最終章 三



 誘導灯が、陰鬱とした夜の気配をかき回す。


 ブラックコーヒーにミルクもなにも加えず、そのままスプーンで混ぜるような無意味さと空虚さ。色も変わらず、苦いままだ。赤い灯火は、行き来する自動車を淡々と誘うだけだ。ただ淡々と。淡々と。


 透の暗い瞳には、街のネオンが色褪せて映っていた。泥にまみれたキャンディを見ているような気分だった。無価値な光だと思う。だが、その光の下には無数の命が躍動している。透にとっての無価値な光は誰かの価値ある輝きなのだ。


 赤い灯火が回る。


 赤い灯火を回す。


 車のクラクションが遠くで鳴った。雨上がりの澄んだ空気には、よく響いた。


「……価値なんかない」


 透は、ぽそりと呟く。


 自分には生きている価値なんかないはずなんだ。すべての色が褪せてみえる。輝いているはずのものさえ、薄暗く陰っている。色彩は死んでいた。色なき世界を生きているんだ。呼吸さえ濁って感じるほどに、息を吐き出すことさえ幅かられるほどに、縮こまりながらここにいる。


 こんな生に、なんの意味がある?


 わからない。「生きていていいのか?」という疑問は消えてくれない。


 桜南のノートを見た後でも、いや見たからこそ……疑念は強く薫っていた。



 



【二〇二二年 八月十五日】


 透くんへ。


 このノートがあなたの手元に渡っているということは、あなたが無事に地獄から抜け出せたということになるはずだ。かける言葉が見つからない。あなたはきっと、これから訪れるであろう悲劇のなかで、多くのものを失って苦しむことになるはずだから。でも、君が生きていてくれるのなら、それは素晴らしいことだと思いたい。


 そして、ごめんね。あなたがこれを読んでいるころには、私はもう生きていないだろう。「彩」の作戦がうまくいかず惨劇を止められなかったことを想定して私はこの内容を書いているし、私の死後にあなたへと手渡すように組織に頼むつもりだからね。だから、これは遺言になるだろう。悲劇を止められなかったこと、またあなたを守りきることができなかったこと、本当に申し訳ないと思う。


 君を守りたかった。守りたかったんだ。だのに、私は君を守れなかったんだね。許してくれとは言わない。言えるわけもない。私はあなたに、幸せな生活を送って欲しかったんだ。だのに、私の力不足のせいで……。


 しかし、後悔したところで始まるものでもないだろう。もし、私達が地獄に落ちることになったのなら、私は全力であなたを元の世界へ帰すために戦う。この身がどうなろうとも構わない。私には、その覚悟がある。あなたを助けるためならなんだってしてやるさ。


 たとえ、私が生きて帰れなくてもいい。あなたは、私がこんなことを書いていると知ったら、きっと物凄く憤るのだろうね。なんで一緒に帰ると言わないんだ、と横っ面を叩かれそうだ。なあ、そうするよなあなたなら。


 でもな、きっと叶わないんだ。私が手にした「絶望」はそういう力だから。まだ「暗殺」として目覚めてすらいない段階だけど、彼らと会った瞬間に嫌というほど悟ってしまった。私は死ぬだろうということがね。だから、この遺言を書いているわけなんだよ。


 なあ、透くん。あなたはとても真っ直ぐで抱え込みやすいタイプだからさ、罪の意識を感じながら苦しんで生きることになるだろう。それを思うと、辛い。私はあなたに笑っていて欲しいと思っているから。あなたの顔から笑みが消えるところなんて想像もしたくない。嫌なんだよ、そうなるだろうとわかっていても。


 だから、身勝手なことを言うとね。


 どんなに辛いことがあっても、あなたには笑って生きていて欲しい。ただ、息をするために生きるだけじゃない。私の分までどうか幸せになってほしいんだ。この言葉があなたにとって呪いになるかもしれないとわかっていてもね、私はあなたの幸せを願うよ。私のことを気にして思い悩む必要はないんだ。いいかい? 私はね、透くんが幸せでいてくれるのなら、あなたの隣に立っているのが私じゃなくてもいいと思っている。あなたは一途だからね。何年たっても、私の影を追い回していそうだもん。


 私のことを忘れろとは言わない。でも、私を想い続ける必要はないんだ。贖罪と愛に殉じ続けなくてもね、いいんだよ。あなたは、もう十分に苦しんでいるはずだ。


 人を殺した人間は幸せになれない。


 あなたはかつてそう言ったね。きっとそれは間違いじゃないとは思う。人の幸せになる権利を奪ったものは、それ相応の報いを受けて然るべきだ。でも、それでもね、私は、わたしは、「幸せになってはいけないのか?」と疑問を呈したい。神の定めた倫理というものに逆らう考えなのだろう。わかっている。不道徳極まりない。でも、それでもね、願うよ。願わずにはいられないよ。愛する人の幸せを。人を殺していたって、あなたに幸せになってほしいんだ。


 生きることは、幸せを目指して歩き続けることだ。


 きっとそう思うんだよ。そう思いたいんだ。なあ、透くん。私はね、あなたの意見がどれだけ正しくても、あなたが幸せになれない考えなら否定しなくてはならない。あなたのことが大好きだから。愛しているから。


 だからどうか、生きてください。


 幸せになってください。


 屍のように生きることは許しません。


 この言葉があなたを苦しめることになるとしても。私は、あなたが幸せになる道を否定することを許さない。生きてください。生きて生きて生きて、幸せになってください。


 あなたは、私にこころを教えてくれました。


 それがどれだけ私の世界に彩りを与えてくれたことか。こころに苦しんだこともあるけどね、悩んだこともあるけどね、でも私は涙を流すよさを知った。笑うことの爽快さを知った。四季が与えてくれる情緒の移ろいを理解できた。友達と過ごす楽しさと、恋をする温かさを理解できたんだ。なあ、私は弱くなったよ。何も知らないときのほうが強くいられた。疑問を持つようになると、駄目なんだね。人は、機械じゃいられない。ロボットにはなれないんだ。私はどうしようもなく人なんだ。人だったんだよ。


 ねえ、透くん。私は、幸せだったよ。幸せなんだ。あなたが教えてくれたこころが、私に光を与えた。その光に焼かれて血を吸って育った花は萎れたのかもしれない。でも、光は他の恵みをたくさんくれたんだ。あなたのおかげで、私は人になれた。幸せの意味を知った。


 願わくばずっとこの幸せが続いてほしかった。


 でも、きっと駄目なんだ。


 私では、もう君を幸せにすることは叶わないだろう。できることなら、私も君を幸せにしたかった。与えてもらった分を返したかった。悔やまれるよ。何も返せず終わることが……。


 あなたは、私に幸せをくれたから。


 だから、あなたには同じだけの幸せを手にしてほしい。


 人を殺していても、あなたは幸せになっていいんだ。


 私は、そう思うよ。




 透くん。


 愛しているよ。






「……」


 ネオンの光は滲んでいた。雨は降っていないのに。景色はけぶっていないはずなのに。頬を伝う魂の雫は、顎先からこぼれた。


 「愛している」の文字は滲んでいた。


 桜南が、どんな思いであの文章を記したのか。魂の奥底に染み入るように伝わって、息が苦しくなるほどに辛かった。慟哭をあげた。雨の音が、世界からなくなるほどに叫んだ。


 桜南は自分の運命を察しながら、それでも透の幸せを願い続けてくれたのだ。


 あまりにも深い愛だった。


 あまりにも強い想いだった。


 透はうつむいて唇を噛んだ。


 ――俺には生きている価値はないんだ。守れなかったのだから。何一つ。


 ――生きていていいわけが、ないだろう。


 誘導灯を振り回す。


 こんなものを何回振り回したところで、何も変わらないというのに。それでもなぜ回しているのだろう。無意味な人生だと思っているくせに。今日も安い賃金をもらうための無為を重ねる。重ねてしまう。価値がないと思うならさっさと死ねばいいのに。充と桜南の約束を守らなければならないなんて建前を使って、生き長らえている。


 袖で顔を拭い、透は小さく苦笑する。


 ――なあ、もしかして、俺は生きたいのか?


 生きて、霞のような幸せとやらを探そうとしているのか?


 こんな滑稽なことがあるか。死にたいとも生きたいとも考えている。揺れている。いや、揺れてすらいないんだ本当は。なあ、わかっているだろう? お前はどこまでもずるいやつなんだって。自分が一番わかっているはずだ。


 ネオンは、ピンぼけしたように濁ったままだ。クラクションがまたどこかで鳴っていた。


 信号機の音を何度か聴いて、透は誘導灯を下ろし、ゾンビのような足取りで歩き始めた。休憩時間になったからだ。ふくらはぎが心なしか重いのは、立ちっぱなしで仕事をしているせいではない。


 休憩所に向かうと、パイプテントの下でお茶を飲んでいた白河に会った。


「よう、緑川。そうか休憩のタイミングかぶっていたよな」


「はい」


「隣、座れよ」


 白河のすすめに従って、透は隣に腰掛けた。白河が長机に置かれていた魔法瓶から紙コップへお茶を注ぎ、渡してくれる。


「ありがとうございます」


「ちと、薄かったぞ。社長のやつ、不景気だからって茶っぱまでケチりやがったか。薄いのはてめえの髪だけにしろって話だよ」


 白河の冗談に小さく笑いかけ、紙コップに口をつける。たしかに、ほんの少しだけ薄いような気がした。それでも疲れた身体には沁みる風味があった。


「……お前、疲れてるな?」


 白河が目を細めて訊いてきた。


「はい。ちょっと連勤が続いてて」


「そうか。あんま無理するなよ。若えやつはすぐに無茶しやがるからな。仕事なんて程よくやればいいんだ」


「はは……そんなこと言ってたら社長に怒られますよ?」


「そんなことで血圧あげられても困るぜ」


 白河はお茶を飲み干して、透の肩を軽く小突いた。


「……で、何か悩んでいることでもあるのか?」


「そんな、悩みなんてないっすよ……」


「嘘こけ。いつもより目の隈がひどいぞ? ただ仕事に疲れているってだけじゃあるめえ」


 透は思わず目元を触ってしまった。白河の目がさらに細くなる。


 鋭い人だ。


「……まあ、ちょっと」


「なんだ? コレと別れたとかじゃねえよな?」


 小指を立てながら発せられた白河の言葉を、首をふって否定する。


「いませんよ、そんなの。そうじゃなくて、その……なんというか……」


 透は一度言葉をのんで続けた。


「俺は……ここに居ていいのかって思うんです」


「どういうことだ? まさか、仕事をやめたいとか……」


「いえ、そういうことじゃなくて。俺は……生きていていいのかって思うんですよ」


 秘めた言葉を吐いた瞬間、沈黙がおりた。


 車の走行音がやけに大きく聴こえた。白河が小さく口を開けて見つめてくる。瞬きを数回繰り返し、すぐに精悍な表情をつくっていた。


 風がテントを叩いて、支柱が微かに軋む。


「生きていていいのかって……。たくさん、たくさんひどいことをしてきたんです。身内の暴走を止められなくて、たくさんの人を……たくさんの人に迷惑をかけてしまった。ほんと、取り返しがつかないくらいに……。それなのに……俺は……」


 唇が震え始めていた。


 止まらない。蓋をしてきた気持ちが溢れ出しそうになる。それをギリギリのところで押し留めるように、透は細く息を吐いて、爪が食い込むほどに手をきつく握りしめた。だが、言葉は止まらなかった。止めることはできなかった。


 目頭が熱くなっていく。


「……なんで、俺だけが生き残ったんだ。なんで、なんで俺だけが……。俺は、みんな助けたかったのに……あいつと生きたかったのに……俺は独りになりたくなんかなかったんだ。そんなふうになるなら、あのとき死んでしまった方がマシだった。俺は、誰も守れなかった。こんな俺が、生きていていいわけがない……」


 手の甲に、水滴がはぜた。


 何度も、何度も。


「……俺は駄目なんだ。幸せになんかなっていいはずがない」


「……」


 白河は、何も言わなかった。ただ無言でどこからかポケットティッシュを取り出して、透の前に置いた。肩に手をおいて、ゆっくりと撫でてくれる。


 透は、号泣した。


 机に突っ伏して、くぐもった悲鳴をあげながら。嗚咽を漏らすたびに震える背中を、白河の手が労るように優しく叩いてくれる。


 苦しかった。ずっとずっと。


 独りで生きることが辛かったのだ。目を逸らしようのない罪と苦悩を抱えながら歩き続けることに耐えられなかった。幸せになりたくないわけがない。でも、幸せになってはいけない。願いと罪悪の間で揺れ動いてきたのだ。親友を殺した事実に怯え、桜南がいない孤独に耐えながら。


「……お前が訳ありなのは知っていたよ。この会社にいる若いやつはそういうやつばかりだしな」


 白河は、穏やかな声で言ってくれた。


「なにがあったか知らねえし聞く気もねえが、お前が生きていたら駄目だってことは絶対にないぜ。生きるのに資格なんてものはそもそもないんだ。産まれてきたのなら、誰だって生きていていいし、生きなきゃならないんだよ」


「……」


「……刑務所帰りがよく使う『娑婆』って言葉あるだろ? あれには苦しみを耐え忍ぶ場所って意味があるんだよ。人生は苦しいことばかりだ。俺達は、みんなそんな場所で懸命に生きているんだよ、痛みに耐えながらな」


 白河は小さく息を吐き出し、続けた。


「そもそもそんな場所にいるのに、幸せになったらいけないなんて思ってしまうのはあまりにも悲しすぎると思わないか?  いいんだよ。苦しんできたのなら、その分幸せになったって。俺達は修行している坊主じゃねえんだ。ずっと耐え忍ぶ必要なんかねえんだぞ。俺達が苦しみに耐えるのは、きっとな、幸せになるための試練なんだよ。幸せを放棄しちゃあ、いけないんだ」


 結局坊主みたいなこと言っちまったな、と白河は気恥ずかしそうに言って、咳払いをする。彼のごつごつした手は、雨露が運ぶ冷たい空気を払うように温かい。


 透はゆっくりと顔を上げた。


「……俺は、幸せになってもいいんでしょうか?」


「当たり前だ。じゃなきゃ、なんで生きているのかわからなくなっちまうだろ?」


 白河が、紙コップを目の前に置いてくれた。湯気がゆらめいている。あたたかい。

 

「たぶん、今までのお前はそうだったんだろうな。自分で自分の首を絞める生き方をしてきて、それでいいと納得しようとしていた。……でも、できなかったんだよな。だからこそ耐えられなくなって、こうして心が叫んじまってる」


「……」


「我慢しなくていいんだぞ」


 白河の目元が柔らかくほころびた。その声は、その言葉は、透のボロボロなこころに湯のように沁みる。ふと、白河の左手が目に入った。小指がなかった。


「……もう、これ以上苦しみに支配されなくていい。お前は、まだ若い。これからなんだ。これから、たくさん幸せになるために頑張ればいい」


「……白河さん」


「お前の幸せを願ってくれる人は、俺を含めてたくさんいるはずだ。……その人たちを悲しませるようなことは、言ってくれるなよ」


 透は、うつむく。


 桜南の顔が、充の顔が、どうしようもなく脳裏をよぎった。わかっている。透が自分の幸せを否定すればするほど、彼らの切なる願いを拒絶し、彼らの想いすら傷つけてしまうことになると。


 ノートに書かれていた言葉が浮かんだ。

 

 ――生きることは、幸せを目指して歩き続けることだ。


 ――私は、あなたが幸せになる道を否定することを許さない。


 ――生きてください。生きて生きて生きて、幸せになってください。


 唇を震わせながら、透は言った。


「それは、たとえ……」


 言葉がすぐには出てこない。怖かった。懺悔をするに等しいから。否定されて軽蔑されたとしてもおかしくないから。


 拳を強く握りしめた。


 かつて否定した呪いに等しい言葉を口にするために。


「たとえ――俺が人を殺していたとしてもですか?」


 白河は、さすがに面食らったようだった。目を見開いて、口を開いたり閉じたりしている。


 テントの支柱が軋んだ。生温い風が吹き抜けていく。


 救急車のサイレンが遠くから響き、音量を上げて去っていった。車の走行音が静寂をゆらす。白河が懐からタバコを取り出してくわえる。火をつけてゆっくりと煙を吐き出すと、目を瞑った。


 ネオンの輝きが、濡れた目に痛い。


「……ああ」


 煙を吐き出しながら、白河は言葉を紡いだ。


「幸せになっていい。たとえ、どんな罪を背負っていたとしても、その罪と向き合うことからお前が逃げなければ、幸せになってもいいんだよ」


 ――それが、生きるということだ。






 朝焼けが穏やかに街を照らしていた。


 小鳥のさえずりが甲高く響いたのは、長い雨が明けたことへの歓喜のように思えた。ああ、雨は上がったんだな。そんなことを、柔らかい朝日を眺めながら呆然と思った。


「……」


 足取りがいつもより軽い。仕事帰りはいつも鉛をつけたように身体が重いはずなのに。背負い込んでいた十字架は軽くなどなっていないというのに。


 それなのに、なぜこうも――。


「……あ」


 思わず声を出したのは、シャボン玉が飛んでいたからだ。アパートの近くにある公園からだ。ふわりふわりと風にのって揺らめいている。


 七色の輝きに見入っていると、「緑川さん」と声をかけられた。緋山が手をふっていた。そばにはストローを持った紗佳がいる。


「仕事お疲れ様です!」


「ありがとうございます。シャボン玉ですか……いいですね」


「ええ、娘にせがまれてしまって」


 カラカラと笑いながら、緋山は言った。


 紗佳の方を見ると、ストローに口をつけてシャボン玉をいくつも膨らませていた。まるで命を吹き込んでいるかのようだと思えた。ふわりと飛んだシャボン玉の群れをみて、紗佳がはしゃぎながら飛び跳ねている。


 綺麗だなと思った。


 光を孕んで七色に輝く様が、まるで儚い夢を見ているようで。


「綺麗ですよね。わたし、シャボン玉好きなんですよ」


「……俺もです」


「あら、緑川さんもですか? なんだか嬉しいですね」


 緋山は嬉しそうに笑みを刻んだ。美しい笑顔だと思った。


「すぐに消えてしまうけど、だからこそ一瞬の輝きが尊いなって思います。そういう儚いものに目を引かれるんですよね」


 桜南の笑顔が、頭に浮かんだ。


 彼女は儚いダイヤモンドだった。淡く美しく輝いていて、意思と想いが強く、そして一瞬で砕け散り消えてしまった。シャボン玉よりもはるかに強いのに、ずっと儚かった。


 なあ、どうして。


 どうして、あんなにも早く居なくなってしまったんだ?


 シャボン玉が、空に消える。


 その先に桜南はいるのだろうか?


「……わかっているよ」


 透は、緋山に聞こえないように小さく独り言ちた。


 そこには居ないんだ。彼女は己の背負った業とともに、きっと別の場所に降りてしまっている。後を追うことは許されていないし、会いに行けば殴られてしまうだろう。


 生きなければならないんだ。桜南のいない場所で。儚い彼女が残してくれた夢を紡ぎ続けるために。


「おとうしゃん」


 声をかけられて、反射的に顔を上げた。


 紗佳が目の前に立っていた。ビー玉のように綺麗な瞳で、見上げてくれている。透はしゃがんで目線を合わせると、口元を緩めた。


「……俺は君のお父さんじゃないよ」


「そうよ、紗佳。もう……この子ったら」


 緋山が頬を赤らめながら紗佳に注意したが、紗佳は首を横に振って「おとうしゃん」ともう一度呼ぶと、シャボン玉のストローを差し出してきた。

 

「ん!」


「えっと……どうしたの?」


「さやちゃんと一緒にするの。おとうしゃんも!」


「ああ、なるほどね……」


 透は後頭部をかきながら緋山に目を移す。緋山は恥ずかしそうにはにかみ、「ごめんなさいね」と言って紗佳の頭をなでた。


「お兄さんを困らせたらダメよ。ほら、ママが一緒にやってあげるから」


「や! おとうしゃんとがいい!」


「わがまま言ったら駄目よ」


 透は小さく笑って、首を横に振った。


「いえ、大丈夫ですよ。紗佳ちゃん一緒にやろうか」


「うん!」


 透は紗佳からシャボン玉のストローと、液の入った容器を受け取って、ポケットティッシュで口元を拭いた。


「すみません、緑川さん。娘のわがままを聞いてくださって……」


「いいんです。俺も久しぶりに飛ばしたくなったので」


 穏やかに微笑みながら、透はストローに口をつける。キラキラと輝く瞳を向けてくれた紗佳が、心の底から尊い存在だと思えた。


 優しく息を吹きかける。七色の光を孕んだ玉が、空に浮かんで風の意思に従うように揺蕩う。ああ、綺麗だ。まるで夢を見ているように、穏やかで儚い光がその一瞬に宿っている。


 桜南との思い出を見ているようだ。


 愛する人の幸せを願い散っていった、透の最愛の存在。


 シャボン玉がすべて弾けるのを見届けて、透は涙を流した。紗佳のはしゃぐ声を近くに感じながら。


  

 ――桜南。


 ――俺は、頑張ってみるよ。

 

 

 透はもう一度、ストローに息をふきかけた。 

 

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