最終回



 微笑んでくれた気がした。


 桜南が、俺のそばで。





 穏やかな花弁雪が、鼻先についた。


 透は指先で鼻についたそれを払うと、ゆっくりと白い息を吐き出した。並列に配された街路樹から、満天の星のような輝きが発せられ規則的に明滅を繰り返している。どこからか、ジョン・レノンのハッピー・クリスマスが聴こえてきた。近くのケーキ屋からだった。


 ロングコートのポケットに手を突っ込んで、透は街を歩いていた。すれ違う人々の顔が優しげに見えたのは、一年という月日が透を静かに変えたせいなのかもしれない。


 桜南のノートを見てから、一年が経とうとしていた。


 二〇三三年、十二月二十四日。


 透は、前を向いて生きてきた。息を吸うためだけに生きるような消極的な生き方はもうしないと誓って。桜南の寄り添うような願いを無碍にしないために、幸せというものを探して歩いてきたのだ。


 ――光は、見えつつあった。


「……」


 透は立ち止まると、ポケットからスマートフォンを取り出した。


「もしもし」


『あ、もしもし透くん?』


 緋山の声だった。料理をつくっているのだろう。フライパンでなにかを炒める音も聴こえてくる。


「どうした? 紗佳のプレゼントならちゃんと買えたよ」


『ほんと? それはよかったわ。……それより頼みたいことがあるんだけど』


「頼みたいこと?」


『うん。実は配達してもらったケーキがすごいグチャグチャな状態で届いちゃったの。あり得なくない? 罰ゲームでぶつけたあとのパイみたいになってんのよ?』


「まじか、それは酷いな。……あー、じゃあ新しいやつ買ってきた方がいいよね?」


『ごめんね! 頼めるかしら?』


「いいよいいよ。ちょうど近くにケーキ屋があるしさ。紗佳ってチョコレートケーキが好きだったよな。それでいい?」


『ええ! 助かる〜』


「あはは。じゃあ、買ってくるよ」


『ありがとう! 気を付けて帰ってきてね』


 透は通話を切って、小さく口元を吊り上げる。スマートフォンに表示された「美幸」の文字をしばらく眺めて懐にしまうと、ゆっくりと踵を返した。


 反転した街も変わらず優しかった。手を繋いで笑いながら歩く親子とすれ違う。幼子のはしゃぐ声が耳に心地よく、ケーキの甘い香りがふわりと漂っていた。ハッピー・クリスマスが、また聴こえてくる。


 幸せが足音を立てながら近づいてきてくれるようだった。

 

 ――充。桜南。


 ――俺には、大切な人達ができたんだ。


 ――彼女たちと暮らし始めて、半年が経とうとしている。この暮らしが、お前たちの言う幸せなのかはわからない。


 ――でも、絶対に失いたくはないって思えるくらい大事なんだ。


 ――だから、今度こそは守るよ。


 透はケーキ屋の前で、ふと立ち止まった。


 雪の精を見つけたからだ。そう思ってしまうくらい、美しい少女の影を視た。黒いつややかな髪が寒風によって雪とともに揺蕩っている。ああ、綺麗だ。彼女の銀色の瞳がこちらを見ていた。そして、穏やかな笑みをたたえて何かを小さくつぶやくと、地面に落ちた雪のように消えてしまった。


 なんと呟いたかは、わからない。


 切なげに紡がれたのは、三文字の言葉だった。


「……みててくれよ」


 透は独り言ちて、ケーキ屋に入った。





 家に向かう道は、あまりにも静謐すぎた。


 たまに通り過ぎる車の音さえ優しく聴こえてしまうくらいに。まるで水槽の中にいるような、ふわふわとして安らかな空気感。雪を運ぶ風の冷たささえなければ、眠ってしまえるほどに心地よかっただろう。


 白い息が、ゆるりと溢れる。何度も何度も。歩くリズムに合わせるように。


「……」


 透は左手にもったプレゼントとケーキの袋をみて、目尻をやわらげた。


 紗佳は喜んでくれるだろうか? あの子が好きなアザラシのキャラクターのぬいぐるみを買ってきた。朝、おきたときに枕元に置かれたプレゼントを見て、はしゃいでくれると嬉しい。はやくあの子の天使のような笑顔が見たい。


 家に帰りつくのが、こんなに楽しみだったのはいつ以来だろうか。もう覚えていない。覚えていないが、今が楽しいのならそれでいいと思える。


 帰れば、愛する人たちが待っている。笑顔で迎えてくれる人たちがいる。美幸の作ってくれる豪華なディナー。味を感じなくなっていた透は、彼女たちのおかげで再び料理に舌鼓を打つことができるようになっていた。もう、ただ栄養を補給するだけではない。きちんと味わえるのだ。噛みしめることができるのだ。


 帰ったら、二人を抱きしめよう。


 そして、愛していると伝えよう。


「……」


 スマートフォンがポケットの中で震えていた。画面をみると、「吉永健」と出ている。透は思わず顔をしかめて、ため息をついた。


 いま、白銀の陰気な声を聞きたいとはどうしても思えなかった。どうせ、指定された帰宅時間から遅れたことに対する小言でも言う気なのだろう。たまに遅れそうになったときは事前に連絡を入れるよう指示されているが、そのとおりにしたところで注意を受けるのだからやってられない。


 透は、そのまま無視してスマートフォンを懐にしまった。小言は、紗佳が寝た後にでも受ければいい。いまはこの安らかな気分を害されたくはない。


 アパートに近づいてきた。


 透たちが住んでいる部屋に明かりが灯っているのをみて、笑みがこぼれる。待ってくれる人がいるんだ、と実感できて嬉しかった。


 再びスマートフォンが震えた。着信された名前をみて、すぐに懐にしまう。今日はいつも以上にしつこい。鬱陶しいが、なにか要件があるのかもしれないから、とりあえず帰ってから折り返すようにはしよう。


 そう思って、透は扉の前に立った。


 インターフォンを鳴らす。扉越しからパタパタと歩く音が聞こえてきた。


 扉が開いた瞬間、透は微笑みを浮かべて言った。


「ただいま。無事にケーキかえ」





 












 


 



「おかえりなさい、兄さん」

 










  



 




 



「――は?」


 なにかがめり込んで来る音が、身体の内側から響いてきた。腹部に何かが突き刺さっている。包丁。血が、じわりと広がっていた。


 顔を上げて、目を見開いた。


 そこにいたのは、美来だった。


 間違いない。十年前と比べて成長してはいても、面影だけは残っている。行方不明になっているはずの彼女がなぜここにいるのか? 理解できない。刺されたのか? 美来から突然。なぜ? なんで刺された? わからない。まるでわからない――。


 透は血を吐きだして、たたらを踏みかけた。だが、美来に胸ぐらを掴まれて強引に引っ張られると、そのまま室内に投げ出された。尻もちをついて、透は呆然と美来を見つめる。


 見下ろしてくる彼女の瞳は、血のように赤かった。目尻が残虐さを称えるようにゆるりと下りている。この笑い方をどこかで見たことがある。いや、見たことがあるなんてレベルではない――。


 そして、透は気づいた。


 彼女の左耳にゆれる安全ピンのピアスに――。


「……ばか、な」


 そんな、馬鹿な。


 透は頭を横に振って、あまりにも受け入れがたい事実を否定しようとした。そんなわけがない。あれは、間違いなく美来だ。そんなわけがないのだ。でも、あの瞳とピアスは――。


 刺された痛みが、遅れてやってきた。


 透はうめきながらのたうち回る。それを見下ろしながら、美来は酷薄に嘲笑っていた。あの、虫けらを踏み潰すことを楽しむような笑い方は、間違いない。


 そこにいるのは、香澄だった。


「あはははははは! 探しましたよ兄さん。どこにいるのか中々情報がつかめなくて苦労しましたが、ようやく会えましたね! うふ、うふふふふっ」


「……な、んで……お前が……」


「言ったでしょう? 私が望むのは、絶対に負けることがない完全なるゲームなのだと。ふふ、計画が上手くいかなかったことを見越して、私が保険を打たないわけないじゃないですか。……ああ、父様から力を奪っておいて本当によかった。美来を殺さずに生かしておいて本当に本当によかった……」


 恍惚とした表情で酔いしれる香澄は、透の前でしゃがみ込む。赤い瞳は、獲物を前にした蛇のごとく獰猛だった。


 透は、知らなかった。


 いや、香澄と彼の父親以外知るものはいなかった。


 香澄が奪った「狂信」の殺意に、転生の力があることを――。


 香澄の冷たい指先が、透の頬に触れる。まるで命を吸い取られるのではないかと思えるほどに、その感触はざらついて気味が悪い。


 どこからか蝿の羽音が聴こえてきた。


「駄目じゃないですか、兄さん。私と、『また会おうね』と約束したはずなのに。他の泥棒猫に惑わされてしまうなんて……。相変わらず浮気性ですね、許せないです。ええ、許せません」


 ――だからね、やってしまいました。


 香澄に無理やり首を動かされ、横を向かせられた。


 その瞬間、透はこれまでにないほどの絶望的な絶叫をあげた。


 キッチンテーブルに首のない身体が二体、座らされていた。チャイルドシートに小さな少女のそれが、その隣に女性のそれが、首から血を垂れ流しながらぐったりとお互いに倒れかかり、身体を寄せあっている。部屋中が、血まみれだった。天井も床も、汚れていないところなんてないくらいに――。


 テーブルには料理が並んでいた。その中央――ケーキを置く予定の場所に、二人の首が活けられている。目を裏返しにした、血まみれの親子の首が。首が。


 透の愛する人たちの、首がだ。


 二人の名前を呼んで泣き叫ぶ透に構うことなく、香澄は狂ったように哄笑をあげる。「ケーキを買いに行く必要はなかったですね」と言いながら、精神のたがが外れて暴れる透にのしかかり、身体を抑えつけた。


 香澄の口づけが、落ちてきた。


 のたうち周り、逃げようとする透の唇は無理やり奪われた。舌をねじ込まれ、蹂躙される。暴れた反動で噛みついても、香澄は離そうとしなかった。その痛みさえ愉悦に変えているのか、恍惚に顔をとろけさせながら香澄は声を発した。


「……もう一回ですよ。うふふふふ、また仕切り直しです。今度は邪魔ものなしで、すべてをやり直すんです。今度は違うやり方で、私と兄さんだけの理想郷を作りましょうね。うふふ、あはははははははははははははっ!」


 透は悲鳴を上げながら、天井を見つめて涙を流した。


 嘲笑うブラックナイトの影に、見下ろされながら。


 













 



 どうして人を殺してはいけないのですか?



 ――幸せになれないからだ。









 



 





 

 


 


 


 


 


 

 


 


 

  





 



  

 

 


  

 

 


 


 

 

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どうして人を殺してはいけないのですか? 浜風ざくろ @zakuro2439

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