⑫人魚について


 糸を張ったように伸ばされた小さく黒い背中が、規則的に揺蕩う。左腕に巻かれた茶色と熊の腕章が、にわかに灯に反射した。


 図書館の地下に併設された喫茶店に降りた二人は、奥の個室で腰を下ろした。常連のラヴォすら、個室の存在を初めて知った。彼女曰く公共施設には監督機関シャー・リーヴス専用の部屋が併設されているという。無論使用には許可証が必要な上、会話内容を記録し提出する義務があるとのことだが。


「注文はご自由に。上から許可は出ていますのでケーキでもサンドイッチでもお好きなものを」

 エヴリンと名乗った小柄な女性は脚を組んで言った。弾くような、一つ音節がはっきり区切られた話し方である。


 監督機関にはイーゴリが属する害獣駆除専門の『狩人』など複数の部門が存在する。


 彼曰く『処刑人』は文字通り、人間を直接手に掛ける。所謂凶悪犯罪者の処刑や反社会的勢力の排除、貧困層の不満の対処(具体的な内容は不明であるが)を職務としているという。


 ラヴォは改めてエヴリンを観る。彼女は背丈こそ低いが、太めの首に広い肩幅、腕の太さなど只人ではない肉体を持っている。弓を得物とするイーゴリとは、また違う筋肉をしている。


 彼女はメニュー表を何度か翻してから、プラムのケーキとロイヤルミルクティーを選んだ。ラヴォもコーヒーとガトーショコラを頼み、脇のヘビに票を渡した。シュルリと音を立てて票を運ぶ背を見送ったところで、エヴリンは話を始める。


「改めまして自己紹介をラヴォニあにゃさん。……わたしはエヴリン・シャーウッド。貴方の同居人であるイダ・シャーウッドは実の兄に当たります」

 ラヴォは確かに噛んだところを聞いたが、指摘するほどでもないため流しておいた。彼女は何事もなかったかのように続けた。


「此度は図書館司書よりウィートヒル東部で起きた放火事件について調査されているという報告があり、声を掛けさせていただきました。別にそれ自体が我々にとって不都合というわけではないため、その点はご安心ください。これはひとえに、わたしが被害者の親族であったがゆえです」

 エヴリンは紺色のブリーフケースからファイルを取り出す。見出しには『ハーバリア放火事件』──ハーバリアとはイダが経営していた薬局の名前である。今ラヴォが知っているのは、十年前に放火されたことと中から下半身のない女性の焼死体が出てきたことだけであった。


「兄は大学卒業後、この店の経営を任ぜられました。前任者が高齢のため若い人に譲りたがっていたそうで、医学知識のある彼に白羽の矢が立ったのです。当時のわたしは横で聞いていただけなので、実のところ詳しい事情は知りませんがね」

 何処となく暗さを感じさせる話し方は、確かに兄に似ているかもしれない。ラヴォは彼女とは対照的な広い背を想起して思う。


 二枚目の見出しは、『人魚に関する調査』。

 人魚の話は各地で存在する。ホルスロンド北部には人魚の皮を得ると、海や川に引きずり込まれるという。ヴァクワク北部には人魚と結婚したが、彼女との約束を破ったため海に帰ってしまう話がある。皆が常に同じ空を仰ぐように、人の空想は国境を持たない。


 一方で人魚とはマナティなどの海洋生物を見間違えたものともよく言われる。ラヴォも実のところ半信半疑であったが、世の中には見知らぬ精霊もいることであろう。


「最新の調査によれば人魚は水死者の肉体と海洋生物の魂が結びついたものとされます。ただ滅多に水面に上がることもなく、死体の腐敗も早いため研究が進まないそうです。しかし兄が助けた個体は陸に打ち上げられた上、所謂前世の記憶を維持した希少な個体だったと推測されます」

「それは、喉から手が出るほどほしかったでしょう」

 どの分野においても、研究は史料や検体が多い方が良い。生物学であれば、現存する個体の方が多くのことが解る。歴史学であれば、文字史料を持つ方が有利である。サンプルが乏しい分野の研究には、並々ならぬ執念が必要である。ラヴォの専門である鱗翅学も人気の高い分野ではないため、研究に苦慮することは度々あった。


 しばらくの間人魚に関して耳目に触れていると、ベルの音が転がった。バイトと思われる若い青年は拙い手付きで配膳し、早口で決まった言葉を述べて去っていった。


 エヴリンは崩れた渦を描くロイヤルミルクティーを見つめながら、先に飲んでいるよう促した。曰く、猫舌なためすぐに飲めないという。


 ラヴォは言葉に甘え、まずは一口呷った。ガトーショコラに合う、苦みの強いコーヒーである。


 ホルスロンド帝国はアラワクやアザニアなど、コーヒーで有名な属州がいくつもある。また故郷のヴァクワクでも、アザニアから流れてきた種が栽培されている。


「一攫千金を狙ってか、時々人魚狙いの海賊が出るのです。希少な分、反社会的勢力にとって良い金になるでしょうし、知識に乏しい人を使えばロマンとやらを利用して扇動できますからね」

 ホルスロンド帝国における貧富の差は、社会問題の一つとなっている。貧困層の増加による治安の悪化、教育レベルの低下は懸念すべきところ。国は船、民は漕手。荒れた海を渡る上で、暴徒の存在は無視できない。処刑人とはそういった因子を排除するマクロファージである。


「放火犯も、その一人だったと?」

「いえ、犯人の自供によれば兄が人魚に外の空気を吸わせようと連れ出した折に目をつけ、強盗の末放火したそうです」 

 エヴリンが事件の詳細を知ったのは、処刑人になってからであった。故に情報源はいずれも、残された資料から得たものになる。


 彼女はようやくカップに口をつけ、プラムのケーキを食べ始めた。酸味の強いプラムに、やや顔を顰めている。口に合わないのではなく、単に酸っぱいものが好きなだけらしい。


「なぜ、放火をしたのでしょう。人魚やその肉が欲しかったならば、焼くことはないのでは」

 ラヴォはフォークを置いて尋ねる。

 イダは帰ってきたら薬局が焼けていたと言っていた。

 薬局ならば可燃性の高い植物やアルコールも常備されている。ユーカリが一帯の生命を悉く灰燼にするように、引火すれば全焼は免れない。


「この場合はですね、人魚が高値で売れると知り攫って売ろうとしたのでしょうが、抵抗したため苛立って殺害に及んだようです。未熟なアンガーマネジメントの結果最初の目的を忘れ、せめて証拠を消そうと放火したと考えられます」

 呆れて言葉を失っていたラヴォに対し、エヴリンは偶にあることと語った。

 特に貧困層は教育が不十分なせいで宵越しの金しか持たなかったり、犯罪に手を染めるにせよ、雑なプランしか持っていないと。今回も同様である。そもそも夜とはいえ、成熟した人魚を単身で攫うなど無謀なことだろう。


「まあその方が捕まえやすくて楽は楽です。面倒なのは誰かに金を積まれた場合。奴らはトカゲの尻尾を切れば、容易く逃げ去りますから」

 ところで彼女はなぜ自分をわざわざ呼んだ上、このような話をしているのか。イダ本人ではなく、なぜ自分にとラヴォは問うた。


「一つは、貴方に同居人として兄を知ってほしいこと。わたしでは、到底支えになり得ませんから。そしてもう一つ、ある『仕掛人』から開発の手伝いを頼んでほしいと」

「開発とは?」

 『仕掛人』といえば監督機関専属のエンジニア兼諜報員である。意外な話の展開に、黒い水面が揺れる。


「柱構造、といいましたか? 翅に強い抗菌作用を持つ蝶が持つ……」

 ラヴォはカップを下ろして首肯した。

 最近、ある南国の蝶の翅が強い抗菌作用を持つことが発表された。翅の表面に拡がる微細構造が接触した細菌を破壊することで、自己洗浄を行う。


 元々は蝉や蜻蛉がもっていることで知られていたが、蝶での発見は初めてであった。


「要は諜報に用いるロボット製作を手伝っていただきたく。無論報酬は弾むとも」

 監督機関としても、金のかかるシニア研究者より若手の方が有り難いのであろう。それも評判の良い新米ならばなおのこと。


「その依頼のために、わざわざ人魚の話を?」

「実は別件で類似した事件が起きていましてね。それで、わたしが軽率にも兄の件を漏らしたばかりに奴が関心を持ってしまったのです」

 彼女は気まずそうに目を逸らし、一つ息をつく。そこに少なからず私情を感じ取れるが、ラヴォはわざわざ尋ねなかった。


「そう、でしたか。工学は門外漢ですが、よろしいのですか?」

「そちらは彼に任せていただければ。奴は品性皆無な男ですが、仕事だけはきちんとしますので」

 帝国を支える監督機関であるが、ところによっては特技さえあれば身分、学歴はおろか犯罪歴すら不問とする──無論、再犯の危険がないよう十分なカウンセリングを受けさせ、面接を突破した者に限るが。


 その男もまた、貧困層の出身の元破落戸ならずものという。


「突然の依頼で大変申し訳無いですが、安全と充分な報酬は監督機関として保証します。こちらがその彼の名刺になります。何がありましたら『仕掛人』にご連絡を」


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