聖母子像

渡邊利道

聖母子像

 まさか押入れから豹が飛び出してくるとは思わなかった。どうしてこんな巨体が中板の上に乗っていられたのか落ちるだろう普通と思いながら豹が襲いかかるのを、腰が砕けて後ろに倒れながらほとんど呆然と見ている私に両前肢が伸びて爪がぎらぎら光り、にゅっと頸が伸びて大きく顎を開けピンクの喉奥からキナくさい息がびゅうびゅう顔の皮膚に眼球の表面に当たって火薬のように爆ぜる目が裏返る。洞窟を渡る風のような唸り声と漆黒の闇のような瞳を見たような気がするが闇雲に視点が狂ってわからない。これはいったいどうしたことか何故こんな目に遭ってしまったのかこれは何かの罰なのか。ナルホド私は彼女の部屋に上がり込んでその不在をいいことに勝手に押入れを開けてみようとした。しかし彼女はただちょっとのあいだ台所へ向かっただけであり、私は床がちょっと固かったので押入れに座布団でもないかと思って襖を開けただけなのだ。たしかにつくづく思い返してみれば、それは多少はうら若い彼女の寝具が収められているだろう押入れの中へのいかがわしい興味がまったくなかったとは言い切れない。しかしそれは思わぬ僥倖たんなる偶然をそこはかとなく期待するようなものであり決して積極的に押入れの中の棚やら行李やらを開けよう探ろうという考えがあったわけではない。そもそもこの部屋に私を誘ったのは彼女のほうで何やら私に会わせたい人がいるとか見せたいものがあるとかそういう曖昧な誘いをもちろん私だってそうそう自分に都合良く解釈したわけではないが、それは多少は色めく気持ちがあったあったともさそれはそれは。謎めいた微笑みが脳裏に浮かぶその表情を見れば誰だって。だから彼女がちょっと待っていてくださいねお茶を淹れてきますと言って席を立ったとたん一人で部屋の中央に座っているのが落ち着かず、窓外の日が暮れて黄昏の赤の前の黄色からオレンジに移っていく空をぼんやり見るともなく見ているうちに私は立ち上がって押入れを開けてしまったのだ。そして押入れから豹が飛び出してきて私は背中から畳に落ちずっしり重たくて柔らかい軀にぺしゃんこに押し潰され、両肩に食い込んでいる爪の下で踠くがまったく身動きが取れずこのまま気が遠くなりそうだというか気を失ってしまったら楽かもしれないと思ったりもしたがしかしシャツが皮膚と肉ごと破れて血がドバドバ流れるのを豹がちょっと嫌がるそぶりで軀を浮かせたからその瞬間に自分でも驚くほどの素早さでいまだッとばかりに俯せになって潰れた下半身を引っこ抜いて逃げる、その脹脛にひょいっとなんでもない軽さで豹が齧りつき、紙ふうせんを握りつぶすように脹脛がぐしゃっと破裂して絶叫のあとに激痛がおっかけてきて掴まったら終わりだと思う。そのとき台所につづく引き戸がガラッと開いて「あらあらなにしてるの」と彼女が目を丸くして小走りで近寄ってき、その瞬間に豹が私の背中にどすんと乗っかってくる背骨がボキボキ折れる音を聞きながら縋りつくと彼女は困ったような顔で「せっかく新しいのを連れてきてあげたのにもうダメにしちゃって、ほんとに」と言い、あっさり私の肩を抱いて胸のあたりからビリビリ破って西日が氾濫する開け放たれたアルミサッシから部屋の外へ放り投げ遠ざかって行く私のことなどふりかえりもせずに彼女は豹をその胸に受け止めるのだ。そんな殺生な! と声をもなくひらひら風に舞い上がり聖母子像のような彼女と豹がどんどん遠ざかっていきもはや声をも届かない地上150メートルのビルの屋上から羊羹のような色の空に向かって飛んでいく。

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