エピローグ
「こんな元気で長生きすると分かってたら、30年前のあの時、離婚を選んだのに」
彩也子はため息をついた。
「お母さん!せっかくの傘寿のお祝いなんだから、ため息なんかつかないでよ」
彩也子の80歳の誕生日に、子どもたちが孫を連れてお祝いにやってきた。部屋の一角に、ベッドの背を起こしてもらった亮一が、ぼんやりした表情で座っている。
「毎日毎日、お母さんの食事食べるだけのために生きてるみたいなお父さんと、二人でずっといると、息が詰まってこっちがおかしくなりそうよ」
彩也子はこの頃、物忘れがひどくぼんやりしている時間が増えた亮一に苛立つようになった。彩也子自身も怒りっぽくなり我慢がきかなくなったのも、年のせいなのだろう。80歳になっても、一度憶えた怒りの感情は当時のまま蘇ってくるのだった。
──どうしてあの時、決断できなかったんだろう・・・
80歳の誕生日を迎え、自分の人生を改めて振り返っていた。
いまだに彩也子は後悔していた。80歳になっても結局、亮一の勝手に振り回されていたからだ。
介護の申請をしても「馬鹿にするな」と拒み、人の手を借りることは嫌がるくせに家事が滞ると不機嫌になった。週に何回かの散歩に出る以外ほぼ家にこもっている亮一は、3度の食事をただ待ち、彩也子の負担を増やしていた。
「もっと自立しとけばよかった」
「そんな、今さら。本当に離婚したかったらいくらでもチャンスはあったでしょう」
子どもたちについ愚痴をこぼした。
「仲の良くない親見て育って、嫌じゃなかった?」
「まあ、お父さんとよく一緒にいられるな、と思ったことはあったよ」
「お母さんが結婚する時、おばあちゃんは部屋に籠城するほど反対したのよ。田舎の人と結婚なんかしたら苦労するだけだって」
「でも、結婚しちゃったんでしょ」
子どもたちは苦笑いしながら、彩也子の愚痴を聞いていた。
「お母さん、他の人と結婚しようとしてたこともあったのよ」
「でもお父さんと結婚するって、お母さんが自分で決めたんでしょ」
「まあね。だって、お父さんが堤防に登って、結婚してくなかったら僕は死ぬって、飛び降りようとしたんだもの」
「そのまま飛び降りさせとけば良かったのに、助けちゃったお母さんの負けだよ」
子どもたちの正論に、彩也子はしょんぼりとうなだれた。
「お母さんがお父さんを助けたおかげで、私たちがいるんだよ。産んでくれてありがとうって思ってるんだから、そんなこと、もう言わないで。乾杯しよ!」
孫が注いでくれた赤ワインの入ったグラスを軽く掲げて、仰ぎ見た。
堤防の上に登ってプロポーズしてきた亮一を見上げていた角度に似ていたせいだろうか、当時の亮一との思い出が走馬灯のように脳裏を駆け巡った。亮一との思い出など思い出しても仕方ないのにバカみたい、と思いながら、彩也子はワインを飲み干した。
ふと視線を感じた先を見ると、ベッドに座っていた亮一と目が合った。
(おめでとう)亮一の口がそう動き、小さくペコリとおじぎをした。
「他人行儀」とつぶやいてから「あ、もともと他人だったんだ」と彩也子は妙に納得して一人くすくすと笑ってしまった。
「お母さんの負けだわ」
彩也子は、おかわり!とグラスを差し出した。
亮一の登った堤防に、蟻はすでに目を付けていただろうか。
──蟻の穴から堤も崩れる。
穴の数のわりに、亮一と彩也子の築いた堤が崩れかけても持ちこたえたのは、波風を最小限に抑えた彩也子の我慢が
〈 了 〉
蟻の穴から堤は崩れる 樵丘 夜音 @colocca108
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