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真花

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 蓋を開ける前の集中と、蓋を開けてから。その境目。

 テレビから紅白歌合戦が最終盤に向かう、わっしょいわっしょいといった気配が流れて来る。僕は一瞥もせずに新しい寝室の荷物を片付けて、常子つねこは常子でキッチンの設営をしている。二人分の荷物を運び込んだから部屋は物で溢れていて、各部屋に収まらない分は居間に積むから、ちゃぶ台のぐるりを除いたらそこは朝の山手線のようにごちゃごちゃしている。これは寝室にはいらない、きつねとたぬきの小さな置き物を居間の雑誌の束の上に乗せる、キッチンから常子の声。

絹太きぬた、どう?」

「寝るだけの場所は確保出来た」

「こっちも今日は、もういっかな」

 キッチンを覗くと彼女が流しの前で腰に手を当て立つ背中。ひょいと首だけ僕の方を見て強気な笑み。まだ計画は初期段階のようだけど、彼女がそれでいいならそれでいい。

「じゃあ、初日はここまでにしよう」

 僕達が作業を投げたのと同時にテレビのお祭り騒ぎの最後の音。急な静けさは部屋の四隅を貫いて、ずっとどこまでも続いている。胸の内側までその沈黙に奪われそうで、僕は彼女の目をじっと見詰める。彼女は百年前からここに住み着いているような平気な顔。だけど僕はこのままだと一人ぼっちになってしまう。二人の生活が始まるその刹那に振り落とされてしまう。

 だから彼女の手を取る。

 彼女はその握られた手を見る、じっと、僕はその視線の先から目で辿って、彼女の瞳に至る。彼女は僕の手を見たまま不思議そうに、だけど少しも動揺がない。僕はその手に縋る気持ちと情けない気持ちのシェイクになって、彼女にだけは助けを求めてもいい、持てる勇気の全部を絞って、声にする。

「今日から、さ」

 声がキッチンに響く。彼女は顔を上げて僕の目を見る。透明な目、僕の次の言葉を待つ目。

「一緒に、よろしく」

 ぱあ、と彼女が咲いて、手をぎゅっと握り返す。その力は僕を彼女の前に留め置くのに十分で、僕は初めて自分の足で立ったみたいに、半分は彼女の足なのに、ここにある、地盤を感じる。

「こちらこそ、よろしく」

 彼女につられた訳じゃない、僕の底から湧き出て来たんだ、きっと僕は顔を真っ赤にしたまま笑っている。笑い声はキッチンの中にあるんじゃなくて、僕達が笑い声の中にある。

 腹が鳴った。

「絹太、お腹空いたの?」

「今の常子でしょ?」

「……違う。でも、お腹は空いた」

「僕も」

 彼女は手を離してくるりと後ろを向くと、ビニール袋の中から赤いきつねと緑のたぬきを出した。「ジャーン」と両手にそれらを掲げて、さっきよりもずっと嬉しそうな顔をする。

「年越しそばアンドうどん、いいでしょ?」

「今ならギリギリ来年に間に合うね」

 やかんに火をかけて、物でごった返している居間のちゃぶ台で準備をする。雑誌の上にあったきつねとたぬきの置き物を彼女が二つのカップの奥に並べる。ちゃぶ台が安定した。彼女がテレビをチラと見る。

「消そっか」

「そうだね」

 もっと静かになった筈なのに僕はもう怖くない。やかんの音が最初は柔らかく、徐々に鋭利になってゆく。お湯を注ぐ。二人とも黙って、待つから、秒針が削ってゆくのが耳につく。

「常子はどっち食べたい?」

「きつね」

「どうして?」

 彼女はうーんと首を捻って、新しい星を見付けたような顔をする。

「絹太がたぬきを食べたそうだから」

「それはガセだね」

「何でよ」

「だって今思い付いたでしょ?」

「……バレたか。じゃあ、絹太はどっち食べたいの?」

「たぬきだよ」

 彼女が僅かに身を乗り出す、慎重な探偵のように。

「それはどうして?」

「常子はきつねが食べたいから」

「何よそれ。……でも、ありがと。そろそろ三分だね」

「ちょい待ち。きつねは五分」

 目が合う。さてどうする。目を合わせている内にどちらからともなく笑みが零れる。その笑みは螺旋を描いて育って、大笑いになる。「じゃあ四分で開けよう」「そうだね。両方中途半端で行こう」、ヒイヒイ言いながら決めて、その笑いを腹の底に収めるように深呼吸をする。

「てことで四分だよ。準備はいい?」

 彼女の号令に僕は蓋を開ける構えを取る。彼女も同じポーズ。せーのでペリリッ。

 湯気と共に空腹を非情に打ち鳴らす香り、命の泉のように湧き出る唾液。彼女も同じ顔をしている。

「いただきます」

 やはりたぬきにして正解だった。麺を啜って、スープに口を付けて、一口目を終えてしばし胃袋感に意識を向ける。隣では彼女がお揚げに噛み付いて、それをゆっくり咀嚼して、ふう、と一息ついている。観察していたら、彼女が僕の方を向く、言葉はいらない、僕達はきつねとたぬきで繋がっている。

 続きを食べ始めたら、彼女から、ねぇ、と声が掛かる。

「ちょっとちょうだいよ」

「いいよ」

 僕も彼女のきつねを一口貰う。ゴクンと飲み込んでから彼女は、極楽浄土帰りの人みたいな顔をする。

「最高だね」

「そうだね」

 僕は彼女の前にあるたぬきを自分の前に戻し、そのまま手前のきつねを彼女の所に置く。また黙って数口食べたら、彼女がまた、ねぇ、とこっちを向く。

「もうちょっとちょうだいよ」

「いいけど」

 きつねとたぬきを入れ替えて、また一口食べる。彼女は咲き乱れた花のような表情。

「本当、最高」

「そうだね」

 僕は再び二杯の位置を戻す。そして食べる。でも、二口目に彼女が、ねぇ。

「もうちょっとだけ、ちょうだいよ」

「じゃあ、交換する?」

「えー」

「だって、たぬきの方がいいんでしょ?」

「うーん、まぁ」

 僕はきつねを僕の前に、たぬきを彼女の前に置く。きつねのお揚げを口に含むと、じわりとして、いい。うどんの存在感も、スープのやみつき具合も、いい。彼女はたぬきを食べている。ここから外にかけて全ては静かで、沈黙が沈殿して、だけど、僕は僕達になった。世界の全部が静かに沈んだとしても、僕は、僕達は大丈夫だ。

 胸が膨らむ。

 僕はきつねを食べる。

 彼女が、ツンツン、と僕の腕をつつく。

「どうしたの?」

「ちょっとちょうだいよ」


(了)


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