第37話

 アパートに着くと、扉を開いても彼女は玄関まで出迎えに来なかった。


 食事の準備をしている気配もなく、シャワーを浴びている様子もない。


 廊下を歩き進むと、奥の部屋からがさごそと何かを漁るような音が聞こえてきた。


 部屋の中を覗くと、そこには床に座り込んだ彼女の後ろ姿と、彼女がここへやって来た時に持っていたキャリーケースが広げられているのが目に入った。


「何やってんだ?」


 そう尋ねたものの、黙々と衣類や生活用品をその中に詰め込んでいた彼女は何も答えなかった。


 見ると左手首には昨晩外したはずの金のブレスレットが嵌められており、黒いワンピースを着た彼女の背中は今朝に抱きしめたものと纏う空気がまるで違っていた。


「あの人から、連絡があったの」


 そう言って振り返った彼女の表情は、あの頃のものに戻っていた。


 無機質で、体温の感じられない瞳。


「だから、行かないと」


「行くって、どこに?」


 俺は近寄って彼女の顔を覗き込んだ。その瞳の中に映し出された俺の姿は、ひどく怯えているように思えた。


 ミカゲと連絡をつけるとキナリの奴は俺に話していたが、その相手は俺じゃなく、彼女のほうだったってことなのか……。


「あの人が、……待ってるって言ってくれた」


「そんなわけないだろ!」


 床の上に旅行のパンフレットを放り投げた俺は、声を荒げて彼女の両肩を掴んだ。


「メイは騙されてるんだ。ミカゲは待ったりなんてしてない。仮に会えたとしても、今度こそ何をされるか分かったもんじゃ――」


「キナリに会ったんでしょ」


 彼女はゆっくりとキャリーケースを閉じて立ち上がった。


「どうして、言ってくれなかったの」


 彼女の瞳は、涙に溢れていた。


 感情を抑え込もうと必死に堪えているが、それでも流れ出る涙を止めることが出来ず、とうとう頬を伝ってそれは床の上に垂れ落ちた。


「それは……」


 本当は明日になれば、それも話せるはずだった。ミカゲと連絡を取り、彼女と会ってくれる約束を取り付けてから話すつもりだった。


 けれどそれもキナリの企みによってすべて狂ってしまった。


 続けて彼女が言い出した台詞に、俺は思わず言葉を失ったよ。


「キナリに聞いたよ。あの人と私を会わせないようにしてくれってあなたが頼んで来たって。本当は前からあの人の居場所が分かってたんでしょ?」


「そんなわけ……」


 何て卑劣な真似をしやがるんだ。


 キナリは彼女にも嘘をついて、ここから連れ出そうとしている。


 その目的は定かではないが、彼女にとっていい話じゃないことだけは確かだった。


「違う。そうじゃない。あいつは嘘をついてるんだ。俺の話を――」


「嘘つきはあなたでしょ!」


 声を荒げてキャリーケースの持ち手を掴んだ彼女は、玄関に向かって歩き出した。


「待てよ! なぁ。話を聞いてくれ」


 背後から声を掛けても、彼女はこちらを振り向かなかった。


 視界から消えた後ですぐさま閉じられた扉は、以前と同じように腹をえぐるような重たい音を響かせた。


 外廊下を歩き進む彼女のコツコツという足音と、キャリーケースを引きずる音が徐々に遠のいていく。


 俺はその音を聞きながら、以前のようにただ黙って玄関に佇んでいるのは嫌だった。


 彼女に続いて靴も履かずに廊下に出た俺は、後を追って走り出した。


 アパートの前には、いつの間にかあのベンツが停まっていた。


 後部座席に彼女を乗り込ませたキナリは、トランクの中にキャリーケースをしまうと俺に笑みを寄こしながらお辞儀をし、続いて運転席に乗り込んだ。


「おい、待てよ!」


 後部座席の窓を叩いても、彼女はこちらを向いてはくれなかった。


 どうにかしてドアを開けようにも鍵がかかっており、開くことができない。


 そこへ運転席の窓が下ろされたのに気づいた俺は、キナリに向かって思い切り拳を握って振り上げた。


 けれどその瞬間、座席に座った奴が左手に持った物騒なものをこちらに向けていることに気がついた。


 黒光りしたそれは奴の身体とシートに覆い隠され、後部座席の彼女には見えていないようだった。


「もう、これきりにしようじゃないか」


 これは本気の忠告だった。


 その時の俺は、身体が硬直して動かなくなっちまった。


 すっかり怯えて、足が竦んじまってたんだろうな。


 大事な彼女がまた騙されて、今にも連れていかれそうだっていうのに、俺は何も出来なかった。


 走り去る車の後部座席に見えた後ろ姿が、彼女を見た最後の瞬間だった。


 その後は、お前さんにも想像がつくかと思うけど、奴らと出くわす機会も、連絡が来るようなことも一切なかった。


 しばらくの間は街中で金のブレスレットを見る度に俺は奴らの存在を勘繰ったが、どれもあのデザインのものではなかった。


 俺はただひたすら落ち込んで、部屋に引き籠ったまま何もする気が起こらなかった。


 無断欠勤が続いてバイトは首になり、卒業論文は未提出のまま大学も留年さ。


 どのみち就職先もなかったから留年という選択は変わらなかったかもしれないが、何ともみっともない末路だよな。


 それから先の心のリハビリについてはまた別のお話になるが、大して語るべき内容でもないのかもしれない。


 第一、お前さんはそれについてはすでに知っているだろうからね。


 俺は、とうとう変わることが出来なかった。


 レールからほんの少しはみ出たこの機会に、自由自在に暴れ回ってやろうだなんて、俺には無理な話だった。


 あの瞬間に足が竦んじまった俺は、本当に情けない男だよ。


 心の中では偉そうに他人を嘲りながら、自分のことになるとこの有様さ。


 こうしてまた振り出しに戻り、平凡を取り戻した俺は、以前よりもちょっとばかし摩耗されてすっかり丸くなっちまったみたいだ。


 ここまで長々と書き綴ってきたが、やっぱり俺はお前さんにこれを読ませようとは思えないね。


 だからこれからも、笑顔を振りまきながらいつものように道化を演じる俺に期待してくれ。


 そんな俺の姿を見て、人知れず苦労をしているんだとお前さんだけでも分かってくれているのなら、それは俺にとって、救いになり得るものだからさ。

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水槽の君に溺れ 扇谷 純 @painomi06

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