女性専用車両の恐怖
柴田 恭太朗
1話完結 忘れものをしたダチョウ
やばい。完全に遅刻だ。いや駅まで全速力で駆けとおせば、ギリギリ間にあうかもしれない。
俺は一流商社に勤める男。遅刻は許されない。俺の代わりが掃いて捨てるほどいる大企業ゆえ、勤怠上の
こうなった原因は定期券。家を出てから忘れたことに気がついた。定期だけならキップを買えば済むけれど、定期券のケースに大切なメモをはさんである。今夜の接待に関する情報だ。そこでいたしかたなく、取りに戻った結果がこのざまだ。
駅ビルの入り口まで来たとき、二階のホームに電車がすべり込む光景が見えた。これを逃したら確実に遅刻する。だが俺は元陸上部。しかも三段跳びの選手。脚力には自信があった。発車メロディはすでに鳴りはじめている。まだギリギリ間に合う、絶対この電車に乗ってやる。俺は意を決し、ホームまでの階段をオリンピック選手もかくやとばかりの勢いで、四段飛ばしで駆け上がった。
階段をのぼりきると、電車までの距離は十五メートル。そこをホップ、ステップ、ジャンプの要領で宙を駆け、車両に飛び込んだ。両足をそろえて電車の床にバンッと着地する、床のホコリが舞い上がる。と同時に、俺の背後でシューッと音と立てながら閉じるドア。セーフだ。絵に描いたようなギリギリセーフ。
俺は車内を見回した。乗客からの称賛あるいは非難のまなざし、ありやなしや。
はは~ん?(語尾上がり) なにか様子がおかしい。
女、女、女。
見渡す限り俺を見つめる女女女女……。
ここが噂の女人極楽郷か。それともギリシャ神話でいうところの女人部族アマゾーンとの
そう、俺は男性の身でありながら、禁断の女性専用車両に乗ってしまったのだ。
ちょっとばかり言い訳させてほしい。俺が飛びこんだ車両が女性専用になるのは朝のラッシュ時だけ。ふだん俺が駅に着く早朝の時間帯なら、男性も乗車OK。ノープロブレム。だからこれまで気にすることなく、この車両を利用してきたのだ。今日はいつもより遅い便に乗ったことを、うっかり忘れていた。敗因は定期券を取りに戻ったことにある。
車内の四方八方から視線が刺さる。腕組みをしてドアにもたれた女が俺をにらんでくる。シートで化粧中の女性がコンパクト越しににらんでいる。つり革につかまった茶髪のOLがにらむ。リクルートスーツで決めた若い女性がにらむ。ランドセルの小学生がにらむ。ツインテールの女子高生がにらむ。どこもかしこも、にらみ顔だらけ。
ああ、完璧なるアウェイ。四面楚歌。いやな汗が背を脇を流れ落ちる。大きなプレゼンの檀上ですら、これほど熱い視線を浴びることはない。俺は女性たちの眼力に
車内に背を向け、身を縮めている俺に、追い打ちをかけてくるヤツがいた。
「ここ女性専用ですけど」
白髪交じりの中年女が詰め寄ってきた。怒りで口もとが、わなないている。ほうれい線が深い。俺の右耳にかじりつかんばかりの勢いだ。
「わかってます。次で降りますから」
俺は落ち着いた低い声で答え、駅までのダッシュで乱れまくった髪をポケットの櫛で整える。降りたら遅刻だ、隣の車両に乗り換えればいいだろう。ひとまずこれで一件落着。俺はそう思った。
「そのエリート然とした態度が鼻につく」
白髪女は俺のクールな態度が気にくわなかったようだ。事態を収拾できたと思った俺の予想に反して、悪意のこもった冷ややかな声で毒を吐いてくる。どうやら俺は彼女のフラストレーションのはけ口にされつつあることを察した。この女は次の駅まで、俺をいたぶり続ける腹だろう。
繰り返すが、俺は一流商社に勤める男。プライドが高い。これまで人から後ろ指をさされることのない、完璧な生活を送ってきた。その人生に初めて曇りが生じようとしている。
俺はストレスがかかるとくちびるが乾く体質だ。しかも人一倍、乾燥しやすく、ひび割れやすい。リップクリームを塗りたい。くちびるを舌で湿らせれば一時的には治まるが、すぐにふたたび乾燥してひび割れる。割れると血がにじむ。血がではじめるとかなり痛い。考えただけで憂鬱になる。いますぐ塗りたい。リップクリームはスーツの右ポケットに入っている。取り出すには、白髪フラストレーション女の体が近すぎる。ムリに取り出せば、かならずや右ひじが女性の体に触れるに違いない。
なぜこんな近くに立っているのか。俺はこの女の目論見が徐々に見えてきた。電車の揺れでよろけて、偶然体に触れようものなら俺を痴漢呼ばわりして、警察に突き出そうという魂胆だろう。考えすぎかもしれないが、さきほどから美容師のように、距離5センチを保ったままピタリとマークして離れないのは、尋常な行動とは言えない。リップクリームを塗りたいのに、この女性が邪魔をして取り出せない。
そのとき俺はひらめいた。左のポケットにも、もう一つリップクリームを入れていたことを思い出したのだ。グラスにはいった水割りを飲んでも落ちない、接待用の特別強力なヤツ。これで幾度となく重要な接待を乗り切ってきた。俺の商社マンとしての成功の鍵、欠くことのできないラッキーアイテムだ。
俺は左ポケットからリップクリームを取り出し、ドアガラスに顔を映しながら、たっぷりと塗りたくった。これで良し。もうドアガラスと見つめ合うダチョウである必要はない。身をクルリと翻すとニンマリ笑って、車内の女どもを見つめ返した。ゆっくりと右から左。もう一度左から右へとねめつける。
いままでこちらをにらみ付けていた女たちが軽く咳払いをすると、何ごともなかったかのように手もとのスマホをいじったり、窓の外をながめたり、縦笛を吹いたり、英単語を暗記したりと思い思いの行動にうつった。隣で噛みついていた白髪女は、いつの間にか姿を消していた。
面白い。あれほど一致団結して、あたしを排除しようとしていたのに、行動のギャップが面白すぎる。ストレスが多い商社には
あたしは手にした夜用のリップクリーム――真っ赤な口紅――を見つめて思う。
平成まであたしたちは、肩身が狭い思いをしながら日陰の道を歩んできた。
しかし、時代は令和。
LGBTが市民権を得た世の中って、じつに素晴らしいじゃない?
おしまい。チュッ!
女性専用車両の恐怖 柴田 恭太朗 @sofia_2020
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