決心の一杯

羽間慧

赤いきつね

 鉄平は、親指で小指を押さえる。ハンドクリームを塗っても、あかぎれが治まらない。人差し指から始まった亀裂は、両手を侵食していた。


 水仕事は嫌とこぼしていた、母の気持ちがよく分かる。めくれた古い皮膚が雑巾に刺さると痛む。一人暮らしで初めて知ることが多く、母への気遣いが足りないことを後悔した。


 大学に入学したころは、単位を落とさないように必死だった。帰宅すれば夕食ができていて、寝坊しないように母が起こしてくれた。甘えていた二年前の自分が恥ずかしい。大学三年生にして、ようやく自立できた気がする。


 コメントペーパーを提出し、リュックに講義ノートを詰め込む。膝掛けにしていたマフラーを掴み、大学を後にした。


「今日はカレーを作ろうかな。余ったら土日に楽できるし」


 首元に風が当たると、すえた匂いが立ち上がる。


 ――このマフラーは魔法がかかっているのよ。一人ぼっちでも平気な魔法。


 梅子ばあちゃんが編んでくれたマフラーは、十年経っても温かい。赤いストライプ模様は鮮やかで、山吹色を際立たせている。当時流行っていた、アニメの主人公が着けていたデザインだ。誕生日プレゼントとして贈られ、飛び跳ねたことを覚えている。


「大好きな鉄平ちゃん。ばあちゃんの自慢の孫よ」


 事ある毎に小遣いをくれ、運動会では稲荷寿司や甘い卵焼きを持参した。早くに亡くなった祖父の分まで溺愛された。小学生まで同居していた梅子ばあちゃんが、鉄平のひいおばあさまの家で暮らすようになると寂しかった。隣の県とは言え、遠くに行ってしまった気がした。ひいおばあさまに介護が必要になったから、仕方のないことだけど。数ヶ月に一度、家族で泊まりに行く日を楽しみにしていた。


 梅子ばあちゃんが好きだった。昔の優しいばあちゃんが。


 二年前、ひいおばあさまが亡くなってから鬱病が悪化していた。義母を介護することは、肉体的にも精神的にも辛かったはずだ。それでも、梅子ばあちゃんの心の支えになっていた。たとえ険悪な空気が漂っていても。


 ひいおばあさまは朗らかで、梅子ばあちゃんは落ち込みやすい性格だ。ひいおばあさまが「今年のサヤエンドウの出来はどうか」「庭の薔薇が綺麗に咲いたのぅ」と繰り返せば、何で同じことを話すんと苛立っていた。


 九十八歳で認知症にならないはずはない。動けるだけ補助の負担が減ることを喜ぶべきだ。ひいおばあさまは歩行器を使いながら自力で歩く。箸で食事ができる。デイサービスでも驚かれていた。


 ひいおばあさまは苦しい、しんどいと愚痴を言うこともない。鉄平は、大正生まれの強い女性に憧れを抱いた。戦争を知っているからこそ日常を愛おしむ。そんな心がけに惹かれた鉄平にとって、ひいおばあさまの繰り返される話は苦ではなかった。


 むしろ、受験について執拗に尋ねる梅子ばあちゃんが嫌いになりつつあった。踏み込んでほしくない領域に土足で踏みにじる。作り笑いが剥がれるのを、鉄平は必死で堪えた。


 新年になっても嬉しくない。センター試験を控え、緊張が心を締め付けていた。


「鉄平ちゃん、お年玉よ。これで合格守りを買いなさい。梅子ばあちゃんの大好きな孫が、志望校に入学できるように」

「鉄平くんは今年大学生になるんか。この家から通うんじゃろ?」


 ひいおばあさまは少女のように弾んだ声で訊いた。手ずから受け取った封筒は憂鬱を吹き飛ばす。


「うん。一緒に住めるよ」

「ほうか。それまで生きとかんといけんね」


 桜色の頬に、銀髪がきらめいた。幼稚園児のころは無性に怖くて近寄れなかったが、今では手を握れた。


「受験頑張るからさ。ひいばあちゃんは体を大事にしてよ」


 約束は果たせなかった。

 第一志望の私立の受験日、帰宅すると両親が泣いていた。


「さっき訃報があった」

「國子ばあちゃんが亡くなったんよ」


 そんなことないと思った。百歳まで生きる人だと信じていた。持病も骨折もない。デイサービスで誤嚥があったのか。


「老衰だよ、大往生だ」

「三時のチーズケーキが美味しいと、元気に言っていたそうよ」


 鉄平は唇を噛む。試験が終わった時間帯だ。


 大学生になったら一緒に住めるよ。自分の言葉が胸をえぐる。


 志望校に合格しても、気分は晴れなかった。梅子ばあちゃんと二人きりで住むと思うと発狂したくなる。引越しの準備をしていたとき、父は母に頼み込んだ。


「母さんが心配だ。近所の人から電話があったんだけど、葬儀から家に篭っているらしい。鉄平と生活できるか不安だ。明莉ちゃんも同居してくれないか?」

「専業主婦だから支障はないけど。あなたは単身赴任の状態でも大丈夫?」

「母さんは、あの家を離れたがらないだろう。鉄平が大学を卒業するまで、メンタルケアをしてやってくれ」


 ひいおばあさまと同居する約束は叶わなかった。願いが梅子おばあちゃんに託されたと思い、曾孫としての供養をしたい。


 軽度の認知症を抱えた祖母に対し、鉄平は心を無にした。感情的になれば衝突してしまう。かつての梅子おばあちゃんのように、同じ話を聞くだけで苛立ちたくなかった。


 転機は大学二年生の十二月だった。


『今日の日替わりランチ最高!』


 鉄平は母に学食の写真を送った。とろりとした餡に包まれた天津飯。

 母からの送信には、赤いきつねの写真が添付されていた。


『ごめんね。鉄平の夜食を食べて。お義母さんが時間なくて料理作れないって、お湯を入れていたの。鉄平のだって教えたら、買い足しておくと話していたわ。だしの染みた油揚げ、こんなに美味しかったのね』


 昼食は梅子ばあちゃんの担当だ。昨日のメニューを聞くと、さらに驚いた。


 卵だけチャーハン。レンジで温めた、ほうれん草のおひたしもどき。

 しょぼい。三人暮らしを始めたときは、筑前煮や炊き込みご飯を作っていたのに。


『趣味の編み物に夢中だから、少しくらい昼が過ぎてもいいやって思っているの。だから、私の掃除が終わると慌てて昼食の準備をしてる。私の存在に気付いていないのかもしれない。一人暮らしだと認識しているのかもね』


 いつから栄養の偏った食事をしているのか。自分だけ美味しいものを食べていた事実に、胃が痛くなる。


 大学の近くで一人暮らしをすれば、母の負担は減るだろうか。夫婦の生活の方が気楽かもしれない。梅子おばあちゃんも、一人でいればストレスなく過ごせそうだ。


 夕食時になっても、悩みは晴れなかった。梅子ばあちゃんは、大学の話をせがんだ後に話した。


「國子ばあちゃんみたいに、苦しまずに死にたい。葬式はお金をかけないで。家族葬でいいから」


 食事中に聞きたくない。メシが不味くなる。


 ひいおばあさまの最期を鉄平は知らない。看取った梅子ばあちゃんの気持ちに同意できない。ただ、自分なら死ぬ手本として例示されたくないと思った。


「鉄平ちゃん、お友達はできた? 大学は楽しい?」

「あぁ。六人ぐらいかな」


 本音は味噌汁で流し込む。

 さっきも言った。今更ぼっちの心配するな。そんなことより栄養のある昼食を作ってくれよ。母さんのことが嫌いなのか。


「明莉ちゃん、お粗末さまでした。食器を洗っておくからね」

「俺が洗うから。流しに置いといて」

「悪いわね。じゃあ部屋に戻るわ」


 足音が聞こえなくなってから、ご飯を掻き込んだ。乾燥機に入れた食器を戸棚にしまう。箸の数が異様に少ない。来客用も合わせて二十はあった。不要な箸を処分したのか母に確認すると、首は横に振られた。


「お義母さんの部屋にあるんじゃないの? コップもアイスを食べるスプーンも、持って行ったっきりだから」


 洗い残しのある食器が増えていた原因が分かった。老眼鏡をかけずに洗ったらしい。

 面倒を増やしやがって。俺は苛立ちを抑えて、梅子ばあちゃんの部屋へ行った。


「ばあちゃん。開けるよ」


 襖に手を掛けたとき、麺を啜る音がした。部屋には電気ポットがあったはずだ。ダイエットと称して米を抜いたが、物足りなくなったのだろう。


「あら、鉄平ちゃん。お腹が空いちゃって。鉄平ちゃんも食べる?」


 差し出された油揚げから、空いた口を遠ざける。


「俺の赤いきつねだよ。勝手に食べるな!」


 梅子ばあちゃんは目を伏せる。


「明莉ちゃん、そんなこと言ってなかったわよ。あの子、私を嫌っているんだわ。この間も、二階に行ったら来ないでって睨まれたのよ。布団で寝たまま言うなんて、礼儀がなってないわよね。態度が悪い上に、私を悪者扱いしようとするなんて。鉄雄くんに言いつけなきゃ」

「そんなことで父さんに電話するな。母さんが来てほしくなかったのは風邪を移したくなかっただけだ。嫌ってる訳がない」


 むしろ嫌っているのは俺の方だ。綺麗だからという理由で、無駄に菓子箱を溜めるんじゃない。この家をゴミ屋敷にするつもりか。栄養ドリンクの空瓶が散らばるカーペットに吐き気がした。


 梅子ばあちゃんと母の仲が拗れるなら、同居のメリットがない。

 湯気の立つ赤いきつねを一瞥し、鉄平は部屋を出た。



 捨てられないマフラーに顔を埋める。アパートに帰った瞬間、ズボンに入れていたスマホが震えた。


「もしもし、父さん?」

「マイナスドライバーって、どこにあるか分かる?」


 梅子ばあちゃんに呼び出され、修理に来たらしい。鉄平が場所を教えると、安堵の息が漏れた。


「鉄平、ばあちゃんに会いに来たら。赤いきつね、たくさん買って待ってるよ。『鉄平ちゃんの好物だから、いつ帰ってもいいようにしなきゃね』ってさ」

「は?」


 父は写真を送った。梅子ばあちゃんが大量の赤いきつねを抱きしめている。


「何で、そんなに笑顔なんだよ」


 鉄平は玄関にしゃがみ込んだ。

 もう忘れているんだ。子供のころの俺の記憶を抱きしめている。初日の出を見に行ったときに山頂で食べた、あの味が離れないのだ。


「あぁっ。もう!」


 靴を履いたまま押し入れを開けた。定期入れを掴み、夕暮れに向かって飛び出した。

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決心の一杯 羽間慧 @hazamakei

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