コンタクト

サクラクロニクル

コンタクト

 高校の図書室の窓際に、誰も座らない一席がある。それは眼鏡の席と呼ばれていた。そこに座る資格のある者は眼鏡だけなのだという。

 それは、あとで聞いた話だ。

 私はその日、コンタクトレンズをつけたままその席に座った。

 そこに生末遥は現れた。眼鏡をかけて三つ編みで、でも、上がり目だから野暮ったくはない。綽名はマスターオブライブラリー。私が唯一知っている、生末遥についての知識だ。

「あなたが眼鏡の後継者なのね」

 誰も図書室内でのおしゃべりを注意しなかった。彼女がここのルールだからだ。そんなことも、すべてはあとから知った話だ。

「あなたがコンタクト派なのはわかっている。でも、その席に座ったからには責任をとらなければいけない」

「意味不明なんだけど」

 しかし、その反対意見を封じるように、図書室内の男女が集まってきて、私を囲んだ。私の仲間をする者はいなさそうだ。

「これが図書室伝来の眼鏡。レンズの取り換え費用はこちらで持つ。来週から、その眼鏡をつけて生活しなさい。それがあなたの運命なんだから」

 桐の箱が机に置かれる。遥が蓋を取る。曰く、べっこうのいいところを使った最高級品らしい。縁が太く古めかしいデザイン。こんなものをつけていたら笑われそう。正直、嫌だった。

「それさ、もし逆らったらどうなるの」

「つけているコンタクトレンズが割れる」

 全員が同時にうなずいた。演劇的な信憑性に私は屈した。


 昔は眼鏡をかけていた。でも、眼鏡が似合わないとよく言われた。私も、眼鏡をかけているとぱっとしない顔が嫌いだった。別に勉強ができるわけでもないし、眼鏡という記号と現実の落差で嘲笑を受けるのは苦痛だ。

 なにより、初恋の男子は眼鏡嫌いだった。結局、その恋は実らず、コンタクトレンズは惰性でつけたまま。彼の前で、もう眼鏡なんてかけない、とか言って眼鏡を踏み壊した。それが失恋の原因。


 眼鏡屋さんに行くとき、遥がついてきた。確かに、予算はどれだけ必要かわからなかった。後払いでいいと言えるほどの小遣いはない。色々調べられ、レンズは薄い最新型が取り付けられた。

 べっこうは漢字で『鼈甲』というかなり難しい文字を使う。こんな見た目で、元は亀の甲羅なのだそうだ。だから、この眼鏡をかけていると金運が上昇するらしい。

「ヒメちゃんの字も難しいよね」

「アゲオでいい」

 比瑪というのも、縁起を担いでつけられた名前。しかし、私は女神にも姫にもなれず、その名前を好いていない。だから、どこか男っぽい響きの上尾という苗字が相対的に好きだった。

「いいじゃない。ヒメなんて、素敵な響きだと思う。この眼鏡の継承者なのだから、さしずめ眼鏡姫とでも呼ぼうか?」

「…………」

 相手が生末遥という女性個体でなければ、とっくに平手打ちしている。男だったら、迷いなくやっていたのに。ムカつくという気持ちだけをレンズ越しに投射した。

 でも、その先にある瞳の闇はとてもやわらかくて。

 コンタクトの時には感じなかった何かが、網膜に触れた。


「さっそくスクラッチくじでもしない?」

 遥、もしかして見た目と噂に相違してバカなのか? いきなりギャンブルを勧めてくる彼女を訝しく思った。生末遥と言えば、不動の学年一位で、一年生にして図書委員長。マスターオブライブラリーはオカルトを信じていらっしゃる。

 あまりにもバカバカしいので、いっそ幻想を叩き壊してやる必要があると思った。だから付き合いで一枚購入した。

「眼鏡の席といい、あいつらといい。イクスエさんたちの趣味に反対する気はないけど、現実ってのはそういう風にできていない」

 しかし、私には俗っぽい欲望もあり、五円玉でくじを擦った。

 マークが揃う。

 一万円が当たった。

 遥が笑って、私もうれしかった。


 私はその一万円で山尾悠子作品集成という、昔から欲しかったデカい本を買った。山尾悠子は幻想小説を書く人で、その作品に何が書いてあるのか、正直、理解できない。でも、読むと自分の中にある不可解な感情が抜けていく気がする。

 だから、その大きな函入り本を抱えて、眼鏡の席へと向かう。昔、そこは誰か別の眼鏡の席だった。でも今は私の席だ。そこで静かに本を読む。誰にも邪魔されず。そう思うと、眼鏡をかけていることが急に必然性を帯びているように感じた。

 本を置き、函を外す。

「すごい本を持ってきたね」

 遥の声に頷く。ごく自然に、顔をあげていた。

「意味がわかって読む本じゃない。でも、この本を読んでいると、世界が無意味でも、その方がいっそのこと美しいんじゃないかと思えてくる。眼鏡の席なんて笑ってたけど」

 いまでは、その無意味さもどこか愛おしく思えて。ずっと黒い円を見つめていた。瞳孔。なんで? 私は遥の瞳から目を離せないでいる。もしかしたら、私は。

「その小説の中に、天使論という物語があるの」

 遥がそう口にした。こいつ、知ってるのか。

「それで?」

「天使の性別はどっちだと思う?」

 まだ読んでいない物語。天使論で描かれる天使の性別はどちらか。そんなこと、知るはずがない。一般天使の性別だって、私は知りはしないんだ。

 だから、私は嫌いなものを叩きつける。

「女」

「そういうところが好きだよ、アゲオ」

「ばかやろう!」

 私は思わず立ち上がってそう言って、手を振り上げていることに気づく。その手は震えて、ゆっくりと下がっていった。

「いまのは違う。野郎なんて。そんなつもりはなかった」

 瞳はやさしく私を見つめていた。二つのレンズを通しても、その光の色は決して褪せることがなかった。

「そうだろうね。ばかやろうについては、アゲオがやったら? そうしたら私は、眼鏡の継承者に、巫女として尽すから」

「バカは訂正しなくてもよさげ?」

「それがしきたり。眼鏡を継ぐ者に尽くすのが図書委員長の役割。で、アゲオヒメの巫女がイクスエハルカというわけ」

「そんな言い方するんじゃないよ!」

 私は勢いで本を掴み、横っ腹で遥の肩を叩いた。

「運命とか、そういうのやめろよ。記号を押しつけるな。そういうのは大っ嫌いだ。せっかく、せっかく……」

 眼鏡があるのに視界が滲んだ。

「じゃあ、ひとりの人間として言っておく」遥の声。「私はヒメちゃんが好き。私はヒメちゃんが好き!」

 図書室中から、またも男女が押し寄せてくる音が聞こえる。

 誰かが言った。

「ハルヒメ成立!」

 してねえよ、そんなもん。

「女と女で恋愛なんて成立するもんか」

「すると思うよ。男より数倍マシにね」

 そう言って、遥は私の手を取った。

 手の甲にキスを落とす姿を見て、私はようやく、自分と遥が接触した本当の理由を知った気がした。

「天使はヒメだよ」

 遥の目が雄のようにぎらついて、だから私は眼鏡になったんだ。

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