第六幕
──私は、維新後には生きてはいまい──
伊織が懊悩すればするほど、時は容赦なく過ぎ去った。
既に霜月に入って数日が経っていた。
土方はもう京に帰り着いているだろう。
あれほど勝手を禁じられていたのに、この伊織の行動に、土方はどんな顔で怒るだろう。
***
洛東白川村、陸援隊屯所の隊長室で、伊織は改まって鎮座していた。
その正面には慎太郎がいる。
明かり取りの火が創り出す陰影は、場の空気をさらに重くした。
「改まって、話っちゅうんは何ぜよ?」
伊織の只ならぬ雰囲気に、慎太郎は固唾を呑んで問う。
伊織は覚悟を決めていた。
人の生死を分かつものがその人の持つ運だとするのなら、それに懸けるしかないと思ったのだ。
「昨年八月の、三条大橋制札事件で捕縛された犯人をご存知ですか」
「……土佐の宮川ぜよ」
慎太郎の答えに、伊織は頷く。
「その通りです。土佐勤王党の宮川助五郎です」
慎太郎は、伊織の言わんとすることを測るように、その顔を見た。
伊織は目を伏せたままである。
「宮川の身柄は、直に土佐藩に引き渡されるでしょう」
「! 釈放されるがか!?」
つい声を高めた慎太郎を、伊織が抑制する。
「しっ! これは然程の重大事ではありませんが、皆はまだ知らぬこと。未だ京都町奉行所よりの沙汰も出てはおりません」
「宮川は無事がじゃろうか!?」
今度は声を潜めて尋ねる。
「ええ。そのうちに、中岡隊長、あなたにも藩邸から報せが来るでしょう。宮川を陸援隊に預ける、と」
慎太郎はさすがに眉をはね上げた。
「なんでおまんがそんなことを知っちゅうがよ?」
「まぁ、最後まで聞いてください」
窘めて、伊織は腰の大小を外し、慎太郎へ差し出す。
「? 何のつもりぜよ」
「私の覚悟を示して、お預けします」
慎太郎は、訝しみながらもそれを受け取る。
「宮川を餌にして、坂本・中岡両名の居所をつかみ、暗殺しようと企てる黒幕がいるかもしれません」
「──そりゃ、おまんの推測がか? それとも、どこぞから仕入れた情報じゃろうか」
「推測に過ぎません。ですが、宮川の件は確実です。先日、伊東さんもおっしゃっていたのでしょうが、あなたは狙われているはずです」
「それは承知しちゅう。何じゃあ、気をつけろ言うだけがやったら、普通に言うたらエエがじゃろ? いつもと様子が違うき、心配したぜよ~。それに、いくら俺の力になりたいゆうんでも、間諜の真似なんぞしちょくれんな」
慎太郎は正座していた足を崩し、伊織の大小を抱え込んで、その下げ緒を弄び始めた。
伊織は、既に肩の力を抜いている慎太郎をねめつけた。
「本当にご承知でしょうか? 今のあなたは油断している。まさに今、この状況がその証拠でしょう」
「──なぁんで、伊織の前でくつろいでちゃいかんがよ?」
慎太郎は憮然としてみせた。
「その気があれば、私はいつでもあなたを斬れた。今も、刀を預けていなければ、その喉元に切っ先を突きつけることが出来た」
辛辣なまでに研ぎ澄まされた伊織の声に、下げ緒を弄ぶ手が動きを止めた。
「なんで伊織が俺を斬らにゃならん?」
慎太郎の顔を見据えて、伊織は自らに寄せられる信頼の深さを知るとともに、嘆かわしさをも覚えた。
「どうしてあなたは、私が何者なのかを考えない?」
「何者……って、会津の脱藩浪人がじゃろう?」
極めて軽く笑って、慎太郎は答えた。
伊織は額に手を当てがい、嘆息した。
「あなたは女子の脱藩浪人など、他に見たことがおありか?」
揶揄に近いこの問いには、慎太郎は笑顔のまま、ないな、と言った。
「改めて、名乗らせてもらおう」
伊織は真っ向から慎太郎を睨んだ。
「会津藩御預新選組、諸士取調役兼監察、高宮伊織である!」
堂々たる名乗りを前に、慎太郎は声を失った。
『新選組、諸士取調役兼監察』。
「私は、あなたの敵なんですよ」
「嘘、じゃろう……?」
「嘘に聞こえましたか」
「……そんなん、冗談に決まっちゅうがやないか」
慎太郎の心に焦燥感が湧き起こるのに反比例して、伊織の心はますます冷静を極めた。
「だから油断していると申し上げた。こんな側近くに間者を置いていたんだ、あなたは。一月の間、私は何度でもあなたを殺せた」
「それが本当がやったら、なんで斬らんかった」
「斬る理由がない。いや、初めから斬るつもりなどありませんでしたから」
「──そんなら、なんで今更正体明かすがよ! それもこんなッ……」
頭を抱えて俯く慎太郎に、伊織はさらに諫言する。
「ほぅら、また隙を見せる。大小二本を預かったところで、私はまだ凶器を隠し持っているかもしれませんよ。部下が間者だと発覚したというのに、なにをしているんです」
慎太郎は顔を上げ、眼光鋭く伊織を見た。
伊織から預かった太刀を握るその手が、小刻みに震える。
「斬りますか、それも良いでしょう。ですが、その前に一つだけお聞き下さい。どんな時も刀を手元に置くことです。それさえ肝に命じて下されば、他に言い残すことはありません」
言って、伊織はこの日初めての笑顔を見せた。
慎太郎の眉間から力が抜け、なんとも情けない表情になる。
と同時に掴んでいた太刀を放り、伊織の身体を強く抱き締めた。
「新選組を捨てろ……!」
伊織の耳元で、慎太郎の声が低く響いた。
「誠一郎さんにも、同じことを言われましたよ。まったく、陸援隊というのは甘い組織ですね。新選組とは大違いだ」
「! 誠一郎は知っちゅうがか!?」
「えぇ、かなり前からね。お陰で四六時中見張られてますよ、私は」
「誠一郎は、なんで黙認しちゅう!?」
「陸援隊長には、私が必要なんだそうですよ。ところがどうして、その私が居てみると、隊長は隙だらけだ」
「それは……」
決まり悪く口ごもる慎太郎から離れ、伊織は立ち上がる。
「さて、斬らないのでしたら、邪魔が入らないうちにさっさと消えますかね。新選組にはなにも報告しませんから、安心して下さいね」
畳に転がった大小を差し直し、まとめてあった荷を拾う。
そうして襖に手を掛けた時、背後から強く腕を引かれた。
「新選組には戻るな!」
引っ張られて、伊織は振り返らされた。
「……脱走は切腹なんですよ。私はそんなの御免ですから」
にこりと笑いかけるが、慎太郎は真剣な眼差しを崩さない。
「陸援隊に、いや俺の側におる限り、奴らに手は出させん!」
掴まれた腕から、慎太郎の緊張が伝わってくる。
伊織は少し困って、目をそらした。
「誰のためなら死ねるのかと、聞きましたね。──あのとき、真っ先に浮かんだのは、あなたではなく、ウチの副長だったんです」
「───は……」
「私は、副長の盾となって死のうと、いつの間にか思っていた。けれど、あなたに出逢って、あなたにも生きていて欲しいと思ってしまった。それだけの事なんですよ」
今一度、慎太郎を見上げる。
「それでもまだ、私を止めますか?」
呆然と伊織を見る慎太郎の口元が、微かに動いた。
だがそれは声にはならず、聞き取ることは出来なかった。
「新選組は、新しい世に生き残ることは出来ない。私も、維新後にまで生きてはいないでしょう。また、そのつもりもありません」
穏やかに、けれど力強く伊織は笑った。
そしてまた背を向ける。
「ですが、叶うならば、あなたは生き抜いて下さい」
伊織は陸援隊屯所を出て、まっすぐに不動堂村にある新選組屯所へ向かった。
***
史実では──
宮川の身柄を陸援隊に預ける旨が慎太郎に伝えられるのは、十一月十四日。
その翌日、慎太郎は宮川の処遇の相談のために、近江屋の龍馬を訪ねることになっていた。
そして、龍馬を狙った刺客によって暗殺される。
その時刀を手元に置かなかったために、慎太郎はズタズタに斬られてしまうのだと、何かで読んだ記憶があった。
その場は命を取り留めるものの、十七日の夕刻に容態が悪化し、そのまま儚くなるのだとも記憶している。
これほど不運な最期があるだろうか。
予め宮川の一件を知っていれば、何も十五日に近江屋を訪ねることはない。それ以前に出向く猶予を作ってやったのだから。
万が一、十五日に龍馬を訪ねても、あれほど油断せぬように諫めたのだ。刀を手放すことはあるまい、と伊織は思う。
後はすべて、慎太郎の運次第なのだ。
(もう、会うまい)
次に会ったとしたら、その時は敵同士だ。
そう考えると、二度と会えぬよう願うより他無かった。
凛然とした空気の中で、いやに熱い滴が一筋、頬を伝った。
***
副長室の灯りは、煌々と灯されていた。
伊織は静かに障子戸を開け、一歩中に入る。
「……さっさと閉めねぇか。風が入る」
言われて伊織は後ろ手に戸を閉めた。
「今まで何をしてやがった」
背を向けたままの土方の姿が、妙になつかしく感じる。
が、土方が怒っていることは、その声で察しがついた。
「──ごめん、なさい」
「陸援隊で何をしてきたって訊いてんだ」
気後れしながら、伊織は答える。
「何って……間者です。他に何をしに敵陣へ潜入しますか」
「勝手な真似をしやがって」
「だからすみませんってば」
土方は大きく息を吐いて、伊織を振り返った。
「中岡に浮気してねぇんなら、今回だけは許してやってもいい」
内心ぎくりとしたが、すぐにごまかして土方の背に飛びついた。
温かい、大きな背中。
「もぅ、島田さんから一体何を聞かされたんですか!? 私は村山さんを助けに行ったんですよ?」
「それが勝手な真似だって言ってんだ! せっかく入れた間者を連れ戻してどうする! 馬鹿か、てめぇは!」
ひどいなぁ、と拗ねてみて、伊織はふと真面目な顔になる。
「──もうすぐ、戦になりますね」
土佐側には、下手に間者を置かぬが無難だ、と伊織は土方の背で呟いた。
「何か掴めたのか?」
真剣な声音になる土方。
土方が自分の言動によっていちいち変化するのが楽しくて、伊織は再び明るい調子に切り替える。
「いーえ、特に目立った動きはありませんでしたね。ただ……」
「ただ?」
「女だと見抜かれてしまいました~」
軽く言ってのける伊織と、瞠目する土方。
「何だと!?」
「はっはっはっ、何をそんなに驚きますか。私だって、もう二十になるんですよ? 隠しきれなくもなるでしょうよ」
「───」
「隊のみんなも気付いてるんでしょうけど、何も言わずにいてくれてるんですよねー」
土方が舌打ちするのが聞こえた。
「それで、どうしたんだ?」
伊織は土方の背から離れ、火鉢に身体を寄せて手を翳した。
長い距離を歩いてきてすっかり冷えた身体は、なかなか暖まらない。
「追い出されるかと思いましたがね、意外にも、隊長の色小姓の座に落ち着きましたよ」
半分本当、半分嘘である。
土方は大いに狼狽した。
「いッ、……色!?」
「うわぁ、やだな~、何想像してんですか? 別に何もされちゃいませんよ。単にそういう噂が立ったってだけですよ」
「馬鹿か! だったら最初からそう言え!」
怒鳴りながら、少しホッとしているような土方の顔を、伊織は笑った。
ひとしきり笑った後で、火鉢の炭を見つめて独りごちる。
「でもまぁ、あんなにまっすぐな気持ちを向けられたのは、初めてだなぁ」
火鉢を挟んだ正面に、土方も座り込んだ。
「まさか、中岡に惚れられた……てぇのか?」
伊織は照れくさそうに笑う。
「えぇ、まあ」
「……ほぉー。だったら褒めてやる」
予期せぬ反応に、伊織は戸惑った。
「おめぇを餌にして、中岡から坂本までおびき出せるかもしれねぇ」
「はぁ………」
そういうことかと苦笑う。
新選組とて、坂本龍馬捕縛を狙っているのだ。
「しかし、今は時期が悪い」
「まずは、伊東さんですね?」
「相変わらずなんでも知ってやがるな。そうだ、まずは伊東を殺る。坂本龍馬の捕縛は、それからだ」
土方は、わざと腹黒い笑みをもらし、伊織はそれを平然と見た。
「坂本さんのことは、いくら私でもおびき出せないと思いますよ?」
「やってみなきゃわからねぇだろう」
「中岡は、私が新選組の監察だって知ってますし」
しゃあしゃあと言う。
土方は、あんぐりと口を開けた。
「……おッ、……馬鹿かおめぇは!!? ふざけたことを抜かすな!!!」
「しょうがないじゃないですかァ。静かにして下さいよ、夜なんだから」
ぷくっと頬を張る。
土方は盛大に顔をしかめつつ、うなじを掻いた。
「それで逃げてきたんだな……」
「ははは」
からからと笑い、げんなりしている土方を眺めた。
こうしていると、切なさも少しは和らぐような、そんな気がした。
「あ~あ、何か土方さんの顔見てたら、余計身体が冷えてきた! お湯張ってあったまってこようっと」
冗談混じりに言って、伊織が立ち上がると、土方が呼び止めた。
「おい」
「はい?」
「……いや、おめぇが無事で良かった。そんだけだ」
土方は目を合わせずに言ったが、伊織にはその言葉が嬉しかった。
「ぷーッ! そんな照れたように言わなくてもッ!」
「やかましい! あー、言ってやるんじゃなかったよ! さっさと行けッ!!」
「はいはーい! あははははッ」
「しつっこいぞッ!!」
【第七幕へ続く】
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