最終章 二



  

 灰色の雪が降っていた。


 人のいない街は白黒写真のように淀んだモノクロームに染まり、道路だけがところどころ赤黒く汚れていた。赤い水がいくつもいくつもアスファルのくぼみに溜まっている。蠅の羽音がノイズのように響いていた。顔の前を飛ぶ虫はときおり群れをなして横切る。だが、透はそんなものを気にしている余裕などなかった。


 走る。ただ、走る。息を切らしながら、充血した目を見開き、水たまりを蹴飛ばして濡れることさえ構わず、遮二無二前を向いて。


 景色が目まぐるしく流れる。傾いた風俗店の看板、窓ガラスが割れた荒れ果てた喫茶店。落ちた信号機。ねじ切られた街路樹。ペンキを叩きつけたような赤レンガのビル。人の頭が転がっていた。引きちぎれた人の手が天を向いていた。横たわる下半身のない死体からサーモンピンクの大腸が伸び、無数の白いなにかが蠢いていた。人が死んでいた。どこもかしこも死体だらけ。絶叫したまま亡くなった人々はみな一様に大口を開けて、声にならない苦悶だけを記憶しているようだった。


 ああ、地獄。


 地獄だ。


 透の背後から異様な笑い声がした。思わず振り返って悲鳴をこぼしそうになる。虫の顔をした異形が、透を見詰めながら追いかけてきていた。イモムシのような長大な胴体をくねらせ、無数の手足を動かしながら、這い寄ってくる。身体中に咲いた無数の目がぐるぐると回る。回る。回る――。なにかが笑った。赤子のような泣き声で。小さな別の虫が、イモムシの乳を吸っているのが視えた。


 ――ニイサン。


 イモムシは泣いていた。泣きながら笑い、死体を踏み潰しながら追ってくる。掴まったら死ぬ。その予感が、色濃く脳内を犯して止まらない。


 ――ワタシヲ……ミテ


 透は悲鳴とともに、なにかにつまずいた。勢いあまって倒れてしまい、血溜まりに顔をぶつける。鉄臭い液体に顔面をおかされながら、透は必死に起き上がり――。


 視てしまった。


「……み、つる?」


 天使の羽が生えた化け物に、臓物を引きずりだされる親友の姿を。粘液にまみれた薄紅の小腸が、淀んだ色をした肝臓が、バラバラにされた血に濡れた胃が、化け物たちの鋭い爪で抉り取られてゆく。泣き叫ぶ充は、白目をむいて口の端からタニシの卵みたいな泡を吹いていた。化け物たちがゲラゲラと嗤う。泥人形のような醜悪に満ちた顔を歪めて。


 愕然とする透の前に、人影が現れた。


 ブラックナイトだった。口をつりあげて、愉快そうに透を見下ろしている。


 ――逃げられると思っているのか?


 ブラックナイトは言った。


 ――お前さんは逃げられねえよ。この悪夢は覚めない。ずっとずっと続いているんだ。


 ブラックナイトが指をさした。


 その先には桜南がいた。彼女は、悲しげな微笑みを浮かべて透を見つめ返している。


 駄目だ。


 透は、首を横にふった。


 声に出そうとした。こっちを見てはいけないと。だが、声に出すことはできなかった。桜南の身体はアイスクリームのようにドロドロと溶け出していた。腕が腐り落ち、白い骨が露わになった。血が、足元にボタボタとこぼれ落ちる。桜南の凛とした顔が崩れゆく。露出した血肉と頭蓋の狭間に、大量の虫が湧いていた。


 桜南の口が微かに開いた。


 溢れ出したのは、風に掻き消されそうなほどにか細い声。


「……に……げ、て」


 透は息を止めてしまう。


 ――背後から白い手が絡みついてきた。










 絶叫とともに、透は跳ね起きた。


 薄暗い部屋の中だ。古びた壁に、顔のようなシミがこべりついているのが見えた。見慣れた壁。赤いカーテンの隙間から漏れる、ホコリの混ざった一筋の光。転がる無数の酒の空き缶。


 静寂を揺らす置き時計の秒針――。


 透は息を乱しながら、頭を掻き毟った。口から溢れた地を這うようなうめき声が、やがて叫びへと羽化をする。天井の角は雨のせいで黒かった。こめかみから冷たい汗が鎖骨へと落ちてくる。脇汗が、止まらない。まるで雨に打たれたかのようにとめどなく流れていた。


 布団を叩いた。何度も何度も。そのたびにカビ臭い匂いが鼻をついた。


 ――ああ、ああ。


 透は泣いていた。


 また、夢を見てしまった。もう見たくなんかないのに、あそこにはもう帰りたくはないのに。なんで見るんだ。なんで忘れられないんだ。もうとっくに終わったはずなのに。もうとっくにあの女は死んだはずなのに。悪夢は覚めない。あれが終わらない。まだ苛み続けてくる――。


 枕元においていたペットボトルに手を伸ばした。半分ほどのこった水を、一気に飲み干す。悪夢の残り香を身体の内側へ追いやるように。


 透はペットボトルを放り投げ、乾いた笑いをこぼした。


 十年たった今でも消えることはない。あの悪夢は本物の夢となり、トラウマという深い根を張っているのだ。この十年満足に眠れたことなどなかった。睡眠剤に頼っても、酒に逃げても、どうしてもあれからは逃げられない。


「……」


 透は、胸に手を当てた。汗に濡れたシャツの奥、早鐘をうつ心臓を確かめる。


 心のうちに潜むブラックナイト。彼のせいでもあった。殺意の王を殺し、力を手に入れた「守護の殺意」は新たな神として地獄に君臨した。「鏖」が終わってしまった以上、もう透がブラックナイトになることはない。しかし、それでも影から脅かされていることだけはわかる。わかってしまう。


 ――もう、放っておいてくれよ。


 透は太いため息を吐いて、ぐったりと顔を下げる。


 悲しいほどに愚かしい。こんな思いをしてまで命をつなげる自分が、浅ましく感じられて嫌気がさす。


 ――なあ、なんで生きているんだ?


 俺に生きる価値はない。約束を守らなきゃいけない。生きたって苦しむだけなのに。充や桜南が生きてほしいと願ったからだ。怖いんだ。死ぬのが? 生きるのが? わからない。死にたいんだ。もう終わらせたい。逃げたいだけだろう? 楽になりたい。もっと苦しまなければ。俺達のせいなのだから。誰も救えなかったじゃないか。恥をさらしたくない。いや、恥を忍んで生きなければ――。この苦しみをのんで、のみ続けて、生きていくことが罰なんだ。


 幾度重ねたかわからない葛藤。


 時計の針は無常に進む。


 後ろに帰ることは、もう、できない。


「ようやくお目覚めかな」


 思わず肩が跳ねた。玄関の方へ首を動かすと、いつの間にか長身の男が立っていた。くたびれたスーツを着た、ガタイのいい男だ。


「……あんたか。呼び鈴くらい鳴らせよ」


「いつものことじゃないか」


 男は悪びれもせず肩を竦めると、靴を脱いであがってきた。


「悪夢は覚めないようだな。まあ、無理はないか」


「何の用だよ? 一昨日会ったばかりだろ?」


「別に決まった日に会いに来るとは言っていないだろう。監視役なんだから抜き打ちくらいするさ」


 男はちゃぶ台の前に腰掛けて、懐からLARKの赤い箱を取り出した。タバコを咥え、顔を顰める。


「……ライター忘れた。貸してくれ」


「タンスの上にあるから持っていけよ」


 透は諦めたように息を吐いて、タンスのある方を指さした。人の家で勝手にタバコを吸うなと文句を言いたかったが、大人しく従うような男ではない。


 紫煙が揺れる。男が美味そうにタバコを吸うと、赤い光がついた。


「『彩』も存外暇な組織なんだな。こんなくたびれた生活をしている男をいつまでもお守りするなんてよ」


「ああ、そうだな。俺も男の生活を覗く趣味はねえから、できるなら他の仕事につきてえと思うぜ。お前さんがナイスバディな美人さんなら楽しかったかもしれんがな」


 煙を吐き出しながら言った男の表情はいっさい変わらなかった。感情を廃した暗い瞳が、淡々と透を見つめている。


「ただ、退屈ではあってもお前さんは重要監視対象だ。妙な動きを見せたら、即座に射殺される対象であることは言うまでもなく知っているだろう? お前さんを観ているやつは俺以外にも何人もいるからな。俺だけが文句を言うわけにもいかない」


「そうかい。『白銀』のおっさんも大変だな」


「その名を呼ぶな」


 いつの間にか銃口が向いていた。早いなんてものじゃない。抜いた瞬間が見えなかった。


 息を呑む。時計の針が、ゆっくりと刻まれた。


 男……白銀は、ドスのきいた声で言った。


「お前さんと交流する際の名前は吉永健だ。たまに様子を見に来る父方の叔父という設定なのを忘れるなよ。健さんと呼べ」


「……悪かったよ、健さん」


「ああ」


 白銀は銃を仕舞った。タバコを灰皿に押し付けて、ゆったりと微笑む。感情のない作り笑い。


「お前さんは獣だ。そのことをくれぐれも忘れるな」


「……そうかな」


 否定もできないし、肯定もしたくなかった。白銀が頷く。


「そうだ。お前さんが外で生活をできている理由は、銀と組織の間での取り引きがあったからだ。それがなければ、お前さんはすでに死んでいる」


 殺せばいいのに、と無責任な思考が浮かんでしまう。小さく笑ってしまったせいか、白銀が訝しそうに眉をひそめた。


「……悪い、なんでもない」


 透は息を吐いて続けた。


「で、要件はなんだよ? 抜きうちで様子を見に来たってだけじゃないだろ?」


 鋭い眼差しでしばし見つめ、白銀は口を開いた。


「緑川家の連中が失踪した」


「え?」


「昨夜未明から姿が見えなくなった。現在調査中だが、この件について何か知っていることはあるか?」


「え、ちょっと待てよ。失踪って……。どういうことだよ?」


 透は布団から身を乗り出して尋ねた。現在、緑川家の生き残りは叔父の兼貴の妻である依子とその娘の美来、そして美来の祖父母だ。四人は兼貴と「彩」の取り引きで「鏖」前に保護されて難を逃れていた。


 あの事件以降、四人がどうなったのかはほとんど知らない。「彩」が仔細な情報を教えてくれるはずもなく、ただ都市部から離れたどこか遠方で「彩」の監視を受けながら息を潜めるように生活を送っていることだけを、白銀より知らされていた。


 その四人が失踪した。


 なぜ? それも一気に四人も。


 まず頭の中に浮かんだのは、一家心中という最悪の結末。あり得ない話ではない。そういう選択を取るだけの理由があまりにもありすぎる。


「調査中だと言っただろう。理由をわかっていたら、お前さんに尋ねたりはしない」


「……そうだろうけど。俺も知らないよ。だって、十年以上ずっと疎遠で連絡だってしていないんだし」


 透が動揺をしながらそう答えると、白銀が目を細めた。試すような、探るような目だった。


「……本当にそうか?」


「ああ、そうだよ。お前らがどこまで俺を監視しているか知らないけど、俺が妙なことをやっていたらとっくにお前らに捕まるか撃たれるかしているはずだろ? お前らの監視網を掻い潜れるとは思えないしさ……」


 透がそう弁明しても、白銀の目は暗いままだった。 


 白銀の疑いが消えないのも無理はない。緑川家の四人は「彩」の監視を掻い潜り失踪したのだから。透ほど監視が厳しくなかっただろうとはいえ、不可解ではある。これが普通の人間だったら疑いもすぐに晴れたのかもしれないが、透は普通の人間ではない。もう「殺意」としての力を使うことはできないとはいえ「彩」の連中がそのことを完全に信用しているとも思えない。


「……」


 無言で立ち上がった白銀が、窓を少しだけ開いた。カーテンがふわりと揺れる。きついタバコの匂いが新鮮な空気と混ざり合い溶けてゆく。


 遠くで、廃品回収車のアナウンスが響いていた。


「……みんな、大丈夫かな」


 透の言葉に、白銀は答えなかった。ただ静かに透を見つめ、そして外を見て息を吐いた。


「お前さんは、銀に生かされている」


「……」


「銀は命をかけてまでお前さんを助けた。俺には、あいつがお前さんのためにそこまでしてやる理由が理解できない。今でもそうだ」


「それは……」


 俺だってそうだ。


 透はその言葉を辛うじて飲み込んだ。桜南にそこまで想われるほどの価値があると、自分でも思えない。


「お前さんは死ぬべきだと思う」


 ストレートな白銀の言葉に、心臓を鷲掴みにされた気分になった。


「……あぁ」


 掠れた声しか出ない。わかっている。そんなことは誰よりも透が一番。だが、刃のような言葉は容赦なく透の傷を抉った。


 白銀は、冷めた目で透を見て言った。


「お前さんは、俺達殺人者と何も変わらない。銀だけ死んでお前さんだけが生きていることが俺には許容できない。お前さんに、幸せを願う権利なんかないんだ」


 そう言いながら、途中から白銀の眉間にシワがよっていた。透の存在が忌々しくてたまらないと思っているようにも、個人的感情の発露に自己嫌悪したようにも見受けられた。


 透は俯く。俯くことしかできない。首が重く感じられたのは、罪の重さを再認識したからか。


 白銀は忌々しげに舌打ちをして、何かを投げてきた。ノートだった。


「銀の遺言でな。……お前さんにそれを渡すよう伝えられていた」


「……これは?」


「あとで自分で確かめろ」


 白銀はそう吐き捨てて、玄関へと向かい、靴を履いた。


 扉を開ける。


 コンクリートの廊下の先に曇天が見えた。濡れた音がプレハブを跳ねるようになっている。


 白銀の感情の死んだ瞳が、こちらを捉えていた。


「幸せになれるのならなってみせろ。銀のために」

  


 

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