第36話 三鷹の月

 幸い、バスはすぐに来た。時間どおりならば間に合わないはずだったが、少し遅れていたのが、見学者たちには都合がよかったようだ。あの髪の長い子は菜緒なおにていねいに頭を下げてバスに乗り、帰って行った。

 あの子たちは、その「三鷹」に行って、これから漫画の本の編集をしたりするのだろう。

 門のなかの坂を上りながら、菜緒はくすぐったそうにくすくすっと笑った。

 時間は五時――天文台の公開が終わる時間だ。天文台の門には、大きい天体のようなまるい明かりが灯った。向かい側の街にも街灯と家の明かりが灯っている。

 坂を上りきり、あの背の高い日時計のところまで来たとき、菜緒の携帯電話が鳴った。発信者は不明という表示になっている。

 菜緒は電話に出た。

 「はい」

 少し遅れて、なつかしい声が聞こえてきた。

 「桧茂土ひもと先輩ですか? ごぶさたしています」

 「グミ?」

 「はい」

 「ああ!」

 菜緒は、またあの日時計に背をもたせかけた。

 空を見上げる。

 「オーストラリアから? それとも帰ってきてるの?」

 「オーストラリアからですよ」

 空に上げていた目を少しずつ下ろしてから、菜緒は言った。

 「来たよ、あんたの後輩たち」

 「ご迷惑おかけしたりしませんでしたか? それがちょっと気になったから」

 「いいや」

 菜緒が言う。

 「おしとやかそうだけど、譲らないところは譲らない、髪の長い女の子と、活発で何でも自分で納得しようとする女の子と、あと、ちょっと恥ずかしがり屋だけど自分の考えをきっちり言う女の子と。みんな、どこかグミに似てるみたいで、何かおもしろかった」

 「おもしろかった」と言って、菜緒は、ふふっ、と笑った。

 「わたしは一年生のときのあんたまでしか知らないけど」

 「でも、小学校のときから、いろいろ相談に乗ってくださいましたよね」

 「グミのお母さんには恨まれてるかも」

 菜緒はまた笑う。

 「せっかく、天文学とかには何の興味もない子だったのに、わたしが引きずり戻した、って」

 「そんなことないですよ。母もほんとは研究が好きなんですから。ここに引っ越してきて、父とか、あと、ほかの研究者のひととかともつきあう機会が増えて、母は前より活き活きしてる感じだし。それで、よくわかりました」

 風で、日時計のまわりの熱帯樹の葉がしばらくざわめいた。

 その風をやり過ごしてから、菜緒はつづける。

 「ねえ、グミ。その……大学受験とかで、帰って来ないの? オーストラリアででも、今年の三月まで高校に行けば、日本の大学の受験資格あるんじゃなかった?」

 「ええ、でも」

 グミ――山岸やまぎし恵美めぐみはしばらくことばを切った。

 「でも、ハイスクールはこちらで最後まで行こうって思います。そのあとはまたもう少ししてから考えたいって思ってます。日本の大学を受験するか、それとも、オーストラリアに残ろうかとか」

 「うん、そうっか」

 菜緒も、それ以上は言わなかった。

 「じゃ、電話代もかさむだろうし、あとはメールとかでね。元気で」

 「ええ、先輩も」

 「うん」

 軽く言って、菜緒は電話を切り、大きく息をついた。

 空の高いところに月が出ていた。空が暗くなるにつれて、その月の明かりは明るく地上を照らしているように見える。

 オーストラリアは、いまは夏だ。だからまだ明るいだろう。けれども、月は同じように空高くに昇っている。

 地球上には、いろんなところにいろんな人がいて、それがいろんなふうにつながってるんだな、と菜緒は考え、それってあたりまえのことじゃない、と思う。

 でも。

 ここで見上げても、あの懐かしい高校にいま急いで帰ろうとしている後輩たちから見上げても、オーストラリアから見上げても、同じ月が空に昇っている。でも、やっぱり、その月をどう感じるかは、ひとによって違う。自分だって、一時間経ったら、この月を見て別のことを考えているかも知れないし、月のことなんか忘れているかも知れない。

 ああ、だから天文学ってやるんだな――と菜緒は思って、歩き出した。

 「だから」って、何だから、なのか、自分でもよくわからなかったけれども。


 (おわり)

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ファイン・ガール 清瀬 六朗 @r_kiyose

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