝、伊織が目を覚ますと、土方の腕の中だった。
「あ、れ……なんで……」
夜通し抱えていてくれたのか、土方は座った姿勢のままでうつらうつらとしていたが、伊織が目覚めたことに気付くと、ぱっちりと目を見開いた。
「土方さん、何してんの……」
不思議に思って尋ねると、土方は急に眉をしかめてムッと伊織を睨んだ。
「あぁ!? おめぇがこのクソ寒い中縁側にぶっ倒れてたから、こうして温めてやってたんじゃねぇか!! ちったぁ感謝しろぃ!!」
「えっ……、そう、だったんだ……」
あの後の記憶は全くなく、本当はすべて夢だったのかもしれない、と思った。
けれど、確かに慎太郎と会って、言葉を交わした。
それが現実でも夢でも、慎太郎は会いに来てくれたのだ。
今は、そう信じることができる。
「ったく、心配かけんじゃねぇっつうんだよ! もっと気を引き締めろ!!」
「へへへっ、ごめんなさい。がんばりますー」
そう遠くない未来、きっとまた会える。
(もし土方さんが慎ちゃんに会ったら、どうなるのかなぁ……)
思いやられるような、少し楽しみなような、どちらとも言えない気持ちが溢れて、クスクスと笑ってしまった。
「なに笑ってんだ」
「なんでもないですよー」
この日、新選組は旧伏見奉行所に布陣する。
【了】
試金石 紫乃森統子 @shinomoritoko
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