ライ向き畑で捕まえ手
鈴木松尾
ライ向き畑で捕まえ手
本当とウソならウソの方が多く出回ってるのはきみも知ってるだろ? 本当を「本物」ウソは「インチキ」とも言えるし「本能」と「偽善」と言い分けてもいい。呼び方も、多い方がいい。同じ言葉ばかり続けて使うとボクは飽きるし、他人だったなら本当に使い方が合ってるのか疑いたくなる。自分と無能な他人。だけど本当とウソは一人の中でも共有されている。ダブルスタンダード、二重思考、言い方も色々存在するよ。「その話、前はこう言ってましたよ」って言うと「そんな事言ってない」「解釈の仕方が違う」なんて言われる。これは誰にでも起きているよ。蒟蒻問答、なんて話をきみは知っているかい?コミュニケーションはお互いの勝手な解釈で成り立っているなんて、インチキにしか思えなかったよ。
出勤してデスクにビジネスリュックを置くとすぐ、課長からミーティングの予定を告げられた。課長が十一時に外出から戻るから、時刻を見計らって近くのカフェで待つ事になった。
退職の事だろう、何て言われるのか。とずっと考えていたよ。大体予想はついていて、そのときはこんな感じで考えた。「この会社で何を成すべきか、仕事とは何か、人生とは何か、を在職中に答えを出せたのか」そんなところだろうと思っていたんだよ。ボクはね、生きている事に意味がある訳ないし、肉体と意識を持てた事に幸運を感じて、それでこの件は終わりでいいじゃない、と思っているんだ。本当にそう思ってる。けどきみも課長もきっと違うだろうな。課長はそういう、幸運に見舞われて「生まれた」とか「今、健康です」は前提であって、人生とは自己実現をどう果たすかだ! みたいな啓発めいた話を展開してくるだろう。舌打ちがきっと出るな。出るよ。
ただそういうときに課長があのハンカチを出したら話は変わる。あのハンカチは本物だよ。ボクにとってはポインターなんだ。連想を指し示すんだよ。インチキ染みた啓発を受けている最中でも、あのハンカチからどんな匂いがするのか、広げて愛でてみるとどんなか、鼻から遠ざけて見るとどう浸れるか。何て言ったらいいのか分からない。きみもボクが何を言いたいのか分からないだろう。ボクには二重思考というか同時作業というか、リアルタイムで現実逃避するスキルがある。これは人工知能には出来ない技だと思う。正確には、辿り着けない心境、知性としてはくだらない情報網、幾何学模様で区別された心の配列、だな。ボクには自分足らしめる領域が身体のどこかにあって、多分脳内だろうけど、それは他人とも人工知能とも区別する大切な領域なんだ。だから表情と出した言葉は可視化できても、ボクが本当にそう思っているとは限らない。ボクの中で本当とウソを選んでいるんだ。そしてその選択の才能は身に付けようと思えば難しくない。
だが、その創意工夫は決して金を稼ぐにつながるとは言い切れない。マネタイズとアイデンティティは言葉で可視化されている通り、別なんだ。二つを同じにする他人が隣りに居ても「好きにしたらいい」とボクは言うだろう。きみとボクで違っていたっていい。きみとボクは同僚だったけど、ボクらは他人同士、赤の他人、程知らない訳ではないから、言うならば、内なる他人か。同じ赤を持つ他人ではないが、きみとボクでは暖色か寒色かぐらい違う気がしたよ。色の違いに優劣なんてないけど、きみが暖かい方を選びたいなら好きにしたらいいさ。ただボクがさっきから気になるのは「見える化」だ。そう言う人をボクは赤くマーカーしたい。嫌いなんだ。何かのツッコミか? と思ってしまうんだ。
課長が徳島で作った藍染めのハンカチを見せてくれた事を覚えている。大正から阿波正藍染法を続けている工房の四代目に当たる人から教わって作った、と言っていた。海外ではJapan Blueと呼ばれる徳島の藍。その伝統芸能を現地の伝承者から教わりながら作ったのがどんなにうれしかったか、それがこっちにも伝わった。だって本当に喜んでいて、課長が仕事中こっそり匂いを嗅いでいるのを何度か目撃した。ボクが課長自身を可視化したって訳だ。
先に待っていようとしていたら課長の方が先にテーブルに着いていて、会社のスマホで何かをしていた。メールだと思う。暇を持て余していた感じではないから来たばかりかも知れないが、寸暇を惜しんでボクが来る前に部長の野郎に報告のメールでも打っているのだろう。
急いでテーブルに着こうと一歩を踏もうとしてすぐに思ったよ。来るんじゃなかったって。まあ来ない選択肢は無かったが。
なんでかって言うと、課長の香水の匂いがしたんたんだ。そしてこの先を通ったであろう、テーブルまで続く順路にその香が漂っている予測が立った。ボクはマスクはしていた。匂いの良不良の問題でなく、ボクは異性について過敏に反応してしまうんだ。身体で反応してしまったら、それ以外に集中ができない。滅入るんだよ。このミーティングで何を話しても序盤は話が頭に入ってこないだろうと思ったよ。メールなら正気に戻ってから繰り返し読みできるが、会話は別だ。通り過ぎた音声の言葉は取り戻せない。不可逆だ。課長が異性愛者かどうかは知らないが、ほとんど毎日短いスカートでボクは毎日、太ももに目が行ってしまうし、胸がやや開いたシャツを着ているから谷間をつい確認してしまう。朝一の仕事は大概、手に着いてない。女、に反応してしまう自分の本能。本能ではあるが本意なのかどうか。それが本位だとしたらこれは翻意する第一歩でもある。つまり今後のボクを考える上で大切な歩みだ。急ぎ足の二歩目を踏んだ当たりではそう考えた。女が好きなのか、課長が好きなのか、課長が好きというか、ワンチャン、ワンナイト狙いなのか、それはボクの男が勝手に疼いているからなのか、フェミに下心を可視化されたらどうなる境遇なのか、ミーティングの予定を真ん中にして色んな事が螺旋状になっていてこの1日は立体的に長かった。きみは1日をどんな感じに過ごしているんだい?転職先に美人は居る?そういう前提というか期待というかイマジネーションがポリコレの問題になる?
課長に「お疲れ様です」と声を掛けると「ブラックで良かったよね」とSのコーヒーカップが差し出された。ああブラックね、それは二つ意味するよねって思うだけにした。「メール、良いんですか?」と言うと「終わった。二つの意味で」と返された。ひとつはメールを送り終えた事だろう。もうひとつはそのメールの内容の事だろう。
納品日を過ぎた事のお詫びで課長は外出していた。そして日程の再調整のお願いもその場でしたんだろう。担当を変えて次からは締め切りを守る、5%の値引きをする、という条件を持ち出したんだろうな。ペナルティーと言うべきか? ボクが提出できなかった事というよりボクが途中で提出できないとメールで送った事が先方でクレームとなったらしい。すべて推測。たださ、途中で建物の仕様を大幅に変えるなら終わる訳ないよ。正直に話したら通じると思ってたのに。
「物事が完了するって事は達成感につながっていいんじゃないですか?私にはまだ未納があと四件ありますよ」と言うと「その内の一件はもうやらなくていいよ」と返って来たので「これで私も達成感に浸れますね」と言い掛けて止めた。
美人の憂い顔は一見の価値がある。最近気付いた。笑顔だけではないと思う。「まぁ座ってよ」と差し出されたのは課長に対して直角に位置したイスだった。好都合だなと思って座ると、課長はボクに対して向き合う位置にイスを引きずった。これでその憂い顔は眺められなくなったし、チッ、イスが固い。石に座ってるようだ。
「他の三件は終わりそうなの?」
「さっき終わりました。今日は確認だけだったので、昨日の内に主任の机に置いておきました」
それから課長は真面目な顔になった。こうなることは最初から分かってたんだ。
「で、きみは退職することになったの?」この辺りから面倒になってくるな。
「そうなると思います」
どの言葉尻から口火を切られるか。揚げ足を取ってくるか。とりあえず両手をカフェテーブルの上に出した。こちらは堂々としてやるって気になったんだ。それでもこっちの話をしても言い訳ぐらいにしか聞いてないし、大体の場合、話を上から被せたり、根拠は? とか言ってくる。主観の問題というか、ボクがどう思ったかに根拠なんてないけど、それは課長であってもそうであるはずなのに、この会社の人達は全員がそうだ。根拠を請求してきて、渋々出しても、それがみんなと同じか、想定の範囲内のものでなければ、認められない。存在感を認められないっていう事だよ。無能だ。口に出して言わない、というかメンタル的に言えない。論破は無理。彼らとは同じ色の他人にならないとやりづらい。同じ色ならもう他人でもない気がしてきたよ。
「社長はなんて言ったの?きみに色々と話していたと思うけど」
「はい、話しました。二時間ぐらい社長室に居たと思います」
「なんて言ってた?」
「引き止めたり、怒られたりはしませんでしたよ。えーっと、なんか、人生は1+1をなんて答えるかによって変わるっていうような事を言ってました」
「きみ、なんて答えたの」
「2…」
に決まってますと言い掛けて
「…です。間違えではないと思うですが」
と言った。
「それは違うよ」
「そうみたいですね。けど2ですよね?」
「そうだけど、違うの」
「答えが二つあるんですか?」
「いや、一個なんだけど、違うんだって」
「課長、答え知ってるんですか?」
「3か4」
「答え、二つあるんですか?」
「いやそうじゃなくて一個なんだけど、違うの!」
見事に天丼がハマった。マスクの中で左が少し上がった。課長もそうあってほしいけどどうだろう?
「社長から納品日を過ぎたのが四件もあった理由を聞かれました」
「で?」
「社長が言うには、なんで締め切り間近になる前に相談しなかったのか聞かれて、手分けをしたら終えられたかも、とは考えなかったか?と聞かれました」
「で、きみはなんて言ったの?」
「締め切りにみんなで守れなかったら悪い、と思いましたって言いました」
正確には相談しようとした。手分けの準備をしていたら、更に仕様変更の長文メールが先方から送られて来て、しかも先方が確定を迷っている項目があって、確定しないと作業も進まないから、電話でヒアリングしていたら確定までに一時間近く掛かって、その一時間が午前中ならまだ良かった。
しかし現実には定時後の残業中で、課内で共有するとしても明日になり、その手分けの準備を今からして、明日朝一の共有、それに対するみんなからの質疑とボクの応答、を考えると、ボクの作業分も含め締め切りには一日、間に合わない、と考えて先方にその旨、話した。そしたら凄まれて「いいからやれよ」と言われた。
そして課長にはその顛末について、先方からの「いいからやれよ」の電話ガチャ切りの直後に、個人的な感情は抑えめで説明したけど、課長は「乗り越えられる人にしか試練はやって来ないよ」と真顔で言うから、ボクは「『いいからやれよ』と同じじゃないか! 」と思って、割りとすぐに「それならもう私は辞めますよ?」とか「二つの意味で、計算とか打算で言っている訳ではないですよ?」と真顔返しで言ったけどボクはイケメンではないから響いてないんだな。
しかもこの件、課長はきっと忘れている。
神様の野郎が「人に試練を与える」という逸話をとりあえず本当だとしよう。でもなんで二つも同時に与える?神様の野郎はボクの事をアンドロイドだと勘違いしてるんじゃないだろうか?アンドロイド用の試練を人間のボクに与えてしまっている疑いがある。こりゃインチキだよ。いくら神様の野郎であっても。確かに人工知能が搭載されていれば二つの作業なんてすぐ終わるだろう。なんたってAIの野郎は同時に処理するんだから。だって奴らはマルチタスクだろう? 人間の野郎はシングルでできてるんだ。
だから課長が万年筆を探してデスクに前かがみになったら、斜め前に座るボクはチラチラ見るさ。谷間の柔らかいところを確かめたくなるんだよ、本能的に。男が疼くんだ。その間、どんなに切羽詰まっていてもマウスは動かない。手はマウスの上で見かけ上指が上下動して、クリック音として作図作業している体だが、実は仕事は進んでない。
その点、AIは視線誘導されないんだろう? 素速い処理で終えるだろう? 見かけ上のマルチタスクで。人間であるボクはどんな胸であっても誰の胸であっても胸のあったかい温度を視認完了してから、それから作図をするんだ。盗み見と偽装作業。インチキマルチタスク。視線を悟られずにマウスで線を引く。
「社長はきみ次第で1+1は3になるって言いました。私はそこでも『いや、社長、それはどういう状況でも2だと思いますよ』と言って、沈黙が流れました」
「あぁあ、そうだろうね」
「『ひとりひとりの力は限られているかも知れないけど、力を合わせれば二人以上の力が出せる、っていうことだよ』と諭すようで、けど強めの口調で一方的に社長は言ってきた気がします。それから少しゆっくりに『それで改めて聞くけど1+1はどうなると思う?』って聞かれました」
「まぁきみが言いそうなのは分かるけど、なんて言ったの」
「『え、2です』って答えましたよ。『主観の問題ではなく足し算は客観的です』とも言いました」
「それは二時間コースだわ。よく社長、怒らなかったね」
「ビッグブラザーが見てたんじゃないですか?」
「何それ?」
「何でもないっす」
本当は「1+1が3になるんなら、締め切り日だって、その前日の24日に1日を足したら25日当日じゃなくて、26日になって1日延ばしてもらえたって事になりませんかね?」と返した辺りから社長の眉間は川の字になっていて、真ん中の皺が一旦途切れていて、その非対称な形が気になって仕方がなくボクは凝視せずに入られず、それが会話の経過と共に、こちらではその眉間は社長の固有さ、愛される個性と感じていたが、社長にはボクの凝視をボク固有の所作とは感じていなく、それ故、固有さへの理由を聞かれるはずもなく、社長本位に数年掛けて作り上げた体制、への反抗、しかも数年しか生きていない、社会人経験も積んでいない、会社組織の立場上での弱者が強者に何を言う、と捉えている件については社長とボクは共有できていたと思う。
ただ、その件を「怒っている」と表現すべきか、迷った。何でかというと社長の野郎が「怒っている」とするならボクは「怒られている」が対になり、課長にボクが「社長は怒っていました」と言うと「ボクは怒られていました」と言っているのと同じで、課長に言うのだったら後者を選びたいが、その理由は豊富な自意識にしかなく、社長の野郎に関心が無いだけであるし、正確にはボクは怒られているとは感じていないから、本当は「お互いにその会話では違和感が有りました」と言おうとして、その考え自体に違和感を覚え、そもそもボクは社長の主観まで見抜けるスキルはないし、大体最近、「違和感がある」は使われ過ぎの一文であり、課長にはネットニュースのイメージが一瞬でも過ぎるかも知れないと思うと、それはダメだな…なんでかと言うと、ネットニュースの記者が使い過ぎたせいで違和感の言葉としての存在感というか見た目のインパクトに以前程のキレ、特別な感じ、言葉を丹念に選んで発現させている感、優れた言語感覚の披露の側面がなく、むしろ違和感と発言すると、若さ以上、見た目の幼さ以上の、バカのひとつ覚えを発現させ、それは聞く者の疲労感をため息で可視化するからダメで、課長に伝えるとしたら、和むとは異なる感じ、であるから「私には異和感があった会話でした」としようとしたが、「異」の漢字の説明を付け加えないとこの感じの説明ができなくって、敢えて言わない場合、課長は「違和感」の方を捉えるだろうと予想して、自意識が常時発現しているボクはその課長の予想に違和感があり、かといって「社長が怒った」を言う気は起きないので、省いた。そういう長考の末に言うの止めたんだよ。ボクは自分の行為を選んでいるんだ。論理と感情の果てまで行き着いてから一息ついてしばらく様子見して、ある日吐息を合図に実行するんだ。いっときの感情だけで行動するなんてないし、会社のみんなとか一般人と同調しようという決まりを持っていないんだ。
それでも女の冷たい視線には耐えられない。課長の説教がいつ始まるか、緊張していたんだ。
「社長が1+1は3だって言ったら口を合わせるの。間違っていると思っても」
「無理です。だって私は他人ですから」
「何?他人って?」
入社した時、部長の野郎が「ウチは社員を家族のように思っている」と言っていて、それでボクは「私はみなさんを他人だと思っています」と返そうして止めた。他人として尊重している、という意味で言おうとしたが、親近感を伝える機能はなさそうな一文でもある。言っても理解はされないだろうし、誰が何をどう思うかは同じ会社であっても、ひとつ屋根の下であっても、共有しなくていいはずだ。
部長の野郎は言い終わりぐらいからボクの顔を見ていて、同意を求めているようだった。自分が社会人として素晴らしいひと言、会社の従業員を大事にしているという意思を示した、それに対して承認しろ、と要求しているんだ。部長の野郎はこの一件以降ずっとこの調子だったよ。
ボクは「そうなんですかー」とバカっぽい相づちは打ったが、目は合わせなかった。
目を合わせたら、もう負けさ。何に負けるのか、きみならなんとなく分かるだろう? いや、いずれ負けることになるんだけど、言い終わり直後に目を合わせなければ、すぐに負けたことにならないだろ?
気になるのは「ウチ」なんだ。部長の野郎は「ウチの会社は」と言おうとして「の会社」を省いた気がする。ウチとは誰を指す?社員全員ってことはない。そしたら初日とはいえボクもウチに入るはずだよね。初日故にボクがどう思っているかなんて部長の野郎に分かるはずがない。新入社員以外の全員をウチとしているなら、きみもそう思っているか聞いておけば良かった。
ただきみがそう思っているなら退職代行で会社を辞めるなんてしないな。部長の野郎は他人と考え方がズレる事がない、を当たり前だとしている節があるな、とこの初日から思っていた。ひとつ屋根の下に居るなら、みんな同じ人間、若しくは想定の範囲内の人間であるはず、と信じている。人類皆バカ兄弟に思えてこないか?
とはいえ、他人が信じている事に不躾に否定するつもりはない。けど部長の野郎から出される指示は職務上のもの以外であっても平気で出されるだろうし、部長自身は自分の指示が何であれ部下は聞いて当たり前だと思っていると推測できるんだよ。
だから理性的な断り文例集を初出勤後、自宅で作って、次の日から通勤電車内で暗唱していつでも口に出せるように心の防壁を築いていたんだ。
だってこっちは売上を立てるためだけに集まっているのが会社だと思ってるのに、家族のように振る舞えって言うなら、朝の九時に行かなくていいでしょう?「家族」ではなく「家族のように」であるとしても朝九時絶対出勤は変わらない。九時十分頃に出勤しても普通に「おはようございます」「おはよう」って言える関係性を維持してくれるなら、ボクも理解と共有まで行き着くけど、そうではないのは明白だった。
人間関係としての「会社」と「家族」を敢えて和えて、二つの名前の狭間で本当とウソを曖昧に塗っているのは部長の野郎だったり、社長の野郎だったり、ときには課長とか他の同僚だったりする訳で、彼らはインチキ塗装工なんだ。ボクの部屋は彼らとひとつ屋根の下に有っても、彼らに内装を塗られまいとして室内の壁をすべてカーテンウォールにリフォームしたんだ。
この例えで言うと、きみは引っ越しという方法を採った。ボクも結局引っ越してるからリフォーム代だけムダになったな。
「言葉の通りの意味ですが、先に言っておきますが、言い過ぎてないです。本心です」
「きみのそう言うところ、会社では致命的よ。当事者意識が無いというか、もっと自分の事のように仕事とか会社の事を考えてよ。『他人』なんて言い過ぎよ」
本当にそう言いやがったんだよ。先に言っといたのにいつもそうなんだ。こっちが話していても聞いてないみたいだし、話している途中に課長の話を被せてくるし、家族ってそういうものなのか?ボクには分からないんだよ。
「きみは全然分かってない。全体を見通そうとしないから分からないのよ」
「分かってますよ、課長。チッ。先の見通しを立てるのが下手だってのは分かっているんです。課長がそう言うのは分かります。当然ですよ」
「全然なんにもだからな」と課長はまたそう言った。これをやられるとボクは腹が立つんだな。こっちがそうだと認めているのに、その上に更に重ねてこんなふうに二度も言うんだからな。おまけに課長は三度言ったんだ。
「全然なんにも、だよ。締め切りに間に合うように作業速度の見立て、今まで確認した事あるの?あやしいもんだよ。どうなの?」
「一つの案件について二、三度していますよ」
「じゃあなんで遅れるのよ。手遅れになる前になんで相談しないのよ」
黙っておくことにしてたんだ。さっき言ったし。本音を言えば課長は聞かないか、聞いたとしたら傷つくだろうと思ったんだよ。そのときに、話を変えるためもあって退職願いを出したんだ。社長は机を叩いて出て行ってしまったから渡せなかったし、一応、提出の経路としては課長からの方がいいと思ったんだ。
課長は封筒を開いて、読んでいた。その間で脚を組み換えた。短いスカートから出てる太ももは既に知ってるけど、それが組み換えて固いイスに着地する反動でもも裏の柔らかいところが下から上へと微小の波が立つ。と同時に重力で固いイスの方へと沈み込む太もも表面のなだらかな畝り。もうこればかりは見逃してもらわないと何かが終わらないんだ。そして終わって欲しくないというか、気付かれる気配を感じるまで見続けてしまうんだ。仕方ないよね。ボクは男が疼いて渦巻いているんだから。
「この事、施設の担当の方はご存知なの?」
「はい、言っておきました」
「これ、検索して書いたの?」
「はい。多少、付け加えましたけど」
「ちょっと小声で読み上げていい?」
「いえ、結構です」
それでも構わず課長は読みやがった。上司っていうのは部下に対してこうしようと思ったら、もう止められるもんじゃないね。何言っても聞いてないんだから。
「退職願。私儀。この度、一身上の都合により二〇二一年十月三十一日を以って退職致したく、ここにお願い申し上げます。悪しからず。二〇二一年八月三十一日 設計部 鈴木 松尾」
聞いているより仕方なかった。課長は非難の目をしている。ボクが苦手なアレだ。朝のゴミ置き場で、カラスのくちばしに突かれて破れた、散らかされた生ゴミを見るかのような、視線。きみが言いたい事は分かる。あの一文だろ?入れたかったんだよ。ボクが会社を抜けたら滞る作図が増えて取引先のカスみたいな担当者からカス扱いされている言葉で嫌みを言われるのが目に見えてる。カスがするハラスメントでカスハラなのかと本気で思ったぐらいなんだ。
そんな状況が多発するのが分かった上で辞めるんだから、同僚にはお詫びの気持ち、社長と部長の野郎と課長にはその一文による一方通行を思わせる響き、を伝えたかったんだ。本来の意味は謙虚な意味合いらしいよ。
けどボクがそんな文が入った手紙を受け取ったら二度見するだろうね。
「会社には仮にこれで良しとしてあげても、施設、えーっと児童養護施設か、にコピーを送る事になるかも知れないけど、このままで本当にいいのね?」
貯金と住所は確保できたから、今さらあそこに報告が入っても関係ない。
「ちなみに前の会社はなんで辞めたの?」
「人手不足で作業できない案件を、外注に出していいって事になって、業者の見積もりを待っていたら、同じ案件で下請けの依頼が来たんです」
「どういう事?」
「知らない業者でした。少なくとも、二社が間に入って、発注した作業が手元に戻ってきたんです」
「本当に?そういう事ってあるんだ」
「しかも、その会社、業者に見積もり出したんですよ」
「えー!」
「会社全体が忙しくて、誰も案件の整理ができなくて、とりあえず売上が出ればいい、みたいな雰囲気がずっと続いてました。自分達が外注したのも忘れて、ボクは何回も言ったのに、主任は聞いた事を忘れてしまっていて、課長と主任の検印は盲判でした。それぐらい仕事自体を取る事ばかりが優先されていて、リリースする物の質はどうでもいいみたいな会社でした。もちろん、売上は有っても利益が少ないから一年居ても給料は上がるはずがないのは、末端の社員でも分かりました」
「そういう事ね」
「で、ウチの会社も辞めるのね」
「そうです」
「理由は?」
「話すと長くなりますし、要約すると一身上の都合です」
「そうじゃなくてさ」
言っても良かったんだけどさ、どうせ聞かないと思ってたから面倒だったんだ。きみには分かっていると思うけど、この会社、インチキなんだ。その前の会社もそうだけど。ボクの話は聞かないし、言ってる事は矛盾だし、問題はその矛盾を盲信しろとか、それが社会だとか、それが常識だとか、そう言って可視化されない忖度を説明も基準も無しに思い計ったりするって、何だと思う? ボクの言葉が見えるかい? 見える化! って思って欲しかっただけさ。
きみが退職代行を使って辞めたのは、ボクにとって英雄だったよ。あんなに一方的に辞めるなんてボクにはできなかった。一方的に、忖度しろと彼らは強要するくせに、きみが一方的に辞めたときは文句ばかりだったよ。彼らが暴言をすればする程、きみの冒険はボクには武勇だったし美談になった。そしてボクが感じていた彼らの圧力は矮小し続けていった。今になってはボクが彼らを大きく見誤っていたんだと思うし、ボクの思い込みというか気持ちひとつだった。
だから退職を決行できたんだ、ボクは。もう、分かるだろ? ボクは彼らが許せなかったんだ。そしてそういう気持ちをボク自身が感じられなくなるまで、黙示的に、二重に、体内にウイルスを仕込まれた。「何を言われても社長に貢献しろ」という上司の圧力と、同僚からの「社長が言う通りにやれよ」という同調が、ボクをアイデンティティ難民にしていた。
この会社も前の会社も含めて仕事自体が最高の喜びのはずがない。けど、知らない内に疲れていてそうだと思い込んでいた。思い込むように誘導されて、ノコノコフラフラ進んでいたんだ。だから許せないんだ。踏み込みやがって。心の柔らかいところを爪切りで何箇所も切りやがって。短い間隔の鋏で傷付けられたら、仮に心療内科用の糸が有ったとしても、傷と傷の間が狭くて縫えないし、そしたらさ、時間を掛けて自然治癒するのを待つ他無かったんだ。
目の前に居ても居なくてもこの会社の客の笑顔は見たくない。それでも、社長の野郎のインチキと、それを本物と思い込んでいる課長に付き合い切れない、と言って良かったとは思えなかったんだ。
「良心の呵責、は感じないの?」
「ありますよ」だから悪しからず。同僚の事だけを思えば、悪く思わないでください、ごめんね、と書きたかった。
「将来の事、この先どうするつもりなの?」
「どうしますかね。何にも決めていないんですが、前職は寮が有ったんで衣食に充てるべきお金は貯める事ができました。けど寮だったんで自分の住所として使えそうで使えなかったんです。この会社に就職したときに今の部屋を借りれたんで、働きたくなかったら、じゃなかった、働けなかったら生活保護申請しますよ」
「そう。もう働くのやになった?」
「まぁそうですね」
「ただ、鰻屋にはなってみたい、ってのはあります」
「何、どういう話?」
「新橋駅の飲食店街に鰻屋が有って、その店の前を通って銀柳線に乗り換えていたんです」
「毎日、見てたって事?」
「そうです。私がもし鰻屋になったとしたら、やりたい事があって、それで毎日通勤がてら見てたんですけど、その店の店主はそれをやってない、か、ふっかけたけど職人が分からなくて乗らなかったか、どちらかです」
「それって何?鈴木がやりたい事なんだよね?」
「そうです。私だったら鰻屋を始めて二ヶ月もしたら、給料か出勤時間かで職人と口論します」
「何で?もっと働けって言うの?」
「大都会東京という立地で鰻屋、だなんてそれをやらない理由がないし、お客さんに笑われると思います」
「分かんないから教えてよ」
「今度、お客さんとして来てください。私が鰻を捌くところをお見せしますよ」
「捌けるの?」
「捌けません。掴めもしません。職人じゃないんで」
「じゃあダメじゃん」
「ダメだからいいんです」
「課長が来てくれて、けどケンカして職人が辞めてしまったから私が鰻を捌くしかなくて、それで包丁を入れようと鰻を掴もうとして、けど鰻のヌルヌルですり抜けて行って、それをまた掴もうとして反動で一歩前に足が出て、なかなか掴めなくてまた一歩前に出て、また一歩、まだ掴めない。また一歩。また一歩二歩三歩、いつの間にか厨房を抜け、課長を一人残して、客席も過ぎ、それでもヌルヌル、四歩五歩、ヌルヌルヌル、六歩七歩八歩、で足で玄関を開けて、鰻がのれんをくぐって、ボクも自動改札機をくぐり抜けて、電車の中でもヌルヌルヌルヌル、九歩十歩十一、十二、そうやって進んで行きたいんです」
「どこに?」
「それは鰻に聞いてくれ」と本当に言いそうになって前に伸ばして閉じてた両手の平を開けて「徳島です」と言った。もう課長とは会うことないからね。サゲの代わりに好意を伝えようと思ってさ。
「は?それで徳島で何するの?」
「藍を育てます」
「何それ。あんた、かわいいやつだわ、やっぱり」
「徳島の藍の葉畑で、藍の葉の捕まえ手の求人票、確認したんで摘んだら近くの工房に持って行って、その足でそこに雇ってもらって、何枚か藍染めのハンカチを作って、良いやつを課長に送ります」
「鈴木、届くまで待ってるわ」
「鈴木さ、知ってる?成熟した人達の特徴って」
「知らないです」
「私も含めてなんだけど、成熟した人達はね、理想のために卑しい『生』を選ぼうとするの。鈴木、会社に居れば居る程、誰かのためにがつがつしてくるし、誰かを裏切り者とか協力しない者じゃないかって疑っているの。みんなそういう事がきっと好きなの。誰に対しても忖度するし、誰でも疑うの。そうしないと『仕事できないな』って思われるから。みんなはね、仕事が好きだったり得意なのよ。自覚の有る無し関係なくね。仕事に自分を写している人も多いわ。忖度と猜疑心ってこと。その二つは集団で何かをするには効率がいいの。仕事じゃなくても趣味とかもそうよ。仕事でも趣味でもそこに人間関係があれば、忖度と猜疑心はよく使われる。メンバーの何かを察して上げたり、裏切り者を見つけたりしないと、色々前に進まないから。だから人間関係に長く居ると成熟していくのよ」
「それが卑しい生き方なんですか?」
「そう。けど鈴木は未熟だから、そういう本能的な生き方を選ばないと思う。きみは理想のためなら死ねる人だと思うわ」
「それっていい事なんですかね?」
「分からない。だから教えて。鈴木が架空のアイを育てたらそのときどう思ったか。私に届けられるアイってどんななのか教えてね」
これって告白されてるのか、分かるかい?どっちのアイなのか分からなかったんだ。けどボクはこのウソに向きつつある社会から課長に手を伸ばしたいと思った。それは上からなのか、横からなのか、イメージできない。絵で例えるとしたら、見渡す限りの黄金色の麦畑で、その麦は伸び切って人ひとりをすっぽりと覆う程、長くて、そよ風で微小な波を立てているんだ。美しい風景画なんだけど、その中に入ってしまうとすべて同じ色で染まっていく。その絵に入ってしまった課長を見つけて、ボクの筆先に染めた藍で輪郭を引く。ウソで塗られてしまった人、を捕まえてあげる人。捕まえ手。捕手。
Catcher in the lie
ライは麦ではなくてウソさ。ボクはキャッチャーになるのさ。課長の希望が本物でもインチキでも、時の経過と共に変わっていくダブルスタンダードであっても、ボクは生きていて良かったよ。意味があるかどうかで言ったら無意味さ。けど、いい暇つぶしになった。そうは思わないか?きみの英雄っぷりとは違う面白さがあると思ってくれたら、うれしいよ。
完
ライ向き畑で捕まえ手 鈴木松尾 @nishimura-hir0yukl
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