第四幕

 

 

 翌朝、伊織は慎太郎の腕の中で目覚めた。

 夜中攻防戦を繰り広げるうちに、酔いと疲労とでいつの間にか眠ってしまったらしい。

「……う、ぅん、もう朝……」

 まだ寝ぼけた伊織の視界には、寝息を立てる慎太郎の顔。

「……あぁ?」

 伊織が声を出すと、慎太郎もまた目を覚ました。

「んおー? 先に目ェ覚ましちょったがかぁ。うぅーん、朝の寝顔も見ちゃろう思うちょったにィ」

 伊織は、信じられないものを見るように瞠目する。

 それには構わず、慎太郎はおもむろに目を閉じた。

「……?」

「ん!」

「……あぁ?」

「んー!」

「なに……?」

「朝の接吻」

「………」

「先に起きた方がするがじゃろ」

「………」

「ん~、まぁた照れちゅうがかよ~?」

 痺れを切らして、慎太郎は伊織に覆い被さって口づける。

 伊織は既に放心状態であった。

 慎太郎に唇を弄ばれながら、ふとした疑問が頭をよぎる。

 いつの間に眠ってしまったのか、記憶がない。

 まして、慎太郎が寝入ったのを見届けた覚えもない。

 ということは、伊織のほうが先に眠ってしまったということか。

 急激に顔面蒼白になる。

 慎太郎はようやく唇を離し、

「昨日は激しかったのぅ」

 と笑った。

 実に爽やかな笑顔である。

「ははは……何の冗談……」

 乾いた笑いを浮かべたが、目は確実に笑っていない。

「伊織、おま…っ、覚えとらんがかぁっ!!? 何ぜよ何ぜよーーッ!! あんまりじゃあーーーっ!! あぁんなに甘く熱く愛し合うたがじゃろーーーッ!!?」

「ば……ッ!? 馬鹿言ってんじゃねぇーーーッ!!!」

 あまりの衝撃に、つい口調が土方化する。

「いつまでも何をしちゅうがですかぁ、中岡隊長ォ!!」

 襖を壊さんばかりに入ってきたのは、この陸援隊の幹部に名を連ねる岩村誠一郎である。

「おーっ! 誠一郎ォ~、聞いちょくれぇッ! 伊織がぁ~……」

「ごッ、誤解です!! 違うんです!! 誠一郎さんッ、変な誤解しないでください~~!!」

 もうほとんど泣きそうな声で誠一郎に懇願する伊織である。

「夜中あんだけ騒いでりゃあ、もう屯所中が誤解しちゅうぜよ!!」

 一見、背の高い美丈夫に似つかわしくなく、誠一郎は怒鳴った。

 慎太郎は、誠一郎に助けを求める伊織を捕まえたまま、呵々大笑する。

「したら、俺と伊織は公認かっぷるじゃあ!!」

「あぁもう、何でもエエがですから、早う調練に顔出してください!」

「えぇっ!! そんなっ、助けてくだ……むぐっ!」

 なおも誠一郎に助けを求めようとするのを、慎太郎に口を抑えられたことで阻まれる。

「おぉ、すぐ行っちゃらぁ! 伊織、支度じゃ!」

 本当に早く来てくださいよ、と念を押して、誠一郎は出ていってしまった。


 ***


 慎太郎は自身で言うだけあって、やはり公私の区別は綺麗につけていた。

 ついさっきまであれほどふざけていたのに、部屋を出る頃には、既に陸援隊長の顔になっていた。

 この精悍な顔が常日頃保たれていれば、伊織ももう少し間者業をやりやすいはずである。

 この日は、洋式銃部隊の調練に顔を出すらしかった。

 伊織はあくまでも屯所に常駐する、いわば内小姓といった名目のため、外出には必ずしも同行はしない。

 見送りでは、しつこいくらい浮気厳禁の隊長命令を下され、やっと送り出した時には正直どっと疲労が押し寄せた。

 が、慎太郎が不在のうちにしか、村山を捜索することは出来ない。

 休んでいる暇は無いのである。

 手始めに屯所内を一通り歩いてみるが、村山が見つかるどころか、ほとんど人の気配がしない。

(みんなそれぞれ調練か……。昼間は接触出来そうにないな……)

 一日中が調練というわけでもないだろうが、村山の配属される部隊が判らない以上は、粘り強く監視するほかない。

(思ったより骨が折れそうだな……)

 足が自然と炊事場に向く。慎太郎のおかげで、朝食にありつけなかったのだ。

 とりあえず何か食べておかねば、身が持たない。

 そう思いながら炊事場の土間に降りると、人がいることに気付いた。

「あ! れぇっ? 誠一郎さん」

 昨夜の酒宴にも出席し、今朝はわざわざ起こしに来てくれた人だ。

「高宮か。腹が減っとるがじゃろう?今持って行っちゃろう思ってのー」

 差し出された握り飯を、伊織は素直に喜んで受け取った。

「ありがとうございます~! 誠一郎さんが作ってくれたんですか?」

 ああ、と答えて、誠一郎も笑顔を返す。

 一段高くなった板の間に腰を掛け、もらった握り飯をぱくつく伊織だったが、ふと誠一郎の顔を見上げた。

「誠一郎さんは、出かけないんですか?」

「あぁ、今日は内勤ぜよ」

「そうですかー……あッ!!」

「なんじゃ?」

「隊長もご飯食べてないです……」

 自分の空腹に気をとられ、主の慎太郎のことなど、ちゃっかり忘れていた。

 伊織の口ぶりが面白かったのか、誠一郎は笑いを堪えて言う。

「あん人は出先で食うがじゃろ。常に忙しくしちょう人じゃき、内小姓なんてもんは要らんくらいじゃ」

「え……? じゃあ……」

「中岡隊長にとっちゃあ、よっぽどおまんが心の支えなんじゃろう。俺はそう思うちゅう。国のためじゃゆうて、日々命懸けちょう人じゃき、精一杯支えちゃれ。俺からも頼むきに」

「あ、……はぁ」

 改まって言われると、何と言って返して良いものか、あるいはどういうつもりで頼んでいるのか、困惑してしまう。

「なんじゃ、頼りない返事じゃのう。心配すんな。みんなは二人が衆道の仲じゃ思うちょる」

 それが一番嫌なんじゃないか、と伊織は苦笑った。

「おまんが女子じゃゆうんは、陸援隊じゃ中岡隊長と俺しか知らんからのー」

「えっ!!? なんで誠一郎さんが……」

 どきりと心臓が大きく脈打つ。

「おいおい、ホントーに中岡隊長しか目に入ってないがか? 坂本先生に担がれて来た時、俺も隊長の隣におったがじゃろう」

 なるほど言われてみれば、慎太郎の隣に誰かいたような気もする。が、それが誠一郎だったとは、今以て思い出せない。

「……すいません」

「ははっ! 気にせんでエエ。そんだけ一途に隊長を想っちゅう証拠じゃきの」

「……はぁ」

 何となく罪悪感が胸をかすめる。

 誠一郎のことも、慎太郎のことも、騙しているのだ。

 それが今更、ひどく罪深いことに思えてならなかった。

 しかし、罪悪感にいちいち気をとられていては、監察の仕事は勤まらない。

「隊長のことは、すごい人だと思うし、尊敬もしてます。もちろん、大好きなんですよ。……でも、なんていうか、恋とは少し違うような気がするんですよね」

 思いがけずこぼれた本音に、誠一郎はもちろん、言った本人の伊織も驚いた。

「あっ!? す、すいません、こんなこと言って……」

 慌てて謝る伊織に、誠一郎は優しく笑いかけた。

「中岡隊長とおまんの想いは、同じ種類のモンがじゃろう?」

「えっ?」

「中岡隊長のおまんへの気持ちは、恋から愛情になっちゅう。恋しいんとは違う。愛しいんじゃ。あん人は国のためにも命懸けちゅうが、おまんのためにも命懸けるがじゃろうな。おまんもそうじゃあないがか?」

「そ……う、でしょうか」

「恋がやったら面倒なんは抜きで、一緒に楽しく過ごせたらそれでエエ。けど、愛じゃあそうはいかん。愛しい相手を守りたい、そのためなら面倒も背負い込むし、命も惜しむことなく懸けゆう」

「………」

 誠一郎の愛情論に、伊織は黙って聞き入る。

「中岡隊長の力になりたいゆうがで、男装までして入隊したんがその証拠。中岡隊長がはじめそれを躊躇ったんも、結局折れておまんを側で守ろうとしちょるんも、その証拠じゃ」

 そうかもしれない、と納得しかけて、やはり愛とも違うように思い直す。

 少なくとも伊織は、間者の役目で入隊したのだし、必ずしも慎太郎の力になるためではない。

 出来ることなら慎太郎を暗殺者から守ってやりたいとは思っているが、正直言ってそれは出来ないだろうと思っているのも、また事実だ。

(いざその日が来たら、どうするつもりなんだろう、私は……)


 ***


 ようやく村山に接触出来たのは、伊織の入隊から数日が経ってからだった。

 一般の隊士と隊長付小姓の間には、接点と呼べるものがなかった。

 そのため僅かな自由時間を、全て村山探しに当てたのだ。

 村山の居場所くらい、誰か適当な者に尋ねればすぐに判明するのだが、怪しまれるのを恐れた。

 そうやってジリジリとしていた時に、思いもかけず村山のほうから伊織の前に現れたのだった。

「高宮さん!」

「あっ!! 村山さ…!」

 思わず声を上げ、とっさに口を抑える。

 夕食時で皆が室内に引き取っているとはいっても、用心に越したことはない。

 屯所の縁側で顔を合わせた二人は、暗黙の了解で建物の裏へと回った。

 周囲に人がいないことを確認してから、伊織が声を潜める。

「探しましたよ、村山さん。どこにもいないんだもんなぁ」

「それより! なんであんたがここにいる!? 聞けば中岡の色小姓だと!?」

 どうやらそれを聞きつけて来たらしい。

 醜聞も時には役に立つものだと、伊織は妙に感心する。

「成り行きで、仕方なかったんですよ」

 苦笑しながら、単なる噂だと訂正を入れた。

「いったい何事なんだ。高宮さんがわざわざ入り込む必要はないはずじゃないか」

「間者を交代するために来たんですよ。私が残りますから、あなたは隊に戻ってください」

「!? それはもしかして、あんたの独断じゃないのか? どうせ土方副長はご存知ないんだろう。こんな勝手をして、副長が帰ったら大変だぞ!」

 伊織よりももう少し年上の村山も、やはり土方は怖いらしい。

 村山は怪訝そうに伊織を見て、切腹は御免だぞ、と呟く。

「ははは、大丈夫ですよ。でも、詳しいことはここでは言えません。いいですか? あなたが間者だというのは、陸援隊もうすうす感づいてるはずです」

「だから俺に逃げ帰れと言うのか!?」

「そうじゃない! これからの新選組には、一人でも多く隊士が必要なんだ。直に戦になる!」

「何か掴めたのか?!」

「先日あった坂本と中岡の会合に同席した。幕府側から仕掛けてくるのを待つ構えらしい」

 会合に同席したと聞いて、村山は驚いたような呆れたような表情になる。

「いいですね、必ず戦になる! 今はそれに備える時なのだと、隊に戻って伝えてください!」

 つかみかかる勢いで言う伊織を、村山は呆然と見る。

「──なるほど。さすがはあんただ。いい位置に着いたな」

「あなたが脱けた後、私も時期を見て戻ります。今は私の指示に従ってもらえないだろうか」

 村山は暫く考え込んで、やがて静かに頷いた。

「──わかった。あんたに従おう。局長はこのことをご存知なんだな?」

「島田さんを通して伝わっているはずです。大丈夫ですよ、処分を受けるとしたら、それはあなたじゃなく、私だ」

「ははっ、それはないだろう。副長が、あんたを処分など誰にもさせまいよ」

「なら、いいんですがね」

 伊織は笑った。

 瞬間、村山がはっと顔を強ばらせた。

「そういえば、中岡は」

 専属の小姓が長時間主の側を離れていることに、危機感を覚えたらしかった。

 それに対し伊織は、悠然と答える。

「あぁ、今は出てます。帰るのは明日だろうと聞いてますから」

「そうか。……しかし、気をつけろ。中枢にいて動くのは常に危険が伴うぞ」

 深刻な面もちで忠告する村山に、伊織はなお軽く笑った。

「私はこれでも、古参の監察ですよ?」

 数日中に陸援隊を脱退するよう促して、伊織は村山よりも先に屯所の中へ戻った。

 中へ入ってすぐ、伊織を呼び止める者があった。

「誠一郎さん」

 相変わらずの優しげな笑顔で、伊織に近付いてくる。

「探しちょったぜよ」

 平然と、伊織は誠一郎を見返す。

「? ……私に何か?」

「いや、隊長が帰っちょうゆうがのに、おまんがおらんきに」

 伊織は少なからず本当に驚いた。

「隊長が!? 戻られてるんですか!?」

「おー、部屋で寂しがっちゅう。早う行っちゃれ」

 誠一郎への礼もそこそこに、伊織は隊長室へと急いだ。

(危ないところだった! 今戻ってきて良かったよ~)

 にわかに上がる動悸を抑えつつ、隊長室に入る。

「すみません! お戻りは明日になるかと……」

「伊織ィーーー!!」

 何かもう、お約束のように慎太郎に抱きつかれる。

「どーこに行っちょったがよ!?」

「いえ、少し気分が優れなかったので……」

 適当に言い訳をし、張り付く慎太郎を押し剥がす。

「どっか悪いがか?」

 伊織の出任せを間に受けて、心配そうに顔をのぞき込んでくる。

「大したことはありません。幾分、良くなりましたから」

「そうかぁ? 無理はいかんぜよ? 今日は俺が布団敷いちゃるきに、もう休んでエエよ」

 慎太郎は優しく伊織の頭を撫でた。

(本当に、この人は……)

 他の誰よりも、慎太郎自身が一番無理をしているはずなのに、それでも人の身体のことを慮るのだ。

 多少子供扱いされても、慎太郎にならばそう腹は立たない。

「ありがとう。でも、私の仕事だから。慎ちゃんこそ疲れてるでしょう? お湯の用意をしてくるから、少し待ってて」

 慎太郎がやたらとうるさいので、伊織も近頃では、たまに"慎ちゃん"と呼ぶようにしている。

 以来、慎太郎の機嫌は頗る良い。

「平気がかぁ? ……したら、伊織も一緒に……」

「遠慮します」

 逃げるが勝ち、とばかりに伊織は退室し、風呂場へ向かった。

(───死なせたくない)

 慎太郎を知れば知るほど、その思いは強く大きく、伊織の心を占めていく。

 もし、新選組隊士でなかったら、これほどまでに迷わなかっただろうか。

 共に過ごす時間が長くなればなるにつれ、慎太郎に傾倒していくようで、伊織は自らを律することに必死だった。



【第五幕へ続く】

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