アンジェリカ
木染維月
໒꒱· ゚
水槽の天使は、赤い瞳でこちらを見ていた。
アルビノエンゼルフィッシュ、という魚がいることを、私はその日知った。
路地裏でひっそりと営まれる、褪せた看板の薄暗く胡散臭い熱帯魚屋だった。ピンク色に褪せたコカ・コーラのベンチと、錆だらけになったブリキの灰皿が店前を陣取っている。魚屋なのに閑古鳥が鳴いてるな、と私は面白くないことを考えた。
扉を押して店内に入る。私の他には客が一人と、気難しそうなレジの爺さんがいるだけだ。あとは魚、魚、魚──。水槽を照らす青紫色の光以外に光源はほとんどなく、その光が水に揺られてどこか幻想的で、現実感のない心地にさせられる。エアポンプの機械音と水流の音だけが響く空間で、入口脇の金魚が優雅に尾鰭を返す。
蛍光色の魚を尻目に、奥へ奥へと歩を進める。命に囲まれている、という独特の居心地の悪さがある。ネオンテトラの群れ。深紅の体に輝くコバルトの一本線、こいつは昔通っていた塾の受付にいた。ミッキーマウスプラティの水槽。金魚と似た色味の体で尾鰭に黒いミッキーマウスの模様がある。こいつも塾の受付にいた。狭い箱の中を泳ぎ回る小さな生命が塾に置かれている、なんて、嫌な何かを象徴している気がしてしまうのは、嫌な大人になったからだろうか。人口の箱に置かれようと人工の光に照らされようと、ネオンテトラは美しい。
さらに奥へと進む。水槽の密林が私を試している。水草だけの水槽を見て少し気が楽になる。そして、貝とエビのコーナーを抜けた先に──その魚は、いた。
アルビノエンゼルフィッシュ。混泳の水槽で一際存在感を放つそれは、真っ赤な瞳でこちらを見つめていた。
プラチナホワイトとでも言えばいいのだろうか、光沢のある純白の体。天使の羽のように大きく嫋やかな鰭は、まさにエンゼルの名に相応しい。背鰭や尾鰭の付近は薄桃色に色付き、その長い鰭をふわりと返せば偏光の鱗が薄荷色に輝く。そして、そんな美しい体に与えられた、真っ赤な目──ぎょろりとした、感情のない不気味な魚の目。
狭い熱帯魚屋から音が消えた。私は、その赤い目の魚と二人きりになった。試されている。訊かれている。何を? 感情のない目は、何も教えてくれない。
──その魚は、数日前にいなくなった私の天使に似ていた。
◆
アンジェリカ。それが、彼女の名前だった。
育ちのいい娘だった。丁寧な言葉を遣い、丁寧な所作を行い、天使のように微笑む娘だった。自分の娘に天使の名をつけてしまうような親だ、さぞかし子煩悩だったのだろう。箱に入れられて、大事に大事に育てられている──そんな娘だった。
そんな娘だったと、思っていた。
「私は、飼われているのよ。水槽のお魚なの」
彼女が、そう漏らすようになるまでは、そう思っていたのだ。
「連れ出してよ。どこか遠くに連れて行って。私のお父さんが、お母さんにしたみたいに」
彼女はたびたびそう言っては、
「冗談よ」
と笑った。私は何も言えなかったし、何もできなかった。
彼女はどこか大きな家の跡取りで、そういう教育を受けているらしい。彼女の本当の両親は駆け落ち夫婦で、とっくに死んでいて、今の「両親」は金で雇われて彼女の親をやっているらしい。そんなことを、風の噂で聞いたものだ。彼女本人は何も言ってくれないから、真偽は分からないけれど。
彼女は聡明だった。陶器のような白い肌を持ち、青みがかった、長く艶のある髪をしていた。その前髪の間から覗くルビーの瞳の奥には、怨嗟と破壊欲が燃えていた。彼女を飼う水槽がどんなに過酷になっても、その焔が消えることはなかった。いつだって柔らかな微笑みの奥に、黒い意志を湛えていた。
いかにもお嬢様である彼女におよそ不釣り合いなその瞳が、私は好きだった。
彼女はいつかきっと、そんなちっぽけな水槽なんて、壊してしまえるのだろう。そう思っていた。
そう思っていた、のに。
「──亡くなった?」
「うん。何でも四年前にね。自殺だったらしい」
人づてにそう聞いたのは、ほんの数日前のこと。
何でも彼女の「両親」は、あのあと事故死したらしい。それから一人で暮らすようになった彼女は、その聡明さを買われて何かの研究職に携わっていたそうだ。その職場の研究員たちの見る前で、手首を切って彼女は死んだ──笑いながら、死んでいった。瞳孔の開いた瞳で、狂気的に笑いながら、手首を縦に切って死んでいった。
まるで舞台役者のように。或いは劇作家が、先の分かった物語を演じるように。さァ皆々様、お立ち会い、お立ち会い。悲劇の幕は今、降ろされる!
人間一人の生命を奪うのは存外大変なことで、自殺するにも労力が要る。一に首吊り二に飛び降り、三、四がなくて五に凍死──手首を切って死ぬなんて莫迦のすることだ。この方法で自殺を完遂するには、骨が見えるほど手首を切り裂かなければならない。そうでもなければ、未遂に終わってしまう。
そんな、余程の覚悟が要ることを。わざわざそんな手段で、笑いながら遂げたと言うのだろうか。
アンジェリカ。
──天使の名を貰ったあの子は、どうやら本物の天使になってしまったらしい。
あの子の焔は、自分に向いてしまったのだろうか。それとも、己を殺すことで水槽を壊したつもりだったのだろうか。或いは、「両親」が死んで、水槽が壊れてみれば、その外では息ができなかったのだろうか。
私には想う資格はない。私はあの子に何もできなかったのだから。
アンジェリカ、私の天使──。
◆
カランカラン、と音が鳴り、ハッとして我に返る。熱帯魚屋の扉が開いた音だった。どうやら他に客が来たらしい。見かけよりも繁盛しているのだろうか。二人組の客らしく、微かに話し声が聞こえてきた。
「こんなシケた店なんか寄ってどうするんスか。ジブン、今日レイドバトルなんで早く帰らないと……可愛いシモベ、じゃなかった、ギルメンが待ってるんスよ」
「まぁそう言わないでよ。それに一日五千歩は歩くように所長から言われてるだろ? まだ歩数足りてないんだから、歩かないと」
「ウゲ……忘れてた……」
片方は二十代くらいだろうか、冴えない男だった。中肉中背、顔も普通、驚くほど特筆すべきところのない、目立たない男だ。
もう一人は女の声だった。青みがかったボサボサの髪を後ろで適当に束ねて、だらしないジャージを着ている。物陰に隠れた顔はよく見えないが、展示用のライトに照らされた肌がまるで陶器のように白く、綺麗で、思わず見とれてしまう。
「ほら、あっちにエンゼルフィッシュがいるんだって。見に行こうよ」
「全部同じサカナっすよ、サカナ。骨多くて食べられたもんじゃないし、ジブンには良さが分かんねっすね〜」
「ここにいるのは食用じゃありません!!」
二人は私のいる水槽の方に向かってくるようだった。女の顔の全貌が見える。陶器のような白い肌、青みがかったボサボサの髪、前髪の間から覗く──ルビーの、瞳。
時が止まったようだった。髪はすっかり艶を失っているし、服はだらしないし、言葉遣いだって様変わりしているけれど、その瞳だけは間違いようがなかった。
「……、アンジェリカ」
思わず呟いた声は、モーターの音に呑まれて消える。
何か言ったことは分かったらしく、男の方が私に声をかけた。
「すみません。お邪魔でしたか?」
冴えない男だ。人の良さそうなこと以外、何も特徴のない男。アンジェリカは──あの頃は歳が近かったはずなのに、今は遥かに年下に見える彼女は、この冴えない男に懐いているように見えた。
「フヒヒ……どうも、サーセン。この男がど〜してもサカナを見たいって聞かないもんで」
「ぼ、僕が悪いの!?」
彼女の瞳を見つめる。あの頃から変わらない、ルビーの綺麗な瞳だ。だが、あの黒い炎は──消えてこそいないものの、あの頃より随分小さく穏やかになっていた。
私には分からなかった。この冴えない男があの子の何なのか、何を救ったのか、或いは救っていないのか。死んだはずの彼女がなぜここにいるのか。何一つ分からなかった。
ただ、彼女が水槽を壊したこと。そして、水槽の外で、結構幸せに暮らしていること。それだけが分かっていた。
「……いえ、私の方こそすみません。すぐ退きますので」
そう言って一礼し、私は彼らに背を向けた。
背後から彼らの話し声がする。「あの子、知り合い? やたら見られてなかった?」「さぁ……ファンとかじゃねっすか?」「かもしれないなぁ」
店を後にしながら、あのアルビノエンゼルフィッシュを買うべきだっただろうか、と私は少しだけ後悔した。いや、しかし、私が買っても水槽の中に入れておくことしかできなかった──あれで良かったのだ。たぶん。
私は、身勝手に彼女の幸せを祈った。天使には救済があるべきだから。
私の天使に、神のご加護があらんことを。
アンジェリカ 木染維月 @tomoneko
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます