児童相談所で出会った、あなたへ

プラナリア

ある児童心理司の追憶

 窓辺には、昼下がりの柔らかな光が差し込んでいる。香月かづき千紗ちさはパソコンから目を上げ、大きく伸びをした。年始の休暇中に出勤したものの、仕事は思うようにはかどらない。年が明けたというだけで、見慣れたデスクが清らかに見えたのも最初だけ。積み上げられた台帳や溢れた書類を見渡し、千紗は思わず溜息をついた。

 「お疲れ様」

 柔らかな声に振り向くと、先輩の神谷純子が立っていた。手にしたミルクティーの缶を千紗に差し出す。お礼を言って受け取ると、神谷は自分のデスクに座りコーヒーの缶を開けた。千紗も蓋に手をかけると、軽やかな音が響いた。普段は慌ただしい事務所も、今は静まり返っている。けれどその休暇も残り僅かで、所内には休日出勤する人影がちらほら見えた。

 「香月さん、はかどってる?」

 「全然ですよ。……4月は異動だろうから仕事を整理しなきゃって、ずっと思ってるんですけどね。なかなか手がつけられなくて」

 「忙しいものね。相談件数はうなぎのぼりだし」

 千紗も苦笑し、ミルクティーに口をつける。優しい甘みが体に満ちて、ほうと息をついた。

 千紗は、ここ中央児童相談所の児童心理司として勤務している。日中は切れ目なく面接が入り、記録整理や事務作業ができるのは時間外になってから。追いたてられるような日々を送るうち、気付けば5年が過ぎていた。 

 「なんか、記録整理してたらしみじみしちゃいました。いろいろあったなぁって」

 そう、と神谷はゆったり微笑む。神谷はこの道20年のベテランだ。千紗が入庁後児童相談所に着任した時から相談役で、ケース対応に悩む度に助言してくれた。神谷の瞳に映る自分は少しは成長しただろうかと思い、千紗は俯いた。

 「……神谷さん、歩美ちゃんって覚えてますか。私が1年目に担当したケース」

 「あぁ、ひかり学園に行った子?」

 千紗は無言で頷いた。静かな窓辺の、あたたかな光が二人を包む。ゆったりした時間の流れに身を任せるように、千紗はぽつりぽつりと言葉を紡いだ。


 ♧♧♧


 歩美は、千紗が前任の児童心理司から引き継いだケースだった。前任は4月の定期異動で児童相談所を去った。担当交代を告げられた歩美は戸惑うように千紗を見つめ、ぎこちなく笑みを浮かべた。

 当時、歩美は中学生。不登校が主訴だった。歩美は千紗のことを探るように、面接では当たり障りの無い話をした。歩美はいつも笑顔だったが、千紗にはどこか寂しそうに見えた。面接を重ねる中で歩美は時折自分の気持ちを語るようになり、ある時ぽつりと「私は皆と違うから」と呟いた。

 「歩美ちゃん、同年齢の子達が怖いらしい。安心して人と過ごせる居場所に繋いであげられたらいいんだが」

 母親面接を担当する児童福祉司の岩木慎司は、千紗にそう言った。歩美の母親によれば、歩美は小学生の頃から周囲に馴染めず、中学校ではいじめられて孤立し、次第に登校できなくなったらしかった。

 親子は毎月児童相談所に通所したが、歩美は家にひきこもったままだった。それがいつしか両親の隙を見て、ふらりと夜の散歩に行くようになった。

 歩美の夜の散歩を、皆が心配した。岩木、千紗、母親と歩美の四人で話し合いもした。

 「夜遅くに出歩いてると、危険な目に遭わないか心配なんだ。一方的に門限を決めても守れなきゃ意味ないだろう? 歩美ちゃんは何時なら納得できる? 皆で考えようよ」

 岩木の問いかけに、歩美は寂しく微笑むだけだった。

 歩美は千紗との面接で、「夜はホッとする。夜なら外に出られる」と語った。人が苦手な歩美にとって、夜の闇は自分の姿を隠してくれるベールのように感じられたのかもしれない。閉塞的な日々の中で、外の世界との繋がりを求めていたのかもしれない。夜は歩美にとって優しくて、ワクワクする時間だったのかもしれなかった。

 


 ある夜、歩美は夜の散歩中、青年に声をかけられた。青年は優しくて、歩美の好きなアニメの話を楽しそうに聞いてくれた。再会を約束し、次の夜も歩美は青年に会いに行った。約束の場所にいた青年は、一人ではなかった。


 その夜、歩美は路上で男達に襲われた。


 歩美はタガが外れたようになった。ますます深夜まで出歩くようになり、引き止めようとする母親に激しく抵抗した。母親は毎月通所したが、歩美の通所は途切れがちになった。時折現れる歩美はピアスを開け、大人びた化粧をしていた。挑戦的なタンクトップの腕には、自傷痕が見えた。

 「タバコの煙ってキレイだよね。ゆらゆらして、空に消えていく。タバコ吸ってる間は頭が空っぽになる。何も考えずに済む」

 歩美は千紗にそんなことを話した。深夜徘徊する少年少女はグループで行動することもあったが、歩美は彼らとつかず離れずの距離で付き合っているようだった。

 「誰とも深く付き合いたくないんだ」

 そう言って諦めたように笑った。歩美は傷を抱えたまま、刹那的な優しさや非日常の享楽で必死に日々を埋めているように見えた。千紗は歩美となんとか繋がっていたいと願ったけれど、その存在がますます遠のいていくように感じた。

 歩美の母親は憔悴していた。父親は歩美との口論の末、手をあげることもあった。お互いを大切に思っているのに、お互いに追い詰めてしまうばかりだった。

 「どうして自分を大事にできないの」

 絞り出すように言った母親の言葉に、歩美はうっすらと笑った。歩美の心はあの夜砕け散って、もう守るべき自分を見つけられずにいるのかもしれない。千紗は殴られたような痛みを覚えた。岩木が親子にフォローの言葉を掛ける中、千紗も口を開きかけたが、何を言っても上滑りになるような気がした。千紗は祈るような気持ちで、次の来所日を記したカードを歩美に渡した。

 「待っているよ」

 歩美は返事をしなかったが、カードをきちんと財布にしまった。微妙な距離を空けて歩く親子の背中を、千紗と岩木はやるせない思いで見送った。


 濃い化粧で素顔を隠し、派手な衣装で自分を偽り、歩美は夜を彷徨い続けた。

 やがて歩美は朝が来ても自宅に戻らなくなり、行方が分からなくなった。



 ある夜、歩美は警察に連れられ中央児童相談所にやって来て、一時保護されることになった。

 歩美が辿り着いた先は、違法風俗店だった。そこには行き場の無い少女達が集まっていたが、その中には望まぬ妊娠をした子もいたし、客から薬物を打たれた子もいた。

 翌日歩美に面接をしに行った千紗は、歩美を見て戸惑った。やっと会えた歩美は、千紗の知らない冷たい笑みを浮かべていた。肌はくすんで血色も悪く、一時保護されるまでの荒んだ生活が垣間見えた。「心配していたよ」と声を掛けた千紗に、歩美は俯いたまま感情のこもらない声で言った。


 「私なんか、どうなってもよかったのに」


 頬を伝う涙で、自分が泣いていることに千紗は気付いた。歩美が行方不明と聞いてずっと心配していたこと。一時保護されて安堵したこと。でもやっと会えた歩美は、誰とも繋がりを感じていないこと。歩美への気持ちが溢れ出して、自分を抑えられなかった。


 「よくないよ。あのままだったら、どうなっていたか……」


 千紗の震える声に、歩美は顔を上げた。歩美は泣いている千紗をじっと見つめ、消えそうな声で「どうして」と呟いた。千紗は必死に呼吸を整え、歩美に向き直った。

 「ここに来てくれて、よかった。……これからのこと、一緒に考えよう」

 歩美は黙ったままだったが、顔を上げて千紗を見ていた。千紗は歩美の哀し気な瞳を見つめた。途切れてしまったと思った歩美との糸。その細い糸を手繰り寄せ、少しずつ縒り合わせ、もう一度歩美と繋がりたかった。



 歩美や歩美の両親との面接を重ね、 所内で検討した結果、歩美は児童自立支援施設「ひかり学園」に入所することになった。児童自立支援施設はこどもの行動上の問題、特に非行問題を中心に対応する施設で、こどもの育ち直しに向けて支援する。歩美はそこで入所中のこども達や施設職員と共に生活し、施設内の分校に登校した。

 しばらくして、歩美の入所後の状況を確認するため千紗と岩木はひかり学園を訪れた。歩美は千紗達との面接では日常の他愛ない話をし、明るく振る舞った。

 ひかり学園の歩美の担当職員は、山辺という女性だった。山辺は千紗達に、歩美が学園の少女達と馴染めずにいることを語った。けれど山辺には少しずつ話をするようになり、タトゥーへの憧れを話したという。白い肌に彫りこまれた鮮やかな花びら。とても綺麗だったと語る歩美を、山辺は諌めなかった。自分もタトゥーを彫ってみたいと言った歩美に、まずデザインについて勉強してみるよう勧めたらしい。

 「きっかけは何であれ、夢を持てること、自分の将来を思い描けることことは大切だと思います。20歳で死にたい、と言う子もいますからね。刹那的で、未来を生きる自分がイメージできない。そうならざるを得なかった背景がありますが。……歩美さんには自分のこれまでを見つめ、未来について考えてほしい。そのお手伝いができたらと思います」

 そう言って山辺は微笑んだ。山辺が笑うとゆるやかに目元に皺が寄り、いっそう柔和な顔立ちになった。千紗は歩美が本心を語れる大人に出会えたことに安堵し、彼女の再生を願った。



 歩美が学園の少女達と話せるようになってきたと、山辺から報告を受けた頃。

 中央児童相談所に、歩美から千紗宛の手紙が届いた。歩美は、少女達のちょっとした言動に「嫌われたのではないか」と怖くなることを綴っていた。今も、全て投げ出し夜の中へ飛び出したくなることがある、とも。


 「まだ、人を信じられずにいるよ」


 そう書かれた一文が、千紗の胸を抉った。まだ、彼女はどう生きていくかを決めかねているのだと思った。

 人を信じるということは、自分を信じるということでもある。自分はそれだけ相手にとって大切な人間であり、信頼を寄せられる存在なのだと。

 歩美にとって、過去を乗り越え同年齢の少女達と関係を築いていくのは困難なことだろう。初めて出会った職員に心を打ち明けるまでには、彼女にしか分からない苦悩があっただろう。わざわざ千紗宛に手紙を書いてきたことに、相手を信じたいと願い、自分を信じようともがく彼女の姿を見たような気がした。



 分校でも通常の中学校と同じように季節ごとの行事がある。中央児童相談所宛に、歩美が通う分校の弁論大会の案内が届いた。分校職員や施設職員、保護者の前で、一人ずつ作文を読み上げるという。ひかり学園のこども達は、自分の気持ちを言葉にすること自体難しい子も多い。歩美のように不登校で、人前で発表などしたことが無い子もいる。彼らにとって弁論大会は大変なイベントだろうが、分校の先生が付き添い、彼らの言葉にならない気持ちに耳を傾け、それぞれの想いを形にしていくのだった。千紗も出席したかったが、どうしても都合がつかず欠席することになってしまった。

 後日、千紗は岩木から弁論大会の話を聞いた。たどたどしく、けれど一生懸命発表するこども達の姿に、涙する保護者も多かったという。彼らは昔の自分への気持ちや、向き合ってくれた親への感謝等を自分の言葉で綴っていた。

 「歩美ちゃんは作文で、『学園に来て初めて学校を好きになったし、皆といて楽しいと思えた』って言ってたよ。お母さんにも、『怒られる度どうして分かってくれないんだろうと思っていた。でも、お母さんは一晩中私の帰宅を待っていてくれたんだって、やっと分かった』って。お母さんが僕に『あの子が学園に来ることができて、よかった』って言ってたよ」

 「本当ですね。よかった……」

 微笑んだ千紗に、岩木はさり気なく言った。

 「歩美ちゃん、香月さんのことも書いていたよ。自分のために泣いてくれたって」

 千紗はとっさに返事ができなかった。あの日、「どうして」と呟いた歩美の姿が過った。


 歩美は、あの日の自分のことをどう受けとめていたのだろう。


♧♧♧

 

 「私、あの面接の後すごく後悔したんです。本当は、自分をどうでもいいと感じてしまう歩美ちゃんの気持ちを聴かなきゃいけなかったのに。私の方が泣いてしまうなんて、最低だって」

 千紗は視線を落としたまま呟いた。神谷は沈黙している。

 「今振り返ったら、歩美ちゃんのためにできることがもっとあったんじゃないかって思うんです。性被害のケアだって十分出来なかった。深夜徘徊も、もっと早くにどうにかできなかったのかって。でも、歩美ちゃんは……それでも、そんな私に気持ちを寄せてくれて……」

 千紗は口をつぐんだ。いろんな想いが押し寄せて、とても言葉に出来なかった。

 神谷がぽつりと呟いた。

 「そうね。失敗も後悔もある。いろんなことを抱えたこどもに対して、私たちにできるのはあまりにもささやかなことだよね」

 千紗が恐る恐る顔を上げると、神谷はいつもの穏やかな笑みを浮かべていた。

 「でも、自分に向き合ってくれた人がいた、という記憶は何処かに残るかもしれないよ。例えば、大麻に手を出すかどうか、という場面でさ。『児童相談所の先生が、薬には絶対手を出すなって言ってたな。とりあえず今日は止めとくか』って思うこともあるかも。今すぐには実を結ばなくても、ちっぽけなことであったとしても、いつかその子の人生に変化をもたらすことがあるかもしれない。私たちにできるのは、そういうことだよ」

 そう言って笑った神谷に、千紗は涙が零れそうになった。長く児童相談所に勤めてきた神谷はそれだけいろんなことを感じてきたに違いなく、その言葉には重みがあった。

 児童相談所では、いろんなこどもに出会った。長く関係が続くこともあれば、気がかりなまま途切れてしまうこともあった。もう悪いことはしないと笑っていた子が、少年院に入ったと風の噂で聞くこともあった。

 千紗は思う。

 私たちにできることは、あまりに僅かで、ちっぽけで……。

 それでも、そんな出会いが積み重なって、その子の人生が少しずつ変わっていくこともあるだろうか。

 家に引きこもり、夜の世界に飲み込まれていった歩美。彼女が、親身に関わってくれるひかり学園の職員に出会い、あたたかく教えてくれる分校の先生に出会い、飾らずに付き合える少女達に出会って、もがきながら新たな人生を切り開いたように。

 神谷は柔らかく微笑んだ。

 「まぁでも、香月さんのここでの仕事はまだ終わってないから。ラストスパート、だね」

 「そうですねぇ」

 千紗はパソコンに目を戻す。出来るのは、ささやかなこと。それでも、自分に残された時間の中で何が出来るかを考えたかった。

 千紗は児童相談所ここで、背負いきれないほど悲しいことも、全て投げ出したくなるような苦しいことも、この世界には起こり得るのだと知った。

 それでも、その先を生き抜こうとしているこども達がいる。

 見上げれば、窓の向こうには澄み渡る空。穏やかな窓辺には、優しい世界が広がっていた。


 

 千紗は今も、歩美との最後の日を思い出すことがある。

 歩美は中学校卒業と同時にひかり学園を退所し、祖母宅で暮らすことになった。非行化が激しかった歩美は、元の環境に戻すと非行が再燃しやすいのではないかと懸念されたのだ。自宅に戻らないことに、両親も歩美も同意した。歩美は受験勉強の末、祖母宅から通える高校に見事合格した。

 分校の卒業式の日。千紗は最後に歩美に会いに行った。

 歩美の祖母の住所は、千紗が勤める中央児童相談所の管轄外だった。だからもう、歩美には会えない。

 セーラー服を着た歩美には、化粧をしていた昔の面影は無かった。先生と笑い合い、友達とはしゃぐ姿はどこにでもいる中学生のように見えた。千紗は、ここに辿り着くまでの彼女の道のりを思った。

 歩美は千紗にいつものように他愛無い話をした。千紗は歩美にお別れの手紙を渡した。これまでの彼女の頑張りを労い、幸せを願う気持ちを綴った。それが、千紗が歩美にできる最後のことだった。

 一緒に笑いながら、千紗は心の中で歩美の今後を心配していた。祖母は昔から歩美を可愛がっていたそうで、引き取りに向けて歩美との交流も重ねてくれていた。けれど、新しい環境に歩美は馴染めるだろうか。高校に通うことができるだろうか。また、夜の世界に引き返してしまわないだろうか……。

 歩美がその後、どうなったかは分からない。けれど最後に振り返った時、手を振ってくれた彼女が笑顔だったことを覚えている。

 あの頃の寂し気な笑顔ではなくて、心からのあたたかな笑顔だった。


 千紗は祈るように、心の中で呟く。


 歩美ちゃん。

 今のあなたの傍らに、信じられる人はいますか。


 今も、あなたが心から笑っていてくれますように。



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