最終穴 クリスマスの決断
家を出ようと思った彩也子だったが、仕事を休むわけにもいかず、衝動的に出ていくのは難しかった。それでも、やはり亮一の暴言は忘れられず許せず、距離をおきたかった。
『今まで自分がしてきたこと、我慢ばかりさせられてきた私の気持ちを考えてください。しばらく帰りません』
テーブルの上にそう書き置きを残して、数日分の着替えをカバンに詰め、職場に近い駅のビジネスホテルに向かった。こんなことで無駄なお金を使うのは忍びなかったが、無駄遣いをしてでも亮一と離れる時間が必要だった。
驚いたことに、彩也子が家を出ても亮一からは何の連絡も来なかった。心配して探すことも、どこにいるのかと聞いてくることも、謝ってくることもなかった。その代わり、子どもたちからは心配するメールが届いたので、泊っているビジネスホテルの場所を伝え、数日間だけ一人にさせてほしいと返信した。
一人で狭い部屋の中でテレビも電気も点けず、ベッドに寝そべってただ天井を見ていたら、涙が溢れてきた。この歳になってこんな気持ちにさせられていることが悔しいのと、こんなことをしていることが惨めでならなかった。
──私はこの先、どうしたいんだろう。
10年ほど前に大喧嘩した時のように、やり直したいという気持ちは起きなかった。子どもたちのために、というワードがなくなった今、亮一との未来がまったく見えなかった。
自分に一人で生きられるだけの収入があったら、離婚したいと思うだろうか。友達のいる地元に戻りたい。でも、この歳で正社員として雇ってもらえる仕事を探すのはなかなか厳しいのが現実だ。本当に絶対に離婚したいと思ったら、キツイ仕事でもなんでもいいから新しい仕事を探せるはずだ。でも、資格もなく、いわゆる事務仕事の経験しかない彩也子に、そんなキツイ仕事をする自信がない。離れた土地から地元での仕事を探しに行くのも体力的にも精神的にも大変だという思いが、離婚に踏み切れない大きな理由だった。
もし離婚することになったら、亮一は私がいなくなること以外、何も変わらない。炊事や洗濯は義母がしてくれるだろうし、仕事も変える必要もない。
それに引き換え、彩也子は、引っ越しをしなければならない、仕事を変えなければいけない、免許証から銀行、年金、保険、あらゆる名義変更から、扶養になっていたものを全部自分のもので作り直さなければいけない。
面倒くさいことしかない。50歳を過ぎて更年期障害に悩み始めているのに、そんな面倒くさいことをする気力がなかった。
──離婚ができないなら、この先、どういう思いで生きていけばいいの。
なんの解決策も出ない。出るのはため息だけだ。
それでも、家事もせず一人きりの空間で無心になり、久しぶりに朝までぐっすり眠ることができた。
3日目、ようやく亮一からメールが届いた。
『一度、ちゃんと話そう』
心配もせず謝りもせず、ただそう送ってきた亮一のメールに、また腹が立ったが、いつまでもビジネスホテルに泊まっているわけにもいかないので、彩也子は仕方なく家に戻った。
自分の家なのに落ち着けず、キッチンの片付けをしたりしているところへ、亮一が帰って来た。
「ただいまー」
やはり亮一は、何事もなかったようにいつも通りだった。彩也子は、返事をしなかった。返事がないことで思い出したかのように、亮一が言った。
「まあ、俺も少し言い過ぎたわ」
彩也子は耳を疑った。
「え?俺も?少し?」
それで謝ったつもりなのかと、後に言葉を続けることができなくなった。彩也子は離婚したいと思うほどの暴言を吐かれたと思っているのに、亮一にとってはちょっとのことなのか。
「ちゃんと謝ってよ。私がなんで家を出たか、考えた?どうせ、何に対して謝れって言ってるのか分からないんでしょう?あなたは好き勝手に仕事を変えて、やりたいことしかやらないで我慢なんかしたことなくて、その分、私がいつも我慢させられて、あなたの勝手を許して、それなのに、私には今以上の節約しろ、あなたはいくら遊んでも俺の金だって言ったのよ?それが許せないの。だったら、食事作るのも洗濯するのも全部自分でやればいいじゃない。何もしないくせに、私が食料買ってきて作ってあげて、洗濯して掃除して家のこと全部してあげてることへの報酬を下さい!!」
彩也子は堰を切ったように思いをぶちまけた。
「離婚したいなら、それなりの慰謝料をください!」そう言って、亮一を睨みつけると、亮一がハッとした顔をしたように見えた。予想外の言葉に驚いた顔なのか、待っていた言葉が出たと思った顔なのかは分からなかったが、彩也子には後者に見えた。
「今、嬉しそうな顔したよね」
「・・・してないよ」
「ホッとした顔したよね。今の顔見て、絶対に離婚しないことにした。一生、私の不機嫌な顔と付き合って生きてください!」
彩也子はカバンを掴むと、階段を駆け下りて、また家を飛び出した。
駅前のコーヒーショップで時間を潰し、亮一が寝た頃に家に戻った。
それからしばらく、職場での昼ご飯以外ほぼ食事は取らず、家で一緒に食事をすることもせず、彩也子はリビングのソファーで眠った。亮一とは顔を合わせても、一切口を利かなかった。
1か月もそんな生活をしていた彩也子は、ある日激しい胃痛で倒れた。
病院に運ばれた彩也子は、強いストレスと栄養不足と言われた。点滴が終わると、
「1週間ほど仕事は休んで、家でゆっくりするようにね」と、看護師さんに言われ、彩也子は思わず、
「家でゆっくりする場所なんてないんです」と言って涙ぐんでしまった。
何かを察した看護師さんは、彩也子をカンファレンスルームに連れて行くと、臨床心理士の望月さんという人を紹介してくれた。
望月さんは、小学校の時の保健室の先生に似ていた。
「なんでも話してみて」望月さんは、優しく穏やかな口調で彩也子の話に相槌を打ったり、彩也子の心の
「奥さんに、胃に穴が開くほどのストレスを抱え込ませちゃダメですよ」と、亮一に言ってくれた。
家に着くと、亮一は神妙な面持ちで彩也子に初めて謝った。
「色々、気付くのが遅くてごめん・・・彩也子の体調が戻るまで、俺がソファーで寝るから」
体調が戻ったらまた私がソファーで寝るような言い方をされた気がしたが、今日はもうどうでもいいやと、体力が失くしていた彩也子は自分のベッドに横になった。
5日も経つと彩也子はだいぶ回復したが、頬がこけだいぶ痩せていた。昼前にリビングに行きテレビをつけると、昼のニュースが流れてきた。
「今日は12月24日、クリスマスイブです。まずは、SNSにあげられた中東の紛争地域の医療現場に飾られたクリスマスツリーの写真を紹介します」
ジュースの空き缶で作ったクリスマスツリーの画像が映し出された。缶が凹んだぶぶんに光が当たりキラキラと輝いていた。
「ほんの一部の地域では、今日だけは停戦協定を結んでいる所があるようですが、クリスマスだけでなく、紛争のない平和な世界を祈るばかりです」
冒頭の挨拶を終えたアナウンサーは、次のニュースを読み始めた。
「もう、クリスマスか」
子どもたちが小さい頃は一大イベントだったが、今はもう、365日のうちの1日でしかない。少し気持ちが落ち着いてきたいた彩也子は、久しぶりに料理をしてみようという気になった。少しだけクリスマスっぽい、子どもたちが好きだったトマトシチューとマカロニサラダを作った。
夜、いつもより少し早めに帰って来た亮一は、珍しく赤ワインを買ってきた。
「病み上がりだけど、一口だけ、どう?」
昼のニュースの紛争地域の映像がよぎり、なんとなく、今日は休戦しようかという気になって、亮一の勧めに応じた。
クリスマスだからと久しぶりに一緒に食卓に着いたものの、会話が弾むわけもないどころかなんの話題も見つけられず、静まり返る食卓に、テレビから流れるお笑い芸人の張り上げる声と笑い声だけが頼みの綱だった。
グラス一杯の赤ワインだったが、やはり久しぶりのアルコールは、病み上がりの彩也子には効いた。
食後の片付けもせず、彩也子は寝室に向かった。
しばらくすると、亮一が隣のベッドに寝る気配を感じた。
まだやり直したいと思えた10数年前の大喧嘩の後、喧嘩をしても眠る時には握手をして終わりにしようと決めたことがあった。それを思い出したのだろうか、亮一が彩也子の手を握ってきた。
「気持ち悪い!今さら何なの?!」
そう言ってこの手を振り払ったら、一生このままいがみ合っていくか、離婚の選択をせざるを得なくなるだろう。
我慢してでもこの亮一の手を握り返したら、また元通りの生活に戻るのだろう。でも、元通りの生活は彩也子にとってはきっと我慢を強いられる生活になる。その先で老々介護になったら、と思うとゾッとした。
決断するのは、今しかない。
振り払うべきか、受け入れるべきか──
この選択で、彩也子の人生は大きく変わる。
どうしよう、どうしよう、どうしよう・・・
迷っている間にそのまま眠ってしまった。振り払うこともできず握り返しもせず、亮一の手に包まれた彩也子の左手は委ねられたまま朝になり、それが彩也子の答えとなった。
赤ワインのせい?
赤ワインのおかげ?
彩也子は、亮一と添い遂げる人生を選ぶことになった。
一度蟻が開けた穴は自然に埋まることはないとは知らずに。
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