最終章 一
信号の光を、
音響式信号機のさえずりが、濡れそぼつ夜の繁華街を穏やかに揺らしていた。カラフルな傘がすれ違う交差点。鞄を頭上にかかげて走る会社員は、天気予報を見ていなかったのだろうか。誘導灯を漫然と振り回しながら、
雨具が重い。水滴は弾いても寒雨の冷たさは消えず、染みるように肌を犯していた。唇の震えが止まらない。はやく帰りたい。
誘導灯を振るう。
「……」
ふと、チェーン店の居酒屋の下にあるケーキ屋が目に入ってきた。クリスマスツリーが表に出て、頼りなく点滅を繰り返しているのをみて、思わず苦笑いをこぼした。忘れていたからだ、クリスマスのことなんか。
あと二週間だったな。
最後にクリスマスを祝ったのはいつだっただろう? 十年前だったか。充たちと、コンビニで買ったケーキをカラオケボックスに持ち込んで、歌いながら過ごした。あれ以来、誰ともクリスマスを過ごしてはいないし、ケーキさえ食べていない。ケーキの味さえ忘れていた。思い出そうとも思わなかった。
どうせ食べても味なんか感じない。
「緑川、交代だ」
振り返ると、雨具を被った大柄の男がいた。柔和な笑みを浮かべながら、透の肩にゴツゴツした手をおいてくる。白河裕貴……透に交通整理員の仕事を教えてくれた先輩社員で、倍近く歳が離れたベテランである。
「うす……」
「お前、唇震えてるじゃねえか。あんまり無理せんで、体調悪いときはちゃんと報告しろよ」
「大丈夫です。ただ、寒かっただけなんで」
「まあ、今日はかなり寒いから無理もねえか。身体冷やさないよう休憩室で暖まってこい」
「そうします」
「あ、緑川」
休憩室へ向かおうとした透を呼び止めて、白河は何かを投げてきた。缶コーヒーだ。分厚い手袋越しにも、微かに熱が伝わってくる。
「……ブラック苦手なんだよ。間違って買っちまってさ。代わりに飲んでくれ」
「うす……ありがとうございます」
素直に礼を伝えると、白河が無言で手をふってくれた。変なところで不器用な優しさを発揮する人だな、と透は思う。
吐いた息は白く、雨に溶けた。
透はネオンを遠目に眺めながら、缶コーヒーに手を寄せて、小さく笑う。
――俺は、まだ生きている。
生きてしまっているんだ。
二〇三二年十二月某日。
あの惨劇から十年もの年月が流れていた。透が住んでいたF県飯沢市は「
未曾有の厄災。過去に類を見ない一方的な大虐殺。それが、たった一人のエゴによって起こされたことは誰も知らない。知るよしもないだろう。
前例などありようもない惨劇に対する事態の収集は、当然難航を極めた。これだけの被害だ。国政の混乱は火を見るよりも明らかで、報道は加熱し、様々なデマや憶測が飛び交い、通常の災害時とは比べ物にならないほどの混沌が生じた。
極めつけは、ネット上で「鏖」中のF県内の映像が流出したことである。化け物が街にいる人々を殺している映像――。政府は「鏖」が起こってすぐにF県周辺に封鎖命令を出したが、悲劇に巻き込まれた人々が残した記録映像が世間に出回ってしまうのを止めることはできなかった。どのような経緯で流出したのかは依然として不明である。そこを考えることに大した意味はない。問題は流出してしまった内容にあった。
国民に知らされていなかった突然の封鎖令といい、国民から政府はあらゆる疑念を向けられる結果となってしまった。通常では鼻で笑われるような陰謀論が、不明瞭な状況に対する不安と映像によって予想もできないほどに広まり、混乱の上に混乱が重ねられる結果となった。映像の
政府が苦肉の策として、矢面に立てたのは異色コーポレーションだった。同会社が生物兵器の開発を行っていた事実を公表し「彩」によって得られた情報の一部を証拠として解禁することで、説明しようのない嘘みたいな悲劇を説明しようと試みたのだ。トカゲの尻尾切りとしても非常に弱く、納得のいく説明にもなりきってはいないが、しかしそれ以外に説明もしようがないのも事実であった。
だが、その程度の説明で事態が収集するほど甘くはなかった。混乱はもう止めようもないほどに広がっていたのだ。追い詰められた当時の政権は内閣総辞職にまで追い込まれ、異色家と関係が深かった議員の数名は逮捕あるいは自ら命を絶ち、当時の政権与党は信用を失墜して、政権交代するまでの事態に発展した。
異色コーポレーションも当然のように崩壊した。これだけの惨劇を生み出したことや国民のバッシング、生物兵器開発による国際法違反……理由は上げるとキリがない。投資家の信用を失った異色コーポレーションの株価は大暴落を果たし、関連企業や子会社は次々と倒産もしくは吸収され、国政に裏から関与するだけの力をもった巨大企業……異色コーポレーションは跡形もなく消え失せた。
国政の混乱、政治の停滞、巨大企業の崩壊、「鏖」による甚大な被害……それらが生んだ経済に対する損失は尋常なものではなかった。経済活動の大幅な停滞により日本は不況に陥り、陽の光は傾き、暗黒を生んだ。十年たった今でもその陰りは消えず、日本は経済大国としての力を大きく衰退させる結果となった。
そのような斜陽の中で、透は生き抜いていた。
透はあの地獄から抜け出したのち「彩」によって身柄を拘束され、数年もの間軟禁生活を強いられることとなった。囚われた理由は言うまでもない。透は異色家の出身であり、人間を超越した怪物なのだ。そう簡単に表へ出せる存在であるはずがない。一生囚われたままでもおかしくはなかったし「彩」も当初からそのつもりであったはずだ。
それが、二年ほど前から監視付きという条件ではあるが、表に出されることとなった。苗字を分家のものである緑川に変え、戸籍そのものを「彩」の力で作りなおし、別人へと生まれ変わって。
理由は判然としない。だが「彩」のメンバーである監視役の男から聴いた話では、桜南の貢献が大きいとのことだ。桜南が、あの事態が起こる前に「彩」へ働きかけを行っていたのだと言う。経緯を詳しく教えてもらうことはできなかったが、おそらくは桜南のことだ。相当な無茶をしたのだろう。
そんなところでも、桜南に救われた。災厄が終わったあとも、透が日常を送れるように……。透の幸せを心の底から願っていてくれたのだろう。あまりにも健気で、あまりにも深い愛だった。透は彼女の想いの強さを再認識し、何度も声を上げて泣いた。何度も何度も何度も何度も。
だが、幾度泣いたところで、桜南は戻って来ることはない。もう、いないのだ。愛しい人は遠くへ行ってしまった。
生きて欲しいという言葉を残して。
「……」
ビニール傘をさしながら、透は空を見上げる。半透明の膜越しにみえた明け方の空は、雲に覆われているせいでいまだに薄暗く淀んでいる。くるくると傘を回すと、水滴が爆ぜた。
つまらない日常だった。仕事に行って、家に帰り、ただ味のしない飯を食う。それを繰り返すだけの日々。何が面白いのかさえわからない、ベルトコンベアで流れてきた荷物をただ淡々と受け取るような生活。この繰り返しを幸せと呼ぶのか? この退屈な虚無に「しあわせ」とルビを振ればよいのか?
桜南が、充が願ってくれなければ――。
透は、水溜りに目を落とした。濁った水面に映っていたのは自分の微苦笑だった。
やめよう。
幸せなんて願ってはいけない。
幸せなんか考えてはいけない。
幸せになどなってはいけない。
ただ、生きるだけだ。
生きて生きて、生きて生きて生きて生きるだけなんだ。
人を殺した人間は、きっと幸せなんか望んではならない。生きた屍のごとく、息を殺して過ごすのが正解なんだ。
「……」
――私達が罪人だから?
――人を殺したから?
――だから、幸せになってはいけないの?
「……違う」
口からついた否定の言葉を、頭を振って否定する。
何も違わない。人を殺した。それも親友や後輩を。殺したんだ。自分のせいで彼らは死んだ。誰も救えなかった。誰も助けられなかった。幼馴染も愛する人も、幸せになるべきだった多くの人たちも。
そんな人間が、幸せになっていいわけがない。
否定と葛藤は、雨音に混じり深まっていく。足取りが重いのは、地面が弾いた雨水に濡れたズボンのせいか。それとも背負う十字架の重さのせいか。
「……あら、緑川さん?」
透が住んでいるアパートに差し掛かったときだった。ビニール傘をさした子連れの女性に声をかけられた。
「あ、おはようございます」
透が会釈しながら言うと、女性は柔和に笑いながら挨拶を返してきた。手を繋いでいる幼稚園児の女の子が、じっとこちらを見てくる。
「こら、紗佳。挨拶しなさい」
「こんちは」
「おはようございますでしょう? 今は朝よ」
「……あはは。ありがとう紗佳ちゃん。今日も幼稚園かい?」
「うん!」
「元気だね。頑張ってきてな」
透はできる限り明るい表情を心がけながら笑いかけ、女性の方を向いた。
「緋山さんもお仕事頑張ってくださいね。では」
「ええ、ありがとう。お疲れ様です」
「はい、ありがとうございます」
透が軽く頭を下げ、アパートの階段を上がろうとすると、緋山が声をかけてきた。
「あの……緑川さん! 肉じゃが作りすぎたんで、よかったら今度もらってくださらない?」
「え、またですか?」
透は思わず聞き返した。
緋山が作りすぎた料理をお裾分けしてくれるのは一度や二度のことではなかった。週に一回はかならず持ってきてくれていた。
「はい! 仕事から帰ったら持っていきますね」
「いや、さすがにいつも貰ってばっかりなのは気が引けますよ……」
「今更なに遠慮しているんですか! いつも娘と遊んでくれているでしょう? いいから貰ってくださいよ!」
「……いや、でも」
「余っても困っちゃうんですよ。娘は同じものばかりだと文句言うし。お願いしますよー」
「……はい」
透は溜息をついて、渋々うなずいた。緋山がにかっと口元を吊り上げ、サムズアップしてくる。押しの強い人なのだ。透より年下のはずなのだが、毎回のように押し負けてしまう。
もらう料理は栄養補給にはなるし、鬱気味で休日は動くのが億劫なことも多いから、正直助からないと言ったら嘘になる。だが、あまり人と関わりを持ちたくはないのだ。なるべくなら避けたいというのが本音だった。
透は、緋山親子を姿が見えなくなるまで見送ると、家に帰った。
築四十年を過ぎたアパートは、お世辞にも綺麗とは言えない。塗装で誤魔化された安直な古い扉に安っぽい鍵を突き刺して回すと、ガタンと音が鳴った。
薄暗い部屋が開ける。
畳の部屋に、机と本棚とハンガーラック、そして畳んである布団がおいてあるだけの部屋だ。ミニマリストみたいな生活感のなさが、室内の生ぬるい風とともに出迎える。
芳香剤の香りが、きつかった。
「……ただいま」
返事はなくともつぶやく。
今日も、一日が終わったのだ。
粛々と続く冷たい日々の一ページが、閉じられた。
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