第十九章 四 絶望



 

 優しい嘘なんかつかないで。


 あなたは、もう、ここにはいない。




 


 甘く、焦げた味がした。


 バターの香ばしさに、苦みが混ざりきったお世辞にも美味しいとは言えない味が口の中に広がっている。ざりざりとした感触はクッキーの欠片にしてはあまりにも硬質で、口の中にへばりつく液体の感触はコーヒーにしてはあまりにも粘っこくしつこい。


 暗闇だった。


 感じられるものは、味覚以外にない。痛みすら遠く、音さえも聞こえず、ただ透は懐かしい味に縋るしかなかった。何がどうなっているのかさえわからない。死んでいるのか生きているのかさえ曖昧模糊とし、自分の存在がどこにあるのか不明瞭だ。まるで煮詰められ煮詰められ煮詰められた玉ねぎのように。意識はただ、崩れていた。愛しいものが遺した言葉の残滓だけをそこに留めて。


 赤子の笑い声。


 コンクリートを流し込むような暴力性をもって頭の中に無理やりねじり込まれる、神の唄。おかあさんをつくると言っていた。


 おとうさんとたくさんあそんだけど、あそびたりない。だから、おかあさんがやっぱりほしいな。うん、だからつくらなきゃ。おかあさんは、まだここにいる。ぼくのそばにいてくれている。かたちがない。かたちがないだけ。


 だから、あつめるね。


 ぐちゃぐちゃの脳内に、わけのわからない言葉が溢れる。意識は混濁したまま、その言葉をとらえさせられる。


 王が泣いた。


 神の叫びは、きっと世界を蹂躙したのだろう。間もなく何かが頭に降り注いできた。血の雨だと、冷めた感覚でも理解できた。ビリビリと濡れる肌を震わせる衝撃が何かわからない。音? 叫び? そう、大音量のサウンドを間近で浴びたような感じ――。


 その瞬間だった。


 透は急速に落下していく感覚を覚えた。


 暗闇の中、枝からこぼれた果実のごとく落ちていく。


 ああ――死んだのか。


 ぼんやりと思った。だが、すぐに違うのだとわかった。


 透の中に遺された血の遺志が、桜南の権能がささやいてくれたから。


 ――透くん。まだ、終わっていないよ。


 ――君は、戦わなきゃ。


「……さ……な」


 超再生が発動した。


 透の意思でも、透の中にいるブラックナイトの仕業でもない。戦わないといけないと諭す桜南の言葉に応えるように、とっくに限界を迎えていたはずの力が勝手に発動したのだ。視界が開ける。風の生暖かさを肌がひろう。口の中に広がっていた血の味と欠けた歯の感触を舌が察する。ああ、クッキーの味など最初からなかったんだ。


 透は、天使のような柔らかな足取りで着地する。


 血と歯を、吐き出した。


 まるで竜巻のごとき轟音が耳を貫いた。それがすべて悲鳴なのだと、上を向いた瞬間に理解する。


 無数の人が渦を巻きながら赤子の頭上に集められていた。拡張する「鏖」に巻き込まれた人間たちが、赤子の無垢の手にさらわれ、わけもわからず叫びながら引きずられ、空中で振り回されている。


 赤子の頭上には、巨大な赤い肉塊があった。まるで芋虫のような肉の塊が、ぐにゃりぐにゃりと藻掻くように蠢いていた。人間たちは、まるで引力に引き込まれた隕石のごとき勢いで肉塊にぶつかっていた。両手両足をへし折られた男子学生が引きずられながら泣き叫んでいた。折れた腕をバタバタと動かし逃げようとしていたが、肉塊に吸い込まれ、粉々に砕ける。子供が、老人が、すべての人々が無差別に擦り潰され、無慈悲なまでに肉塊に集められた。莫大な悲鳴を轟かせながら。


 滝のような、血。


 あまりにも残酷な遊戯。


 赤子は、ケタケタと笑った。


 ――おかあさん、もう少しだよ。


 ――もう少しで、また一緒に遊べるからね。


「――」


 ドス黒い何かが、透の中で膨らんだ。


 見開かれた目の毛細血管が千切れ、瞳孔が極限まで縮んでいく。刺すような痛みが眼球の中から響き、はち切れそうな頭痛が繰り返される。息が上がり始めた。肋骨を砕きそうな鼓動が全身を震わせて止まらない。唇が戦慄く。


 これはなんだ?


 この醜悪な、無意味な、反吐が出そうな、気持ちが悪い、ふざけた行いは?


 肉塊が蠢いた。数多の臓物と血と筋肉と骨の塊は、血肉の欠片を下水のごとく撒き散らしながら、収縮を繰り返し繰り返し――その醜い肉の一部を隆起させ、顔の形に変えていく。


 香澄だった。


 香澄の、顔だった。


 長く細い眉毛に、やや冷たさを感じる怜悧な目つき、よくとおった小綺麗な鼻に、柔らかそうな唇。天使の絵画を思わせる完全性をもつ容貌。それが、赤黒い肉によって象られている。見開かれた肉の瞳が、カメレオンのごとくあらぬ方向をむいた。まるで白痴のごとく。天が与えた究極の知性は、そこには欠片も残っていない。


 香澄の唇が、壊れたブリキのように動いた。


「に……さん……」


 絞り出した言葉は、大量に漏れ出た血に呑まれくぐもった響きを奏でた。


 あまりにも悲痛に満ちたささやき。


「ぁ……い……して……ま…………す」



 


 赤子の笑い声と透の絶叫が響いたのは同時だった。


  


 内側から張り裂けそうなほどの叫びを上げて、透は疾走する。筋繊維が千切れ、骨という骨が軋む。身体の悲鳴は聞こえないふりをした。痛みなど見て見ぬふりをした。ただ、このドス黒いなにかを、無限に湧き上がる暴力衝動を全身で表現しなければ、いますぐ壊れてしまいそうだった。


 爆発的な勢いで跳びあがった透を、膨大な数の無慈悲の手が出迎える。壁に等しい勢いで迫ってくる神の手……もはやどこにも逃げ場などない。そんな攻撃に、透は真正面からぶつかっていく。あまりにも無謀だった。だが止まらない。止まるわけにはいかない。殺す。なんとしても。なんとしても――。


 この身体が、たとえ粉々になろうとも。


 神の手が、透に触れようとした瞬間だった。


 透の銀色の身体が、暗赤色に染まった。


 それは、血のような深い赤。


 桜南から受け継がれた絶望の色。


 ――透に、「絶望」の殺意が開眼した。


 狂気が溢れた。


 透が吐いた絶叫は、言葉の殻を捨て去ったむき出しの凶暴性に満ち満ちて鋭く。


 全身から膨れ上がった黒い靄が無数の亡者を象り、神の手のすべてを喰らい尽くす。破壊の力は、避けられない殺人の力すら凌駕し、赤子が放った絶命の光ごと掻き消した。


 その権能は、死に至る病。


 ただ唯一、自死を司る殺意。


 その本質はただの破壊には留まらない。すべてを自壊させ無力化させる神を超える力。無垢に返す神の力さえ、それは例外ではない。異色香澄が唯一怖れた権能。その剥き出しの本性が、透に受け継がれたことで完全に目覚めた。


 透の手のひらに血が集まる。


 それはやがて長刀を象り、先端から黒い覇気を垂れ流す。


 透の目には、桜南が視えた。


 刀を持つ透の手に、そっと手を重ねて静かな微笑みを浮かべている。


 ――すべてを、壊して。


「あア……」


 分かっているよ。


 壊すんだ、これまでのすべてを。異色家が生み出した罪の結晶を。


 すべて、跡形もなく。


「澄空……」


 赤子は、ケタケタと笑いながら進化した透を見据えていた。すべてが無垢なままだった。息をするように殺す純真なまでの殺意は、衰えることなど知らないとばかりに膨れ上がる。


 ――ああ、俺達は殺し合うしかないんだ。


 透はそう思った。産まれ落ちたその瞬間から、親子の絆を育むことなどできないことが宿命付けられた関係。歪なんてものじゃない、殺し殺される憎悪に淀みきった縁。血の福音を与えられた。「殺意」に生まれ、目覚めたせいで。


 愛は、死んでいた。


 愛は、朽ち果てた。


 愛は、否定された。


 愛は、なかった。


「――お前ヲ、殺す」


 最初から、そうするしかないんだ。


 透の咆哮が世界の悲鳴を貫いた。


 赤子の手が殺到する。閃光が駆け抜ける。透が疾駆する。翼が生えていた。それは純白さを失い赤黒く染まりきっている。堕天の翼。神に逆らいし反逆の象徴。音を引き裂く勢いで迫った透に、光がぶつかる。絶命は、破壊に喰らわれた。粉々に砕け散る光。


 だが、その光は絶えず浴びせられた。


 もはやそれは連射と呼ぶに相応しい勢いで。絶命の範囲を通りの周辺に限定することで、神の力を連続で発揮することを可能としたのだろう。透の破壊が追いつかない勢いで、消し去ろうと目録んでいる。純粋な「殺意」が見せた計算。それは悪魔の知性の片鱗。異色香澄の残忍さが微かに漂っていた。


 透は迫りながら血をまき散らす。目の前が真っ暗に染まる。急劇なGを受けたときのブラックアウトのような感覚に襲われる。「絶望」を開眼したとはいえ、この力は王の力さえ消し去るほどに強力なものだ。身体にかかる負荷は想像を絶するものがあった。


 身体が、内臓の内側から張り裂けそうなほどに痛い。


 目が刺され続けているようだった。


 前が、見えない。


「ア、アアアアアアアアアアアアッ!」


 絶叫が、聴こえた。


 紫音鳴花の声だった。


 光が一瞬途絶えて、微かに戻ってきた視界が捉えた。炎で焼き尽くされたかのようなボロボロの身体で、上空から王に躍りかかる鳴花の姿が。左腕は上腕から下が炭になり、右足も半分ほどが焼き切れ、顔の皮膚はバーナを直接当てられたかのようにグズグズに溶けている。王から浴びせられた絶命を、己の絶命で打ち消し続けた反動――。もはや「復讐」の力さえ使うことがかなわないほど、鳴花は朽ち果てていた。


 それでもなお、それでもなおだ。


 彼女の復讐心は尽きなかった。


 鳴花は残った右手を前に突き出し、言葉にならない万感を込めた悲鳴をあげて、王に迫る。


 王の目が見開かれ、鳴花を向いた。


 二つの閃光が走り抜けた。


 王と鳴花、二人の絶命がぶつかり合う。電動ノコギリで鉄を引き裂くような轟音が雨のごとく世界に降り注いだ。鳴花の身体が、壊れゆく。相殺しきれない力の欠片をくらい、砂のアートが風で崩れてゆくように朽ち果てていく。


 透は、たしかに視た。


 鳴花の顔がこちらに向いていた。


 半分以上崩れたその顔は、怪物から人間のそれに戻っており、ただ静かにパープルの目を緩めていた。それは泣き顔のようでもあり、笑顔のようでもあった。彼女のこれまでが、すべてこもったような複雑な表情だった。


 まるで時が圧縮されたかのように、すべてがゆっくりになる。


 頭の中を駆け巡ったのは、苦い初恋の記憶。


 少年のように気さくでガサツな少女だった。公園を一緒に駆け回り、カードゲームでよく対戦をして、たくさん喧嘩をした。いつもは小憎らしいのに、笑うと愛嬌があって可愛らしかった。そんな彼女が好きだった。だから頬にキスされたときは、飛び上がるほどに嬉しかったし、動悸が止まらなかった。


 いつも一緒にいられると思っていた、かつての幼馴染み。


 突然いなくなったときは、張り裂けそうなほどに悲しくて信じられなかった。なぜ、いつも一緒にいると約束してくれたはずなのに、何の連絡もよこさずに居なくなったのか。ショックだった。裏切られたような気さえした。


 ――だが、裏切っていたのは透たちだった。


 失われた彼女の十年が垣間見えた。香澄の残虐な笑み。目を塞ぎたくなるような壮絶な拷問。地獄の責め苦にあった罪人があげるがごとき、聞くに耐えない絶叫。透に内緒でいなくなったわけではない。奪われたのだ、すべてを。ただ、ただ醜い嫉妬を理由に、すべての尊厳を破壊され玩ばれた。


 そんなこと、知りもしなかった。


 知ろうとさえせず、鳴花のことを記憶の隅に封印し、彼女が痛めつけられている間、ただ透は笑っていた。


 笑っていたのだ。


 ――鳴花。


 透の声は、鳴花に届いたのか。彼女は微笑みながら最期に言った。


  


 ――やっと気付いたのか。


 ――地獄に落ちろ、馬鹿野郎。



 

 紫音鳴花は、蒸発した。


 文字通り一欠片も残さず、ただただ塵芥となって空へと消えてゆく。


 透は絶叫しながら、王へと肉迫した。


 紫音鳴花が命がけで作り出した一瞬の隙に乗じて、透は湧き上がる感情のすべてを刀にのせて振りかぶる。


 極限まで接近してなお、赤子は笑っていた。


 まるで、父親があやしに来てくれたことを喜んでいるかのように。


 だが――もう、終わりだ。


 絶命の光が透を包み込む。だが、その光を引き裂くように透の中から闇が膨れ上がり、やがて闇は光を飲み込んだ。


 透の絶叫とともに――。


 長刀が、王を貫いた。 


 

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