わたしは赤いきつねがきらいだ

北溜

わたしは赤いきつねがきらいだ

 わたしは、赤いきつねがきらいだ。


 あのカップ麺然とした匂いも、お揚げを噛みちぎった時に予想以上に口の中を跳ね回る熱い汁も、それを差し出すタカシの、絆創膏だらけでささくれだった手も、何もかも。


 そう。

 全部タカシが悪い。

 タカシ?お父さん?お義父さん?

 呼び方なんて、何でもいい。

 とにかくわたしはタカシのせいで、赤いきつねがきらいだ。


 早朝の東海道を走る、故郷へ向かう新幹線の中。

 急な有給取得のせいで、引き継ぎと穴埋めで昨夜は23時まで仕事をしていた。明らかに睡眠不足で、だからわたしは、シートに深く腰を沈め、目を閉じる。

 ひと息に眠れると思っていた。

 睡魔は確かにずっと、頭の中でぐるぐるとトグロを巻いているのだけど、閉じた瞼の裏にあの赤いフタと、タカシのささくれた手がチラついて、わたしは目を開けてしまう。


 そう。

 これはみんな、赤いきつねとタカシのせいだ。


 ◆


 タカシは不器用な男だった。

 不細工な男でもあった。

 なぜ母がそんなタカシを伴侶に選んだのかは、謎だ。

 私の本当の父の素性を考えれば、ことさらに。


 母は総合病院のオペ看だった。

 私の本当の父はその病院の外科医で、いわゆる職場婚だったらしい。

 優秀な外科医だったらしいが、医者の不養生を絵に描いたようなヘビースモーカーで、わたしが一歳の頃、肺がんで死んだ、らしい。

 まだ自我も芽生えない頃のことだ。私にとって、本当の父の印象は全て、らしい、の語尾で締め括られる。


 ◇


 東海道新幹線で帰省する大概の人は、西へ走る。

 わたしは逆だ。名古屋から、東へ。

 わたしは東京に本社のある商社に、大学を卒業した八年前に入社した。半年の研修期間の後、自ら地方拠点での勤務を希望し、名古屋支社に配属された。


 実家から離れたかった。どこかずっと遠くへ行ってしまいたかった。

 それは、わたしがタカシを避けていたからに他ならない。


 ◆


 わたしが四歳の頃、母はタカシと結婚した。

 やっと母との会話が、かろうじて成立するようになったばかりの頃だったから、記憶は曖昧だ。

 でも、タカシの第一印象は、強烈に覚えている。

 それは端的に言葉を選ばずに言うと、汚いひと、だった。

 一本欠けた前歯、どす黒く焼けた顔、短く刈り上げてはいるけれど、白髪の混じったごま塩の坊主頭。

 汚い、と、何故か、怖い、が一斉にわたしを襲った。

 わたしは派手に泣いた。

 初対面のタカシに問答無用で拒絶反応を示すわたしを、母は宥めるように、とは言え厳しく、叱った。

 タカシは困り果てて、もう他に、どうすればいいのかわからないと言うふうに、笑った。

 困った顔と泣きそうな顔がない交ぜになった、奇妙な笑みだった。

 以降わたしは、タカシのその奇妙な笑顔を、幾度となく見ることになる。


 ◇


 降り立った三鷹の駅は、いくつか見知らぬマンションが増えていたけど、面影は八年前のままだった。

 「美晴、こっちこっち」

 南口のロータリーでバスを待とうとしたら、呼び掛けられた。交番前のスペースに停められた軽自動車の脇に、母が立っていた。迎えに来るとは思っていなかったから、少し驚いた。

 「ずっと待ってたの?何時につくかなんて、わからなかったでしょう?」

 「新幹線の時間は教えてくれてたじゃない」

 「寄り道してたらどうしたのよ」

 「あんたせっかちだから、寄り道なんてしないでしょ」

 言いながら車に乗るように促す母は、穏やかに笑っていた。でも目はうっすらと赤く、瞼の下は、ほんのり薄紫だった。


 そうなってしまう母の気持ちは、少しだけ、わかる。

 わかってしまうことが、どこか、悔しい。


 ◆


 わたしが小学校に上がった頃、母はオペ看から病棟付きの看護師に変わった。そして月に二、三度、当直で夜に家を空けるようになった。

 タカシの不器用さを痛感したのは、母が初めての当直で家を空けた夜だ。


 電気工事士だったタカシは、小さな事務所を自分で構えていて、比較的時間に融通が利いた。だからその日は、夕方前に家を出る母と入れ替わりで、帰ってきた。

 そして、台所での格闘が始まった。

 わたしのお腹がぎゅうぎゅうと鳴り出した午後七時、食卓についていたわたしの前に運ばれてきたのは、焦げ臭い炒め物と、味の濃そうな味噌汁と、べちょべちょのご飯だった。

 こんな至ってシンプルな晩御飯を作るのに、四時間台所に籠っていたのだ、タカシは。

 「美晴ちゃん、ごめんな。料理苦手だから美味しくないかもしれないけど」

 あの、困って泣いているような奇妙な笑みを、タカシは浮かべる。

 確かにどう贔屓目に見ても美味しそうとは言えなかったけど、わたしの胸を息苦しさで満たしていたのは、そんなことじゃなかった。

 母が居ない夜。

 タカシと二人だけの夜。

 母に置いていかれたという感覚にとらわれ、なんだか不安で、怖くも、苛立たしくもあって、だから、お腹はぎゅうぎゅうなっているのに、わたしはタカシの作ったその料理に手を出さなかった。

 「ごはん、いらない」

 ぼそりと言って、自分の部屋に閉じ籠った。


 夜中、空腹をごまかそうと寝入っていたわたしは、その空腹に起こされた。

 わたしの意志など蔑ろにして、お腹はぎゅうぎゅうとまだ鳴っていた。

 一時だった。そして、リビングの明かりは灯ったままだった。

 テーブル脇に腰掛けていたタカシは、わたしの気配に振り向き、またあの奇妙な笑みを浮かべた。

 「お腹、減ったよね」

 言ってわたしに椅子を勧め、自分はキッチンに立って、ケトルの電源を入れた。

 水切り棚には、さっきまで料理の乗っていた皿が、綺麗に洗われて並んでいた。

 それを見て、胸がちくりと痛む。

 しばらくすると、かちり、というケトルのスイッチ音がして、タカシは何かにお湯を注ぎ、持ってきた。

 赤いきつね、だった。

 それを差し出すタカシの手はささくれていて、多分、馴れない料理をした時に出来たであろう切り傷を、絆創膏の裏側に隠していた。

 折り曲がったタブと、蓋の隙間から漏れる湯気を、わたしはしばらく、じっと眺めていた。

 さっき並べられていた御飯を思った。

 タカシはひとりで、あれを食べたのだろうか。

 わたしのために作ったのに、わたしに食べてもらえなかったあれを、どんな想いで食べたのだろうか。

 そう思うと胸のちくりが、ぎゅう、に変わった。

 「もう食べられるよ」

 言われて我に返ったわたしは、何かから逃げるように、慌てた感じで蓋を剥がし、湯気の上がるお揚げを噛みちぎった。

 「あつっ」

 お揚げから飛び出した暑い汁が口の中を跳ね回り、その熱さに驚いて、わたしは箸ごとお揚げを離す。

 「慌てないで、ゆっくり」

 奇妙な笑みのままで、タカシは言った。

 わたしはこくりと頷いて、今度はゆっくり、お揚げを噛る。

 染み出してきた汁と一緒にお揚げを飲み込むと、からっぽの胃に、じんわりとした暖かさが沁みていった。

 何故か、涙が出た。

 やっと空腹を満たした安心感からなのか、タカシの作った晩御飯を食べなかった罪悪感からなのか、わからない。

 ただただ、涙が止まらなかった。


 その日から、わたしとタカシの間に、母が当直の夜限定の、妙なルーティーンができた。

 タカシが数時間キッチンで格闘し、わたしが差し出された御飯を拒否し、夜中に空腹で起きたわたしに、絆創膏の貼られたささくれだった手で、タカシが赤いきつねを差し出す。わたしはちょっと涙ぐみながら、お揚げを噛る。そしてタカシは、困って泣きそうな、奇妙な笑みを浮かべる。


 何がわたしをそこまで意固地にさせたのか、今でもわからない。

 単純にタカシを困らせたかった、ということではない気がする。

 だったら何?と聞かれても、わたしには、答えられない。


 ◇


 枕飾りの置かれた実家のリビングに、タカシは寝ていた。

 寝ていた、という表現が、正しいのかどうかわからない。けど、少なくともわたしには、そう見えた。そう感じさせるくらいに、どこか穏やかな空気が、部屋の中にたゆたっていた。


 過労死だった。

 経営が難しくなった事務所の、ふたりの従業員に十分な退職金を用意するため、そのふたりに負担をかけないまま、自分だけ遮二無二働いて、十分な資金を調達できたところで事務所を閉じた。その翌日、タカシがベッドから起き上がることはなかった。


 すぐ横に腰を下ろし、手を見た。

 最後に見たときと変わらず、ささくれていた。

 握った。

 ヒトよりは固く、モノよりは柔らかい、不思議な狭間にある触感が、ああ、もう動くことはないんだと、痛感させた。

 「バカ」

 罵った。

 「まだアンタの手料理、食べてないじゃん」

 語尾が震えた。

 強く手を握りしめた。視界が、ぼやけた。

 その時ふいに、あのカップ麺然とした匂いが、鼻を突く。

 「あなたたちふたりは、手料理じゃないのよ。おいで」

 母だった。テーブルでわたしを手招きしていた。そこには、赤いきつねが置かれていた。

 涙ぐむわたしのあたまを優しく撫でて、母が言った。

 「わたしが当直の日の、あなたたちの日課ね、最初は戸惑ってたけど、だんだん嬉しそうに、あの人わたしに報告するの。今日はこれを作って食べてもらえなかった、こんな自信作だったけどダメだった、って。嬉しそうなのよ。で、あなたが家を出ていった日、残念がってた。いびつだけどあのやりとりに、俺は晴美ちゃんとの絆を感じてんだよなあって」

 ああ、多分わたしもそうだったんだ。

 やっと、本当にやっと、気づいた。

 あの奇妙なやり取りの中に、素直にタカシを受け入れられないもどかしさを、わたしは、溶かしてたんだ。

 涙が、止まらない。

 「さ、食べて」

 母が言った。

 蓋を開く。

 容器の真ん中にでんと構えるお揚げに、涙が落ちた。

 お揚げを噛る。麺を啜る。

 素直に、美味しいと思う。

 タカシと過ごしたいびつな日々の尊さが、涙になって赤いきつねに落ちて、最高の調味料になっている。

 でも、きっとこの先ずっと、赤いきつねを食べる度に、わたしは本当は大好きだったタカシを思い出し、その何回かに一度は、涙ぐんでしまうだろう。


 だからわたしは、赤いきつねがきらいなんだ。

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