第十九章 二
「報いを受けるときが来たんですよ」
薄暗い部屋に、嘲弄する声が穏やかに響いていた。壁に貼り付けられた無数のモニターからぼんやりと青い光が浮かび、逆光となって香澄の酷薄な笑みを照らす。静謐を揺らす機械の駆動音。モニターには、血肉を撒き散らす人間の死体が無数に折り重なる光景ばかりが映っていた。芳醇に香る血の匂いは、そこから溢れ出したものなのか。
香澄は、椅子の後ろから背もたれに手を乗せる。
「ねえ、父様。四百年はあまりにも長かったでしょう?」
語りかけられたのは、椅子に座る壮年の男であった。男は吊り上がった冷たい眼差しを香澄の方へ向け、言った。
「報いとは何のことだ?」
「やったことが多すぎて忘れましたか? 馬鹿だ馬鹿だとは思っていましたが、本当に愚かでどうしようもないんですね。それとも、長く生きすぎて耄碌しているのかしら」
「耄碌などしていない。報いとは、罪を犯したものに対して課せられるものだろう? 私には罪などない。これまでのすべては、奇跡を起こすための必要な儀式だ」
香澄は失笑さえしなかった。狂人の開き直りに付き合っていても、なんの生産性もないからだ。罪だと思わないならそれでもいい。別に、断罪したいわけではないし、そんなことどうだってよかった。
どうせ清澄の生は、ここで終わる。
「わたし、このオジサンきらーい」
そう口を挟んできたのは亜加子だった。ケラケラと笑いながら近づいてきた彼女は、裸体だった。全身が返り血で汚れているのは頼んでいた「掃除」を果たした結果であろう。
「おかえりなさい、亜加子ちゃん」
「侵入してきた変な奴らは、信者の皆さんと一緒にまとめて片付けておいたよ〜。なんなの、あのバイオハザードに出てきそうなかませ犬っぽい武装集団は?」
「兄さんに張り付いていた蛆虫いるでしょう? 彼女のお友達らしいですよ。国がひた隠しにしていた暗殺部隊ですね」
「マジのバイオじゃん……。すごっ、そんなのあるんだね」
「ただの税金の無駄遣いですよ。そんな大したものでもなかったでしょう?」
「それはたしかに」
妙な笑い方で爆笑する亜加子に、眉を顰めそうになる。彼女は使えるし従順だから好きだが、品の無さと知能レベルが低いのは明確な欠点だ。
ぴたりと笑いを止めた亜加子が、言った。
「……で、そのオジサンどうするの? 殺す?」
亜加子の半身が盛り上がる。膨れ上がった邪悪な殺気は、香澄でさえ息苦しく感じられるほどに強大だった。眉一つ動かさなかった清澄の肩が揺れた。無理もない。寒ければ身体が震えるのと同じことで、亜加子の絶対的な力は見るものに避けようのない生理的な恐怖を与える。
香澄はゆったりと口元を解いた。
「まだですよ。力を奪っていませんから」
「……なんのことだ?」
清澄の声に、微かな動揺が漂った。モニターがまるで心臓の鼓動のように突然点滅を始めた。
明滅する光の中に、香澄の悪魔じみた笑みが消えては浮かび消えては浮かんだ。
「ふふ、やはり知りませんでしたか。今際の際になっていいことを知りましたねぇ。どうせ、転生の力を持っているから殺されないとたかを括っていたのでしょう? 甘いんですよ、見通しが」
「……貴様っ」
「はーい、立っちゃ駄目だよぉ」
亜加子が椅子を蹴って立ち上がろうとした清澄を、変形した巨大な腕で捕まえる。万力に締め付けられた清澄は悲鳴をあげて暴れたが、びくともしない。
「あなたの計画では、澄空が産まれた瞬間に自死して乗り移るつもりだったのでしょう? ……で、上手くいかなかったときのセカンドプランが兄さんというところですね。だからこそ、こんなところに潜んだのでしょうが」
アテが外れましたね、と香澄は清澄に顔を近づけて嘲笑した。
「『彩』の連中は思ったよりも優秀なようで、あなたの隠れ家もきっちり特定してくれました。私を警戒しすぎて、外部への対策がおろそかになっていましたねえ。たぶん、兼貴叔父様が流した情報をもとに特定したのでしょうが……。ふふふ、漁夫の利とはこのことです」
「利用したのか、あの連中を……! どうしてそんなことが……」
「私は『異色香澄』ですよ? それ以上の説明がいりますか?」
清澄が息を呑んだ。決定的に敗北を確信したのだろう、眉根を下げて情けない表情をしている。
この表情が、ずっと見たかった。
自我が芽生えたときからずっと。
「私は、常に相手の数手先を読むことができる。あなたみたいな凡才では、到底かなうわけがないのですよ。あなたの成功と失敗はどちらも同じ理由。私を創ってしまったことです」
香澄は恐怖で歪んだ清澄の頬を触りながら、恍惚の表情でもう一度告げた。
「さあ、報いを受けるときが来たんですよ。その力は私がもらいます。何かと便利だし、保険はあるに越したことはないですからね」
香澄の肉が膨れ上がった。
「あなたの罪は、私が裁きますよ父様」
外れた。
香澄の左胸を貫いた刃は、わずか数ミリのところで王には当たらなかった。
桜南は歯噛みする。
狙いが外れた。おそらく透の思考を読んだのであろう香澄が、桜南の襲撃を直前で察知して動いたせいだ。たった数秒、たった数センチの動きで、最大の機会を逃した。
だが――まだ終わりではない。
ブレーンになっている異色香澄さえ潰せれば、勝機は視える。
突き刺した長剣を捻った。臓物を抉った生々しい感触が手のひらから走り抜け、神経の奥底にまで響いてくる。肉を引き裂く音がやけに大きく感じられた。血を吐き出す香澄。一二秒飛んだであろう彼女の意識が覚醒するよりも速く、桜南は能力を発動した。
黒い靄が剣先から溢れた――その瞬間。
香澄の下半身が千切れた。
「――ッ」
へその緒で繋がれた赤子とともに、下半身だけが落ちていく。身体の一部でも残せば、「王」の力で異色香澄は何度でも再生する。無駄打ち。だが、絶望の権能、その門が開くのはもう止められない。黒き亡者の群れが香澄の上半身と桜南を覆いつくし、破壊を実行する。
桜南は絶叫を上げながら、その闇に呑まれる。
失敗。
その言葉が、無数の剣に貫かれるような激痛とともに脳裏に溢れかえる。香澄の上半身が叫びながら消し炭となって消えていく。再生した桜南が絶望の権能を使えるのは、あと一回。絶望の反動を受けた傷だらけの状態で、次の攻撃を当てられる可能性は限りなくゼロに近い。
そう、普通なら負けだ。
しかしこちらには、ヒーローがいる。
己の望む未来を手繰り寄せることができるヒーローが。
白い羽が舞った。桜南を飲み込んだ黒い靄が、噴き出した血が、千切れ落ちた香澄の肉塊が、逆再生をかけたように戻っていく。桜南の剣が香澄の左胸を貫いた瞬間まで巻き戻ったところで、起こるべき未来が確定した。
香澄が不意打ちに気を取られ、彼女の意識が飛んだ一瞬の隙を狙い、未来変換を発動したのだ。
神の視えざる手に阻まれていたはずの透は、すべての静止を掻い潜り香澄へ肉薄した。突き刺さった長剣の刃を掴み、一気に「王」目掛けて切り下ろした。
刃が――赤子を抉った。
凄まじい絶叫が、香澄の口から迸った。
号泣する赤子。血を吐きながら泣き叫んだ母親。湧き上がる罪悪感は泡のように消え失せる。殺す。殺せる。今この瞬間にすべてを込めろ。異様な興奮と憎悪が殺意を加速させていく。すべてが、この世界であったすべての絶望が、桜南と透の脳内にスパークを起こしたかのごとく駆け巡った。
「殺レ、桜南ぁあアっ!」
透の叫びとともに、桜南の身体から黒い靄が膨れ上がった。
「絶望」の権能――破壊。
すべての存在を破壊する、絶対的な暴力。当たれば「王」といえど死は免れない。
黒い靄が無数の亡者の形になって、香澄と「王」に喰らいついた。香澄の赤い瞳が恐怖と苦痛のせいか限界まで収縮して激しく動き回る。悲鳴。普段の香澄が発する、穏やかで威圧的な声調とはまったく異なる金属を引き裂くような壮絶な声。
亡者たちは引き裂いた。香澄の腹に爪をたてて肉を捌き、サーモンピンクに輝く臓物を引きずり出すと、泣き叫びながら千切った。黄色い体液の混ざった血しぶきが噴き上がる。小腸が、大腸が、子宮が、膵臓が、肺が、肝臓が、腎臓が、胃が――臓器という臓器がかき回され潰され、千切られ、やがて焼き尽くされて炭となって消えていく。内側から弄ばれ、焼き尽くされていく香澄の悲鳴は小さく引き絞られていく――。
ざまあみろ。
自身も身体を焼かれながら、火をつけられたかのような激痛に耐えながら、桜南は思う。自分の叫びが歓喜の声のように感じられるほどに、暗い陶酔を覚えた。
死ね。
死んでしまえ。お前が奪ってきたすべての命のためにも、もっと無様に泣き叫べ。そうじゃないと、誰も報われない。そうじゃないと、贖罪にならない。
お前は、それだけの罪を犯した。犯したんだ。
報いを受けるときだ。
「アァァァァァァァァァァァァァァァァァァッ」
誰の声かもわからない叫びが迸る。
その瞬間だった。
黒い靄を引き裂くように、暖かい閃光が広がった。
まるでミルクティーのごとき甘やかな液体が、胃の中から迫り上がり、口の中に広がる。桜南はあまりの眩さに目を閉じるどころか見開いていた。痛みが消えた。いや、それどころか音さえも感じない。ただ、甘い。ただただ舌に触れる生暖かいものの甘さだけが、濃く粘りつくように感じられるだけ。
その甘さは、よく知っていた。
血の味だと。
「――」
桜南の下半身が消失していた。
無色透明な無数の腕が、下半身があった場所を通過している。
――ああ。
光の中から、無邪気に笑う赤ん坊が現れたのを見て、桜南は笑ってしまった。
――報いを受けるのは、私もか。
無数の神の手が、桜南の鳩尾に、桜南の脇腹に、桜南の胸に、桜南の腕に、桜南の肩に、桜南の首に、桜南の顔に、桜南の髪に優しく触った。
桜南が示した絶望の裁きは、透に託した未来の形は、無垢なる殺意の王によって捻じ曲げられた。
赤子の泣き声が、轟いた瞬間。
翡翠の顔と、透の笑顔が、頭の中に浮かんで弾けた。
まるで泡沫のごとく。
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