命狩る者

 多くの野生動物を追いかけ、その生態をフィルムに焼付けてきた写真家・ニコルセンは己の目を疑った。


 ついに寒さに脳をやられたのだ、と。


 だが、彼の相棒。伴侶とでも言うべきレンズだけは、嘘をつかない。


 ゆっくりとカメラを構えて覗き込むと、先ほどと全く同じ光景が広がっていた。


 狼の群れが雪に紛れて休んでいる。それだけなら決しておかしい事はない。


 問題は中央。群れを束ねている存在だ。


 四足歩行の獣の中に、人間が居る。少なくとも、彼にはそうとしか表現できない存在が、群れで最大の個体の腹を枕にしているのだ。


 まだ若い、青年。雪景色にはよく映える黒い髪ややや色の濃い肌は黄色人種の血が混じっている事を伝えていた。


 歯の根が合わないシベリアで、青年は穏やかに、まるで赤子のように眠っている。


 ジャケットを羽織っただけの姿を見ていると、これでもかと防寒対策を施した自分がおかしいのではとすら思えてしまう。


 静謐、という言葉がこれほど適合する場面をニコルセンは見た事がなかった。


 一種の神々しさすら感じられる様子に惹かれた彼は、今まで保ってきた絶対の距離を縮めてしまった。


 凍った大地に一歩踏み出す音が響き、ようやくニコルセンは己の失態を悟ると、蛇に睨まれた蛙のように動きを止めた。


 元々距離には余裕がある。風下においてのこの一歩は、まだ気付かれる心配は薄いはずであった。


「うっ」


 真っ先に反応したのは狼ではない。人間の方だ。


 ニコルセンは思わず、カメラを落っことした。バンドがなければ、雪に埋まってしまっていた事だろう。


 うっすらと目を開けた青年は、静かに上体を起こす。つられる様に、狼達も動き出した。


 無数の瞳が彼を貫く。そこには、何の違いも無い。ただ、自然の距離を誤った者に対する警戒だけ。


 青年を戦闘に、見事な列を作って、群れは近づいてい来る。


 ニコルセンは動けなかった。動けば、死ぬ。直感していたのだ。


 目と鼻の先。相手が狩りにくれば一瞬で決着がつく距離。


 静かな雪景色の中、歩みを止めた狼達の唸り声が響き渡る。


 ニコルセンにはもはや、運を天に任せるしかなかった。


 ああ、どうか、通り過ぎてくれ。私を獲物や脅威として、相手が認識していませんように。


「何者だ」


 彼の耳にぶつけられたのは、淡々として氷のような声。そして、それをそのまま現したような真っ黒く、鉄のような瞳。


 黙っている選択肢は無かった。言わなければ、確実に死ぬ。そんな直感があった。


「ど、動物の撮影を、生業としている者だ」


 ガチガチと歯が鳴る。噛まずに言えただけ、彼にとっては上出来だった。


 青年が手を伸ばす。ひっと、ニコルセンは体を縮こませた。


 彼が掴んだのは、カメラだった。


「え?」


 思わずニコルセンが見上げると、青年は氷柱の様な視線を彼にぶつけて尋ねる。


「カメラか、命か」


 ニコルセンは迅速だった。脳裏に今度七歳になる娘の姿がよぎったのだ。


 首からバンドを引っこ抜き、カメラを差し出す。


 そのままじりじり後退すると「待て」と呼び止められた。


「は、はいっ」


 思わず身を固まらせる。


 改めて近づいて来た青年が彼の体を物色。他に気になる物がなかったのか「行け」と告げた。


「あ、ありがとうございます!」


 何故か飛び出たお礼。ニコルセンは素早く駆け出した。


 走って、走って、小屋に辿り着くと休む間も無く、レンタルしていたスノーモービルに飛び乗って町へと駆け戻る。


 忘れろ、忘れるんだ。そうしなければ、彼はきっと追いかけてくる。


 それは確信だった。今は生きている、この事実に感謝しよう。


 ズボンを濡らす生温かい感触に彼はそう誓うのだった。




 ニコルセンを見送った青年はカメラの中に残っていたデータを全て消去する。そして、腕に取り付けた端末を操作し、正面のレンズをカメラに向ける。放たれた電磁パルスがカメラの機能をズタズタに引き裂き、隙間と言う隙間から煙を吐き出させる。


 その全てを確認してから狼の一団を連れて歩き出す。数百メートルほど西に進み、現われた底の見えない湖へとカメラを放り込む。


 ここは自然保護地域だ。カメラを引き上げられる心配はない。引き上げられるような頃にはデータは復元不能になっている。


 必要な用事を終えた所で、端末が突然鳴き出す。設定したアラームだ。


 音を止め、スヌーズを切ったところで、彼は先週、職場の専属医とのやり取りを思い出す。


「いいか。一年は何日ある。三六五日だ。その内、お前が仕事したのは何日だ」


「考えた事も無い」


「一七〇日だ、一七〇日! ほぼ二日に一件の作業量だぞ」


 青年は首を傾ける。


 実は未だに彼は医者が何に苛立っているのか理解できてはいなかった。


「少しは休む事を覚えたらどうだ。止まったら死ぬマグロかっ」


「生活の為に仕事は必要だ」


「だから限度があるって言ってるんだよっ。とにかく、医者としてこれ以上の仕事は認められない。上からも健康管理についてはうるさく言われてるんだ。一週間休め。天変地異が起ころうとも、一週間最低でも休暇を取れ! これは命令だ!」


 職場で医師の命令は高い拘束力がある。そういう決まりなのだ。


 彼はその日からすぐに休暇に入った。そして今、きっちり一週間、一六八時間の休養が終わった所であった。


 これで問題なく仕事に戻れる。


 だが、と彼は思う。休暇の間にした事も仕事と変わらなかった。


 これは言わないに越した事はない。また医者にうるさく言われるのはいささか鬱陶しい。


 彼はくるりと後ろを付いてきていた狼の群れ。その先頭にいた一匹の前に屈みこむ。


 視線を合わせ、そっと頬に手を伸ばす。


 わかっているとばかりに、狼が鼻を鳴らす。


「いい子だ」


 それから彼は指笛を吹く。先頭の狼が大きくいななき、さっと踵を返して駆け出す。


 他の狼達も続いて行く。


 一人になった青年は、その姿が見えなくなるのを確認して反対側へと歩き出す。


 ここから町まで約三時間。歩くには天気といい雪の状況といい丁度いい。戻った頃には、仕事が出来るように体も温まって居る事だろう。




 その日、ベラ=ドロノフは休暇を終えて出社する途中だった。


 コーヒーを買いに寄ったコンビニ。こそこそ出てきた少年を彼女は両手で押さえ込んだ。


「な、何すんだ!?」


 必死にもがく年長の少年の挙動は一気に乱暴になる


 彼らにしてみれば早く立ち去りたいのだからそれはそうだろう。


 だが、訓練された彼女をそんな程度では振り解けない。


「気持ちはわかるけど、それはダメよ」


「な、何の事だよ!?」


「無事に皆の所へ帰りたいなら、私の言う通りにしなさいな」


 彼女はいやだいやだと半ば泣きそうな少年を引っ張って店内へと戻って行く。


 そのまま大人しくしているように無理矢理言いつけてポケットからチョコレートバー四本とキャンディー二箱を抜き取った。


 良くもまあ突っ込んだものだわと感嘆する。


 そこへ、客足が止まったのか、騒ぎを聞きつけた店員がやって来る。


「あっ」


 消沈と恐怖が入り混じったまま固まる少年を背に、ベラはにっこりと店員に笑いかける。


「お客様、あの少しよろしいですか?」


「ああ、大丈夫です。こういうお店、初めてで良くわからないみたいで。これとコーヒー、もらえるかしら」


 何かをいいたげでいぶかしむ店員に半ば強引に商品を押し付けながらレジへ進む。


 会計を済ませ、コーヒーと商品の入った袋を手にして堂々と彼女は店を出て行く。自動ドアが開くのに合わせて少年を手招きする。


 彼は慌てて後に続いた。


 店の影になるよう、愛車を背にして彼女は袋を少年へ渡す。


「はい」


「あ、ふんっ」


 彼はふんだくるように袋を掴む。お礼はないが、感謝の念は伝わっていた。


「あのね、今回は気まぐれ。盗みは何があってもダメよ」


「余計なお世話だ」


「こーら」


 への字に口を曲げる少年の頬を彼女はぎゅっと摘む。「いへえっ」


「いい、盗みをしたらお店が困るでしょ。お店の経営が危なくなって、閉店なんてなったらどうなるの?」


「そんな事知るもんかよ」


「ここの店長さんにだって家族は居るのよ。その家族も、貴方達みたいに路頭に迷うわ。あなたを待ってる子達と同じような境遇の子が増えるのよ」


「それは、むぅ……」


 言いたい事、反論したい事はあったのだろうが、少年は唸るに留まる。根は真面目でいい子なのだ、とベラは内心で頷く。


 その責任感が彼を窃盗に走らせたのだ。


「それに、貴方が捕まったらそれこそ大変よ。あなたを待ってる皆はどうなるの」


「ううっ」


 彼女の問い詰めに少年はまた泣きそうになる。ベラは少年の頭を撫でる。


 そして、手帳に電話番号と名前を書くと、切り取って渡す。


「いい、帰ったらここに電話しなさい。私が居た所だから。場所は遠いし、直接は入れないでしょうけど、職員が力になってくれるわ」


 渡されたメモを見た少年はおずおずと見上げながら訪ねてくる。


「これ、姉ちゃんも」


「まあ、そういう事。その紙、無くすんじゃないわよ」


「う、うん」


 少年はきっちりと折りたたみ、ズボンのポケット深くに押し込み、目を伏せ、照れくさそうに礼を告げてくる。


「ありがとう」


「言ったでしょ。気まぐれだって」


「でも、ありがとう」


 メモ帳の内容もあってか緊張もほぐれたらしく、袋を肩に担いで「ところで」と少年は訪ねてくる。


「姉ちゃんは、どうして俺が盗んだってわかったの?」


 ベラはああ、と笑う。


 言われて見れば、店の中から出てきた少年を自分は取り押さえたのだった。


 彼女は己の目を指差した。


「私、心が見えちゃうのよ」


「ちぇっ、なんだよそれ。そんな子供騙しはいらないって」


「あらそう。じゃあ、正直に教えてあげる。私が経験者だったから」


「なんだよ、それで俺に説教かよー」


「経験者の言葉だから、重みがあるでしょ」


「まあ、そりゃあね」


 ベラははたと時計を見る。思ったよりここでの悶着で時間が過ぎてしまっていた。


「私、そろそろ行かないといけないわ。あなたも、皆を待たせてるでしょう」


「あ、うん。じゃあ、ありがとう姉ちゃん」


 少年は改めて礼を告げると、足早に駆け出して行く。


 その背中を見つめながら、彼女は苦笑した。


 本当の事を言ったのに、結局嘘つきになっちゃったか。


 彼女は嘘をついた。万引き経験など彼女にはない。何しろあの少年ほどには苦労がなかったからだ。


 そして、心が見えた事こそが真実。物心がついて少しした頃から現われたその特殊能力。巷では精神感応、エスパーと言われる代物。


 それにより、彼女は少年の盗みを、そしてその裏にある、スラムで身を寄せ合う弟分達のための気持ちを読み取ったのだ。


 だからこその気まぐれだ。


 少年が見えなくなるのを確認した彼女はコーヒーをすすると、車へ乗り込む。


 少し飛ばして行かないと。どやすような上司ではないが、暫く話の種にされてしまう。


 エンジンに火が入る。


 ベラはいつも以上の、運送トラックに負けず劣らず野スピードで会社への雪道を走り出すのであった。




 ロシアと言う地にあっては、雪が積もった道も慣れたもの。ベラに限らず、どの車も普段通りのスピードで会社まで道路を駆け抜けていく。


 この道だけは、仕事もプライベートも関係なく何も変わらない。そんな安心感を抱えてハンドルを握っていた彼女はしかし、数十メートル先に突然現れた人影に目を奪われた。


 見間違いだ。そうに違いない。


 そう己に言い聞かせながら、ゆっくりと車を道路脇へ寄せて停車させた。


 バックミラーを改めて確認する。


 いる。確かにそこに、その人物は存在していた。


 回るタイヤが雪を撒き散らす、周辺には森林しかない道路を歩いている。


 とても防寒とは言いにくい簡素なジャケットを羽織った姿で、静かに前だけを見つめて歩いている。


 今は夏ではない。この極北の地は冬に片足どころか両足を突っ込んでいるのだ。


 この時期にヒッチハイカーが出没するなど考えられない。何より、ハイカーらしい荷物が見当たらない。


 そんな奇妙奇天烈な歩行者を、自分以外の車が気に止める様子が微塵も無い。


 普通ならすぐにでも見なかった事にして立ち去るべき存在であろう。


 異常だ、おかしい、ばかげている。


 そんな言葉はしかし、ベラの頭からすっぽりと抜け落ちていた。


 ミラーからその姿が消える瞬間まで、彼女の視線は、どこまでも前を見据えた不思議な歩行者の瞳に吸い込まれていたのだ。


「っ」


 はっと気付いた時、その歩行者は既に車の脇を通り抜けて行った。


 一瞥すら寄こさないその態度に、まるで自分が道端の石ころにでもなってしまったような錯覚を覚えつつ、彼女は咄嗟にクラクションを鳴らす。


 白い世界をつんざく甲高い音を受けて、歩行者はようやく歩みを止めた。


 ゆっくりと車を進ませ、改めてその人物の脇につけると、助手席の窓を開放する。


 瞬間、冷たい空気と視線がドっと押し寄せた。


 彼女を射抜く黒い瞳は氷柱の如く雪の世界に浮かんでいる。


 そのどこまでも曇りない鋭さに、言葉を失った。


 何もなかった。まるでカメラのレンズのように、およそ感情と言うものを読み取る事が出来なかった。


 ただ、本当にただ俯瞰するように、その人物――まだ若い、東洋系の特徴を備えた青年――は彼女を見つめていた。


 流れる沈黙に、やがて青年は今まで通り歩き出す。雪を踏む足音と風を引き連れて。


「あっ」


 姿が見えなくなり、ようやくベラはそれだけを口に出す事が出来た。


 一体、自分は今何を見たのだろうか。あれは本当に、人だったのか。


 ぐるぐると思考が渦を巻く。だが、その中心ははっきりと、鮮明に浮かんでいる。


 彼は一体、どこへ向かっていたのだろうか。


 彼が進む道と、自分がこれから進む道は同じはずだ。同じ道路のはずなのに、どうしても違うゴールになるとしか思えなかった。


 暫くの間、彼女は呆然とその場に留まり続けるのだった。




「はっはっはっ! まったく、熊を見間違えたか、幽霊でも見たんじゃないのか?」


 民間軍事会社AE社。その本社ビル三階ロビーで、ベラの話を聞いたニコライ=モルグナは高笑いを返すと、肩をポンポンと叩く。


 彼女は小さく溜め息をつきながらも、ほっとしていた。とにもかくにも通勤途中にあった未知との遭遇をそのまま自分の内に抱えていられなかったのだ。


「ひょっとしたら本当におかしな相手を見たのかもわからんが、余計な関わりをせずに済んだんだから万々歳。さっさと忘れるのが一番だぞ」


「ええ、そうします」


「しかし、お前はとことんアブナイ雰囲気の男に縁があるな」


「……隊長、それ以上言ったら蹴ります。あと、今回はそういうのじゃありません」


 ベラは思わず拳を握り締めていた。


 天井を見上げながら顎をさすり聞き流しているニコライの言う通り、ベラは決して男運が良いとは言えない。過去交際した三人のうち一人に至っては他国の情報工作員であったくらいである。


 最後は関係機関に引き渡したが精神感応も万能ではない。嘘発見器同様、表面からでは読み取れる心や感情にも限界があるのだ。


 完全に読み取ろうと思えば、相手との直接接触時間を増やすしかない。結局一夜明けて早々に別れるのが常だった。


「そんな以前の問題で、衝撃的だったんですよ。っと」


 力説の中、彼女は不意に放たれた拳を片手でいなし、ジロリとニコライをにらみつけた。


「何のつもりですか?」


「休みボケ、と言う訳ではなさそうだな。だが、さっきも言った通り、忘れるのが一番だ。どうせ関わる事も無い相手だろう」


「だからわかってますって」


 ちょっとした遅刻のグチのつもりだったが、彼女の想定以上に相手の心配を買ってしまっていたらしい。


 姿勢を正し、ニコライへ向けて敬礼を行う。


「三小隊、ベラ=ドロノフ。本日より職務に復帰します」


「結構だ。それで休み明け早々に済まないがもう仕事は入っている。これから打ち合わせだ」


「了解です」


 ニコライは退役軍人であり、彼女とは一回り年齢差がある。おかげでこうして親子のような反応で済まされた。


 これがもし同年代のマルコであれば、もう暫くの休暇を勧められたに違いないし、からかいのネタにされ続けたことだろう。


 長であるニコライに促されるまま、彼女は廊下の奥にある会議室へと足を踏み入れるのだった。




 世界的に見れば民間軍事会社の歴史は長い。だが、ロシアではまだまだ黎明期である。


 そもそも、国家事業と言ってもいいほどに軍事が生活に根付いているのだ。


 民間軍事会社が設立する余地などほとんどなかったと言っていい。


 しかし、昨今の財政圧迫に加えて旧ソ連より独立した近隣諸国との軋轢、衝突がそんな空気を消し飛ばした。


 退役軍人の天下り先としての機能や外貨獲得の手段としてはもちろんだが、国家の工作機関としてもPMCの存在は要望され、設立が進められる事になったのだ。


 PMCと言う表の顔を利用して、国家の意を受けつつ国家とは無関係の勢力として、諸外国に対する工作活動を担う事が期待されたのである。


 その流れに乗り、設立されたPMCの一つがAE社だった。


 AE社は新進気鋭の会社であり、国家の意向云々に関わる裏のキナ臭い世界とはとりあえずは無縁の組織である。


 もちろん、本当の所はわからないし、ベラはそこに目を向けようという気はなかった。


 組織にとって彼女が必要とされているのであれば、それでいい。


 少なくとも、彼女はそう考えていた。


 キナ臭い世界とは無縁の会社である以上、AE社の主な仕事は他所のPMCと大して変わらない。


 軍事指導、紛争地域で武力提供、警護等である。


 今回、彼女が所属する三番隊に回ってきた仕事は、警護任務だった。


「グロデッキー機械製作所長の息子、ヴァレリー=ルドニコフ氏、ね」


 資料を確認したサラはわずかに眉根を寄せた。


 グロデッキー機械製作所と言えば、ウドムルト共和国にあるイジェフスク工場に勝るとも劣らない規模を誇っている、ロシア連邦有数の兵器メーカーだ。


 ロシア連邦を構成するヴォールフ共和国の産業を担っており、ヴァレリーは所長の息子にして、開発主任の座に就いている。親の立場を差っ引いても、ロシア軍部との繋がりが深い紛う事なき要人だ。


 だが、要人であるがゆえに噂話は数知れず。そのどれもが、決して誉められた内容ではない。


 酒癖が悪く、飲酒運転の常習犯。相当数のモノを積んで揉み消された法令違反は数多し、と言う有様だ。


 まるでドラマから抜け出したかのように女癖の方の悪さも一級品。巷説には事欠かない人物であり、内容の良し悪しでいえば、良しが一で悪しが九である。


 そんな彼女の様子を見て取ったのか、ニコライは「何か不服か」と尋ねて来る。


「いいえ。ただ、何故こんな立場のある人物の警護という大役が我が社に回ってきたのか不可解だったもので」


 いかにもな疑問を吐露し、本音を押し留めて首を横に振る。


 決して、気持ちのいい仕事の出来る相手ではない。しかし、彼女とてプロだ。依頼とあれば拒否などしないし、感情に任せて手抜きをするつもりもなかった。


「それについちゃ俺も聞きたいね。だいたい、警護は確かに仕事の内だが、こいつはどうしたって、軍や警察の方が適任だぜ」


 三番小隊、通称三小隊の副隊長、ボリスが資料の一点を指差しながらベラの後に続く。


 警護とわかる服装、装備は避ける事。その特記された一文に、他の隊員も思う所があるのか、誰も口に出さないながら、賛同の態度を見せる。


 AE社に限らず、民間軍事会社が得意とする警護とは車両などに随伴して行う、目に見える抑止力としての警護が主だ。


 高い武装と練度を大々的に喧伝する事で、物資などの輸送を襲うリスクの高さを相手に教えるのだ。


 だが、今回の一文から、公共の場などで影ながら行うタイプの仕事である事がうかがえる。


 軍と警察機構が未成熟な国家地域であるならばともかく、ロシア国内とあっては話が別だ。


 専門に訓練されている警察や軍の方が明らかに得意とする分野に、民間軍事会社が入る隙間など本来はない。


 特に、今回の依頼主は国家にとって間違いなく要人。その道のプロ達を駆り出す等容易なはずだった。


「今回はあくまでも私的な訪問であると言う事でな。本人はそもそも警護を必要としていなかったんだが、そうもいくまい」


 額をさすりながら、困ったように笑うニコライに、隊員達の間にも、嘆息のムードが漂う。


 ウクライナ事変からこちら、ロシアと近隣諸国の関係はいいとは言えない。血と油と金とがあちこちで流れ出している。


 その原因の一端を担っているとも言うべき人物の本国訪問は、狙ってくださいといわんばかりであり、リスクも高い。そうでなくとも、騒ぎを友につれているような相手である。


 まったくの警護無しではどんなトラブルを起こされるかわかったものではない。


 気ままにふらつきたい本人の希望と何とかお目付け役をつけたいお上の方で調整をした結果、当人が私的に警護を雇うと言う所で落ち着いたのだろうと想像するのは簡単だった。


「それでこの条件ですか」


「そういうわけだ。他に質問は?」


「結局、何で我が社にこんな仕事が舞い込んできたんです?」


 AE社はまだまだ新参の小規模な会社である。


 ロシア国内ではOA社が寡占状態を続けており、実績も規模もAE社では相手にならない。ヴァレリーの警護を担当するならどちらがふさわしいかなど、火を見るよりも明らかだった。


「社長がかなり強めに売り込んだのさ。後はまあ、OAの方も今は人手が足りないようでな」


 なるほど、とその場に居た誰もが頷く。


 現在、ウクライナを始めとした周辺国家とロシアはにらみ合いと工作合戦の真っ最中だ。


 創業が半国策企業としてスタートしたOA社はその工作合戦に駆り出されている。そんな中でヴァレリー警護と言う面倒を引き受けている余裕は無かったのだろう。そこへ運よく、AE社の社長が入り込んだ。


 わかってしまえば簡単な理由だった。


「他に質問は? なければプランを立てるぞ。まあ、約に立つかはわからんがな」


 ニコライが改めてメンバー全員に目を配る。誰一人、声を上げる者は居ない。頷いたニコライを筆頭に、警護プランの策定が厳かに進んで行く。


 会議に参加しながらも、ベラの思考の一部は、ヴァレリーの顔写真へと割かれていた。


 このチームで仕事をしたのは一度や二度ではない。死線もそれなりにくぐってきた。


 それなのに、どうしても不安が拭いきれない。にこやかに笑うヴァレリーの顔が、彼の経歴が、彼女の中に今までにない仄暗い感覚をもたげさせる。


 その感覚は、今朝方見た、得たいの知れない存在が放つ視線にどこか繋がっているように感じられた。


 不安は、結局会議が終わるその瞬間までずっとその背中にまとわり続けるのだった。




「おいおい、困るよぉ。もう少し自然にさ、腕組むくらいはお願いしたいなぁ」


「それだと、仕事になりませんから」


 耳元でねちっこく囁かれ、背筋に走るぞわぞわした感覚を噛み殺しながら、ベラは背後の相手にだけ聞こえる声で返す。


 噂通りの男だ、と内心で顔をしかめた。


 婚約者への贈り物を買いたいと言って百貨店に来ておきながら、今も彼女に粉をかけてきた。


 どうやら彼にとって見れば警護者であろうと女性であれば関係ないらしい。


「お堅い事だねぇ。大体、もっと近づいた方が仕事になると思うんだけど、さ」


 背後から強引に腕を絡ませられてしまう。避ける事も振り払う事もできたが、それを堪えられたのは仕事だったからだ。


 もしもこれが依頼主でなければ、仕事でなければ、マカロフを忍ばせたカバンを顔面にお見舞いしている所だった。


「っ」


 軍人でもなければ、人並み以上の愛国心があるとは思っていない彼女であったが、それでもこんな男が母国に居たのかと、内心驚きで溢れていた。


 彼女がこれまで交際した男達でも、さすがにこれほど手癖の悪い者は居なかった。


 子供の時に触れたスライムのおもちゃよりも粘っこく濁りきった欲望が、絡まった腕から浸透してくる。


 ベラはぐっと奥歯を噛み締めて、そのえもいわれぬ感覚に耐え、歩調を合わせた。


 この依頼を聞かされた時に抱いた不安は残念ながら的中した。


 当初は友人達を装い、依頼主に年齢の近い隊員複数人で百貨店内を移動する予定だったが、当の被警護者がそれに断じて応じようとしなかったのだ。


 結果的に、百貨店内で対象の側に居るのはベラだけである。前後に少し離れた所で、ニコライとデニスがいるものの、店内の混み具合からして、監視以上の効果は期待できない。


 ボリスとユージンは店の出入り時を狙われることが無いようにと外を見回りしているが、実質追い出しに近い。


 会社の意向でとにかく事を穏便に済ませて実績を作りたいせいもあって、とてもまともとは言えないこの体制も隊長であるニコライの判断で受け入れられる事となったのだ。


 ショーウィンドウのガラスに写った己の姿が、笑顔であるはずはなかった。仏頂面を保つだけでも大変なくらいえである。


 こんな様でも、とりあえずデートに誘われたようには見えているのだろうか、と考える。この男、ヴァレリーは仮にも婚約者が居る身だというのに、一体何が楽しくてこんな事をしているのだろうか。


 その気になればすぐにでも知る事が出来るふとした疑問だが、彼女はさっさと頭から振り払う。


 とても知ろうとは思えなかった。それよりも気なるのは、やはり仕事である。


 何かあった際には、ニコライとデニス、二人が来るまでの時間を一人で稼がなければならないのだ。


「もっとも、こんな所でわざわざ僕を襲いに来る相手なんていないだろうけど」


 根拠もなしに良くも言えたものだと、彼女はふつふつと腹の中を滾らせる。


 瞬間、視界全体が黒く染まり、一筋の閃きが走り抜けた。


「っ!?」


 咄嗟にヴァレリーを引き剥がし、空気を引き裂くように右手を振り抜く。


 手の平へ異物が入り込む感覚。痛みは後からやって来た。


 歯を食いしばり、赤い流れを振り払うように、彼女は鞄をヴァレリーの眼前、何も無い空間へ叩きつける。


 当然の如く、鞄は空を切る。変化は、直後に現われた。


 空間がゆらめき、影が浮かび上がる。


 それは、紛れもなく人間だった。何も無い空間から、確かにフードを被った人間が飛び出したのだ。


「なっ、あっ?」


 ヴァレリーの驚きに合わせて、周囲にもざわめきが広がって行く。


 様子に気付いたのか、ニコライとデニスがこちらに向かって駆け出すが、相手の方が早かった。


 素早くベラの手に刺さったナイフを引き抜き、立ち去ろうとする。


 しかし、それを彼女は許さない。ぐっと右手を握り込み、ナイフを抜くのを妨げる。


(行かせない!)


 銃を抜いている暇は無い。鞄をその場に放り、頭一つ体格の違う相手の懐へ踏み込むと、全体重を乗せた手の平を、その付け根を、顔面目掛けて繰り出した。


 撤退を試みた相手の初動を封じ、タイミング、角度、パワー、その全てが申し分なく、防ぎようの無い一撃が確実に相手の顔面、その急所たる鼻を寸分違わず打ち砕く。はずだった。


「ぐうっ」


 返って来たのは想定外の衝撃。ベラは顔をしかめる。彼女が打ち抜いたのは、相手の額だった。


 ほんの一瞬、刹那とでも言うべき合間に、相手は避けるのではなく、顔面で以ってカウンターを返してきたのだ。


(なに、これっ?)


 接触した手の平から、ヴァレリーに触られたのとはまったく違う、猛烈な感覚が体を貫く。


 それはあたかも、高圧で押し出された水流のような激しさと清浄さを持ち、彼女は雷に打たれた様に体を硬くした。


「あぐっ、うわあっ!?」


 静止から解放される間もなく、なんと刺さったナイフ一本で彼女の体は地面から離され、人混みの壁に放り出されてしまう。


 勢いで刃が手から抜け、背中から客の列へ突っ込んだ。


 必死に追いすがろうとした彼女は、フードから零れ出た相手の男の顔を見とめて、はっと息を飲む。


 眼前に突き付けられたのは、どこまでも曇りなく鋭い、カメラのレンズのような、あの瞳。


 襲撃者は、彼女を一瞥すると、フードを被りなおしつつ、踵を返す。


 そのまま、まるで幽鬼の如く、そんなものが存在しないかのように人混みの中をすり抜けていく。


 ヴァレリーの盾となるべく、ようやく飛び出してきたニコライとデニスが銃を構えて立ち塞がった時には、男の姿はどこにもなかった。


 引き起こされて、ヴァレリーともども駐車場へと向かって連れて行かれる。


 ニコライが気つけ代わりに色々と声をかけてくれるようだったが、その全てが彼女の耳をすり抜けていく。


 ベラは手の平から滴る赤い雫とはまた違う温もりに思いを馳せていた。


 まだ、繋がっている。わかる。彼は去るつもりだ。堂々と。


 スイッチを入れて左手に仕込んだマイクを口元に寄せる。


「ユージン、標的は正面。赤外線スコープを使って……」


 そんな大層なモンは用意してないぞチクショウ、との返事に溜め息が漏れる。


 騒ぎを聞きつけたらしい野次馬達が集まり始める。


 うるさい、やかましい。静かにして。集中できない。今はとにかく、彼を、確保しなくては――そのまま、彼女は意識を手放した。




 部屋へと戻って来たニコライは、開口一番、すまない、と告げた。


「何の事ですか?」


 包帯を巻き直していた手を止め、ベラは尋ねる。


「本来なら、交代させるところなんだかな」


「気にしないでください。依頼主の意向ですから、従わないわけにもいかないでしょう」


 あっさりと返事をして、彼女は再び作業へと戻る。言葉に偽りはなかった。


 右手は簡易的だが検査をした。重傷には違いないが、後遺症はさほど心配はない。あったとしても、今後の仕事に差し支えるレベルではないようだ。


 とは言え、利き手をやられている。ニコライの言う通り、本来であれば交代要員の出番ではあるのだが、その道理が通る事はなかった。


 今回の一件で彼女はいたくヴァレリーに気に入られてしまったようで、外すくらいなら契約解除と言って聞かなかったのである。


 結局、本社と相談した結果、彼の意向は受け入れられる事になった。


 元々、この依頼を受けた時点で、一般論が通用するわけがなかったのだ。


「それで、彼は?」


「ぐっすりだよ。まったく、ある意味大したものだな」


 どこか呆れた調子でニコライは答える。


 確かに大したものだ、とベラは少しばかり感心する。曲がりなりにも、彼は要人として骨はあるようだ。


 襲撃直後、身を寄せたのは安全を期して、当初の予定とは違う、こちら側で用意したホテルである。


 秘匿性は低くは無い。だからといって、きっちり睡眠が取れるかどうかとなれば、そこは個人の質となる。


 いちいち気にして寝れないようでは要人の立場は務まらないのだ。


 そこへ、ボリスがいつにもまして眉間に皺を寄せたまま、端末を片手に入ってくる。


 彼は二言三言、ベラへ気遣いの声をかけるとそのまま本題に入った。


「ダメだ、ろくな情報がない。ほとんど何もわからなかった。しかも、だ」


 彼はテーブルに端末を置き、画面を見るよう促。


「報道は全て、映画の撮影扱い、か」


 端末に表示された、百貨店での騒動の報道内容を確認し、ニコライは鼻を鳴らす。


「我々は無許可で映画撮影を敢行した事にされているな」


 ベラも横から画面を覗き込む。


 添付された動画は監視カメラの映像で、はっきりと、誰も居ない空間から現われるあの男の姿が映し出されていた。


 だが、報道されている内容はニコライの言う通りであり、それに対する視聴者層の反応も極めて淡白だ。


 襲撃事件として捉えている所はどこも無い。


「手馴れていますね」


「それだけに不気味だ」


「居合わせた客の動画も放置しているが、報道はどこも横並び。かなり組織的だぞこいつは」


 人間の心理と言うのは、案外単純なものだとベラは思う。


 規制を受ける事無く、大々的にそれらしい内容が発表されれば、大半の相手はそれをそのまま受け取ってしまう。事件に巻き込まれたと信じたくない、面倒事はまっぴら。そう考えれば、都合のいい内容で折り合いをつけてしまうのだ。


 ここで下手に締め付けようとすれば却って、陰謀論や事件性を疑われてしまった事だろう。


 同時に今回の厄介さを痛感する。


 ボリスの言う通り、これは十中八九組織的な力が介在している。報道を横並びにしなければならない、そう出来るだけの力は、単独ではまず成し得ない。


 さらに、ヴァレリーが当事者として名前が挙がるのを嫌がっている事が、事態の後押しをしていた。名乗り出る事ができなければ、事実を訴える事はできはしない。


 AE社は営利企業である以上、上層部の協力は絶望的だ。依頼主の意向を無視するはずがない。


 そもそも、彼女達の取り組みで襲撃は退けられているのだから。


 ベラ達チーム、引いてはAE社では絶対に手に負えないと判断できる材料がない限り、ヴァレリーの意向に沿い、黙って警護を続ける他、選択肢はないのである。


「何の情報もないと言うことは、軍の方からも?」


「ああ、ダンマリらしい」


「こいつはとんだ貧乏くじを引かされたかもしれないな」


 ニコライのぼやき。ベラは同意見だった。


 ヴァレリーが狙われているのは軍の方が良く知っている。今回の件についても、まったく心当たりがないとは考えにくい。


 むしろ心当たりがあっても黙っており、報道の一律化に関して積極的に関与していると考えるべきであった。


「襲撃が成功しようが失敗しようが、彼らには既に準備は出来ていると言う事でしょうね」


「だからと言って、我々がやる事は変わらん。いや、変えられん」


「ええ、そうですね」


 そうなると、とボリスは拡大した襲撃者の写真を指し示す。


「こいつにどう対応するか、だな」


「光学迷彩、か。研究が進んでいるのは知っていたが既に実用化されていたとはな」


「そっちも驚きだが、何よりベラ」


 名前を出され、彼女は来たか、と嘆息する。仕方がないとは言え、やはり言われざるを得ないのか。


「いくら見えない相手とは言え、お前がここまで接近を許すとはな」


 ボリスの問いに、ベラは沈黙する。


 ニコライはどこか渋い顔ながらも、彼女の答えを待っているようだった。


 ベラはちらりとドアの方を一瞥する。ドアの前に気配は感じない。ユージン達はヴァレリーの部屋の中で警護を続けているのだろう。


 彼女の能力を知っている者しか、この部屋には居ない。


 小さく息を吸い「寸前まで、何も感じ取れませんでした」と次げる。


 あの一瞬の感覚をどう説明したものか。前触れもなく牙を向き飛び掛られた、否、センサーに引っかかったと言うべきか。


 とにかく、彼女は間合いに入られるまで、そこに相手が居る事すら把握出来なかったのだ。


 説明に耳を傾けていた二人の顔はこれでもかとばかりに渋く、暗さを増していく。


「そんな事がありえるのか。いくら影の薄いヤツだって、そこに居るかどうかわかるだろ。ガキのイジメじゃないんだぜ?」


「ただ、そうとしか説明できません。本当にあの時、姿同様に、突然現われたとしか」


「確か東洋人だったか」


 ボソリとニコライが呟く。


「言葉を聞いたわけではありませんが、身体的特徴から言って、間違いないかと」


「以前日本の特殊部隊に居た男と話をした事がある。気配を完全に消して、それこそ自然と同化する事で己の存在そのものを認識させない技がある、とな」


 彼の言葉を、ボリスは一蹴する。


「ニンジャの技術ってか。勘弁してくれ。そいつはせいぜい、隠密任務の際の心構えの話だろう」


「普通に考えればな。だが、この状況はどうだ? 光学迷彩を活用する暗殺者と、その背後に見える大規模組織。まるでドラマだ。冷静になる事は大事だが、今一度ありとあらゆる事態を想定するに越した事はない」


 そうでなくともわがままで厄介極まりない依頼主を抱えているんだぞ、と言う声が聞こえてきそうであった。


 ボリスは返事に詰まり、トントンと頬杖をつきながら机を叩く。


 両者の意見はもっともだ。そして、同時に考えてもどうにもならないとも理解しているのだ。


 光学迷彩そのもには、赤外線スコープなどを用意して対応は出来るが、街中では市民や旅行者との見分けを付けられない。カメラと両方を組み合わせ、一目で姿が見えずないのに存在する熱源を見分けるモニターが必要だが、そこまでする余裕はAE社には無い。


 現状、どう頭を捻ろうと、出来る事はただ一つ。ヴァレリーに、依頼主に危険が及ぶ時は我が身を盾にする。それだけなのだ。


 この二人が真に頭を悩ませて居る事は違う、とベラは手に取るように理解していた。


 二人はチームの長と副長だ。彼らの真の心配は、如何に隊員達の危険を少なく任務を完遂させられるのか、なのだ。


 だからこそ、彼女は手を上げて発言する。


「次は、この距離まで近づけさせません」


「何か策があるのか?」


「策と言うわけでは。ただ、相手と接触しましたから」


 額を打ち抜いた手にはいまだ痺れのような感覚が残っている。


 怪我ではない。あの時に確かに、彼女は犯人と、あの青年と繋がったのだ。


 その感覚が、しっかりと刻み込まれている。


 だからこそ、次はない。いくら気配を消そうとも、間合いに入るよりもずっと早くその存在を感じ取る事が出来るはずだ。


「いいだろう。だが、お前だって奴と四六時中べったりしているわけにはいかんだろう」


「仮に野郎がそんな事を言い出したら、後ろから弾が飛ぶぜ」


「何事も油断は大敵と言う話だ。そもそも不測の事態ばかりだからな」


 違いない、と答えるボリスの声音はどこか愉しげな響を放つ。


 肩をすくませるニコライもまた、わずかに口角は上がっていた。


 ああ、そうだ、とベラは肩の力が抜けていくのを感じた。


 結局、そうなのだ。体に傷が付こうが、命が明日にでもなくなろうが、追い詰められたら追い詰められたで、その状況を嗤えてしまう、自分達はそういう人種なのだ。


 では、彼はどうなのだろう。ふっと、そんな疑問が頭をよぎる。彼は、どんな人種なのだろうか。どんな人物であれば、あれほど鋭く、冷たい吹雪を内に秘められるというのだろうか。


 おくびには出す事もなかったが、打ち合わせが終わってもなお、その思いを振り払う事が出来なかった。




 モスクワ東部郊外。古ぼけた外観に響いてくる野太い声また声。いかにも場末と言った酒場雄大なるタイガの前に、ベラ=ドロノフは立っていた。


 一体自分は何をしているのだろうかと問いながら、とやけに靄っぽい光を放つ看板を見上げる。


 寝付きが悪かった。それは本当だ。警護の交代まではゆっくり休もう。そう思ってベッドに入り、目を瞑ると、消えないのだ。あの目が、空っぽのようでその実、意思が詰めこまれたような黒い瞳が、閉じた闇に浮かんでずっとこちらを見つめてくる。


 それが誘惑、自分の欲望の現れだと気付くのに時間は要らなかった。


 よく止められる事無く出てこれたものだと、今更ながらに驚く。


 それもこれも、隊長であるニコライのおかげだ。


 「交代までに戻れ」と出て来る時には釘こそ刺されたが、止められる事はなかった。


 信頼されている。素直に喜ばしいし、応えるつもりではある。


 だが、危険だ。ここから先は、東洋の言葉で言えば虎穴。その危険を冒す必要がどこにあるのかと問われれば、ない。


 とは言え、ここまで来ておいて、今更迷ってどうする。


 送り出しくれたニコライの為、そして自らの興味のため、虎子を得るのだ。


 ベラはぎゅっと右腕を掴むと、自嘲で顔を歪ませながら店のドアを開け放った。


(ああ、いいお店だ)


 くぐもった照明の店内に一歩を踏み出して最初に感じたのは、ソレだった。


 誰も彼女を見はしない。ただ、自分達の宴に興じている。あるものは一人静かに、またあるものは友と笑いあいながら、酒を楽しんでいる。


 椅子の配置、ポスター、照明、音楽、ありとあらゆる物が一体となって、客同士の絶妙な距離感を自然と作り出せるようになっていた。これであれば、友と派手に笑いあおうとも隣の組を不快にさせる事はないだろうし、最初からそうならない雰囲気が作り上げられている。


 気さくだ。だからこそ、誰が入ってこようと誰も気にしないでいられる。


 する必要がないのだ、酒を楽しみに来た客であれば、体が勝手に店の場に同化していける。


 彼女は静かに進む。探すまでも無かった。目的の人物は、何一つ変わらず、あの時の姿で、カウンターの右端から二番目に座っていた。


 彼女はその隣に迷う事無く腰掛けた。気付いているはずだというのに、目的の青年は見向きもしない。隙間風が入ってきた程度の認識なのだろう。


「マスターのオススメをいただくわ」


 彼女はそれだけ告げるとふうと一息をつく。


 酒を楽しみに来たのは間違いない。だが、彼女が真に楽しむのはむしろ肴の方だ。


 マスターは慣れた手つきでウォッカを突き出してくる。


 ベラはそれを引き寄せると、隣の相手に声をかけた。「ねえ、あなたも一人?」


 青年は答えない。瞬間、壁にでも話しかけている気分に襲われるものの、さらに声をかけ続ける。


「一杯、付き合ってもらえる?」


 乾杯をしよう、と杯を持ち上げる。


 彼は、ベラをみとめ、ようやく口を開いた。


「俺は、アンタを知らない」


 抑揚のほとんどない流暢なロシア語で返され、彼女は少しだけ面食らう。


 まるで電話の音声案内だ。別にたどたどしく初々しいものを期待したわけではないが、これは想定外にも程がある。どうすればこんな風に喋れるのやら。


 同時によし、とベラは内心拳を握り締めた。これでもう、相手は私を無視は出来無い。下手に無視を決め込めば、せっかくのこの店内で目立ってしまう。それを良しとする理由が向こうにはないのだから。


「理由はなんでもいいの。同じである必要もないし、古ぼけた形式じゃない」


「いいだろう」


 青年のグラスに、マスターがビールを満たすのを待って、二人はグラスを掲げて乾杯する。


 ぐっとウォッカを飲み干して、彼女は素早く右手を差し出す。


「私はベラ、ベラ=ドロノフ。貴方は?」


 青年は答えない。ただ、じっと彼女の右手を見つめていた。


 包帯が巻かれた手を素早く引っ込めた。


「あ、ごめんなさい。ちょっと仕事で怪我をしてしまって」


 一言断りを入れ、改めて左手を差し出す。そうか、と返事をしつつ、青年も手を差し出す。


 名前を言う気はないようだが、それならそれで構わない。こちらで確かめるだけだ。


 握手を交わすと共に意識を集中しようとした矢先、頭部をハンマーで殴られ腹部にタックルを食らったような衝撃が同時に押し寄せる。


「うっ――」


 まずいと手を放そうとしたが、相手の握力がそれを許さない。


 彼女の意識は、込み上げた吐き気と共に、一瞬でふっ飛んだ。




『ベラ=ドロノフ。二十六歳。アムール州出身。五歳から十歳まで養護施設にて育つ。母親はアリーナ=ドロノフ。父親は不明。アリーナは元ソ連軍超能力研究所所属。研究の影響で身障をきたし引退。直後に死亡。アリーナ自身に才能が発言したのは六歳。その能力を耳にしたKGB系列の超能力者研究所に養成員として、養護施設への寄付と引き換えに入所。KGBエージェントとしての訓練と超能力の訓練に明け暮れるも、予算削減に伴い十六歳の時に研究所は閉鎖――』


 一人の女性の写真が添付された経歴の報告書。クレムリンを望むモスクワ川のほとりでベンチに腰掛けて、男はそれに黙々と目を通して行く。


 一人分空けた隣には、ベルトに腹の肉が乗った、中年の男。新聞を読みながら、コーヒーを飲んでいる。口癖なのか、時折「ん」と言いながら何やら呟いたりしている。


 さすがに雪景色が見ごろを迎える時期とあって、観光や散歩をする者達が溢れており、二人に気を配る者は居ない。居たとしても、この二人が関係者だと思う事はないだろう。


 年齢は親子程度だが、纏っている雰囲気が正反対であった。


 中年の男は俗世に染まり切っているが、書類に目を通している青年は植物か庭石のように、風景に溶け込み社会からは一線を引いてる、離れた者だけが持つ空気をはらんでいる。


 この青年こそ、ヴァレリー=ルドニコフを襲撃した暗殺者である。狼の名を持ち、殺し屋のギルド《組織》に属している。中年の男性は、組織と狼を始めとする殺し屋達の連絡員だ。


「まだ研究が続いていたのは知っていたが、ん、本物かね」


「ああ」


 書類を確認しながら、狼は頷く。


「まさか君が、ん、あの距離で失敗したと知った時は目を疑ったが、ん、それであれば納得だ」


 合点がいったとばかりに告げる連絡員の言葉に、狼は耳を傾けること無く資料に記された内容を頭に叩き込んでいく。


『――研究所閉鎖後、彼女は担当職員のツテでとある傷痍軍人の世話人を五年努める。それが、現隊長ニコライの元上官だった。軍人が死亡後、見舞いに来ていた事で面識のあったニコライに誘われ、AE社へ入社――』 


 書類の付箋には、訓練を受けていた事を彼が見抜いていたのでは、とあった。


 なるほど、五年のブランクを加味して尚見抜くとは、隊長からして優秀な目を持つ兵士のようだと、狼は理解する。


 KGBや軍とも直接ではないにせよ関係がありながら、そちらに属すことはなかったというのは、最終的に超能力の軍事利用価値が見出せなかったと言う事だろう。


 その力が本物であったとしても、その能力を持った人物が何人居ると言うのか。何万分の一、あるいは何十何百、はたまた億か。


 数字はどうあれ、恒常的に要員が確保が出来無いのであれば戦力とは呼べない。用心棒と軍事ではワケが違うのだから。それであれば、最新の科学に投資をした方がよほど理屈に合う。


『――特に精神感応に優れた才能を発揮。輸送護衛任務では待ち伏せの発見でその能力をいかんなくふるった。強い殺意、悪意には一段と敏感であり、意思がこもっていれば爆弾ですら発見できたとされる――』


 彼女の超能力を把握しているのは、AE社でも現隊長のニコライと副隊長のボリスのみ。正しい判断だと狼は思う。


 この事実を他の隊員に知らせたとして考えられる反応は二つ。一つは精神感応の特質からして、不気味あるいは不快がる。もう一つは、その力への依存もしくは責任の転嫁。どちらにせよ、部隊の統制と言う意味でも知る者は少ない方がいい。


 加えて、一個人として相手をきちんと見ているのであれば、本人の希望がなければ会社の上部へ報告などもってのほかだ。何をどう利用されるのかなど、想像だに難くない。それをしないと言うのだから、二人はかなりの人格者だ。集団行動における苦難を知った人間である事には違いない。


 書類に全て目を通し終えると、冊子を閉じて封筒へしまう。


「他に必要なものはあるかね?」


「これで十分だ」


「ん、しかしなんだね。いきなり君から連絡を受けた時は引っくり返りそうになったものだ。その上、ん、女性一人の資料の要求だからね。よく彼女がその、ん、エスパーと言えばいいのかな。そうだと気付いたものだ」


「確信は、今得た所だ」


 異変を感じたのは最初の接触。狩りの時ほどではないにせよ、道ですれ違った事にさえ気付かれない程度には気配を消していた。だと言うのに、彼女は気付いた。だが、時にはいるのだ。妙に他人の気配に敏感な相手が。


 しかし、二度目があっては偶然とはいえない。


 明らかに、あの時、あの瞬間の彼女の反応は異常だった。


 こちらの攻撃の方向、タイミング、全てをほんの一瞬だが先に見切っていたようだった。こちらの姿を、少なくとも視認できていない状況かではおよそ考えにくい事態。


 だからこそ、彼は離脱を選択した。あの場で仕事を続けた場合のリスクを天秤にかけ、情報を得るために。


 必要なものを得て、狼はベンチから腰を上げる。


「仕事はキャンセルだ」


「ふむ、ん? よいのかね?」


「ああ」


 今回の失敗は、己の用意に怠りがあったそれだけだ。標的の周囲を固めるものを傭兵と括った瑕疵。それ以上でも、それ以下でもない。


「しかし、これを予測しろと言うのはね、ん、酷だと私は思うんだがね」


 連絡員の男は、仕事を続けてもらいたいと言外に告げる。


 だが、狼はそれを許さない。誰でもない。己の流儀から外れてしまう、と口には出さずに背中を向ける。


「まあ、そういうのであれば仕方ない。ん、誰か引き継いでくれる者がいればいいのだがね、ん」


 いまだ未練がましく呟く男に、狼は言う。


「依頼主の願いは叶えられるだろう。そう遠くない内に」


 それ以上の言葉は不要だ、と彼は歩き出す。後ろで「ん」と何かを言いかけた声が聞こえた。


 仕事はすでに失敗している。今更、己のミスを棚に上げて続けるつもりは狼にはなかった。


 ここから先は仕事ではない。不始末に始末をつける。当然の道理。成すべき事を成すだけだ。


 彼から少し送れて、連絡員が去って行く気配が背中に伝わってくる。


 二人のいた痕跡は、静かに振り出した雪が覆い隠す。


 それは、狼が報告書の女、ベラ=ドロノフと再会する数時間前の邂逅だった。




「――っあ」


 意識が戻ると同時に、ベラは強烈な目眩を覚え、カウンターに肘を付いた。


 場末のバー《雄大なるタイガ》の、あれほど心地よく感じられた喧騒が、今はうるさいと思わずには居られない。


 繋がったのはほんの数秒。それこそ、マスターが彼女のグラスにおかわりを注ぎ終わるまでのわずかな間で、彼の記憶を、精神を、彼自身が忘れたと思っている古い事象まで感じ取り、読み取り、知る事出来てしまったが、


 彼は知っていた。理解していた。彼女の力を。それでも尚、彼女の感応を受け入れた。


 だから、彼女は踏み込みすぎた。一歩目で、目的地に到達してしまったのだ。


 人の精神は底なしの沼、あるいは無限の森林だ。深みへ足を踏み出せば、それだけ帰り道は遠ざかり、見えなくなる。


 もしもあと少し、手を放すのが遅ければ戻って来れなかった事だろう。


 歪む視界の中で見上げる。彼は、そこに居た。


 女性が仮にも突っ伏しかけたと言うのに、揺らぎ無く、あの黒い瞳でじっと彼女を見据えていた。


 手を差し出す事もせず、立つかどうかを観察している。


 まるでツンドラだ、と彼女は思った。


 彼の中は、静謐に満ちていた。どこまでも静かで、冷たく、覆うものは何も無い。彼は踏み入れる者を拒まない。だが、決して根付かせる事もない。


 目眩がようやく治まって来る。視界もはっきりし始めた所で、彼女は体を起こし、少々不機嫌に告げてみる。


「あなた、エスコートは苦手?」


「下手だと言われた事はある」


 やっぱりね、と告げて気付け代わりにグラスを傾ける。


 命の水だ。頭の中が冴えてくる。


「じゃあ、まず、名前。名前を教えてちょうだい」


「イヴァン・ イヴァノヴィチ」


「――違う」


 思いがけず零れ出た一言に、彼女ははっと口を押さえる。


 あからさまな偽名だったとは言え、流さなければならなかった。これが潜入調査であれば、間違いなく次の日には川に浮かんでいる。


 青年はわずかに目を細め、そうか、と呟き彼女から目を離すと、カウンターの向こう側をじっと見据える。


「ならば、お前で構わない」


「あなたは、それでいいの?」


「ああ」


「要しないというの? あなた自身の名前を」


「今の俺とは関係がない」


 今の、か。彼女は注がれた三杯目が表面張力でゆらゆらと揺れる様を見つめた。


 彼女は教えられる。彼が忘れてしまった、無くしてしまった本来の名を。


「名前って、その人の根幹を支えるものじゃないかしら。生きていく以上、名前はどんな時でもついて回る。違う?」


「名前を必要とするのは己ではない。今は、あんたか」


 ベラは脱力したようにカウンターへ肘をつき、顎を乗せる。


 彼の中で見た記憶。事故で全てを失い、名前すらも失くしたその過去を、利用しようと考えたのだが、防御は堅い。


 この勢いでは、彼は恐らく、婚姻届のような公的文書にも躊躇わず偽名を使う事だろう。


 ならば、と直球を投げ付ける。


「それなら、あなたは何者なのかしら」


「あんた次第だ」


「ええ?」


 思わぬ返事に、彼女は眼を瞬かせる。はぐらかされる事は想定していたが、その中でも実に意表をついた返しである。


「例えば、ロシア語を話せるクマがいたとして、そいつが自分は人間だと思っていても、回りがクマだと言えば、結局そいつはクマになる。クマとしてしか扱われない」


「なるほど。でも、それでは私や周囲の人間があなたを何者としても定義しなければ、どうなるのかしら」


「どうにもならない。何も、変わらない」


 ベラは困惑する。青年の言葉には淀みがない。こちらを攪乱しようと言うつもりも感じられない。


 その一つ一つが、全て彼の本心だとしか思えない。


 ならば、ますますわからない。


「それじゃあ、ただ生きているだけじゃない」


 裏を返せば死んでいないだけ、ともいえる。


 存在はしている。だが、誰からも何者としても認められない。


 幽霊の方がまだそうと定義してもらえるだけマシだろう。少なくとも、ベラはそう思った。


「珍しい事ではない」


「何を言ってるの?」


「トラは自分をトラだとは思わない。まして肉食動物などと言う意識はもちろんない。彼らはただ生きているだけだ。親と定義した相手から、子と定義され、生きる術を教わる。だが親がいなくなれば、そいつは何者だ? 人間がお前はトラだと定義したとしても、向こうはその事実を理解しない。そもそも必要としていない。なぜなら、彼らは相手を定義するだけだからだ。自分にとって相手が何者か。獲物か、敵か、はたまた味方か。それさえできれば、生きていける。もっとも、あんたに言わせれば、生きているだけ、と言う事になるだろうが」


 ベラは衝撃に言葉をなくす。


 言わんとしている事は理解できる。他者が己をどう定義しようとも、もしくはまったく定義しなかろうともなるほど、それならば関係ない。ただ、自分が生きる為に、相手を、世界を定義する。だがそれは、人の生き方ではない。


「あなたもそうなのかしら?」


「言っただろう。それを決めるのは、俺ではない」


「そう」


 ベラは椅子に座り直して、グラスを空にする。


 胃の中が温まっていく感覚に合わせて、彼女の中で感応で見た彼の内面がパズルのピースのように綺麗に繋ぎ合わさっていく。


 彼は獣だ。命を狩って己の生きる糧とする、肉食の獣。人の姿をして社会と言う世界に生きる以上、それを定義するならば、殺し屋だ。そして、狼と言う名は実に的確と言えるだろう。


 組織と言う群れに属し、他者の命を己の命の糧とする。だが同時に、自分が生きる為に必要があれば群れを抜ける事も、群れの主に敵対する事もいとわない。


 まさに狼と言える。


 しかし、それはこの彼を知る者、組織内での定義。


 今の彼は、この酒場では、単なる酔客の一人。埋没した脇役と変わらない。


「あなたは、何者でもないまま死んでしまうかもしれない事が怖いと思ったことはないの」


「生まれた者は必ず死ぬ。いつ死ぬのか、どう死ぬのかは誰にもわからない」


「でも、自ら死を選ぶことはない」


「群れを追い出された狼ですら、座して死を受け入れる事はない。腐肉をくらってでも生きる為の努力をする」


「そうまでして、その先にあなたは何を求めるの?」


「死だ」


「え?」


「生きる事は死ぬ事だ。その死が、他の何がしかの生きる糧になる。それで十分だ」


 強い。彼女は思わず肩を震わせた。


 だが、その強さは、いつでも死ねると言う強さ。己以外に執着しないと言う事。必然的に孤独を呼び込む。


 何より、と口にでかかった言葉をぐっと飲み込んだ。


 それを言ってどうなると言うのか。どうにもならない。何も変わらない。


 ならば、と彼女はマスターを呼ぶ。


「コーラを」


 マスターは頷くと、ウォッカとコーラで作ったカクテルを差し出す。そしてそのままカウンター奥の客の相手をしに場を離れた。


 添えられたレモンを絞りながら「私は、コレが好き」と呟く。


「コーラとウォッカ。融和って感じがするでしょ。食べ物には関係ないのよ。国境も、政治も。必要なのは、生産者と消費者の利害だけ。人間も同じ。利害に関係ない場所にいれば、敵でもなんでもないわ。だから、これを見て、飲んで、その間は特に穏やかな気持ちになれるの」


 ベラはゆっくりとカクテルを味わう。程よい甘さとほのかな酸味が口の中に広がる。


 店内の喧騒が遠ざかっていくようにすら感じられる。


「あなたも、一口どう?」


 グラスを差し出す。


 狼は受け取らなかった。


「そう。残念ね」


 彼女は目を伏せ、ゆっくりとカクテルを飲み干す。いつもよりも少しばかり、酸味が強く感じられた気がした。


「本当に、残念だわ」


「もういいだろう」


「あっ、ちょっと待って」


 これ以上話す事はないとばかりに、青年は紙幣をテーブルに置く。


 ベラもそれに続き、彼の腕を取った。


「何のつもりだ」


「仮にも男女が握手を交わして会話を楽しんだのよ。別々に出て行くなんて、不自然だわ」


 彼も納得したのか、そのまま連れ立って店の出口に向かって行く。


 このお店の雰囲気と彼の性質を利用して腕を取れたのは収穫だった。


 それだけに、彼女の中にちょっとした気持ちが湧き上がる。


 夜間に出歩く以上、最低限の護身装備はしてきた。 腰には銃が差してある。左手首には小さいがナイフも、だ。


 店を出ると同時に脇腹に突き刺す事も。


「止めておけ」


「っ」


 降って来たのは忠告。ベラは体をこわばらせる。


「あなた、読めるの?」


「奇襲するなら、腕を組むべきではなかったな」


 なるほど、心を読まれたのではないのか、と彼女はわずかに肩を落とす。彼が読んだのは体の動きだ。緊張や体の重心の動きなどから、彼女に差しかかった魔を読み取ったのだ。


 もしもこれでナイフを手にしていたら腕を圧し折られていたに違いない。


「それ、十分に超能力よ」


 そう呟く。声は店の喧騒に消えたが、狼の名を頂く青年の耳には届いたはずだ。


 しかし、彼は何も答えない。歩調を合わせて店の外へと彼女を連れ出していく。


《雄大なるタイガ》の看板が見えなくなった所で、彼は足を止めた。


「ここまでだ」


「ええ」


 ベラは頷くが、その腕を放す事が出来ず、より一層強く、抱き寄せるように腕を絡ませる。


「何のつもりだ」


「さっきの話。一つだけ、足りないものがあると思わない?」


「と言うと」


 ベラは、己の心臓が強く跳ね上がるのを感じた。


 何をしているのだ、何を言おうとしているのだ自分は。何故言おうと思ったのかと聞かれたら、説明は出来無い。もしも理由をつけるならば、それこそ本能と言う物だろうか。


 だからこそ、彼女は言葉を止める事が出来なかった。


「生きる事は死ぬ事。それはきっとどんな生物だって本能的に理解している事実なんでしょうね。でも、だから、死ぬ前に果たすべき事がある。そうじゃないかしら」


 言ってしまった、と彼女は手を強く握り締める。それは結果的に、彼の腕をさらに抱きしめる事になった。


 沈黙を保ったまま、青年は彼女の手を取ると、そのまま振り解く。


「言ったはずだ。ここまでだ、とな」


 その手からも、彼女を覗き込む瞳からも、一切の揺らぎも、逡巡も感じられない。


 背を向けて去って行く青年の背中に手を伸ばしかけて、彼女はぐっと押し留まる。


 そうだ、こでいい。だからこそ、これ程までに惜しい。


 闇へと消えて行く青年の姿はどこまでも独りで、どこまでも淀みない。降りしきる雪の中でもはっきりと浮かんでいた。


 美しい、と彼女は思った。


 彼の覚悟、彼の生き方は。


 しかし、矛盾している。あの時飲み込んだ言葉が、再び込み上げた。


 そして、それを彼は理解している。


 だから彼は貫こうとする。己の生き方を。


 その覚悟が、あの瞳に宿っている。あの鋭く冷たく、ぽっかりと浮かぶ黒い瞳こそ、彼の生き方そのものだ。彼は確かに真っ直ぐに世界を俯瞰している。だがそれ以上に、闇に浮かぶ灯火の如く、世界に浮かぶ黒に対して自分達もまた、真っ直ぐにそこへ目を向けずにはいられないのだ。だから、彼の瞳は桁外れに真っ直ぐに見えてしまう。


 追いかけたい。出来る事ならば、このままあの背を追いかけたい。しかし、許されない。


 拳を握り締めて、ベラは彼の向かったのとは違う路地へと踏み出す。


 自分には自分のやるべき事があるのだから。彼ならきっと仕事だ、とでも言うのだろう。それこそ淀みなく、どこまでも真っ直ぐに。


 握り締めた右手は傷口が開き、血が滴る。


 嗚呼、と彼女は心の中で溜め息をこぼす。やはり私には覚悟が足りない。こんなにも今、後ろ髪を引かれているのだから。




 狼との接触で多少はすっきりする所もあったのだろう。ホテルへと戻ったベラは、そのまま倒れるように眠る事が出来た。


 交代時間の十分前に起きる事が出来たのは、日頃培った生活リズムのおかげだろう。


 そして、彼女は狼の出自を除き、必要な情報を全てニコライとボリスへ報告する。


「噂には聞いていたが、実在していたのか」


「だが、それなら情報操作といい、軍連中の二の足といい、説明がつくぜ」


 二人が特に反応したのは《組織》についてだった。


 殺し屋ギルド。大手の企業が密かにパトロンとなっているとの噂もあり、最先端の武器や機器の試験を兼ねて提供しているという話まであると言うが、光学迷彩などを見てしまっている以上、彼らはその噂の信憑性の高さを思い知る。むしろわざと流している噂なのだろう。


 広告の手法としてよく利用されている手でもある。


「殺し屋を必要とする者は多いからな。我々だって似たような事はしている」


「兵士並に歴史があるような生業だぜ。メディア共だって散々世話になってるんだろうさ」


「しかし、そうなると気になる事がある」


「ああ。ベラ、お前の話だとそいつは仕事をキャンセルした、間違いないな」


 彼女は静かに頷く。次に来る質問も、彼女は把握していたが、黙って聞かれるのを待つ。


「だが、ヤツは来ると?」


「はい」


「理由はなんだ。失敗の後始末であれば何も我々と一緒にいる所を今更狙う必要はあるまい」


 そう、それが普通の考えだろうと彼女は内心で頷く。


 そもそも二人にしてみればキャンセルした事からして疑問に思っているはずだ。


 絶対にミスの無い者などいない。それはいくら《組織》としても考えているはずだし、依頼主にしてみれば依頼通り標的が始末されれば問題はない。


 特に今回は情報操作も機能しているのだから尚更だ。


 彼女が狼の記憶を拾った限り《組織》はその構造上、決して暗殺者本人と依頼主が仕事に関して接触する事はない。


 《組織》が依頼内容を仲介し、所属する暗殺者達が気に入った引き受ける。彼らが知るのは依頼の内容のみであり、依頼内容や依頼主には決して立ち入らないように出来ているのだ。


 だからこそ、今回狼が依頼から手を引く理由はまだないのだ。彼が普通の殺し屋であれば。


 ベラは今一度、手にした狼の情報を整理する。出自は説明するだけ時間の無駄だ。説明すれば二人もわかってくれるのだろうが、そこまでする必要はない。理由だけを、その見解を述べればいい。向こうとて、求めているのはそれだけなのだ。


「我々は餌ではなく、敵と認識されたんです」


 狼にとって、殺しとはすなわち糧を得る行為。故に、標的であるヴァレリーは餌と同義だった。


 しかし、ベラが狩りを阻んだ。その上拠、紛れも無い目撃者となった。それはあの場に居たニコライ達も同様だし、未だ生存しているヴァレリーも変わらない。


 故に、彼は定義したのだ。彼女達を、彼の生存を邪魔する、言うなれば狩場を荒らす他所の群れ、すなわち明確な敵である、と。


「しかも、元々の依頼は本国内でヴァレリー一人を暗殺。それ以外の損害は抑える事が条件だったようです」


 恐らく、クレムリンのお膝元で重要人物が警備の隙間を縫って暗殺される。それによって他の重要人物達を、もっと言えばクレムリン関係者をいつでも狙えると宣言したい泡沫組織が資金を出し合って依頼したのだろう。


 あの百貨店内で襲撃が成功していれば、多くの反連邦組織が名乗り出たことであろう。


「つまり、今のヤツにとっては、我々全員が標的と言う事か」


「俺達全員がヤツにとっては危険な証拠、か。迷惑な話だな」


 彼女の説明を聞いていたニコライとボリスはどう返事をしていいのか困ったような顔をしていたが、必要な事は伝わったらしい。


「はい。ですから、彼はまた来ます。それも、六十時間以内に」


「我々を一網打尽に出来る期限、か」


 ヴァレリーがこのロシア本国で過ごす期間は三泊四日。四日目の午後には発ってしまう。


 各個に暗殺のような長期計画は狼にとってもリスクが高い。こちらの準備が整わない内に狙うのが上策だろう。ベラであったとしてもそれを選択する。


「わかった。各員には確実に次があると伝えておく。一応、装備も整えたいと依頼主に伝えてみるとしよう」


「どこまで呑んでくれるかは疑問だな。野郎、意外と頑固だぜ。それに、妙な安心感を持ってやがる」


 ボリスの台詞に、ベラは肩を竦めた。


 部隊にとっては申し訳ない限りである。はた迷惑な信頼を買ってしまった。


 三人がようやく手をつけたコーヒーは、とっくに冷め切っていた。


 湯気のないコーヒーを飲み干しながら、彼女の中には不安がよぎる。


 そしてその不安は結局的中する事になる。


 ヴァレリーは、警護として必要以上の装備の所持を認める事は無かった。


 ただ「彼女に任せれば大丈夫だろう」とベラの肩を抱き寄せただけだった。




 モスクワ郊外、とても首都の圏内とは思えないような湖畔の森林地帯。


 雪に覆われ人の気配が希薄な中、スノーモービルが軽快な音を立てて疾走する。


 ベラはヴァレリーを後ろに乗せていた。必要以上に密着されているが、仕方ない。訓練していない人間が両手でしっかり捕まらなければすぐに振り落とされてしまうだろう。


 だが、彼女はそれ以上に背後を気にしなければならなかった。


 今日はヴァレリーの本国訪問三日目である。二日目である昨日、彼は大学時代の同級生が教授になったという事で、仲間内のパーティーに参加する予定となっていた。


 そして、パーティーは滞りなく、ベラ達のチームが拍子抜けするくらいあっさりと終わりを向かえた。


 彼女は周辺に潜んでいるはずの狼の気配を探ったが、移動中も、会場内にいるときも、彼の気配を近くに感じる事はなかった。繋がった感覚が訴えていたのは、彼がモスクワを出ていない、標的である彼女達を決して諦めていないと言う事実だけであった。


 そして今、依頼主であるヴァレリーが休暇最後の息抜きにして楽しみに選んだ狩猟の真っ最中である。


 鹿の良く出るポイントへと向かっている最中なのだが、彼女ははっきりと、昨日とは比べ物にならない程近くに彼の、狼の気配を感じていた。


(やはり来たわね)


 近づいては来ないが、離れもしない。背後から吹雪のようなあの気配がしっかりと追いかけてきていた。


 確かに郊外のこの地域であれば余計な邪魔をされる心配はないだろう。一網打尽にするには丁度いいのかも知れないが、この森林地帯に積雪である。


 ベラが精神感応でもって、彼の気配をレーダーの如く捉えている以上、彼がこちらに接近する機会はない。


 それは向こうもわかっているはず。だと言うのに、何故わざわざ、この場所についてきているのか。


 それが彼女には大きな不安となっていた。一体彼は、どんな手立てを準備したと言うのだろう。


 今回ベラ達は狩猟にかこつけてショットガンやライフルを持ち出している。もちろん、赤外線スコープもだ。


 それだけに彼女はどうしても心を落ち着ける事が出来なかった。


 狼は一体、何を狙っているのか。銃を用いようにも、彼の専門はナイフを中心とした近接型の暗殺だ。ヴァレリーだけならともかく、彼女達チーム全員を狙うには、環境からして不利だ。彼が二発目を撃つ前に、狙撃に長けたユージンが彼を仕留めるだろう。


 くわえて、郊外に出てから感じている気配がまるで遠ざからない。近づいてもこないが離れないと言うのも気味が良くなかった。


「いるのか?」


 無線でニコライが呼びかけてくる。


「ええ。市街地を出てからずっと付いて来てます。ライフルの射程外ですが、迷わずこちらを追ってます」


「了解だ。ユージン、マルコ。後方の警戒を強化しろ」


 ニコライの支持に二人は素早く銃を持ち直す。ユージンは赤外線スコープの電源を入れ、背後の様子を確認するが、何も見えなかったのだろう。首を横に振った。


 こちらを警戒をしているのは間違いないだろうが、気配だけを感じる事がこれほどまでに不安を覚えるとは。


 通常であればこちらの方が武装も人数も上であり、有利のはずだというのに。


 落ち着かない心を抱いたまま、彼女達は目的地である休憩小屋へと辿り着いた。


 ここから先はエンジンのついたスノーモービルは使えない。エンジン音と油の臭いを振り撒いていては狩りにならないからだ。


「さてさて、それじゃあお楽しみと参ろうじゃないか」


 まったく命を狙われているとは思えない気楽さでヴァレリーは手を叩き、猟銃を肩に担いで歩き出す。


 ベラは出来れば後ろで狼への牽制に回りたかったが、彼に隣に来るように指示されてそうも行かない。


 変わりに、殿はユージンが務める事になった。


 小屋からおよそ一㎞弱も歩いた所で、ベラたちは足を止める。


 鹿の足跡を見つけたのだ。


「前情報通り。この辺は鹿がよく出るみたいだね」


 ヴァレリーの声は待ちきれないとばかりに浮ついていた。


 ろくな感情を抱けない相手だが、この図太さだけは見習ってもいいか、と思った矢先、はっと右手に向いた。


 居る、彼だ。しかし、先ほどまで背後から付いてきていたというのに、いつの間にこちら側へ移動したのか。回り込むような気配は感じなかった。まるで突然現われたように思えたが、距離は十分に離れている事から、ヴァレリーの警護で僅かとはいえ気が逸れたのだろう。


 人数ではこちらが有利。しかし、舞台は彼に分がある。


 殺し屋のギルドである《組織》。その訓練所で保護された彼は、狩猟の才能を発揮。そこに目をつけられて、殺し屋として育てられたのだ。こんな積雪地帯はそれこそ、整備されたスタジアムと同義。


 僅かなミスが大きく広がってしまう。


 気を引き締めると共に、ユージンへハンドサインで狼の居る方角を通達する。


 動きを変えてきた事で、ボリスもそちら側へと警戒を強める。


「こっちだ、行こうじゃないか」


 チームの警護などどこ吹く風で、ヴァレリーはベラの腕を引き、足跡の方向へ行こうと促す。


 言われるがまま、不穏な影を遠くに引きつれ、彼女達はヴァレリーと共に森林地帯を進んで行く。


 付かず離れず歩き続ける事三十分。森林に切れ目が見え始める。


 地図が確かであれば、その先には湖が広がっているはずだった。


 湖の畔が見え始め、鹿の足跡も少しずつ新しさを増していく。


「ちょっと待って下さい」


 自然と、ヴァレリーの歩調が早まり始めた矢先、ニコライが制止した。


「なんだ一体?」


「居ますよ」


 不満げなヴァレリーに、ニコライは湖の方を指差してそう告げる。


 彼は「本当かっ」と大きな声を出すヴァレリーに落ち着くように聞かせつつ、体を低くし、ゆっくり進むように進言する。


 居るのか、と改めて訪ねられたベラは恐らく、と返す。もちろん、確信はあったが、これ以上気に入られても面倒なので、断言は避けた。


 さすがに近づけば、嫌でもわかる。付いてきている彼とは違う、生物の気配。凍っていないこの湖に水を飲みに来たのだろう。


 ニコライとベラの言葉で納得したのか、ヴァレリーは拙いながらも足音を殺して森の境目へと体を低く進んで行く。


 ベラ達も同じように後に続く。


 湖畔では確かにヘラジカの群れが水を飲んでいた。


 狩猟はさほど嗜んでいないベラ達ではあったが、やる事は普段の仕事の時と変わらない。


 ヴァレリーも今回ばかりはニコライの指示に大人しく従っていた。


 出来るかぎり呼吸を落ち着けて、音を立てぬよう銃を構える。


 距離はおよそ五百メートル。風下に居るおかげで気づかれていないが、正直いつ気付かれてもおかしくない距離だ。少ない木々に隠れるよう全員が身を低く保つ。


「いいですか。頭を狙わないでください。体を狙ってください」


 ライフルのスコープを覗き込むヴァレリーに、ニコライはそう告げる。


 元々が大きいヘラジカだが、下手に頭を狙って角にでも当てたら目も当てられない。全速力で逃げられてしまう。素人には点を撃たせる真似はしない。あくまでも狙いは面だ。即死させられずとも、ライフルの威力とこの距離なら仕留められる。


(消えた、違う。かなり離れたわね)


 いくら気に食わない相手であったとしても、やはり狩りで獲物を狙っている瞬間と言うのは、誰しも注意がそちらに向くものだ。ユージンやボリスの気もわずかだがヴァレリーの一撃に興味を割いている。


 だが、ベラは落ち着いて周囲に気を配っていた。狼の気配が突然ぐっと遠くなっていく。


 自分で言うのもなんだが好機ではないのか、と思う。しかし彼の気配は遠くなる一方だ。直接接触した事で、どれだけ気配を消しても気付けるほど繋がったとは言え、確実に感応できる距離となるとおよそ一㎞。そのラインにどんどんと近づいていく。


 その時、雷鳴のような轟きが曇天の空に響き渡る。


 鳴き声が上がるよりも早い怒涛の足音。地面が揺れる。一際大きい揺れが背中を振るわせる。


「やった、やったぞ!」


 引き金を引く瞬間に息すらも殺した反動か、ヴァレリーが歓喜の声を高々に上げる。


 湖畔を改めて見やると、脇腹に穴を空けたヘラジカが横たわっていた。息はまだあるようだが、横に倒れた事と狙撃の衝撃でまともに立ち上がる事は出来無い。そして群れの仲間達はさっさと逃走してしまっていた。


「トドメを」


「おお、そうだね」


 喜び勇んで飛び出したヴァレリーを追いかけて、ベラ達も森の中から出て行く。


 瞬間、彼女達の進行方向左手より、ヘラジカ目掛けて影が飛び出す。


「っ、止まって!」


 背中に走る悪寒。ベラは声を荒げて制止すると、影に向けて散弾銃を構える。


「ああ、くそっ」とヴァレリーが呟く。


 飛び出してきたのは、一匹の狼。狙っていたかのように、ヘラジカの首筋へと牙を突き立てる。


 正確に気道を潰され、ヘラジカは四肢を震わせていたが、やがて力尽きる。


 そのまま、狼はベラ達を無視して新鮮な獲物に喰らい付いた。


「僕の獲物だ」


「話の種にはなりますね」


 ニコライは苦笑するがヴァレリーは当然収まらない。


 追っ払ってやる、とライフルの銃口を向けようとした彼を、ベラは声を荒げて制止する。


「動かないで!」


「おいおい、何をそんなに焦ってるんだ」


「いいから、それ以上進まないでくださいっ」


 ベラの様子が気に入らないのか、ニコライはマルコに顔を向けたようだが、元々無口な彼は首を横に振ったことだろう。


 背中で感じたニコライ達のやり取りも、汗が流していく。ギリっと彼女は奥歯を噛み締めた。


 おかしい、ありえない。どうしたらいい、どう説明すればいいのだ。


 目の前に居るのは間違いなく狼。肉食の獣。四本足に三角耳。獲物を狩るために進化した突き出た鼻に口、そして牙。


 どこからどうみても、動物番組で特集されるような狼そのもの。


 だというのに。


「狼の気配がします」


「それはそう――っ」


 彼女の言葉がもつ意味を理解したニコライの指示で、チームはヴァレリーを囲むように展開する。


 眼前の狼はと言えば、そんなベラ達の事などどこ吹く風で鹿の肉をむさぼっている。


 何故だ、どうして、一心不乱に血肉をすするこの獣から、明確に彼の気配がすると言うのだ。彼がこの狼に化けてしまったとでも言うのか。


 否、ありえない。彼は人間だ。間違いなく、人間だった。


 彼の去る姿に、ベラが魅せられたのは彼が人間だったからだ。


 彼は本質は狩猟者。東洋風に言うならマタギになるべき能力を備えていた。


 その特性を人間の暗殺に利用する事を強いられた。


 狩猟と暗殺の性質は、似て非なるものだ。彼はその心の葛藤を殺した命を「報酬と言う名の糧」に換算する事で折り合いをつけた。


 人間が社会で生きていく為には金銭が必要だ。そしてそれを得るためには仕事が必要だ。ならば、人を殺して報酬を得るのも仕事であり、肉食獣が肉を得る為に狩りを行う事と同じである、と。


 そして彼は目指した。自然の理。生命のサイクル、純粋な食物連鎖の中にしか存在し得ない、現代の人が作り上げた社会と真っ向から対立した生き方を。


 人間社会に背を向けながら「仕事」という人の持つ概念を利用して、人間の命を狩る行為に対して線引きを行うという、矛盾。


 矛盾しているからこそ、目指すべき果てがあるからこそ、彼は決して揺らがない。


 だからあの時、去って行く彼は美しく、どこまでも孤高だった。


 そしてその矛盾こそが、彼があくまでも人間である事の現れ。もしも本当に、身も心も完全な、それこそ野生の獣となっていれば、意識する必要もない事象。


 その頂く狼の名の如く在りたいと考える限り、彼は人間なのだ。人間以外では在り得ない。


 ならば、ならば、なんだ。目の前に居る狼は。四足の獣は。これほどしっかりと、はっきりと彼の気配を感じている。


 呼吸が荒くなる。どうする、どうすればいい。撃つのか、アレを。許可のない動物を撃つのは芳しくない。


 ヴァレリーを警護するように銃を構え、陣形を組んだまではよかった。その次を、彼女達は決められなかった。


 ユージンが赤外線スコープで周囲を確認する。


「狼しかいない。人間は潜んでない」


(勘違い、違うっ)


 だとしたら、この両手に絡みつくような感覚はなんだ。紛れも無い、彼の気配、彼の波長を感じ取っている。


「なんだか知らんが、とにかくあいつを追っ払おう。僕の獲物だ」


 どこまでも呑気なものだ。自分の獲物ばかり気にするヴァレリーにベラはもはや腹も立たない。


 だが、一点だけは同意できた。


「威嚇を進言します。とにかくアレをどけないと」


「そうだな。ボリス、頼むぞ」


「了解だ」


「殺すなよ。後が面倒だ」


 ボリスがライフルの狙いを定めて、引き金を引く。


 轟音と共に飛び出した弾丸が、音に反応して顔を上げた狼の頭上十センチを通過した。


 (逃げない!?)


 予想外の反応にベラはたじろぐ。狼はゆっくりと彼らの方を向くと、銃声にも負けぬ咆哮を張り上げる。


 ビリビリと振動が銃を通じてベラ達の手の平へ。そして腕と這い上がってくる。


 瞬間、ベラの心にずしんと重たく冷たい意識がのしかかって来る。


 それは、眼前の狼だけではない。もっと広範囲から放たれた、無数の視線の様であり、彼女は声を詰まらせる。


「あっ、うっ――」


「おい、どうした」


 何とかひねり出したのは、簡素な言葉。今まで幾度となく告げてきた台詞。


「て――敵襲っ!」


 彼女が叫ぶのと、狼が動くのは同時だった。


 正面を切って、あの狼がベラに向けて突っ込んで来る。


 彼女は迷わず引き金を引く。


 弾き出された散弾はしかし、雪の大地へと吸い込まれていった。


 狼が発砲の瞬間、急停止し反転したのだ。思わず「うそ!?」と叫びそうになる。


 それより早くニコライが驚きの声をあげた。


「なに!?」


「くそっ、なんだってんだ!」


 雪原に地鳴りが響く。 そして、湖畔を囲む森林から、雪を巻き上げ狼の群れが飛び出した。


 ギラギラと滾る狼たちの瞳は、獲物として彼女達を断定していた。


 そして、その集団からはまさに彼の、あの青年の気配が放たれていた。


「応戦しろ!」


 ベラでなくとも感じ取れる殺意の塊にニコライが命令を下す。


 ボリス達が四方から迫る野生の軍団に発砲する。


 訓練を受けたかのように狼たちは音より早く散開。さすがに数が多いため、弾丸は何匹かに命中するが致命傷を与えたものはない。


 次々と彼らは発砲するが、そのたびに銃を熟知したような方向転換の連続により弾丸はかわされ、距離が詰まっていく。


 散弾銃やライフルと言った狩猟目的で連射、速射を目的としていない武器であった事が、その悪循環を加速させる。


「う、うおおっ!」


 ついに懐に飛び込まれたマルコが目を見開いた。切り込んできた一頭は真っ先に彼が手にしていた銃を狙い、喰らいついたのだ。


 振り払ったその頭上から、他の一頭がのしかかる。


「よせっ!」


「くそうっ」


 ユージンが慌ててのしかかった一匹に蹴りかかるが、ひらりとかわされてしまう。


 ニコライの制止が遅ければ、彼はマルコの胸に散弾をぶち込んでいる所だった。


 状況は混乱の一途を辿るばかりだった。狼の群れに翻弄される。


 どれだけ撃とうとも、倒れる狼はいるが弾丸のほとんどはことごとくかわされる。しかも彼女達を囲む輪は徐々に小さくなり、体力の消耗が著しい。


「うおっ!?」


 最初に弾丸が切れたのはユージンだ。


 彼は散弾銃を迷わず手放し、腰から拳銃を引き抜く。判断、動作全てが適切だった。


 しかし、その間隙だけで十分だった。狼の一団がユージンへ殺到、引きずり倒してその体に片っ端から牙を突き立てていく。


 もはや躊躇う事はない。マルコやボリスが狼の山に向けて発砲する。


 蜘蛛の子を散らしたようにさっと狼達が離れて現われたのは、骨や内臓が丸見えになったユージンの姿であった。


 ヒューヒューと風とは違う音が響く。彼はまだ、生きていた。


「デニス、構わん、催涙ガスだ。ベラ、ヴァレリーから離れるな!」


「了解っ」


 ベラはヴァレリーを背中にかばいながら、距離を詰めてくる狼だけに狙いを絞って発砲。弾丸を節約しながら相手を牽制した。


 ボリスとマルコの援護を受けて、バッグからデニスは催涙手榴弾を取り出す。


 本来は別の狼用だったが、今はそれどころではなかった。


 ピンを引き抜き、デニスは突破すべき小屋側に向けて催涙弾を放り投げる。


「すまん」


 デニスに合わせて、ニコライはユージンを楽にしてやる。


 響き渡る炸裂音。


 噴出したガスが狼の群れを混乱させている間に離脱。小屋まで引き返し、モービルで脱出する。


 はずだった。


「え?」


「なん、だとっ」


 確かに催涙弾は炸裂した。したのである、湖の中で。


 降りかかった温かい感覚に、ベラは思わず顔を拭う。赤い色がべっとりと手の甲を染め上げる。


 顔を向ける。返り血により光学迷彩が解けて、彼が浮かび上がる。


 いつ来たのか、どうやって来たのか、もはやベラの頭の中で理解が追いつかない。ただ、竜巻の如く殺意がその場に吹き荒れていた。


 きらめく牙を剥き、狼が、彼が、デニスの背後に立っていたのである。


「ぐああっ!」


 苦痛のうめきを上げて、デニスが崩れ落ちる。催涙弾を持っていたはずの右手に変わり、肩から飛沫が噴出していた。


「貴様ぁ!」


 ニコライがいち早く動く。


 青年に、殺し屋の狼に向けられた拳銃が火を噴く。


 発射された鉛弾は、すんでで引き起こされたデニスの体に次々と穴を穿つ。


 狼はさらにデニスの喉をかき切ると、ボリスに向けて放り投げた。


「うおっ」


 突然の障害。男の死体は視界を遮り、彼の動作を遮るには十分だった。


 投げた勢いそのままに、ニコライが放った弾丸をかわした狼は一瞬で懐に入り込む。


 彼のナイフよりもニコライの方が速かった。熟練の兵士は狼の動きを予測し、必殺の距離で銃弾を撃ち込む。


 銃声に続いて鳴り響く甲高い音に、ニコライは目を見開いた。


 眉間に打ち込まれた必殺の一撃は、左腕に仕込まれた二本目の牙によって防がれたのだ。


 次弾はない。マカロフの銃身はスライドしきり、弾切れである。


 一閃。防御は間に合わなかった。


 ニコライは首から熱いシャワーを流して倒れ伏す。だが、最後の最後、彼は狼の両肩を掴んだ。


「てめええええっ!」


 ニコライの遺志に、ボリスが応える。


 狼の背中にありったけの弾丸を撃ち込む。


 しかし、狼は倒れない。無造作にニコライだったものを引き剥がし、どこまでも黒いあの瞳をボリスへと向ける。


「なっ、くそったれ!」


 纏った着衣が防弾だと気付いた時にはボリスもまた弾丸を撃ち尽くしていた。


 格闘戦の覚悟を決めてナイフを引き抜いた彼の眼前で、狼の姿が横へとすっ飛ぶ。


 誤射の心配がないギリギリの距離が開いたその一瞬を見逃さず、ベラが散弾を叩き込んだのだ。


「これで、看板ですっ」


 ベラは呆気に取られるボリスにそう告げて散弾銃を放り出す。


 ボリスは周囲を見回し、グッと拳を握り締める。


 当然だ、とベラは思う。今生き残っているのは自分達とヴァレリーだけだ。


「お、終わったのか?」


「彼は生きてます」


 散弾では彼の防弾コートを抜けはしない。彼の殺意という吹雪は未だに吹き荒れているのを、彼女はしっかりと感じていた。


 そして、あれほどまでに走り回っていた狼の群れはどこにも居ない。まるで波のように、彼が現われたのと同時に引いていた。


「ああ、くそっ。おい」


「な、なんだ」


「そいつをよこせ」


 ボリスはヴァレリーが持っていたライフルに目を付け、渡すように告げる。


 最初は渋っていたヴァレリーだったが、怒りに燃える彼の瞳に、渋々ライフルを差し出す。


 ライフルを受け取ったボリスの背後で影が揺らめき、ベラは目を見開く。


 ベラの様子に気付いたボリスがライフルをしっかりと握り、振り向き様に発砲する。


 響く銃声。膝をついたのはボリスだった。


 その喉に狼の放った牙が突き刺さっていた。


「く、くそったれ……」


 それでも尚、反撃をしようとしたボリスではあったが、薬莢を排出したところで力尽きる。


 ライフルの弾丸がかすった頬を拭い、殺し屋たる狼が二人を見据える。


 ベラはその様子に呆然と立ち尽くした。


 何故だ、何故、あれだけの銃弾を食らって、いくら防弾とは言え、こうも早く立てる。立っていられるのだ。


 ベラの頭に、酒場で彼が放った言葉が鮮明に蘇る。


「生きる事は死ぬ事だ。その死が、他の何がしかの生きる糧になる。それで十分だ」


 放たれる殺意には一切の衰えはない。むしろより強く、よりはっきりと感じられる。


 命の価値をいずれ全て死ぬものとして、己も相手も同一に考えているが故の純粋なる殺意。


 これが、狼。これが、彼。死ぬ覚悟をしてなお、生きる事に全力を尽くす覚悟のなせる業か。


「ひ、ひいいいいっ!」


「あうっ」


 虎の子であるマカロフをベルトから抜こうとしたベラは突然背中を押されつんのめる。


 振り向くと、ヴァレリーが彼女を突き飛ばして駆け出していた。


「なっ!?」


 盾になるつもりはあった。そもそもその命令をニコライから受けていた。だからこそ、常に彼が影になるように位置を取っていた。


 だが、恐慌をきたしたのだろう。ヴァレリーはおよそ彼女が考え得る最悪の行動を選択したのだ。


 その時、狼が口に指を当てて息を一吹きする。風を切る笛の如き音が吹き渡る。


「っ!」


 まただ。目の前に居る彼とは別の、だがやはり彼の気配が背後から伝わってくる。


 瞬間、姿が見えなくなっていた狼がどこからともなく現れ、ヴァレリーの前に立ち塞がった。


「あ、ああああっ」


 犬歯をむき出して唸り声を上げる狼に、ヴァレリーは完全に腰を抜かしてしまう。


 だが、そこまでだった。狼は決してヴァレリーに飛びかからない。あくまでも、彼の退路を断ったに過ぎなかった。


 まるで誰かに命じられているかのように。


 少しずつ、ベラの中でパズルが組みあがって来る。


「まさか、あの群れは――」


 彼女の問い掛けに、彼は静かに口を開いた。


「あんたは、俺の気配に執着し過ぎた。それだけだ」


 ギリっと彼女は歯を食いしばる。


 やはりそうか。彼女自身、自分の精神感応の強さは自負していたが、その分弱点も理解していた。それを、相手は突いて来たのだ。


 彼女の感応は、自発性が薄いのだ。常に耳を澄ませている状態と言ってもいい。直接相手と接触する時はそれこそ掃除機の如く感応し、情報を吸いだせるが、それ以外では常に流れてくる気配や意識をアンテナのように広い続けているのだ。


 そして、彼はそれを逆手に取った。かつて、彼女が相手の殺意、残留思念のついた爆弾を発見した事を利用した。


 あの狼の一団に、彼は、殺し屋・狼としての殺意を、気配を付着させたのである。


 そして、狼達が狩りをするのに適した場所に出るまで代わる代わる追跡してくる様を、彼が付いて来ていると誤認してしまった。彼と接触し、気配を完全に把握した事が、却って群れの斥候と彼本人との誤認を助長する結果となっていた。


 そして、狼の一団が一斉に襲い掛かってきた事で、纏いついた気配が撹乱効果を生み、彼がデニスの側によるその瞬間まで気づく事ができなかったのである。


 彼が先頭に立った事で、狼達はその場を譲ったのだ。


「だけど、どうやって!?」


 彼の気配を纏わせただけでなく、ここまで完全な意思疎通を行っていると言うのだ。


 これではもはや、彼を、筆頭とした群れ以外の何物でもない。


 この一日二日の間に野生の狼と万全の信頼関係を築くなど、とても現実的な話ではない。


「どんな超能力を持っていても、全てを把握する事は不可能だ」


 淡々と告げられたその言葉は、ずしりとベラの心にのしかかる。


 見落とした、私が。いや、見落としたのではない。あの時、彼女が必要としていた情報ではなかった。だから、無意識に右から左へ流してしまったと言うのか。彼が、兼ねてから、組織とは別の、所属する群れを保持していた事実を。


 有り得るかと聞かれれば否定は出来無い。彼女が持つ彼の情報では、過去に狩りを嗜んでいた。それも《組織》の訓練所でご馳走になるくらいには定期的に。


 彼は生き残るため、獣の食い残しすら食べて、その場所へ流れ着いた男だ。狼の一団を手なずける機会は確かにあっただろう。そして、それが今も続いている。


 休みの間に狩りに出ていた、その彼の記憶が彼女の中にも引っ張り出された。彼は確かに、狼と共に居た。しかも、引っ張り出された情報はそれだけではなかった。


「あなた、与えたのね。欠片をっ」


 狼は応えない。だが、間違いない。彼は確かに与えたのだ。彼女が手に出来なかった彼の気配を構成するもの。


 名前などよりもよほど濃い繋がりを持たせる証を。


(これは私の失態。情報を得ながら活かせなかった)


 だからこそ、やるべき事はただ一つ。彼女は、ヴァレリーを守るため、そして隊の仲間の死を無駄にせぬために、切り札を引き抜いた。


 ずしりと馴染む感覚。それに込められた、九㎜パラベラム弾を放つ。


 暗闇の中でも取り回せるほど慣れ親しみ、肌身離さず常に持ち続けた相棒マカロフから放たれた弾丸は、背後の獲物を撃ち抜く。


 ギャンっと悲鳴を上げてヴァレリーの退路を塞いでいた狼の倒れる。


 叫ぶ。


「走って!」


 そして、踏み込んできた狼の一撃を上体を反らして回避する。


 この距離では拳銃はむしろ邪魔だ。捨てるとそのまま袖からナイフを滑り出させる。


 これが真に最後の武装。ベラはヴァレリーが立ち上がる感覚を感じ取りながら、狼に接近戦を挑む。


 少しでも、彼の逃げる時間を稼ぐ為に。


「ふっ」


 懐に入られれば必死。だからこそ、彼女は最後の一線を守るように立ち回る。


 彼の入り込むタイミングに対して、悉く距離を半歩取り、避けると同時にこちらの刃を振り抜く。


 精神感応により、相手の動く方向は読めている。だが、狼は彼女の予知攻撃をそれ以上の反応速度で回避する。


 一触即死の距離では、相手のスピードを上回らない限り先見が出来た所で意味はない。


 はたから見れば、お互いが相手の一歩に反応しあう、まるでダンスでも踊っているかのようにすら見えたことだろう。


 だが、怪我をした右手を盾代わりにし、左腕主体で戦っているからこそ、ベラは何とか持ちこたえていると言う状況だった。


 均衡は長くは続かない。


 狼の刃がベラの頬を霞める。足の感覚が徐々に失われていくのを感じていた。


(潮時、か。それでも!)


 ベラはかっと目を見開き、既に次の刃を繰り出した狼の懐へと踏み込んだ。


 首を千切られるのは覚悟の上。そして、それを右手を犠牲にして防御する。


 ベラの右手が肩から放物線を描いて中に舞う。


「はああああっ!」


 二の太刀までの間隙。その一瞬に全てをかけた。


 狙いは脇腹。彼女が、彼女達が撃ち込んだ弾丸により、裂け目が除いている。


 ここにナイフを突き立て、手首ごと刃を回転させる。内臓を破壊し、即死はさせられずとも、死に至らしめる。かつて、養成所時代に教わった必殺の一撃。


 全てはスローモーションのようであった。彼女の放った一閃は、確かに彼の、狼の脇腹を貫く。


 だが、その次はなかった。手首を回す前に、狼の手が彼女の腕を掴んだのだ。


「っ――」


 声を上げる間も無く、メキメキと砕かれんばかりの力で握られ、手が悲鳴を上げる。ナイフがするりとこぼれ落ちる。


 刹那、彼女の喉を狼の牙が一文字に切り裂いた。


 倒れ込む彼女を横に、彼は一歩を踏み出す。


 一瞥も無い。ただ、あの黒い瞳で前を見据えていた。


 目的はただ一つ。ヴァレリーである。


 追いすがる力は、彼女には残されていなかった。


 息も絶え絶えの中、彼女は必死に体を起こそうとするが、仰向けになるのが精一杯だった。


 天地が反転した視界の中、彼女は見た。


 四本目、最後の牙を袖から引き抜く狼の姿を。


 彼女の意識は霞の彼方へと消えて行く。


 ああ、どうか、どうかヴァレリーが逃げ切りますように。


 だが、きっと、彼なら追いつく。まっすぐに成すべき事を成すはずなのだ。


 去来したのは、矛盾した二つの思い。




 頬を濡らす感触に、ベラ=ドロノフは目を見開く。


 これは、奇跡か。私はまだ、生きているのか。


 灰色の空から、ひらりひらりと花びらのように白い礫が舞い落ちていた。


 溶けて消え行く背中の冷たさが、まるで空に落ちていくような錯覚を与えてくる。


 埋め尽くされて行く。すべてが、純白に。右腕から流れる命の証も、何もかも。


 ゆっくりと顔を横に向ける。伸ばされた自分の腕、そのさらに先。


 色を失いつつある世界で、ふっと差し込んだ黒に彼女は微笑む。


 彼は、立っていた。雪の中だからこそはっきりとわかる、鮮やかなまでに深く黒い瞳をこちらに向けて。


 ああ、彼は追いついてしまったのだ。だから、戻ってきたのか。私の終わりを確かめるために。


 悔しいな。


 体の芯から、衝動が込み上げて来る。


 己の不甲斐なさに対してではない。


 すでに終わる。その確信が生み出す未練。


 もはやお迎えを待つしかないこの身が、己の置かれた立場が、あまりにも口惜しくて仕方がない。


 出来るならば、許されるならば、見たかった。追いかけたかった。彼の進む道を。彼の、結末を。


 だが、それは最初から叶わぬ求め。


 相対すれば、どちらかが倒れるしかない。そういう場所に立って初めて、彼女は、彼を知る事が出来たのだから。


 瞳と同じ色の髪を揺らして、彼は踵を返す。


 何事もなかったかのように去って行く背中に、彼女はああ、と嘆息した。


 なんと愚直で、誠実で、そしてどこまでも残酷なのだろうか。


 流れるままに消えて行く命ならばせめて、彼の牙を。


 その願いはしかし、彼にとっては何の意味も無い祈りなのだと言う事を、彼女は理解していた。


 なぜなら彼は殺し屋だから。散り逝く者を介錯する事はない。


 何故、私は目を覚ましてしまったのだ。最後の最後。あのまま消えていれば、これほどの未練を抱かずに済んだと言うのに。


 霞む視界に耐え切れず、彼女は静かにまぶたを下ろした。


 聞こえるのは、鼓動と、流れる赤い音色だけ。




 お忍びでロシア本国へ来訪中のヴァレリー=ルドニコフ、そしてその警護を担当していたAE社第三小隊の死は半日と経たずにロシア本国のみならず、連邦中へと瞬く間に広がった。


 連邦体制に不満を持つ過激はグループがこぞって声明を上げ、少なくない衝撃がオセアニアの北半分を駆け抜ける。


 モスクワ東部郊外。場末のバー《雄大なるタイガ》の店内で二人の男がそのニュースに耳を傾けていた。


 ラジオからは死体の状況について、獣による損壊の後が多数見られたことや近くで狼に襲われたと思われるヘラジカの死体があった事から、死後、一部が狼の餌になったようだと言う警察の見解を伝えていた。


「いくらなんでも、ん、やり過ぎではないかね?」


「群れの成果だ。彼らには権利がある」


「しかし、ん、私が言うのもなんではあるが、死者にはある程度の尊厳がだね……」


「命は次の糧となる。それが摂理だ。そこから逸脱した尊厳など、俺には関係ない」


 青年の頑とした意見に中年太りの男は「ん、まあ済んだからには構わんよ。それに、組織には飴と鞭がなければな」と頷き、酒一杯に二杯分の金を置いて店を出て行く。


 隣に座っていた青年はカランと乾いた音を立てる氷に耳を澄ませながら、脇腹をわずかにかばう様にしていた。


「まったく、物騒ですねぇ」


 初老のマスターが青年に語りかける。青年は閉じていた目を開くと「終わった事だ」と言って、残っていた酒を飲み干し席を立つ。


 感情の揺らぎすら見せないその瞳に、最近の若いモンはわからん、とマスターは肩を竦めてカウンターを片付け始める。


「いずれ、俺も同じ道だ」


 店を出る直前にそう呟いた彼の言葉は店内の喧騒に埋もれて消えて行った。




                                   《了》

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殺し屋・狼 長崎ちゃらんぽらん @t0502159

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