第十九章 三 




 何も無い部屋に帰って、私はクッキーを食べたんだ。


 透くんが私のために焼いてくれた下手くそなクッキーを。


 苦くて、甘かったよ。


 食べ物に味を感じたのは、それが初めてだった。


 いままで何を口にしても、味がしたことはなかったのに。


 私は、薄暗いリビングの扉のそばに腰をおろして、いつの間にか蹲っていた。


 膝を抱えて、声を上げて泣きながら。


 君のことを「好き」だと言い続けた。






 ごめんね、翡翠、透くん。


 約束、守れなかったよ。



 

 まるで泡が弾けるように、銀城桜南の身体は弾け飛んだ。肉片も血も髪の毛さえ、何もかもが跡形もなく蒸発し、光に溶けて消えていった。


 あまりにもあっさりと。


 あまりにもあっさりと。


 赤い空に登る粒子。桜南の残骸。桜南だったもの。桜南の魂の残滓。


 赤子の笑う声が、赤い世界を揺らしていた。


 透の耳にはすべてが遠い。


「……さ、な?」


 愛しい人の名前が、枯れた花の輪郭をなぞるような切なさでつむがれる。震える唇。見開かれた青い三つの瞳。限界まで引き絞られた瞳孔に映るのは、桜南だった光の粒――。


 未来変換。無理だ。これは王によって捻じ曲げられた確定した未来。変えられない。変えようがない。この結果は動かせない。


 桜南はもう――。


 透の指が、己の目に伸びた。


 治さなきゃ。はやくはやくはやく。桜南が死んでしまう。消えてしまう。嫌だ。それだけは嫌だ。まだデートすらしていない。まだ何も恋人らしいことなんてできていない。手を繋いで歩きたいんだ。一緒に、行きたい場所があるんだ。見たい彼女の姿があるんだ。見たい彼女の表情があるんだ。


 まだ、夏祭りにいけてないだろう?


 眼底に突っ込もうとした指が止まった。いや、止められた。無色透明の神の手が、透の腕に絡みついていた。残虐なほどに無邪気な赤子の冷笑。魔王の血を引いた神は、その残忍性をも引き継いでいる。


 透は獣のような叫びを上げて首を振り回した。突き出した指目掛けて目を突っ込むように。


 だがそれよりも先に、神の手が透の頭に絡みついた。


「ぎ、ガアアァァアッ」


 透は全身全霊の力で抵抗した。首を振り回そうと万力を込める。筋繊維が千切れ、毛細血管が破れ、筋肉に激痛が走り抜けてもなお、微動だにできない。歯が砕けるほどに噛み締め、透は未来変換を発動しようとして――。


 目を潰された。


 黒く染まる視界。束となって襲い来る刺すような痛み。血の涙しながら、透は痛々しいほどの悲鳴を上げた。透が視た未来の光景が確定する前に塗り替えられた。香澄と同じ先読みを「王」が使っている。


 喜声が轟いた。透の腕が凄まじい力で引っ張られる。肩の関節がバツンという衝撃とともに外れ、鋼の杭をねじ込まれたかのような痛みが肩を襲う。絶叫。靭帯が断裂し、肉という肉が乖離し、無理やり引き千切られた。金属を引き裂いたような激烈な叫びが、世界を脅かす。


 赤子に壊されてゆく。


 足を千切られ、股を引き裂かれ、鎧を剥がされ、腹を割かれ、赤黒く輝く内臓を引きずり出され――。


 ――お父さん。


 赤子は、甘えるような声で言った。


 ――ねえねえ遊んで。遊んでよ。壊れちゃったお母さんの代わりに、僕とたくさん。


 ――まだ、遊び足りないよ?


「――」


 透は超再生を発動する。


 だが、赤子に捕らわれているこの状況では何の慰めにもならない。ただ残虐な遊戯で壊される玩具の寿命が多少伸びたというだけ。


 ――遊ぼ。


 透は、壊され続けた。




  


 

 

 白い光が眩かった。


 暗い水底から浮上してはじめて月を見た人魚は、こんな感慨を抱くのであろうか。あまりにも綺麗で、あまりにも優しくて、透は思わず見開いた目をもう一度閉じそうになる。


 また水の中へ帰りたい。


 きっと、こんな美しいものを見ていると寂しくなってしまうから。


「また眠るの?」


 鈴のような流麗な声がした。


 銀城桜南の微笑みが、白い光を隠すように現れた。


「かわいい寝顔だからもう少し見ていたい気もするけどね。ほっぺをつねると面白い声出すし、あなた」


「……ここは?」


「私の部屋だよ」


「え?」


 透は思わず跳ね起きた。


「危ないじゃないか。寸前でかわしたからいいけどさ」


「すまん。……ていうか、なんでお前の部屋に?」


「私が連れてきたかったからさ」


 桜南がゆっくり立ち上がりながらそう言った。「ところで美少女から膝枕されていたっていうのに、それに関する感想はなしかい?」と冗談めかして訊いてきたが、状況が意味不明すぎて透は「……ああ」と生返事することしかできなかった。


 少しだけ頬を膨らませ、桜南が小さく笑う。


「お前が連れてきたんだな。なんで?」


「お家デートってやつを一度はしてみたかったんだよ。オセロでもする? 他にもボードゲームならたくさんあるよ」


「おい」


「冗談だよ」


 桜南は肩を竦め、その美しい容貌から喜色を消した。


 部屋のライトが突然明滅を始めた。


「負けたからだ」


「は?」 


「私達は、負けたんだよ。あの女が生み出した厄災に完膚なきまでに叩き潰されたんだ」


 透は息を止めてしまった。


 そうだ。なぜ、そんなことを忘れていた?


 赤子の声が頭の中を反響する。神の手の感触は氷のように冷たく思い出しただけで総毛立つ。肌から浸透してきた悪意でも善意でもない純粋な殺意。水の中に沈められ、抑えつけられているかのような重たい焦燥に満ちた恐怖と絶望。厄災。そう呼ぶに相応しい、圧倒的なまでの殺意の圧力を雨のように浴びたというのに。


 透は自分の身体を搔き抱いた。震えている。息が乱れはじめた。


「……ここは、私の記憶。君の中に仕込んでいた私の血の遺志が作り出した世界だ。茶川くんから訊いて知っているだろう。私は、操ったことのある血の持ち主の魂を呼び起こすことができる。それは自分も例外ではない」


「あ、あ……かっ……あぁ……」


 苦しい。息が苦しい。


 ライトの明滅が激しさを増す。


「怖いよな。私も、怖かったよ。あれはもはや私達の理解の外側にいる存在だ。台風や地震を止めることができないのと同じ……まさしく異形の神だよ。あんなものを呼び起こした異色香澄は本当にイカれている」


「……ひっ、……あぐっ……ぁ」


 透は自分の胸を掻きむしり、汗という汗を流しながら前のめりに倒れかけた。胃の中から迫り上がってきたものをなんの抵抗もなく吐き出してしまう。酸味の強い血の味が、舌を不愉快なほどに刺激する。


 こわい。


 こわいこわいこわいこわい。


 受け入れたくなんかない。あんなもの、あれが香澄との歪んだ行為の果てに生まれた自分の子供であることなんか。あれが、数え切れないほどの人を殺していることなんか。あれが、あれが、あれが――あれが、透の最愛の人の命を奪ったことなんか。


 桜南がもう、この世にいないことなんか。


 受け入れられるわけがなかった。


 ライトが消えた。


「嫌だ」


「透くん」


「嫌だいやだいやだ。俺は、まだ……お前との約束を果たせてないんだぞ」


「そうだね……」


「なんで居なくなるんだよ。なんで、なんでなんだ。これも罰なのか? 俺が人を殺したから! だからお前は死んでしまったのか。俺の前から消えてしまうのか? いやだ……いやだよ……」


「ごめんね」


「桜南……いかないでくれ。頼むから、俺とずっと一緒に居てくれよ。もう、正義のヒーローになんかならなくていいから。お前と居られたら俺は……それで……」


 ――幸せなんだよ。


 嗚咽をこぼしながら、透はそう口にした。


 涙で滲んだ視界の端で、桜南が拳を握っているのが見えた。拳が小刻みに揺れている。


 ライトが再び明滅を始めた。


「透くん、私は……私だって……」


 言葉を飲み込んで、桜南は苦しげな息を吐いた。


「やっと心がなんなのか知ったんだ。十数年、組織から奪われ続けていたものがどれだけ大きかったのか。その実感があるからこそ苦しくて嬉しかった。これからだったんだ。これから……いろんな感情を体験して噛み締めて、ゆっくりと味わっていきたかった。そうしたかった」


 桜南の声音が、リズムを乱した笛の音のように揺れていく。思いが乱れ、心が震え、魂がさざめく。思い半ばで散った無念が涙となって頬を伝った。


「君と四季が見たかった。まだ春と夏しか知らない。秋と冬に浮かぶ情念を知りたかった。君ともっとゲームがしたかった。まだまだやってないゲームがたくさんあるじゃないか。君と二人で眠りたかった。君の胸の中なら、きっと悪夢を見ずにぐっすり眠れたと思うから。君の温もりをもっと感じていたかった。もっと……ずっと……」


 君と――。


 桜南は言葉をつまらせ、すすり泣いた。


 もう、その想いは叶わない。叶わないとわかってはいても、きっと口に出さずにはいられなかったのだろう。震える唇が逡巡を噛み締め、桜南は儚い願いを言葉に変えた。


「幸せになりたかった。君とずっと一緒にいられたら、それだけでよかった。なんでそんなことさえ許されないの?」


 ――私達が罪人だから?


 ――人を殺したから?


 ――だから、幸せになってはいけないの?


 桜南から畳みかけられた嘆きに等しい問いは、かつて透が突きつけた皮肉に満ちた正義の回答。


 どうして人を殺してはいけないのか?


 それは、幸せになれないから。


 きっと桜南は、透が示した答えにずっと苦しんできたのだ。落ちたオセロを拾う悲しげな桜南の姿が脳裏を過った。まるで罪を数えるかのように、ゆっくりと一枚一枚拾っている。


 桜南はずっと前から知っていた。命というもっとも大切なものを奪うことの重さを。感情を取り戻したときから考え続けて、悩んできたのだろう。


 その葛藤を、その苦悩を、透は知らなかった。


 桜南を傷つけていたのだ。


「……オセロをしよう」


 桜南が言った。


「これが、最後だから」






 桜南の白い指先が、黒石を置いた。


 黒石の間に挟まれた白石がひっくり返される。寄せては返す波のように盤面の様相が変わる。白石の群れは引き裂かれた。まるで正しさを拒絶しているかのように。


 光は厳かに二人を照らす。


 静謐な時間だった。石を置く小さな音だけが微かにただよう。二人は何も言わず、机を挟んでただゲームに向かいあっていた。優しい時間。寂しい時間。枯れかけた花を哀れむような時間。水族館の大水槽にいるイワシの群れを眺めるようなひととき。コーヒーの香りがする。コーヒーなんて淹れていないのに。


 石を置く。ただ、ゆっくりと白紙に言葉を紡ぐように。空白地点は死んでゆく。石を置くたびに、なくなってゆく。当たり前のことだ。当たり前のこと。でも、それがどうしようもなく寂しい。


 きっとこのゲームが終わる頃に、桜南との最後の時間も終わるのだろう。


「なあ、透くん」


 盤面から視線を上げるのが怖い。動かした頭は異様に重たかった。


「なんだよ?」


「楽しいね」


「……そうだな」


 一瞬言葉に詰まった。桜南の微笑みは、濡れた花のように侘しいと思えたから。


「楽しいさ。楽しい。君とやるゲームはどんなものでも楽しいよ」


「……」


「昔はね、何も感じなかった。翡翠……私の父親が将棋やオセロを教えてくれたんだけどね、そのときは何が楽しいのかさえ理解できなかったんだ。それが、今ではこんなにもワクワクする。ただ白黒ひっくり返しているだけなのに可笑しいね」


 桜南が黒石をさした。ひっくり返される白石。だんだん白石の数が減っている。黒に支配されそうになる。死んでいるのは正しさか。それとも希望なのか。


 桜南との時間は、なくなっていく。


「……桜南」


 石を持つ指先が震えていた。


 嫌だ。このゲームを終わらせたくない。


「続けて」


 桜南が、穏やかな声で促してきた。


「続けなくちゃ駄目だよ。それは君が一番よくわかっているだろう?」


「……わかんねえよ」


「嘘はいけないよ。君は進まなきゃ。もう、私はいないのだから」


 透は唇を噛み締めて、押し黙った。


 本当は叫びたいんだ。いかないでくれ。一人にしないでくれ。さっきみたいに無様に泣き叫んで、桜南がいってしまうのを引き止めたい。でも、無理なんだ。無理なんだよ。もう、どうしようもない。桜南は泡となって消えたのだから。


 透に出来ることは一つだけ。


 桜南の死を、無駄にしないことだ。この悲劇を終わらせて、一人でも多くを救わなければならない。香澄が産み落とした透の過ちの結晶を粉々に打ち砕かなければならない。


 震える指先が重たく動いた。


 透は、石を置いた。


「そうだよな。君は、そういう男だ」


 桜南が微笑んだ。


「けっきょくは前に進む。たとえ、どんな苦しみにとらわれていたとしても。君は、ヒーローなんだよ」


「……」

 

 ――俺たちにとって、お前は紛れもないヒーローなんだよ。誰がなんと言おうと、お前は俺たちを救ったヒーローなんだ!


 充の言葉を、星の輝きとともに思い出す。


 罪を重ね、壊れた理想に執着し続け、人を傷つけてきた自分の愚かさを知りながら、それでもなお幸せになってほしいと願ってくれた親友。彼が逃げるなと言ってくれたから。幸せを願う人のために戦えと言ってくれたから。


 もう逃げないと誓ったから。


 だから、前に進まなければならない。


「……戦わなきゃ」


「うん」


「俺は、お前達の想いを背負って生きていかなければならない。お前もそれを望んでくれているはずだ」


「うん」


「だから、俺はやらなきゃならない。やらなきゃならないんだ」


「……ごめんね」


 桜南がくしゃくしゃに顔を歪めて、涙を落とした。こぼれ落ちる雫は、彼女の願いと魂の欠片だ。もう叶わない夢への悔恨と、愛するものの将来を案じる尊い想い。


 愛とはなんなのか、はじめて理解できた。


「残酷なことばかり言ってしまう私を許してほしい。それでも言わなきゃならない。君は、進むんだ」


「……桜南」


「君には、絶望の力が引き継がれる。あれは、受け継がれる意志そのものだ。絶望が、さらなる絶望を呼ぶように。……きっとこうなる定めだったんだ。私はきっと橋渡しにすぎなかったんだよ」


 桜南は、言葉を切って続けた。


「真に絶望し尽くしたものが、あの権能の本当の力を使うことができる。君は、最愛を失って最強になるんだ。絶望を知って、それでもなお前に進まなきゃならない」


 その先に、きっと光はあるから。


 桜南の身体から虹色の泡が浮かぶ。桜南が消えようとしている。ゲームはいつの間にか終わっていた。盤面は白で埋め尽くされていた。正しさの証明はとっくに終わっていた。桜南との時間は終わっていたのだ。


 透は立ち上がり、桜南のもとに駆け寄ると抱き寄せた。


「お前と出会えてよかった」


「……私もだよ」


 桜南は泣きじゃくりながら叫んだ。


「私もだよ! 大好きだ! 透くんのことがずっとずっと大好きだ! 君と出会えたからこそ、私はこころの尊さを知ることができたんだ! 私に……ずっと私に光を与えてくれてありがとう」


「愛している。お前のことを、俺はずっと!」


「……うん……うん!」


 泡が広がる。透を包み込み、桜南の輪郭を曖昧にしていく。泣き叫びながら、透は何度も何度も愛を語った。これまで伝えられなかった深い想いをこの一瞬に託すように。


 そして、唇を重ねた。


 甘く、切ない、しょっぱくて、苦しくて、優しくて、温かく、悲しい。そんな口吻。まるで焦げたクッキーのような味がした。出来損ないの、しかし真心がこもった優しい不完全さ。でも、なによりも心を揺さぶられる。


 そこには、愛しかなかったから。


 唇が離れた。


 その名残惜しさは、悲しみに打ち消される。


 桜南は笑って、最後に言った。


「あのときのクッキー、美味しかったよ」


  


 


 

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