第十九章 五




 「殺意」の王は、殺すことが存在意義であり、滅ぼす為だけに生まれる。


 そこに思考など働かない。感情などない。息をすることに疑問を抱く人がいないのと同じように、ただ殺す。無邪気なまでに無欲なまでに。


 拳銃を使いこなす赤子。そんなあり得ない存在が「無垢」の殺意という矛盾だった。欲もなく思案もなく衝動さえもなく殺すことなど本来できるわけがない。


 だから、王は本来産まれようもないものだ。神が聖書の中から出てこないのと同じことなのだ。居るはずのないもの。ゆえに、破壊神とされ「殺意」たちから崇められた。


 彼の顕現は、絵画の中から人物が現れるような奇跡そのものだった。


 「鏖」とは、その奇跡によって起こる現象。


 人々を血に還す祝福。


 だが――その福音は喜びをもって迎えられるものではない。


 多くの死は多くの悲劇を生み出し、必然として絶望を世界に孕ませる。理不尽には怒りが付き纏うように、人の死に悲しみが付き纏うように。王の誕生には、絶望がかならず産み出される。


 「絶望」の殺意とは、光の祝福から生まれる影そのものだ。


 王とともにある力。


 そして王に近い性質を持ちながら、王とは異なる象徴をもつ。


 王の力はいわば虐殺であり、絶望は人を自ら死に至らしめる欲求にもっとも近い。どちらも大量の死を生み出す点で共通しながら、明らかに違う。


 だからこそ、「絶望」は「無垢」に対抗しうる唯一の力であった。


 神に愛された異色香澄が、唯一怖れ消し去ろうと目論んだ異能。


 消し去れるわけがなかった。


 「絶望」は王とともに真に生まれるのだから。


 香澄が産み落としたのは、双子であった。


 それが最終的に透へ流れ着いたのは、何の皮肉だったのだろう?





 赤子が全身に口を咲かせ、金切り声をあげる。


 空気が引き裂かれるほどの振動が、透の身体を叩いた。息が詰まるほどに苦しい。激痛が走り抜ける全身に刺すような苦痛が重ねられる。刀を持つ手に痺れが走った。歯を砕く勢いで噛み締め、全身に力を込めて、気力を保つ。


 離すな。


 離すな、絶対に離すな。


 この手を離せば、もうこの厄災を消滅させる機会は二度とこない。


 暴れる赤子が、叫びながら笑いながら手を伸ばしてくる。無限のごとき神の手が、透の身体に凄まじい勢いで躍りかかる。透は咆哮をあげた。黒い靄が膨れ上がり、神の手を飲み込んで壊していく。靄から生じた亡者たちが踊り嘆き叫んだ。狂乱。暴力を超えた暴力。無垢を食らう絶望の叫声。


 泣いているのか。笑っているのか。悲しいのか。辛いのか。淋しいのか。痛いのか。怒りなのか。憎いのか。怖いのか。苦しいのか。あるいはすべてか。マーカーでぐちゃぐちゃに塗りつぶしたような荒ぶる感情が透を加速させる。


 充の泣き顔が見えた。母の醜い死に顔が見えた。幸せを願って溶けた亜加子の嘆きが聴こえた。地獄に落ちろと呪う鳴花の憎悪の叫びが聴こえた。悍ましい愛に歪んだ香澄の悲しそうな微笑みが浮かんだ。桜南の、最愛の人の爽やかな涙が温もりとともに感じられた。


 澄空の、無邪気な笑顔があった。


 血を吐きながら悲鳴をあげているのに笑っている。微笑みかけてくれた父親に、笑みを返すかのように。


 その邪気のなさが、殺意を膨らませる。


 ――澄空。


 透の声にならない言葉は、慈愛に満ちているかのように優しくて冷たかった。


 ――ごめんな。お前は、居てはいけないんだ。


「おやすみ」


 剣先から流れ込んだ黒い靄が、赤子を包みこんだ。


 生まれたばかりの赤子に、布を巻くような優しさで。


 




 ゆっくりと目を開いた。


 小鳥のさえずりが綺麗だった。耳が洗われているかのように感じられるほど穏やかで心地よくて、半分開いた目をまた閉じてしまいたくなる。木漏れ日が揺れていたのは肌をたゆたう温かな風のせいだろうか。甘い香りがした。焼き菓子のような匂い。


「……起きてください」


 精霊の声がしたのかと思った。あまりにも優しい調べだったから。


「起きてください、兄さん」


「……香澄」


 まぶたを開くと、妹の美しい顔があった。栗色の髪が風とともに優しく空に踊っている。彼女はゆっくりと微笑み髪を払った。黒い安全ピンのピアスが、揺れた。


「ここは……?」


 透は掠れた声で尋ねた。


「夢の中です」


 香澄は眉毛をわずかにあげながら、悪戯っぽく答えた。


「夢……?」


「ええ、夢ですよ。きっと夢です。だって私達がこんなに穏やかに過ごしているんですから」


「……」


 それの何がおかしい?


 そう思いかけて、はっとする。


 ――そうだ。俺達は、もうただの兄妹ではないのだ。殺し殺される、愛憎に満ちた関係。敵。そう表現する他ない、絶望的な関わりにまで堕ちきっている。


 なぜ、忘れていたのか。


 なぜ、香澄とともにいるのか。


「……そうだな」


 跳ね起きて距離を置こうとさえしなかったのは、全身を包む泥のような倦怠感のせいだ。すべてが億劫で、指先さえ動かしたいと思わない。


 すべてを奪い、壊した妹の膝に頭を乗せているというのに。


「俺達は、こんなに優しい時間を過ごしていい間柄ではない」


「ええ、そうでしょうね。兄さんにとっては、私は憎むべき敵でしかないはずですから」


 私は違いますよ。


 香澄はそう言って、ゆっくりと顔を近づけてくる。


 口づけを落とされると思って、顔をそらした。耳元に吐息が当たる。


「私はずっと兄さんのことを愛していますから」


「俺はお前を殺したい」


 透はきっぱりと拒絶した。


「……あら、憎まれたものですね」


「当たり前だろう。お前がやったことで、どれだけの悲劇が生まれたと思う? 何人の人が死んだと思う?」


 香澄は答えない。


「俺が、どれだけのものを失ったと思う? 大切な親友も、可愛い後輩も、大好きな叔父も、幼馴染も……そして好きなやつも。お前のせいだ。ぜんぶ、お前が奪ったんだ」


「ええ、私が奪いました。でも、仕方ありません。そうしなければ、私は兄さんを失うしかなかったんですから。失いたくなかったんです、唯一の愛を」


「お前は身勝手なやつだ」


「愛は身勝手ですよ。与えても受け取ってもらえないなら、押し付けるしかないじゃないですか」


「その結果がこれか」


 透は一笑に付した。


「お前は、せっかくの頭脳を無駄に使いすぎた。愛なんて幻想にすがって、本来大切にしなければならないことを見失い、すべてを台無しにした」


「愛にすがっていたのは、あなたもでしょう?」


 香澄の微笑みは、崩れない。


「ちっぽけな愛でしたね。たった二年の付き合いで生まれた、おままごとのような愛という遊戯。ボードゲームの方がよっぽど有意義です。そんなものに、どれほどの重みがあるというのです?」


「馬鹿にするな。俺と桜南は、十分すぎるくらい分かりあっている」


「分かりあっていませんよ」


 香澄は断言した。


「なにも知らなかったじゃないですか、兄さん。あの女のことなんか」

 

「知らなかったよ。だが、今は違う。俺達は多くの言葉を交わしあい、確かめあった」


「そう」


「ああ、お前が言うようなちっぽけなものじゃない。愛は必ずしも時間には比例しない。俺が一瞬で、お前に憎しみと恐怖を向けたようにな」


「ふふふ……そうですね。たしかに時間だけで育まれるものではないかもしれません」


「そうだ。たとえお前が何万年かけて俺を洗脳しようとしたとしても、俺はお前を愛すことはない。そう断言できる」


 香澄は、珍しく沈黙した。


 今まで一度たりとも言い負かされたことがないあの香澄がだ。目の前に居る香澄は、透が都合よく創り出した幻なのではないか。そう思えてしまうほどに、香澄の姿が儚く弱々しく映った。


 風が木々を揺らす。


 まるでここだけ時間が遅くなっているのではないかと思えるほど、穏やかに時が流れていた。


 香澄が、微笑みを溶かした。


 肌に触れたのは、冷たい雫。


「わかっていましたよ」


 香澄の声は震えていた。


「わかっていましたとも。だからこそ、ああするしかなかったんです。ああするしか……私には道が残されていなかった」

 

「……」


「私はずっと兄さんのことが好きでした。でも、絶対に結ばれることはないと、幼い頃から気づいていました。社会という理不尽が、常識が、生物の本能が、それを許さない。私はともかく兄さんはそうじゃない。その枠に疑問の余地さえ挟まず、私を妹という枠組み以外では見ないだろう。……そんなことわかっていましたとも」


 だから、壊すしかなかった。


 香澄はそう言って、くすりと笑う。雫はずっと肌に落ち続けていた。


「本当は、こんなことしたくなかった。でも、私は人間ですらありません。『殺意』なんです。己のなかにある狂気の愛の本質を無視できない。結ばれたかったんです。このどうしようもなく愚かな愛を、成就させたかったんです。ずっと羨ましかった。ずっとずっと妬ましかった。あなたの周りにいる女の子が……鳴花ちゃんや銀城桜南が……私もああなりたいって、思っていました」


「……そうか」


「でも、無理なんです。どうしたって、私は妹でしかありません。怖かった……ずっと、兄さんが誰かに取られてしまうことが。誰にも奪われたくなかったんです」


 透は、はじめて理解した。


 異色香澄という少女の剥き出しの弱さを。縋るものがなく、縋ることさえ許されず、頭が良すぎたがゆえにはやくから自分の虚無とどうしようもない想いに絶望しきってしまっていたのだ。ゆえに、狂ってしまった。すべてを壊さなければならないと、歪んだ道に固執してしまうほど追い詰められた。


 「狂愛」は、弱さの象徴だった。


 愛にすがらなければ、立っていることさえできないほど、脆弱だったのだ。


「香澄……」


「……はい」


「お前は、間違えた」


 わかりきったことを口にした。だが、言わなければならなかった。


「お前がやったことはただの虐殺だ。愛に狂っていたことなんか、お前の絶望なんか、欠片も言い訳にならないくらいにな」


 ――俺は、お前を許さない。


 透はきっぱりと言い捨てた。


「地獄に落ちるんだ。お前は、お前が苦しめてきた人たちの分苦しまなければならない。そうじゃないと、あまりにも救われない。だから、死ね。お前の愛なんか、クソ喰らえだ」


「……」


「寄り添うつもりなんかない。甘えるな。俺はお前を地獄に叩き落として生き抜いてやる。生きて生きて、生きて生きて生きて生きて……そしてお前と同じところに落ちてやる。俺たちが兄妹として再び笑い合えるようになるのは、そのときだ」


 透は、香澄に手を伸ばした。柔らかく冷たい頬にさわり、指先で涙をすくい取る。


 お前には泣く権利なんかない。


 そう口には出さないのは、せめてもの慈悲だった。


「……兄さん」


「俺は生きなきゃならない。約束したんだ、充と桜南に。たとえどんな業を背負っているとしても」


 だから、さようなら。


 透が、悲しげな笑みを浮かべてそう言うと、香澄がゆっくりと塵となって崩れ始めた。夢は醒めようとしている。兄妹の絆が完全に終わろうとしていた。


 あとは、地獄まで会うことはない。


「……じゃあな、香澄」


 透のつぶやきに、香澄は泣きながら小さく笑った。







「……ぃ……さ……ん」


 倒れ伏した肉塊が、微かに声をもらした。


 透は静かに見下ろしていた。握りしめていた長刀の先から黒い塵芥が登っている。赤子の声はもう聴こえない。世界は静謐に帰ろうとしていた。


 すべては、終わった。


 終わったのだ。


「……」


 肉人形には、とどめはいらない。もう、なにかを殺す気力はなかった。死にかけの金魚のように口を動かし、くぐもった声を漏らし続けていた。兄さん、兄さん。ずっと愛しい兄を呼んでいた。


 生暖かい風がゆるやかに舞う。充満する血の匂いと死の気配を、微かに柔らかくゆらす。


 肉人形は、最期に言った。


「……ま、た……ね」


 透は、答えなかった。


 もう、死ぬまで会うことはないからだ。


 空に淀んだ目を向けて、肉人形は永久の眠りについた。手向けはいらない。奪い続けたものに、与えるものはないから。


 透は踵を返した。


 ふらつきながら、前に向かって足を動かした。


 世界が鳴き始めた。王を失った世界は、均衡を崩してしまったのか崩壊していく。壁に咲いた無数の目が血の涙を流し、無数の口が苦しげにうめき、悲鳴を上げて壊れる。赤い空が曇り空に戻り、濃厚にかおる死の気配は徐々に徐々に取り払われていく。「鏖」が終幕した。すべての命を飲み込む前に、悪夢は覚めたのだ。


 雲の隙間からこぼれた光が、前を行く透を祝福するように穏やかに降り注いだ。


 小鳥が、鳴いていた。


 足元に転がる大量の死を知らず、呑気に鳴いている。


 透は立ち止まって、自分の身体を抱いた。


 いつの間にか人の姿に戻っていた。


 もう、ブラックナイトになることはない。


 もう、終わったんだ。


 だのに、身体の震えが、とまらない。


 ――とまらないんだ。


 透は、天を仰いで咆哮をあげた。


 すべての感情が決壊し、心がバラバラに崩れさる音を聞きながら。


 絶望に、むせび泣いた。


 

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