感情の雨

みたか

感情の雨

 目の前で、桃花さんが泣いている。

 それがどうしても信じられなくて、私の足は歩みを止めてしまった。

 夕日から逃げるように、桃花さんは校舎の隅っこに隠れて泣いていた。放課後の遅い時間に、隠れて泣くには最適の場所だ。

 さみしい。かなしい。

 桃花さんの周りに言葉が降っている。空を見上げても、どこから降ってくるのか分からない。ずっと高いところ、雲の上から降ってきているような、そんな感じがした。日の光と混ざり合いながら、言葉が陰に落ちていく。



 私がそれに気づいたのは、確か小学校に上がる前のことだった。

「今日は楽しいがたくさん降ってるね」

 そう言ったらお母さんに嫌そうな顔をされ、これは普通ではないのだと知った。

 私の目には、人の感情が文字になって見える。人の周りに、まるで雨のように言葉が降ってくるのだ。

 楽しい、嬉しい、かなしい。

 色んな気持ちが見えて、目の前の人が嘘をついているのかどうかも分かった。楽しそうに笑っていても、頭の上には「帰りたい」が降っていることもある。そういう人はたくさんいて、みんなそうやって取り繕って生きているんだと思った。

 これはお母さん以外誰にも言っていない。信じてもらえるとは思わなかったし、こんなことを言ったらきっとみんな離れていってしまうから。

 教室は、いつもたくさんの感情で溢れている。だるい、眠い、面倒くさい。ときどき、楽しい、嬉しい。それがほとんどだけど、桃花さんの周りにはいつも「さみしい」が降っていた。不思議だった。桃花さんはいつも友達に囲まれている。さみしいなんて感情から、一番遠い存在だと思っていた。



 黙って通り過ぎてしまおうか。

 つま先がじりじりと砂利を踏む。

 そもそも私は桃花さんと仲良くない。同じクラスだし仲が悪いわけではないけど、固まっているグループが違う。だからほとんど話したこともない。

 どうしてこんなことになってしまったんだ。委員会の仕事で呼び出した先生の顔を思い浮かべて、小さく息を吐いた。

 見なかったことにしよう、そうしよう。面倒なことには首を突っ込みたくない。

 さっと通り過ぎようとしたとき、桃花さんが顔を上げた。

「……美春ちゃん」

 もう誤魔化すことはできない。私は重い口を開いた。

「あー……えっと、大丈夫?」

「うん、ごめんね、変なとこ見せちゃったね」

「ううん、それは別に……」

 じゃあ、と帰り道に足を向けたとき、桃花さんが勢いよく立ち上がった。

「ね、良かったら一緒に帰ろう」

「え、一緒に?」

「うん、私もこっちからだから」

 今、桃花さんの周りには「離れたくない」が降っている。私はそれを見なかったことにはできず、小さく頷いた。

「ずっと美春ちゃんと話してみたかったんだ」

「え?」

 そんなこと、初めて言われた。あまり喋るほうではないし、面白いことだって言えないのに。

 どう返事をしたらいいのか分からず、もごもごと口を動かしていたら桃花さんが笑った。

「美春ちゃんと私、同じ春の名前だなって思ってた」

「春の名前?」

 桃花さんの名前を思い浮かべる。春江桃花。確かに春という字が同じだ。でも桃花さんと私は違う。春に咲く桃の花のように、可愛らしくて華やかな桃花さん。そして私。同じ春の名前でも、全く別物のような気がした。

 美しい春。そんな名前とは正反対のほうに向かっている気がする。はあ、とため息をつくお母さんの姿を思い出した。

 なんであんたはそんな暗い子になっちゃったんだろうねえ。

 誰に似たのかねえ。

 あたしにもあの人にも似てないわ。

 変な子。

 私を見るお母さんの周りには「鬱陶しい」という文字が降っている。私は手のひらにじわじわと汗をかきながら、その文字を見ている……。

「ね、『春』がお揃いだなぁって思ってたんだ」

 絞り出すような声で、今に引き戻された。

「……そうだね」

 隣を見ると、桃花さんの頬が濡れていた。頭上にはまだ「離れたくない」が降っている。

 私はどうすればいいんだろう。なんて声をかけたらいいのか分からない。こういうとき、他の誰かだったら、気の利いた優しい言葉でもかけてあげられるんだろうな。

 自分の下手さが嫌になる。でも桃花さんは離れたくないと思っている。それなら、何も言わずここにいるだけでもいいのかもしれない。

 頭上を仰ぎ見る。私の上にはただ、オレンジ色の空が広がっている。遮るものは何もなく、美しいグラデーションを施した雲が流れていくのが見えた。

 どうして、私だけ。

 自分の気持ちすら掴めないくせに、人の気持ちばかりが見えるから、私はいつも宙ぶらりんだ。

 視線を落として、足元を見つめる。鼻をすする音を聞きながら、桃花さんと私の靴が並んで歩くのをぼうっと眺めた。



 次の日、教室に入るといつもと同じ桃花さんがいた。たくさんの友達に囲まれて笑っていて、頭の上には「さみしい」が降っている。

 ふと、その中に「帰りたい」という文字を見つけた。どきっとしてよく見ると、それは「一緒に帰りたい」だった。

 一緒に帰りたい。今日も一緒に帰りたい。

 昨日の桃花さんの姿は、きっと誰も知らないのだろう。顔をぐしゃぐしゃにして泣く桃花さんを思い出して、胸が熱くなった。私だけに見せてくれた、桃花さんの顔。あの顔がもう一度見られるなら、一緒に帰ってもいいかな。なんて、そんなことを思った。



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感情の雨 みたか @hitomi_no_tsuki

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