きょうを読むひと

錦魚葉椿

第1話

「不安神経症の疑い」

 紹介状にはそう書きなぐられていた。

 経過と症状がアルファベット交じりの不機嫌な字で埋められ、氏名すら判読不明でシャチハタ印。

「これ本物なの」

「さあね」

 友也はブレンドコーヒーをすすりながら答えた。

 そもそも紹介状を開封しちゃったからには、紹介された先の病院に行く気はないのだろう。

 不安神経症とは日常生活のなかで根拠がない不安や心配を漠然と持ち続ける病気だそうだ。まあ、ざっくりいえば合っているのかもいるのかもしれない。


 本人が長年強く主張してきたところによれば、予知能力があるらしい。

「不幸限定」「今日限定」「事柄の大小不明」という実に微妙な感知能力。

 友也は昔からその「不幸予知」がやってくると一歩も動けない。

 今日は、職場でその「不幸予知」を感じてしゃがみこんでしまい、企業内診療所に担ぎ込まれたら産業医にこんな不本意な紹介状を書かれてしまったとのことだ。

 小学校以来の友達で諸事情を理解している最寄りの私が呼び出されて愚痴を聞いているというわけだ。

 土曜日昼下がり、小春日和のオープンカフェ。

 プラタナスの落ち葉がアスファルトにすれて乾いた音を立てながら、風に流されていく。

 車道向こうのモミジバフウ並木の緑、オレンジ、赤、紫と変化鮮やかな紅葉を眺めながら、これがデートだったらどんなに素敵だろうかと思って、自意識過剰を恥じながらブラックコーヒーを口に含む。

 ――――――彼には職場に付き合って二年の彼女がいる。



 友也はおおむね2か月に一回程度の頻度で、「不幸予知」で暴れてきた。

 その結果、「宿題を忘れていた」とか「犬のフンを踏んだ」とか「彼女にフラれた」とか「試験の範囲が外れた」などの予知という言葉のイメージとかけ離れた実に微妙な小さい不幸を重ねている。それは通常レベルの不運じゃないのか。

 いや不幸でも不運でもなく、半分ぐらいはただの不注意かもしれない。

 クラスメイトは騒ぎぶりと結果の落差に、実は薄っすらと馬鹿にしていた。

 小学校のスキー旅行の当日にもその「不幸予知」があった。

 当時の担任がむりやりバスに引きずり込んで旅行を強行したところ、バスがスリップして横転する大事故にあった。

 それ以来、同級生の中では、一応真実ということになっている。

 そうはいっても彼の予知能力が大当たりしたのはその一件だけなのだが。

「想像してみてよ。深夜の平原をノーガードで歩いているところを何処からか矢で狙われている感じなんだ。僕はどこからか狙われている。それはわかっている」

 まっすぐのぞき込まれ、息が詰まる。

 口に追加したコーヒーが苦い。しかもなんか酸っぱい。

 率直に言って不味い。しかし今の状況には極めて有効だ。

「どのタイミングで撃たれるのかわからない」

 友也は彼なりにこの「不幸予知」を解決しようとしている。

 この間は滝にうたれに行ったらしい。

 より感覚が鋭くなってしまい失敗だったらしいけど。

「で、今回の不幸は何だったの」

「蓋が開いていた洋式トイレの便座にはまった」

「よかったじゃない。小さい不幸で」

 私が笑ったら、彼も苦笑いした。


 私たちは小学校時代の同級生。一時間ちょっとコーヒーを飲んでその場で別れる間柄。それ以上近づきたくないと思っている。




 断るのが苦手。

 断るストレスはしんどい。嫌なことに耐えている方がまだマシというぐらいに。

 2か月前、私の元彼は「好きな人ができた」という理由で私とのおつきあいを止めたい、と一方的に告げてきた。

 私はほっとした気持ちを押し隠すため、深く俯いたまま無言でうなずいた。

 友達の紹介、いわゆる合コンで知り合った元彼は、コーヒーひとつ注文するのにも大変面倒な男性だった。私が頼んだものが、自分の好きなものと違うと「それがいかに低俗な趣味か」をずっと説明される。コーヒー豆の味なんてわからない。

 彼は自分の在り方を絶対に完全に肯定している。本当に自分が大好きだ。

 エネルギッシュにバリバリ働いていて、見た目と動作は烏骨鶏に似ている。茶色い鶏のようなどこかぼんやりとした温厚な感じはしない。真っ白い目立つ羽毛の前髪がたっぷりとした質量で逆立って、その間から黒い顔がしかめ面で世界を見下している、あの烏骨鶏にそっくりだ。

 レストランに行っても好きなものは頼めない。元彼は「おごってやる」ことが前提なので、想定より高いモノを注文されるとイライラする。

 もちろん安いものを頼んでも「俺の稼ぎをみくびりやがって」と怒っている。

 どこまでが節約でどこからプライドをそこなうのか全く境界がわからない。

 甘くて暖かいラテが好きだったのに、いろいろと面倒になって、いつも彼の頼むもののサイズの小さいものを頼む。彼が食べ終わる時、のみ終わる時に同時にきちんと終わるように計算してその液体を飲み込む。

 彼の好みになりたかったわけでもないのに、彼が望むようなファッションをまとう女性になるよう努力していた。耐え難い時間を回避したかった。ただそれだけのことだ。

 別れたいと自分から言って、その後連綿と続くであろう嫌がらせを考えたら、当面どうなりたいということもないのだから、このまま静かに耐えていた方がマシそうだとさえおもっていた。

「同じものに価値を見出している相手に対して人は攻撃力が下がる」。

 元彼に費やした時間は私にそんな経験則を残した。

 友也はランドセルを背負っていた頃からの友達で、私が何を飲んだとしても非難することはないし、むしろ興味がないことはわかっていても、とりあえず彼と同じものを頼む。




 友也は小さな不幸に遭うと小躍りして喜ぶ。

 不幸が通り過ぎると、彼の心を塞ぐ不安感は霧散するらしい。

 なければないで困らない。

 あっても困らない人もいる。

 痛んで困る人もいる。

 友也の予知能力はそういう意味で質の悪い親知らずみたいなものだと思う。

 彼の職場は「親知らずが痛むんだなあ」という程度の心配で彼のことを見守ってくれないらしい。

 紹介状は再発行され、企業内診療所の高齢女性看護師に親切かつ高圧的付き添われて、彼は会社契約の病院で病名を付される立場になった。

「――――――壊れたラジオみたいなものさ」

 雑音でしか聞こえないその音が、チューニングすればクリアに聞こえるようになるかもしれないと思って波長を合わせようと努力してきたけど、聞こうとしないこともできる、と彼は自分に言い聞かせるように呟いた。

 いつものオープンカフェは冬には向かない。

 寒すぎて、手袋も外せない。

 テーブルに無造作に投げ出された彼のキーホルダーから赤い革のキーカバーが付いた鍵がひとつ減っていることに気が付いた。

 その鍵は彼女の部屋のもので、それをもらったことを同窓会で報告するほど彼はまさに舞い上がっていたというのに。鍵を剥き出しで持っていると、製造番号から複製されることがあるからカバーをした方がいいと誰かが言ったら、翌週にはきっちり赤いカバーが付いていた。

 鍵がそこになくなった事情について、友也は何も語らなかった。

「不幸予知」のことについても、それ以上は話さなかった。

 だから私も彼が話したいことを聞く。

 友也は次から次へ面白い話ばかりしてくれた。私は涙が出るほど笑った。


 とても楽しくて、いつもよりすっかり長い時間を過ごしてしまった。

 友也は二杯目の飲み物を買ってきてくれた。

 おおきなカップに雪の結晶のラテアートが書かれたカフェラテと白い泡にチョコでシンプルにハートが描かれたエスプレッソ。

 一度頼んでみたいと思っていて、「絵に意味はない」という感想を前にその希望を口にすることはなかったそれを不意に差し出されて夢じゃないかと思った。

「どっちがいい?ラテかな。いつもコーヒー飲みにくそうだもんな」

 友也は優しく目を細めて微笑んだ。



 連絡は取るけど、実際に会うのは1カ月に一回ほどで、頻度が増えることはなかった。

 彼は「不幸予知」の日は会社を休むようにしたようだ。

 一歩も家から出なければ大丈夫だろうと思っていたら、冷蔵庫に残っていた古い食べ物に当たってひどい吐き下しに苦しんだらしい。

 それは同級生からの連絡で知った。

 直接は教えてくれなかった。

 会うときはいつも楽しい話をしてくれるだけで、酷い顔色の理由は教えてくれなくなった。



「連絡しても返事がおかしい。部屋に様子を見に行ってやってほしい」と同級生から連絡が来た。

 故郷から遠く離れて、実際の生活圏の距離が近いのは私ぐらいだ。

 電車を三駅ほど乗って、彼の住むマンションのインターホンを鳴らした。

 チェーンのかかった扉の隙間から真っ青な顔が覗いた。

 私の顔を確認すると扉は一回閉まった。ひどくのろのろとした動きでチェーンを外す音がして、一瞬10センチだけ扉が開く。

 入るよ、と声をかけて中をのぞく。

 家の主の姿は玄関にはもうなかった。

「ヤバいんだよ。過去最大級の不安なんだ」

 布団に飛び込むように戻って、顔も出さない。

 部屋は魔窟のようになっていた。数か月前、遊びに来た同級生みんなと鍋パーティーで呼ばれたときはきれいに片付いていたのに。

「かわいそう」

 まるまった布団の外側から彼を撫でた。

 どのくらいたっただろう、不意に友也に腕を掴まれた。

 ここで絆されて流されたらろくなことがないことはよくわかっていた。

 私の存在は「溺れている人が手当たり次第につかんだ木っ端」みたいなもの過ぎない。

 また痛い目にあうのだろうなと思いながら、この腕を振りほどいたら、友也は独りでおぼれて死んでしまうと思った。

 おごってもらったラテの恩を返したかった。

 何を飲みたいと思っているのか、気が付いてもらえた。尊重されたことに深く恩を感じている。

 私はあきらめ、あるいは覚悟を決めて、自分から彼の頭を抱き寄せた。



 友也はお尻を小さく振っている。

 どうしてだろう。目に見えてご機嫌だ。

 流しの下からペティナイフを取り出して、何か料理を始めようとしていた。

「「予知」は終わったの?」

何かを剥きながら、彼は鼻を鳴らすようなあいまいな返事をする。

「ねえ、聞きたいんだけど――――――過去最大級の不幸って、私?」

 えっ、と声を漏らして振り返った彼の手からペティナイフが垂直に滑り落ちたのをスローモーションのように見た。

 一歩踏み出して少し浮いた彼の足の甲、親指と人差し指の間にナイフが綺麗に刺さって、足の裏まで貫通した。

 友也は出血と視覚的衝撃から貧血を起こして倒れてしまい、私は「足に包丁が刺さったパンツ一枚の男」に付き添って救急車に乗るという刺激的で忘れられない朝を迎える羽目になった。



 ――――――友也はそれからしばらくして転職した。

 社名を聞いたら誰もがうらやむ有名で立派な会社だったのに。

 歩けなくて休職している間に「幻覚の挙句、自分で足にナイフを刺した」ということになってしまってほとほと嫌になったらしい。

 友也のご両親は嘆き悲しんでいるが、新しい職場は出勤が比較的自由な会社で、家から出たくない日は出なくていいようになって嬉しそうだ。社宅を出る先の新しい部屋は一緒に探した。

 他に安くて新しい部屋はいくつもあったけど、彼は氏神を祭る小さな神社がすぐ近くにある古い部屋を借りた。

 私たちは金曜日の夜を一緒に過ごし、次の日は早朝からその神社を散歩する。


 息は白い霧のようで、朝日を受けてキラキラしている。

 氏神様を祭るお社は深い色に朽ちた表柱が緑青色になった銅葺きの屋根を支えている、ごく小さなお社だ。公園ほどの小さい境内に立派なモミジの木とイチョウの木が植えられている。

 私も友也も神社のことはよくわからない。だけど屋根のフォルムが優しく着地した鳥の羽のようで、威張った感じじゃないところが特にいいと思っている。

 神社のしめ縄は新しく、紙垂は白い。

 私たちは特に願うこともないが手を合わせる。

 今日は新嘗祭に合わせた地域の小さなお祭りの日のようだ。賽銭箱の横に古い三方が置いてあって、小さく折りたたまれたおみくじがその上に無造作に積み上げられている。

 私たちは百円ずつ置いておみくじをいただいた。


 友也は引いたおみくじをみて小さくガッツポーズをした。

 のぞき込んだら「凶」。

 私と目が合うと、彼はひどい失敗を見咎められた子供のように顔をそむけた。

「――――――私の元彼はレストランでフォークが出てこなかったら私を怒る人だったの」

 友也はびっくりした顔で私を見下ろしてくる。

 そういえば、元彼の話をしたのは初めてだったかもしれない。そもそも私の話をすることだってほとんどないのだから。

「おみくじひいて中吉だったら機嫌が悪かったし、私の方がよかったらもっと機嫌が悪かったし、暑くても寒くても雨が降ってもイライラしてた。私の服が可愛くなかったら不機嫌だし、私が自分より食べるのが早くても遅くても怒るのよ」

 いつもびくびくしていたことを思い出す。

「友也だったらおみくじが凶でも、フォークが出てこなくても、フォークどころか料理が出てこなくても、溝に落ちても、雨が降っても、雷が落ちてもきっとなんだか嬉しそうなんだろうになあと思ってた」

 イチョウは鮮やかな黄色に色づき、風が吹くたびにはらはらと落ちてくる。

「だから私は、友也がそのままでいてくれるほうがいいの」

 友也は目を見開き、少しの間私を見ていた。それからしゃがんで黄金色のイチョウの葉を拾って、無言で差しだす。

 私はそれを大切に受け取った。



 私たちは手をつないでゆるやかな石段を下りていく。

 色づいたモミジとイチョウと柿の落ち葉を一枚ずつ拾い集めながら。

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きょうを読むひと 錦魚葉椿 @BEL13542

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