受験前夜 ~おばあちゃんとカップ麺~

無月弟(無月蒼)

受験前夜 ~おばあちゃんとカップ麺~

 部屋に入り電気をつけると、狭い四角形の中に机とベッドだけが置かれた室内が照らされる。

 今日はここで、一晩すごすのか。


 とりあえず抱えていたボストンバッグを床に置いて、ベッドに腰を掛ける。

 ビジネスホテルに泊まるのは初めてだけど、想像していた以上に何も無い簡素な作り。

 まあ別にいいけどね。もしもここが一流ホテルのスイートルームだったとしても、やる事は変わらない。

 明日に備えて勉強する。それだけだ。


 何せ明日は大学の入試の日。生憎私の家は志望校である大学からは遠く離れているから、当日になって移動していたんじゃ間に合いそうにない。だから今日のうちに家を出て、大学の近くにあるこのホテルに部屋を取ったのだ。


 だけど思えば、生まれてから今までの18年、一人でお泊りするなんて初めて。ホームシックってわけじゃないけど、ただでさえ明日の受験の事を考えると不安になるのに、慣れない環境がさらに緊張を加速させる。

 はぁ、こんなんで明日、大丈夫かなあ。


 だめだ。考えれば考えるほど、気持ちが沈んでいく。よし、ごちゃごちゃ悩むよりも、まずは勉強しよう。

 今は1分1秒が惜しい。少しでも復習しておかなくちゃ。


 ベッドから立ち上がると、ボストンバッグの中から勉強道具を取り出して、机へと移動する。

 机の上には、デジタル時計と電気ポットが置かれていて、時計を見ると午後4時10分と表示されていた。夕飯まで、2時間くらいは勉強できそうだ。


「お婆ちゃん。私、頑張るから」


 小さく呟いてから、問題集を捲る。

 かくして私は、勉強の世界へと落ちて行った。





 問一、正解。問二、正解。問三……ダメ、間違えてる。

 解いたばかりの数学の問題を採点してみたけど、所々間違いがあった。

 しかも間違えたのは、どれもこれもケアレスミス。落ち着いて解いたら、間違えなかった問題ばかりだ。

 なんでこんなしょうもないミスをしちゃうんだろう。家で勉強していた時は、こんなこと無かったのに。


 きっと私が、集中できていないのが原因だ。明日は本番だっていうのに、いったい何をやっているんだろう。

 こんなんじゃダメ、もっと頑張らないと……。


 ぐぅ~。


 焦る気持ちとは裏腹に、何とも緊張感の無い音がお腹から響いた。

 そう言えば、お腹空いたなあ。

 今は何時何だろう? 6時くらいかな?


 だけど時計を見てビックリ。そこに表示されていたのは、8時20分。

 ええっ、私4時間も勉強してたの?

 普段の夕飯の時間はもうとっくに過ぎているし、今日は家からここまで列車を乗り継いで、慣れない土地を移動してきたんだ。お腹がすくのは当然だった。


 仕方がない。勉強は一時中断して、ご飯を食べておこう。

 お風呂にも入りたいけど、今は腹の虫を押さえる方が先だ。


 たしかお婆ちゃんが、お弁当を用意してくれていたはず。

 私はごそごそと、ボストンバッグの中を漁り始めた。


 お婆ちゃん。

 交通事故で死んじゃったお父さんとお母さんに変わって、私を育ててくれた、たった一人の家族。

 どんな時でも私の味方で、大学に行って勉強したいと言った時も、快く承諾してくれたっけ。


 夜遅くまで勉強していてお腹が空いた時も、お夜食を用意してくれたお婆ちゃん。そんなお婆ちゃんが今回用意してくれていたのは、おにぎりとおかずが入ったタッパー。それと……。


「はは、また『赤いきつね』だよ」


 バッグから出てきたそれを見て、思わず笑みがこぼれる。

 本当、『また』だよ。お婆ちゃんはよく夜食に、この赤いきつねを用意してくれていた。

 いつもいつも、代わり映えしないなあ。まあ、いいんだけどね。


 あたしは一旦部屋を出て、ミネラルウォーターを買って戻ると、電気ポットでお湯を沸かす。


 赤いきつねの蓋を開けてかやくを取り出し、お湯を注ぐ。後はできるまでの間、先におにぎりやおかずから食べておこう。


 海苔の巻かれた俵状の、可愛らしいおにぎりを口に運ぶと、何か入ってる。これは昆布だ。

 そういえばお婆ちゃん。運動会や遠足の時は、決まって昆布入りのおにぎりを作ってくれたっけ。


 次に割り箸を割って、おかずの唐揚げをはさんで口に運ぶ。

 家を出る前に渡されたものだから当然冷めていたけど、それでも美味しかった。


 おっと、もうそろそろ4分経ったかな。

 半分だけはがれていた蓋の残りを、ぺりぺりと剝がす。


 メーカーの推奨する待ち時間は5分だけど、私はいつも決まって4分で蓋を開けている。これはなにも、麺が固めの方が好きというわけではなく、単に私がせっかちだから。

 1分くらい早くてもいいだろうって、いつも4分経ったくらいで食べ始めちゃうのだ。

 ん、そういえば……。


 ふと思い出したのは先月、受験勉強の合間に、夜食として赤いきつねを食べた時のこと。

 連日のように出される赤いきつねに、私は別に不満があったわけじゃないけど、少し気になって聞いてみた。


 ——ねえお婆ちゃん、どうしていつも赤いきつねばかりなの? 緑のたぬきだってあるでしょう。


 別にお婆ちゃんも私も、緑のたぬきが嫌いなわけじゃない。なのにどうして毎回、出すのは赤いきつねばかりなのだろうと不思議だったんだけど、そしたらお婆ちゃんは、にっこりしながらこう答えた。


 ——その方が、長く休めると思って。赤いきつねの方が、湯で時間が長いだろう。あんたはせっかちだから、せめてカップ麺ができるまでの間はゆっくりしなさい。


 ああ、なるほど。

 お婆ちゃん、そんな事まで考えて、より時間が掛かる赤いきつねをお夜食に選んでいたんだね。

 まあそんな赤いきつねを、いつもちゃんとは待たずに食べ始めちゃっているんだけど。

 でもそんなお婆ちゃんの気遣いは嬉しい。赤いきつねを食べる前から、胸の奥がポカポカしてくる。


 かつてあったやり取りを思い出しながら、ズルズルと麺をすする。

 しっかりとした歯ごたえ。馴染みのある味が口の中いっぱいに広がり、スープを飲めば醤油の香りが鼻を通る。

 おあげはふーふーと冷ましてから噛んで、甘みを堪能。ああ、美味しい。いつも通りの、変わらない味だ。


 おにぎりや空揚げを食べた時も思ったけど、慣れ親しんだ味って、どうしてこう安心できるんだろう?

 さっきまでは明日の試験大丈夫かなって心配にだったけど、お腹が膨れるにつれてだんだんと、気持ちがリラックスしてくるから不思議。


 やがておにぎりもおかずも完食し、麺も食べ終えて、後はスープを飲むだけってなった時、机に置いていたスマホが震えた。


 食べるのを止めて手に取って画面を見ると、そこには着信の文字が。お婆ちゃんからの電話だ。

 急いで画面をタップすると、スマホから馴染みのある声が聞こえてくる。


『佐和子かい? どう、ちゃんとホテルには着いてる?』


 私の名前を呼ぶお婆ちゃんの声を聞くと、不思議な安堵感が込み上げてきた。

 家を出てから、まだ半日しかたっていないのに、変なの。


「うん、4時前には着いたよ。今は部屋で、お弁当食べてる」

『今? もうすぐ9時だよ。さてはアンタ、明日の試験が心配になって、勉強してたんでしょう』


 う、バレてる。さすがお婆ちゃん、私のことは何でもお見通しだ。


『佐和子。あんまり頑張りすぎるんじゃないよ。アンタは今日まで、ちゃんと頑張ってきたんだから。明日くらいは肩の力を抜きなさい』

「明日くらいはって、その明日が本番じゃない」

『だからだよ。変に頑張ろうとしなくたっていつもの調子さえ出せたら、絶対に大丈夫だから』

「そうなのかな?」

『そうだよ。大事なのは、いかにいつも通りいられるか。これは単純だけど、とても重要な事なんだから。カップ麺だってそうだろう。いつどこで食べても変わらない味だから、愛されているんだ』


 大真面目に言ったカップ麺の例えに、思わず吹き出してしまう。

 ああ、でもそうかも。夜食の時に食べていたのと同じ、変わらない味の赤いきつねを食べたら、緊張しきっていた心がいつの間にかほぐされていた。

 肩の力を抜いて、いつも通りやったら大丈夫。うん、そうだよね。


「ありがとうお婆ちゃん。おかげで安心してきた」

『それはよかった。そうそう、明日帰ってきたら、試験終了のお祝いに特別に……』

「特別に?」

『緑のたぬきを食べようじゃないか。美味しいご馳走のためにも、頑張りすぎずにしっかりやるんだよ』


 冗談っぽく言うお婆ちゃんに、また笑いが漏れる。

 試験終了のお祝いが、緑のたぬきかーい! だけどおかげで、緊張なんて完全になくなっちゃった。


『それじゃあ明日に備えて、今日は早く寝るんだよ。おやすみー』


 明るい声を残して、通話は切れる。

 さてと。私はこれからお風呂に入って、さっさと寝ちゃおう。


 ご飯を食べた後ももう少し勉強しようと思っていたけど、止めた止めた。お婆ちゃんの言う通り、今日はもうゆっくり休もう。

 きっとその方が、結果が残せるだろう。あ、でもその前に。


 私は赤いきつねに手を伸ばすと、残っていたスープを口に運ぶ。

 少しぬるくなっていたけど、それでも美味しい、変わらないいつもの味。私も明日は、いつも通りの力が出せますように。


 明日の試験と、いつも私のことを応援してくれているお婆ちゃんのことを思いながら、スープを飲み干した。



 了

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