狼の在り方



 誠実で生真面目な、祖国と人民に尽くした男。


 ユーリ・セルゲイノフの葬儀はしめやかに、彼の故郷にて行われた。


 身寄りはなかったが、軍時代の友人や部下達が有志となって執り行った。


 参列者もほとんどが軍人だった頃の関係者ばかりと言うこともあり、俯く者や肩を震わせる者はあれど、両親の隣に埋められて行く彼の棺を見ても涙を流す者はいなかった。


 ただ、凶刃によって奪われた命に対する怒りや悔やみ、悲しみが確かにそこには溢れていた。


 葬儀は終わり、参列者達はそぞろに歩き出す。時代も地域も関係ない。これから彼らは死者を悼んで昔話に花を咲かせるのだ。




 まだ寒さの残るモスクワ北部の市街地を、東洋系の青年が足早に進んで行く。


 道行く人が気付かぬ程、呼吸する様に周辺に気を配りながら、誰とも肩をぶつけずに抜けていく姿は、まさに野生の獣だ。


 服の上からでも察せられる鍛えられた肉体は軍人のようだが、彼は違う。


 彼は、殺し屋である。


 ギルドとでも呼ぶべき組織に属し、狼の名を受けた正真正銘の殺し屋なのだ。


 本来は追いかけ追い詰め、命を狩りとる立場の彼が今は追われる身となっていた。


 狼を追いかけるは猟犬。


 彼が所属する組織の制裁役である。


 依頼人からお抱えの殺し屋まで、とにかく組織の規律を犯した者全てに放たれる。


 全員が腕利きの殺し屋であるのはもちろんの事、犬の異名を与えられた通り、組織が絶対の忠義を認めた者達でもある。


 背後にひたりひたりと付きまとう気配を感じながら、狼はより人の多い方へと進んで行く。


 時にはわざと細い路地等に入りつつ、複雑な迷路を進むような軌道で決して留まらない。


 その間にも、気配の分析は忘れない。


(三人、か)


 追跡者は、彼が気付いて行動を開始してから一人増えていた。


 どうやら、猟犬達の中でも特に腕の立つ者が居るようだ。


 だが、所詮は犬。狼が噂に聞いたとおり連携は薄いらしい。組織の覚えを良くしようといった所である。


 そもそも、猟犬は、その制裁対象によって放たれる数が違う。


 組織にしてみれば、リスクを減らし成功率を高める為にしている行為だが、それが今は彼に付け入る隙を与えていた。


 地区最大の大通りに出た所で、追跡者の一際大きく分散する。


 狼は素早く流れに乗ると、感じる視線が一つになった瞬間、手近なマンションへと体を滑り込ませた。


 後からマンションへと入って来たのは、スーツ姿の男だった。


 ボタンを緩めて上着に余裕を持たせながら、慎重に通路を見回している。一階には人が住んでいる部屋はない。


 反対側の通りに面した入口と、物置だけ。階段が二階と地階に続いている。


 男はポケットから小型のカメラらしき装置をとりだして左目にはめる。


 レンズを通してセンサーが読み取った情報が次々に表示される。敷かれた絨毯についたわずかな足跡すら、カメラは見落とさない。


 最新の足跡は、入口から地下への階段に続いていた。男は懐から拳銃を取り出し、消音器を取り付ける。


 壁越しに相手の気配を察して飛び出し、階段下の標的目掛けて発砲する。


 腑抜けた音と共に射出された弾丸は、男の視界を遮った暗緑の布に遮られた。


「っ!」


 何が起きたのか、と一瞬動きが止まる。


 直後、下より飛来した刃が、正確に男の腕を貫いた。


 顔をしかめながら銃を構え直した男が見たのは、階段に横たわる狼の姿。


 布と段差の隙間に影が煌めき、手から甲高い音を立てて銃が弾け飛ぶ。


 事態を理解するより早く、階段を一足飛びにかけ上がって来た三本目の狼の牙が、男の喉笛に突き付けられた。


「何の真似だ?」


 淡々と、狼は問い掛ける。


 あまりの抑揚の無さに、男は耳を食いちぎられるのではないかと錯覚した。


「り、猟犬の役目は決まっている」


「誰が来ている?」


「自分で確かめるんだな」


 吐き捨てるように告げた男の体は、次の瞬間宙を舞う。


 受身を取る間もなく背中から地面へ叩きつけられた彼の意識は、眼前に迫る拳と共にプツリと切れた。


 狼は迅速だった。弾丸を吸ったジャケット等を落ち着いて回収。


 追跡者は物置に放り込む。荷造り用のロープを拝借し、体を拘束。銃を懐に返す変わりにPDAを頂戴すると、速やかにその場を後にした。


 マンションに居た住人は騒動に気付く事はなかった。


 路地裏に入った狼は防弾ジャケットから弾丸を抜き取って羽織直す。


 同じく回収したナイフの血を抜いた所で、PDAに着信が入る。猟犬達が使う、チャット型秘文通信だ。


 電話や無線より秘匿性が高い事と、猟犬達の連携意識が極めて希薄な事により、この通信が主流になったのである。


 狼は過去のやり取りをチェックする。ロックは気を失った本来の持ち主の指紋を利用して再構成してあった。


 そつなく元の所有者を騙り、狼は対象を見失ったと伝える。


 相手である猟犬の一人も同様だったようで、今後の対応を相談したいとの申し出があった。


 セーフハウスで落ち合う約束を取り付けて通信を終了する。


 セーフハウスの場所は、端末にデータがあるためすぐにわかった。


 近くはないが、十分に徒歩圏内である。


 狼は素早く通りに出ると人波に乗る。


 何故自分が狙われているのかは不明だが、それもこれから明らかに出来るはずだ。今は確認出来ないもう一人の追跡者の存在に気を配りながら、狼は猟犬の小屋へと向かうのだった。




 狼が猟犬の存在を察知したのはほんの十数分前だが、それは必然の出来事だった。


 彼の生活はほぼすべて殺し屋と共にあった。一番古い記憶は彼の養父との出会い。養父は組織で教官を務めており、彼に技術と知識を叩き込んだ人物でもある。


 その職業柄、彼は養父と共に、多くの時間を様々な殺し屋と共に過ごした。そのため、同業者の匂いを容易に嗅ぎ分けられるようになっていた。


 猟犬だろうが殺し屋である以上、逃れられる謂れはない。


 いきつけのカフェテラスで彼の鼻は瞬時に、その存在を嗅ぎ付けたのだ。


 彼の養父。その名を、ユーリ・セルゲイノフと言った。


 セーフハウスを視界に収め、狼は周囲により一層気を配る。


 追跡者は感じられないが、念を押して歩を緩めながら、少しずつ建物へと近づいていく。


 傷みの進んだマンション、その一室をそっと見上げた。


 セキュリティ等を考えると心許なく思えるが、木を隠すなら森の中。ここモスクワと言う場所においてこれ以上目立たぬ場所などない。


 素早く顔を下ろすと、自宅に戻るような足取りでドアを潜る。人目もカメラもないのを確認し、ジャケットのフードを被る。それがスイッチとなり光学迷彩が起動、彼の姿を完全に周囲へと溶け込ませた。


 袖口に牙を尖らせながら、ゆっくりと五階へ進んで行く。


 劣化で鶯張り同然の床の軋みに気を付け、足音を忍ばせて階段を上ると、狼は柱の影からそっと廊下の様子を伺う。


 指定された部屋は東側の角だ。


 PDAを取り出すと、カメラを起動。スコープ対象をセキュリティに設定。


 これで防犯センサーなどを感知すれば撮影されるはずだ。


 腕を伸ばして廊下全体を俯瞰する。角部屋までは一直線だが、シャッターは切られなかった。


 監視カメラだけであれば光学迷彩で十分だ。


 狼はPDAを構えながら、廊下を突っ切った。


 ドアの横に背中を張り付け耳を澄ませる。


 フロア全体がシンと静まり返っている。己の息づかい以外の音はなく、なにがしかの気配すら感じない。


 遠回りしてきたはずだが、猟犬より先についてしまったのだろうか。


 それにしては妙な感覚。収まりの悪さのようなものを覚えた狼は、ナイフを滑り出させてドアノブに手をかけた。


 音を立てぬよう回したノブから伝わる確かな感触。鍵は開いていた。


 およそ考えられない事態に、小さくドアを開けて中をうかがう。鼻をついた臭いと室内の様子に、彼は躊躇う事なく踏み込んだ。


 ブラインドが下ろされたほの暗い室内に漂うのは、慣れた血の匂い。まったく感じられ人の気配と合わせ、何が起きたかは容易に想像がつく。


 狼はフードを取ると、匂いの大本であるリビングへ向かった。


(これは――)


 ある程度は悟っていただけに、顔色を変えるには至らなかったものの、待ち受けていた光景は狼の意表をつくには十分だった。


 部屋の真ん中には上下二十の爪を剥ぎ取られ椅子に縛り付けられた男。


 致命傷とおぼしき首の傷は見事な一文字である。


 確認するまでもなく死に体となった男の様は、広場の噴水を思わせた。


 狼はその場にかがみこむと、絨毯に手を這わせる。


 相応の時間は経っているが、気配が残っている。第三者の気配が。


 何者かがこの男を襲い、そして急ぐ事なく淡々と部屋を去ったのは間違いない。この部屋の明らかなセキュリティホールは、その某かによるものであればまずは説明がつく。


 しかし、彼のすべき事はその第三者の解明ではない。今の所は、だが。


 狼は端末を取り出すとレーダーを照射。死体の生体照合を試みる。相手が猟犬ならば、組織に属しているならば、これで照合ができるはずだった。


 照合中も走査によって肉体の情報が次々と表示されていく。


 爪以外は外からはあまり把握しにくい形で相当いたぶられたようで、腔内にも損傷が見られた。


(気道内に金属物質?)


 思わぬ情報に、彼は死体に近付き、首の傷へ指を突っ込んだ。


 第二関節まで押し込んだ所で硬い物を捕まえて、一気に引き抜く。


 現れたのは、ビニールに包まれたボイスレコーダーだった。


(……?)


 袋からレコーダーを取り出した狼は引っかかりを覚えてはたと振り返る。


 血痕が点々と彼の背後に向かって続いていたのだ。


 くすんだ壁紙には、赤黒いインクで「父の仇へ」と書かれていた。子供が書いたような鍵文字だったが、その筆跡の勢いから込められた圧倒的なパワー、怒りが伝わって来る。


(どういう事だ?)


 狼がよぎった疑問に働かせようとした思考は、背後からの声にかき消された。


「あらまあ。これは言い逃れできませんわね」


 振り向き様、響く風切り音に上体を反らせる。鋼線が鋭く彼の視界を掠めていく。


 同時に、右手と左足に別のワイヤーがきつく巻き付けられた。


「つれませんわね」


 狼はじっくりと相手を見据える。


 死んだ男に寄り添うように、女が立っていた。気配の絶ち方は完璧だった。どこから入ってきたのかなど問題にならない。この女こそが三人目の猟犬。


 身を包む和服は喪服のように漆黒で、袖口には黄色い縞があしらわれている。


 その姿を、狼は知っていた。かつて、ダンスを共にした事がある、そんな相手だ。


「あんたも、猟犬だったのか」


「ええ。残念ながら、とでも言った方がよろしいかしら?」


 本名は知らない。ただ、組織において蜘蛛と呼ばれている、うら若き暗殺者である。


 象徴とでも言うべきワイヤーは腕輪から生えているように見えるが、そのブレスレット自体が鋼線となる特種合金の塊なのだ。


「これで五人。拿捕では済みませんわね」


 脳波コントロール式の特種鋼線を扱う極東からの猟犬は改めて死体を一瞥してそう告げる。


 ワイヤーが一層強く彼の体を締め上げた。


「俺じゃない」


「疑わしきは罰せよ。掟ではありませんの」


 狼とて言われるまでもない。だからと言って、身に覚えのない制裁を大人しく受け入れるつもりもなかった。


彼はじっと相手を見据える。


 蜘蛛は穏やかに頬を緩ませて指先から延びる鋼線を遊ばせていた。


 伝わる振動が主導権の証。相手がちょっと指令を出せば、ワイヤーは容易く彼の腕と足を破壊するだろう。


 狼の牙であれば鋼線も切断できるが、剥くには隙がなかった。


「どうしても申し開きをしたいのでしたら、大人しく投降していただきますわ」


 狼は、左袖からナイフを滑り落とさせると、ワイヤーに縛られた右手に目をやった。


「そちらは構いませんわ。まあ、出せるものなら出してみてくださいな」


 蜘蛛が伸ばしたワイヤーが落ちたナイフを回収する。彼女が狼の牙を袖下に納めると、玄関の開く音がした。


「えっ?」


 蜘蛛の気が引っ張られたのは一瞬だ。


 だが、それで十分だった。


 狼はフードと襟の付け根を押さえて、光学迷彩を強制起動。ジャケットから、光をねじ曲げるほどの電磁波が放たれる。


 彼の頭だけが宙に浮いたようになるが、迷彩効果にははなから用はない。彼の体を包みこんだ電磁波が鋼線に干渉。蜘蛛の指令を打ち消して拘束を緩ませた。


「うっ」


 蜘蛛が気付いた時、解放された狼は、彼女を間合いに捉えていた。


 態勢を整える暇など与えない。


 放たれたワイヤーを弾きながら懐へ飛び込み、拳を叩き込む。さらに蹴りあげられた膝は、背をくの字に曲げた彼女の顎を正確に打ち抜いた。


 声を上げる事もなく、蜘蛛の体は地面へと崩れ落ちる。


「いるなら返事を――」


 新たな来訪者の入室と、蜘蛛から取り返した狼の牙がその足元に突き立つのは同時だった。


「うお!?」


 投げ付けられた凶器に驚きの声を上げたのは、白髪が目立つ男性だった。


 年老いた男は、すぐに顔を上げ、目を丸くする。


「これは、どういう事だっ」


 男はずかずかと狼に詰め寄ってくる。彼はさっとその首筋に牙を向けた。


 馴染み深い顔であったとしても、対応に変化は無い。優位を取って、ボディチェックをしながら静かに問いかける。


「何故ここにいる?」


「この部屋を管理しているのは私だ。それより、なんなんだ、この有様は?」


「こちらが聞きたい」


 男は狼の肩越しに蜘蛛と死体を見やる。


「標的は、お前だったのか」


「覚えはない」


 男は探るように狼の目をじっと覗き込む。


 眉一つ動かさない彼に対し、男はふぅと溜め息をつくと、指示を受ける前に靴を脱ぐ。


「なんて事だ。だが、このままでは言い逃れは難しいぞ。本当に思い当たる事は何もないのか?」


 狼は返事をしない。ただ、男が脱いだ靴を横へ蹴り飛ばす。答えは既に述べているのだ。


「わかった。しかし、これからどうする気だ?」


「詮索は無用だ」


 それより、と彼は男の首筋に一層強くナイフを押し付ける。


「あんたは、思い当たる節がありそうだな」


「と、共食いが起きたんだ。本当に知らないのか?」


「初耳だな」


 狼の答えに、男は一際目を見開くが、すぐに頬を緩ませる。


「全く。お前さんはそう言う奴だったな」


 男は部屋の隅にある、ライトの置かれた棚に目をやった。


「戸棚を開けたいんだがね」


「何故だ?」


「私はお前さんと多少縁がある。とても組織の手を噛むなどとは思えんのだ。だから、協力したい」


「中には何がある?」


「私が管理するセーフハウスがもう一つある。そこの鍵だ」


 セーフハウスは本来、生体認証によって解放されるが、利用者の仕事柄、それが出来なくなる事もある。鍵はそうした万が一に合わせて用意されているのだ。


 男は普段そこで生活しており、共食い絡みの資料も少しだがあると言う。


「鍵を使えば、お前さんだとバレずに利用出来るだろう」


 狼は倒れた蜘蛛を見る。


 どちらにせよ、ここでのんびりはして居られない。


 素早く背後に回ると、男の脇腹にナイフを押し当てた。


 男は刃の感触をしっかり感じ取り、ゆっくりと戸棚に歩みより、指紋認証で引き出しを開ける。


 決して彼を刺激せぬよう、全ての動作をはっきりと示しながら、二種類の鍵を取り出した。


 受け取ろうと伸ばした手は空を切る。男がカードを引っ込めたのだ。


「何のつもりだ?」


「私も一緒に行かせてはもらえんか?」


「やめておけ。静かな老後を棒に振らない事だ」


「だが、放っては――っ」


 語調を強め、振り返ろうとした男の後頭部を、狼は躊躇なくナイフの柄で殴り付ける。


 男は膝から地面へと崩れ落ちた。


 男が完全に気を失ったのを確かめて鍵を回収。更にズボンのポケットから車のキーを拝借する。


 脱がれた靴を念のため確認すると、踵のスイッチで爪先からナイフが飛び出した。古いが立派な仕込みであり、奇襲には非常に有用だ。


 改めて倒れ伏す親しい顔を、どこか懐かしむように見つめた狼は煙のようにその場を立ち去った。




 ゲオルグ・ディートリッヒと狼の付き合いは、まずまず長いといっていい。


 養父であるセルゲイノフの次に長い時を過ごした相手であるから、関係としては、伯父と言うのが近いだろう。


 元はシュタージの一員だったこの男は、東ドイツ崩壊を前に組織にスカウトされた。その後はロシアを中心に活動しており、定期的にセルゲイノフのリハビリを受けていた。


 と言っても、年齢も実力も完全にゲオルグが上であり、セルゲイノフがサンドバック紛いの扱いだったのを、狼も良く覚えている。


 とかく、その頃の彼はセルゲイノフの管理下にあり、ゲオルグと同席する機会も多かったため、それなりに親しくされたものだ。


 GPSの類をすべてオフにして追跡されないように車全体をチェックしながらら、ふと狼はそんな事を思い出していた。


 だからと言って、彼が優先すべき事は変わらないし、特別な配慮をする事も無い。


 必要だからこそ殴り倒して車を奪取したのだ。


 すべての確認を終えてエンジンをかける。


 ディートリッヒも老いたものだ、とルームミラー越しに己の鉄面皮を見据えて彼はアクセルを踏み込む。


 この、ロシアと言う国を体現したようなSUV、ラーダ・ニーヴァは咆哮と共に地下駐車場を後にした。




 狼が車で去って間もなく、ゲオルグは目を覚ました。


 頭の中で鐘がなるような感覚が酷い。さすがに齢も八十に迫れば、肉体的な衰えは隠せない。


 組織に施設管理者として置いてもらえるだけ有り難い身分となった事を、いやが上にも実感する。


 以前ならこの程度で気絶などしなかったものだが、と一人ごちながら体を起こす。


 それでも十分程度で気がついたのは、未だ続けている鍛錬の成果か。額に手をやりながら、ポケットから抜かれた車の鍵に笑みを溢す。


「さて、と。まずはどうするべきかな」


 背後に広がる惨状に頭を悩ませながら立ち上がると、吹雪のような声がした。


「決まっていますわ」


「おおっ?」


 背筋をぞくりとした風が走り抜ける。


 振り向くと同時に、彼の両手両足は飛んできた鋼線に縛られてしまう。後ろ手に縛られての突然な気をつけ体勢にバランスを崩して彼は再び倒れ込んだ。


 慎ましやかな足音と共に現れた蜘蛛はにこやかに、彼の顎を軽く蹴とばす。


「一体何を迷う事があると言いますの。組織に連絡を入れて然るべき部署に人員の派遣を依頼する。それが貴方の役目ではありませんの。それとも、それができない、したくない理由があるんですの?」


 グリグリと頬を踏みつけられて、ディートリッヒは困ったように眉を上げる。どうして彼女はすぐにでも狼を追わないのだ。


「……まさか、お嬢ちゃん。聞いていたのかね?」


「何の事かしら」


 一瞬、蜘蛛の顔から笑顔が消える。鋭く細められた瞳が彼の心に突き刺さる。


 藪蛇だったらしい、と理解した時には、彼はただでさえ薄くなった髪を捕まれ、引きずり起こされていた。


「どうやら、しっかり教えて貰わないといけないようですわね。私が聞いたかも知れない何か、とやらを」


 蜘蛛の腕から放たれた糸が居間にあったイス一脚を引き寄せる。


 そこに座らされたディートリッヒは確信と共に自嘲する。


 東ベルリンで現役だった頃、仕事の度に思い浮かべずには居られなかった「自分の番」がまさかこんなタイミングで、極東の小娘の手でもたらされるとは。人生わからんものだ、と。




 狼にとって、世界や社会の情勢と言うのは、はっきり言ってしまえばどうでもいい事だった。


 野生の動物は人間事情など関係ない。必要な時に必要な獲物を喰らう。保護区だろうが国境だろうが彼らには関係ない。


 生きるために、必要だから狩る。狼も同じだ。


 彼にとって仕事とは、生きる為に必要な行為であり、それ以上でもそれ以下でもない。組織が持ってきた依頼の中から選ぶだけ。


 情勢は引き受け部門の人間が把握していればいい。不必要に情報を仕入れる必要はない。


 その考えの下、彼は必要以上にメディアに触れた事は無いし、これからもそのつもりだった。


 だが、今度ばかりはディートリッヒが笑った通り。彼の収集は不十分だったと言わざるを得ない。


 何しろ、モスクワ郊外にあるセーフハウスに無事到着した狼が抱いていた謎はあっけなく、取り揃えられていた新聞と、彼が猟犬に襲われたと言う事実を以って判明したのだから。ただ一つの疑問を残して。


 住宅街からさらに外れた戸建ての家のソファにすわり、狼は記事を睨む。


(共食い、か)


 ここ一ヶ月ばかりの間に、実に三人もの殺し屋が紙面の訃報欄を飾っていた。


 その全てが、組織に所属している者であり、殺害された手口も同一。


 致命傷は、刃物による頚部破壊。


 そして、彼がマンションで発見した死体もその条件を満たしている。


 彼はテーブルに投げ出した、一人目の猟犬が持っていたPDAの情報を改めて確認する。


 そこには、件の死体の正体がきっちりと書かれていた。


 あのオブジェのように死んでいた猟犬は兎。観察力と危機感知能力の高さにくわえて普段の大人しさ、仕事になると別人のような攻撃性を発揮する事から名づけられた殺し屋だ。


 狼も名前を聞いた事はある。もっとも、向こうの主な仕事場は西欧なので接点はほとんどなかった。


 これで四人。すべてが組織に所属する腕利きの殺し屋ばかりが立て続けに殺害された事になる。


 全員が真っ当な身分に偽られ、連続性の無い事案として扱われているのは組織の圧力によるものだろう。


 だが、見るものが見ればすぐに共食いが起きているとわかる。


 それだけに、組織が関係者の犯行を疑うのは必然だった。


 手口であるナイフによる一撃は、狼も得意とする所 だが、それだけで猟犬を放たれてはたまらない。


(ならば、理由)


 組織に所属する殺し屋同士の殺しはご法度。組織の根幹にも関わる事態ゆえに、犯した者に明日など無い。それが掟だ。


 枕を少しでも高くして眠る事に嫌悪感を覚えるような、殺戮と争乱を求める者であれば別だが、そんな者はそもそも組織に籍を置けない。


 何より、猟犬を放たれるとわかっていて、犯すタブーとしてはリスクが高すぎる。


 それでも、禁忌を、境界を踏み越えると言うのであれば相応の理由が必要だ。


 組織の運営者達にとっても納得の行く理由が。


 果たして、狼には、そう誤解されうる理由が存在していた。


 ちらりと脳裏をよぎるのは、あの書きなぐられた仇の文字。


(ユーリ)


 彼の養父、ユーリ・セルゲイノフは凶刃に倒れた。振るったのは、狼自身だ。


 引退し、組織からも離れたセルゲイノフ。彼は、標的となった。


 その人となり、元教官と言う立場から依頼の実行者に名を上げる者は居なかった。白羽の矢が立ったのは狼だった。


 そして彼は、受けた。


 理由を問う者はいなかったし、仮に聞かれても彼は答えなかっただろう。


 仕事をしただけだ。己の職務を全うするために、刃を立てたのだ。


 今でも聞かれればそう答える。


 だが、組織はそうは考えなかった。狼の意趣返し、そう判断したのだろう。


 同僚を次々と殺害したと思われるだけ腕を買われていると言えば聞こえはいいが、何の慰めにもならない。


 新たに判明した事は、彼を犯人に仕立て上げようという悪意が働いている事だ。


 あの猟犬への拷問跡、そして血文字。どれもこれも、恨みをこれでもかと強調している。


 最初の三人と違い、先ほどの猟犬は特にあからさまだ。


 まさに、見てくださいと言わんばかり。


(コレも、か)


 狼はポケットからボイスレコーダーを取り出す。死体から取り出したが、これ見よがしに隠されていた。


 中身が気になる所だが、いきなり再生するつもりはなかった。


 落ち着いて分析できるようにするに越した事は無い。


 何より、今はここでのんびりとはしていられない。


 蜘蛛はそのまま放置してきたが、とっくに目を覚ましている頃だし、一匹目の猟犬の端末がココにある事自体リスクが高い。


 GPSは切ったが、それ以外に狼も知らない、組織の上部だけが把握している追跡システムがあるかも知れない。


 自分の専用端末はとっくにバッテリーを抜いたが、こちらは情報収集の都合上そうもいかなかった。


(潮時だな)


 セーフハウスに到着してから既に三十分。ディートリッヒから言われた範囲で情報は集まった。


 さっさと撤収するに限る。新聞の記事をちぎって資料として懐に収めると、猟犬の端末はそのままに、彼は立ち上がる。


 より安全な場所へ移らなければならない。当てはあるので問題は無い。


 彼はモスクワに向けて歩き出す。これ以上車は使えない。借りた車だ。蜘蛛が起きたと仮定して、チェックされれば一発で補足されてしまう。


 理由はもう一つ。彼には寄らなければならない場所があるのだが、そこは車で行くには少々不便なのだ。


(確かめなければ)


 身を潜める前に、浮かんだ疑問を解消しておく必要があった。


 新聞に出ていた被害者は三人。そして、猟犬が一人。これが判明している犠牲者だ。


 だが、確かに兎の死体を確認して、蜘蛛は言った。五人目、と。


(ならば、四人目は――?)




 モスクワ市街へと戻った狼は目的の場所へと足を運ぶ。


 適当に選んだ場所だったが、青いランプと人だかりのおかげですぐに見つける事が出来た。


 人目を避けて路地裏に入り、光学迷彩を起動してから通りへと戻る。人ごみをすり抜け、進入禁止のテープをくぐる。


 野次馬を宥める警官達は誰も現場に狼が入った事には気付かなかった。


 マンション一階の用具室。そこが目的地だったが、建物に入ってすぐ鼻をついた血の匂いで狼は大体を察する。


 検分等はある程度目処がついているのだろう。外の騒ぎに対して、建物の中には数人の警官しか居なかった。ぶつからぬように身をかわしながら、狼は用具室へと入り込む。


 血の匂いが一際濃くなる。


 何の変哲もない部屋だった。モップや雑巾、ロープやガムテープ等が雑多なまま両脇の棚にしまわれている。


 たった一点、部屋の真ん中にある血だまり以外はどこにでもある埃っぽい用具室に他ならない。


(間違いない。四人目だ)


 捜査員達の会話に耳を傾けると、ここで男性の死体が発見されたようだ。詳細を調べるまでもない。ここには彼が猟犬を放り込んだのだから。


 だが、命までは奪っていない。無用の殺生、まして猟犬の命である。殺害など思いもよらない。


 拘束はしたが、ロープはビニール。しかもこの部屋にあった荷造り用で、手首と足首を縛ったに過ぎない。


 棚の角にでも擦り付ければ自由になれる代物で、時間稼ぎ以上の意味はなかった。


 そんな猟犬を何者かが殺害したのだ。抵抗の形跡は見当たらない。血だまりも一ヶ所のみ。同一犯と仮定すれば、一撃で仕留めた事になる。


(共食い、は確定だな)


 猟犬が無抵抗と言うことは顔見知りかつ、ある程度信用の置ける相手だったのだろう。


 人数の疑問を解決した狼はその場を後にしようとして、ふと違和感を覚える。


 改めて棚や部屋を見回してみると、何かが引っかかる。


(妙だな)


 視線は奥にぽつんと置かれたバケツに辿り着いた。


 道具達はひしめく中でも一定のパターンでしまわれているし、最低限のグループ分けはなされていた。にも拘らず、そのアルミバケツは壁と棚の隙間を埋めるようにぽつんと置かれている。しかも逆さに、だ。


 逆向きに置かれているバケツはそれしかない。浮いている。


 狼は血だまりを飛び越え、バケツの前に立つ。


 かがみ込み、床を撫でた指を鼻先へ持ってくる。


(アルコールか)


 ほのかな刺激臭に彼は床に鼻を近付ける。


 アルコールの匂いは血だまりの方に続いていた。誰かがバケツまでの血痕を拭き取ったのは明白だ。


 狼は警官達の目を盗み、バケツを裏返す。


 底にはビニールに入れられたメモ用紙とボイスレコーダーが貼り付けられていた。袋とレコーダーには血がこびりついている。


 猟犬を殺した犯人からのメッセージである事は明白だった。遠回しな手がかりの残し方は、完全に相手の動きを想定している。


 殺し屋のような、些細な事を気にする人種へ、だ。


 警察ならば、逆さまのバケツ等持ち上げて気になる所がなければそれまでだ。わざわざ底を覗き込んだりなどしない。


 狼は犯人からのメッセージをポケットにしまいこみ、今度こそ現場を後にした。




 狼はタクシーを広い、モスクワ東部へと向かう。


 大通りの適当な所で車を降りる。そこから一本ずれた通りにあるアパートへ彼は足を運んだ。


 その一室は、狼の小屋なのだ。


 ここは組織とは無関係の大家が管理している、自前で用意したセーフハウスである。


 普段は組織が用意した所を利用しているのだが、定期の健診を受けた際、プライベートにももう少し気を配れと言われたのを機に、休養所として用意した、一種の別荘だ。


 こうしたセーフハウスは他の構成員達も持っており、組織も特に気にしていない。


 組織にとって、構成員は掟を守り、適切な仕事をしてくれる存在であれば構わないのだ。ここには端末すら持ち込んだ事がないので、彼の把握している限り、誰にも割れていない唯一の施設である。


 部屋へ入ると、電子式オートロックが作動する。そこへ別の内鍵とチェーンロックを追加する。


 業者と大家にも金をつかませ、防弾防音のほかにも色々と改造を施してあった。部屋の鍵もその一つだ。


 明かりは消したまま、ブラインド越しに僅かに入ってくる明かりだけを友としてソファに腰掛ける。


 数ヶ月ぶりの利用になるが、ホコリすらほとんどたまらぬくらいに、物は無い。


 モデルルームでももう少し充実しているだろう。唯一、壁にかけられた鹿と熊の頭だけが、この部屋の主を示す記号であった。


 どちらも狼が狩ったもので、彼の原点でもある。養父であるセルゲイの教えに倣い、これだけは、初心を忘れぬように飾ってある。


 ジャケットを脱ぎ、狼はテーブルに持ってきた資料を並べていく。


 より落ち着いて記事を読み返すが、目新しい発見はない。


 犯人が手練れで刃物を得意としているのは確かだが、狼を含めて組織内に同じ条件を満たす者はごまんといる。被害の出たロシアに限っても両手の指の数より多い。


 残る手掛かりはボイスレコーダーだ。


 マンションで回収したレコーダーをビニールから取り出す。一緒に入っていたメモには、兎の時と同じ、血で書かれた仇、と言う怒りと恨みに満ちた文字が踊っていた。


 レコーダーの中身は犯人からのメッセージなのか、はたまた罠か。狼はさっとソファから立ち上がり、寝室へ向かうと、古ぼけたノートパソコンを持って戻って来る。


 テーブルに置いて立ち上げると、ものの数秒でデスクトップ画面が表示された。パソコンは完全なスタンドアローン。無線ネットワーク機能を省いた自作である。ガワ以外は現代でも十分に通用するスペックだった。


 彼はボイスレコーダーをパソコンへ繋ぐ。レコーダーは爆発する事なく起動した。


 中身は複数の音声ファイル。組織のプログラマーに個人的に作らせたスキャンプログラムも異常を検知しない。狼は一つのファイルを選んで再生した。


《いいか、貴様達。何故、こんなしち面倒で堅っ苦しいテーブルマナーなんぞを修得しなければならんのか。わかるかっ?》


 スピーカーから流れる厳格で落ち着いた声に、狼の目が少しずつ見開かれる。


 これは、どういう事だ。


 ぐるぐると彼の頭の中は渦を巻き始めた。


《そうだ。貴様達に必要な身分や手続きは組織が全て済ませてくれる。だが、その身分に値する立ち居振舞いが出来るかどうか。こればかりは貴様達自身の問題だ。よしんば標的に近づく際、パーティーやレストランで野生児のごとき振舞いをしてみろ。さっさと追い出された挙句、その場の連中に顔を覚えられる。仕事はパア、貴様達はそこらのドブに浮かぶ事になる。わかったか――わかったなら、トマス。食器から手を離せ。赤ん坊でももう少しマシにスプーンを使うぞ》


 壮健な男性の声は、狼にとって聞き間違える事などありえない人物の者だった。


 ユーリ・セルゲイノフ、彼の養父の声に間違いはなかった。


 彼は次々と他のデータも再生していく。その全てが、悉くセルゲイノフのものであった。


 教官時代の仕事中のものから、あからさまなプライベートなものまで、もはやそれは、一つの日記と呼んでいい。


 一体どうやって録音したのか。よしんば、相応の手段を用意できたとして、何故わざわざこんなにもデータを集めてあるのか。


 不可解極まりない代物を前に、狼は思わず顎を手でさする。


(どうあっても、俺を犯人にしたいようだな)


 犯人の目的は、もはや明々白々。彼を陥れようとしている。それだけは、間違えようのない事実だった。


 父の仇の文字にセルゲイノフの音声データ。これで彼を疑わないものがいるとしたら、聖人君子かよほどのひねくれ者だけである。


 しかし、同時に気になる点も浮かび上がってくる。


 兎の死体を挟んで相対した時、蜘蛛の反応は血文字のような明確なメッセージを初めて見たようであった。


(だとしたら、こいつは――別の意味をはらんで来る)


 改めて血のメッセージに手を伸ばすが、虫の這い回るような気配に動きを止める。


 瞬間、部屋の至る所から現れた無数の鋼線がリビングの中で躍り狂う。ソファが裂け、テーブルは切れ、ジャケットが宙に浮かび上がる。


 寸での所で退避した彼は、テーブルを乗り越えてキッチンへと滑り込んだ。


 シンクの角からリビングを覗くと、ワイヤーが幾何学模様を描いて部屋を占領している。


 ドアが静かに開き、玄関から堂々と蜘蛛が姿を現した。


「まったく、人間とは思えぬ鋭さですわね」


 入って来た蜘蛛はソファの手すりに腰を下ろし、はっきりと狼に向けて告げる。


 カウンター越しに真っ直ぐ声をかけられ、彼は周囲を見回した。


 換気扇から入り込んだファイバースコープが部屋中を見回していた。


 角に入り込んだ事で見失ったらしく、レンズがあちこちを探っている。


 咄嗟の判断で、換気扇のスイッチをオンにする。


 ガランガランと鈍い音を立ててスコープがファンの餌食となった。直後に襲い来るワイヤーにはコンロに置かれたやかんを差し出して回避する。


 キッチンから引きずり出されたステンレスの塊と、手にした端末に眉を潜めた蜘蛛は盛大に溜め息をついた。


「出てらっしゃいな。今なら、命までは取りませんわよ」


 彼女のリングがからの伸ばされた鋼線が行き先を求めてうねりまわる。


 狼は答えない。ただ息をひそめてこれからの行動を思案する。彼が保持していた最低限の装備はいまや蜘蛛の足元だ。残された手札は、このキッチンと言う場だけである。


 数分の沈黙に蜘蛛が次の指示を己の糸に命じようとした矢先、狼はすっと立ち上がった。


 両手を上げてリビングへと姿を現した彼は、玄関のドアへと目を向ける。


 内鍵も電子ロックも綺麗に解錠されていた。こじ開けた痕跡は微塵もない。


「ああ、そこは少し手こずりましたわ。回路さえ侵入できれば電子ロックはどうとでもなりますけど、まさか機械式のロックを三つも仕掛けるなんて」


 巣から枝別れしたワイヤーが彼の鼻先に伸び、クネクネと姿を変える。


「とは言え、私の糸は最先端のナノテク。気密室でもない限りは開けらない扉はありませんわ」


 自慢気な蜘蛛に狼は能面のような視線を向けた。


「よく、見つけたな」


「方法はいくらでもありますわ。と言っても、貴方がそれを知る必要はないわけですけど」


 言うが早いか、蜘蛛の飛ばした指示により、背後から鋼線によって四肢を拘束される。そのまま巣へと体を磔にされてしまった。


「わかっていますでしょうけど、妙な気は起こさない事ですわ」


 蜘蛛は狼の耳元に囁きながら、彼が手に隠し持っていた調理用の串を奪い取る。


「これだから、獣は苦手ですわ」


 狼は抵抗せず、相手の一挙動に目を配り続けている。


 蜘蛛はテーブルから落ちたボイスレコーダーをこれ見よがしに拾い上げて再生する。


 再び、部屋の中にセルゲイノフの声が響く。


「私、少しは貴方の話に耳を傾けてもいいと思っていましたけど、その必要はなさそうですわね」


「俺は、共食いはしていない」


「どう信じろとおっしゃいますの?」


 狼の眼前に、二つのレコーダー。そして血文字のメモが突きつけられた。


「明確な犯行声明。その準備以外にどうやってこの状況に説明をつけろと私に言いますの?」


 狼は答えない。答えても無駄だとわかっている。少なくとも、蜘蛛を、この猟犬を納得させる材料は何も無いのだ。


「貴方が私を見逃したのも布石だと思わざるを得ませんわね」


 真っ当な判断である。今でも体がバラバラになっていない事はむしろ感謝するべきなのかもしれない。


 だが、それだけに彼女の慢心は、狼に大きな隙を与えていた。


「あなたの身柄はこれから引き渡しになりますわ。辞世の句でも考えて置きなさいな」


 蜘蛛は狼の顎を撫で上げると、袖から端末を取り出す。


 連絡員へのコールボタンを押そうとした瞬間、キッチンが爆音と共に火を噴いた。


「なっ!?」


 衝撃にありとあらゆる戸棚が開き、ガラガラと食器が崩れ落ちる。


 ガンガンと鳴り響く警告音に合わせて、スプリンクラーから煙が吹き出した。防犯用の催涙スプレーだ。


「っ」


 蜘蛛の前へ出る前に行った細工。オーブンに放り込んだ小麦粉の粉塵爆発。その予定通りの効果を確かめて、狼はスナップを効かせ、強引に手首を振りながら拳を握りしめた。


「この、往生際の悪いっ」


 蜘蛛が距離を取りながら腕の一本を飛ばせ、と指示を送るが手応えはない。


 はっとした蜘蛛が目を凝らした先には、束縛から逃れた狼が刃物を構えていた。手にしていたのはバターナイフ。串は囮だ。


 一閃、彼と蜘蛛を隔てていた巣の壁は切り開かれた。


驚愕する彼女に向かい、狼は疾駆する。自由になった四肢、そして狭い室内。


 彼はそのまま、全身を弾となした。防御する暇なく、衝撃によろめく蜘蛛の襟を掴み、地面へと叩き伏せる。


「あぐっ!?」


 足で背中を押さえつけ、ナイフを首筋にそっと触れさせる。


「過剰な自身は身を滅ぼす。どれほど優れた暗殺者でも、初撃を失敗した時点で、身を現すべきではなかったな」


「そんな、チャチな刃を特注させるなんて、どうかしてますわ」


 さすがにここまですればバレもしよう、と狼は思う。


 蜘蛛は金属の鋼線を自在に操る。普段から接しているものと同じ材質であれば、肌に触れればわかるだろう。


 蜘蛛の糸と同じ特殊合金。それがバターナイフの素材だった。


「俺は、そこまで自信家ではない」


 これに狼の技量が合わさり、鋼線を一刀の元に切り裂いたのである。


「でも、あなた、どうやって私の糸をっ」


 狼は無言で、蜘蛛の眼前に己の左手を叩きつける。


 血飛沫が、彼女の顔を覆う。同時に、ゴキッと床の接触とは別の音がした。


「本当に往生際の悪い事、ですわ」


 狼の手の表面はごっそりと削げ落ちていた。手首を強引に脱臼させ、強引に糸から引き抜いたのだ。


 地面とぶつかった時になった奇妙な音は、離れた手首の関節がはまりなおした音である。


 痛みなど、今の彼には何の意味もない。どこまでも冷めた狩人の瞳が、蜘蛛を見下ろす。


「ふ、ふふふ。まったく、私の完敗、ですわね」


 そう言いながら、蜘蛛は高らかな笑い声を上げる。


「何がおかしい」


「殺意の無い恫喝など、笑う意外にどうしろと言いますの?」


 それはほとんど直感だった。


 狼が蜘蛛から飛び退いた直後、彼の心臓があった場所へ、いくつものワイヤーが襲い掛かった。


 立ち上がった蜘蛛に向け、煙を裂いて飛び掛る。しかし、渾身の蹴りは鋼線によって編まれた盾によって防がれてしまう。


 二度、三度、と立て続けに狼は煙に紛れての一撃離脱を行うが、ことごとくが防がれた。


 気付けば、追い込まれていたのは狼だった。煙のない寝室へと、後退させられていく。


「本当に貴方、私を殺すつもりがないのですわね」


「理由がない」


 迫り来るワイヤーを次々に打ち払うが、距離が開き過ぎていた。


 狼は壁を背に、防御に徹する。


 蜘蛛はギリリと奥歯を噛み締めた。


「この後に及んで、イライラさせられますわ、貴方。さっさとそんな薄汚い皮を脱ぎなさいな!」


 丸太の如き太さに構成されたワイヤーが、狼に向けて打ち出される。


「っ!」


 心臓目掛けて一直線に突っ込んでくる。


 ワイヤーから細いワイヤーが何本も射出され、壁に突き刺さり、檻の如く狼を釘付けにする。


 壁のワイヤーを切断、脱出を試みる彼はしかし、次の瞬間、迫り来るワイヤーの塊へ、自ら体をぶつけていた。


「んなっ!?」


 腕の肉も脇腹も一気にこそげさせた、およそ常軌を逸した自殺行為に、蜘蛛は目を点にする。


「あ、貴方、どうかしていますわ!」


 狼は答えない。ただ、顔色を微塵も変える事無く、鋼鉄の丸太を、ポンポンと叩く。


「うっ」


 気圧されたじろぎ、蜘蛛はのろのろとワイヤーを腕輪へと戻す。


 防音壁にはくっきりと大穴が開き、隣の部屋が丸見えだった。


 そこから、キョトンとした赤子の顔が覗く。


 無垢な瞳と目が合い、蜘蛛の顎が落ちた。


「そ、そんなまさか――ど、どうして?」


「狩りをする時は、誤射に常に気を配るものだ」


 さも当然の如く告げる狼に「本当に野獣ですわね」と小さく吐き捨てた。


「それと、あんたの殺気は本物だったからな」


 蜘蛛の目的は、彼を焚き付けて化けの皮を剥がす事だったに違いない。それゆえに、わざと抜け道を残しながら、明確に命を奪う攻撃を仕掛けたのだ。


 だからこそ、狼はリスクを犯して鋼線の向きを変えた。そうでなければ、彼が避けた時点で彼女は鋼鉄の丸太が壁にぶつける事はなかっただろう。


 ゆっくりと、蜘蛛は体から力を抜いて行く。


「あなたの主張は理解しましたわ。とりあえず、休戦と致しませんこと?」


 適切な判断だ、と狼は頷く。


 つんざく様な悲鳴が、隣室から上がった。赤子の母親が壁の穴に気付いたのだ。


 赤子を連れて逃げ出した母親を確認して、狼はベッドからシーツを引き剥がし、穴に押し込んで塞ぐ。


「このまま外に出るのは得策ではありませんけど、何かありまして?」


「ついてこい」


 蜘蛛を伴い、リビングへと戻る。


 真っ二つに割れたテーブルを蹴飛ばし、カーペットを引っぺがす。


 何の変哲も無い床が現れる。狼が手をかざすと、その生体反応を読み込み、自動的に地下への扉が開く。


「ここから地下室にいける」


「用意周到ですわね」


「先に行っていろ」


「お任せしますわ」


 蜘蛛は、地下室へと飛び込む。はしごがあるが、ワイヤーを引っ掛けてのジャンプだった。


 無事にワイヤーが回収されたのを確認し、狼は後始末に取り掛かる。


 散乱したメモとボイスレコーダーを回収し、キッチンからウォッカのボトルを取り出して部屋へばら撒く。


 調理用の油も適当にぶちまけると、室内に火を放つ。


 あっと言う間に部屋は燃え上がった。


 火の勢いを確認し、狼は地下室へと降りて行く。


 入り口を閉じて数分後、室内に残されたありとあらゆる物に火の手が回る。


 通報を受けて、警察と消防が到着した時には、既に狼が住んでいたと言う痕跡は完全に消え失せ、手のつけられる状態ではなくなっていた。




 扉が閉まったのを確認し、狼は地下室へと降り立つ。


 ここは、部屋を改造した際に一緒に設置したシェルターだ。念の為に作っただけであり、実際に使用しようする事はまずないと踏んでいた。食料も二週間分程度しかなく、電波暗室化も施してある。


 出入り口は、上の部屋とあと一箇所。こちらは、外へ直接出られるようになっている。外から見れば、管理人や業者の通用口にしか見えない。もちろん、本来の通用口は別であるが、ロシアにおいては改修や補強工事などで出入り口が変わったり、使用不能なのに外部からは見分けられないなどと言う事もしょっちゅうなので、怪しまれる事はないのだ。


 あとはほとぼりが醒めるのを見計らうだけか、と一息ついた狼の肩を蜘蛛が叩く。


 彼女は、戸惑いながら、部屋の奥を見つめていた。


「今なら私、貴方を信じて差し上げても構いませんわ」


 視線を追いかけた先には「ようこそ」と見知った塗料と書体で書かれていた。


 その下には又もボイスレコーダーとメモが置かれている。蜘蛛が罠に気を配りながら糸を床に這わせ、メモとレコーダーを回収した。


「大層ご立腹ですわよ」


 蜘蛛はメモを一瞥し、手渡して来る。「父と同じ苦しみを」と書かれていた。


 狼は確信した。犯人の狙いは、自分の命だと。最初からそれだけだったのだ。


 陥れるだけでは物足りない。万が一にも彼の命がこの世に残っては行けない、と言う信念すら感じられる。


 自分は犯人の父親を殺したらしい。これはその復讐、と言う事になる。


 状況から導き出される答えはただ一人。件の父とは、ユーリ・セルゲイノフだ。


 だが、それは最も不可解な事でもある。セルゲイノフに身内は居ないのだから。


 そしてかの音声データ。入手する術があるのは、彼の訓練を受けた者だけだ。


 狼はメモを握り潰す。


「私がここに居たのは幸いでしたわね。この演出、貴方の損得や撹乱を超えてますもの」


 もはや不要とばかりに、蜘蛛はボイスレコーダーを投げてよこす。


「もうっ。この部屋、電波が来てないではありませんの」


 端末を取り出した彼女は頬を膨らませて画面を突き付けてくる。


「ここは電波暗室だ」


「全く、兎だってもう少し度胸ありますわよ」


「どこに連絡を入れる気だ?」


「連絡員に決まってますわ。とりあえず、私が口添えして、現場見てもらえいますわ。貴方の追跡が取り消されれば万々歳。相変わらずでも私の報告を審議する間は貴方の猶予となる。悪くない話だと思いますわ」


 蜘蛛の立場、己の状況を考えれば妥当な線か。狼は頷く。


「では、部屋を出て十分後に連絡を取りますわ。その間、貴方が何をしようと私は関知致しませんから」


 返事を待たず、彼女はさっさと出入口に向かう。


 狼は体から出来るだけ離してボイスレコーダーを起動させた。


 音量が下げられているのか、ノイズの振動だけが伝わって来る。徐々に音量を上げながら耳を寄せる。聞こえた来たのは想定通りの声だったが、その内容に狼は眉を寄せた。


「ちょっと、パスを教えてくださいな」


 蜘蛛が扉のロックで声をかけて来るが右から左。彼の意識は完全に音声へと向けられた。


『――実に良い、鬼ごっこだった。きっとこれは、最後に神がくれたチャンスだったのかもしれないな』


 それは、彼が聞いたセルゲイノフの最後の声。一言一句、記憶とまったく同じであった。


(何故、こんなものがここに?)


 普通に考えれば墓穴以外の何ものでもない。彼が数ヶ月前に受けた依頼。その場のデータ。


 それを入手できる者など限られている。こんなものを、狼に、標的に晒すなどリスクを犯し過ぎている。


 だが相手の、犯人の今までの手腕を考えれば、とてもこんな凡ミスを犯すとは思えない。必ず意図があるはずだ。


 狼は思考をフル回転させる。


「何で電子パネルの裏にダイアル錠があるんですの、んもう。用心深さは病的ですわね」


 蜘蛛はどうにか電子ロックを解除し、第二の鍵へ取り掛かっているようだ。


 不満を次々と漏らすが、集中している狼の耳にはまったく届かない。


 無用心とすら思える、容疑者を絞り込めそうな手掛かり。


 セルゲイノフの最期の音声データ。


(最期――っ!?)


 狼はガバっと顔を上げる。


 最初から、答えは示されていた。書かれたメッセージこそが、全て。


 それで筋は、そしてこの状態にも説明がつく。


(犯人は、この部屋へ侵入し、そして出て行った。だとすれば)


 狼は急いで蜘蛛の方へと振り向く。


 彼女は鋼線を利用し、ダイヤル錠の解錠の真っ最中だった。


「おい」


「はい?」


「罠だ」


 狼の言葉に、蜘蛛は首を傾げる。


 カチリ、と鍵の開く音が響き、閃光が二人をシェルターごと包み込んだ。




 その日、モスクワ東部の古ぼけたマンションは二度の出火を経験した。


 人が暴れていると通報を受けて駆けつけた警察目の前で、最初の炎が上がり、駆けつけた消防の目の前で、爆発が起きた。


 コンクリートという事で、延焼こそなかったものの、鎮火までには数時間を要した。


 その後の検証で、爆発は、ロシアに不満を持つテロリストグループによる爆発物によるものと断定された。


 続報により、煙を吸い込んだ気管支炎や火傷等の怪我人多数。死亡者二名が確認される。


 亡くなったのは若い男女。地下で逃げ遅れ、爆発に巻き込まれたものとの見解が発表され、瞬く間に夕方のニュースを飾った。


 モスクワ中央に近いバーの客の一人が、そのニュースを前にほくそ笑むが、酔客ばかりの店内で、気付いた者は誰も居なかった。




 モスクワに夜の帳が下りると、クレムリンをガラス越しに眺める事が可能なマンションの一室に明かりが灯る。


 部屋の主である老いがはっきりとしてきた白髪の男は、ほろ酔いらしく、鼻歌を奏でながら、キッチンで新たな酒をグラスに注ぐ。


 年代物のウィスキーで、彼は特別な日にしか飲まないと決めていた。


 ロックグラス片手にリビングのソファへ体を預ける。


 サイドテーブルのヘッドホンを装着し、リモコンでオーディオプレーヤーのスイッチを入れる。心地よい囁きが彼の体を包み込んだ。


 彼はウィスキーの香りを楽しみながら、揺りかごで休む赤子のように穏やかに目を閉じた。


 ああ、今日は実に清々しい。


 その時、サイドテーブルにガチャンとボイスレコーダーが投げ出される。


「うっ!」


 染み付いた習性か。男は見た目に似合わず、素早く体を起こして身構える。


 青年が、彼の眼前に立っていた。


 ジャケットを簡素に羽織ってはいるが、腕やわき腹には血が滲む包帯が覗き、体中傷だらけなのが一目でわかる。


 青年は煤けた顔にまったく感情を乗せておらず、じっと彼を見下ろしていた。


 息を飲む。喉が渇く。ぐっと手にしたウィスキーを煽って搾り出したのは、「生きて、いたのか」だった。




 語るに落ちる、とはまさにこの事か。


 狼は無造作にプレイヤーからヘッドホンを引っこ抜く。


 スピーカーからは彼の養父、ユーリ・セルゲイノフの声が流れ出した。


 呆気にとられる男に向け、狼は尋ねる。


「何故、俺が死んだと思った」


「北部で爆発があって死んだようだと情報が入ったんだ」


 僅かな間は空いたが、男は淀みなく返答した。


「ニュースで名前は発表されていないはずだが」


「些細な事だ。情報源はいくらでもある。お前だって知っているだろう。だが、生きていたのなら何よりだ」


 男は立ち上がると馴れ馴れしく肩を叩こうとするが、狼は流れるようにその手をかわし、壁を背に寄りかかる。


「耄碌したな、ゲオルグ」


 狼の言葉に、男は、ゲオルグ=ディートリッヒは全てを諦めたように肩をすくめた。


「誰もが通る道だ。お前もいずれ、な」


「あんたには借りがある。申し開きの場くらいは設けるように言ってやる」


 腕組みをして、決してその挙動に目を逸らさない彼に、ディートリッヒは額を掻いて苦笑する。


 判っているのだ。彼がここに来た時点で、計画は既に失敗なのだ、と。


「どうやって助かった?」


 狼は返事の変わりに包帯が巻かれた左腕を晒す。


 そこには、蜘蛛の糸である腕輪が付けられていた。


「なるほど」


「外で連絡員が待っている。出頭してもらうぞ」


「ああ、覚悟を決めるとしよう」


 パンと頬を叩き、肩を力なく落とした初老の男は、今にも消えそうな笑みを浮かべた。


 甲高い金属音が部屋を揺らす。


 ディートリッヒが放った足の刃は、牙を手にした狼の腕をびりびりと振るわせた。


「っ!?」


 それは、研ぎ澄まされた全身と言うアンテナが為した本能的な防御反応だった。


 膨れ上がった気配は、とても老年のソレではなく、もっと苛烈で活き活きとしていた。


「若い、若いなぁ狼よ」


 かつて、男が与えられていたと言う鳥の名を彷彿とさせるようにぬるりと首を回したディートリッヒの面相は、蛇の如き嗤いだった。


「むざむざ、殺し屋の前に標的が姿を現すとは!」


「あんたには、借りがあったからな」


 耄碌は取り消さなければな、と狼は奥歯を噛み締めた。


 左手が重傷とはいえ、逆手を取らされたのみならず、 一瞬でも気を抜けば、完全に押し負けてしまいそうだ。


 相手は、もはや何の憂いも無い。犯行が晒された今、ただ、標的である狼の命だけを狙っている。


 その目的意識が、年齢を超越した力を発揮しているのか。


「よくも私の父を殺めてくれたな。その罪、お前の血で必ず贖わせる!」


「あんた、何故ユーリを父親と呼ぶんだっ?」


「はぁ?」


 ディートリッヒはすっとんきょうな声と共に、ワナワナと体を震わせる。見開かれた目はまるで魚だ。


「セルゲイノフ、ユーリ・セルゲイノフが私の父親とはな。お前は何を言っとるんだ、え?」


「何?」


「あんな老いぼれがどうなろうが、知ったこっちゃないんだよおっ!」


 叫びと共にかかる負荷が増大する。体は壁に沈み、踏ん張った床が悲鳴を上げた。


「ぐっ」


 馬鹿力にも程がある。


 距離を取ろうと、僅かな引きで均衡を崩し、相手の爪を弾き返すが、反動を利用した追撃が彼の顎に血を走らせた。


 ディートリッヒの靴には、様々な爪が隠されており、襲い掛かる連撃は完全に狼の足を止めた。


(片手では、さすがに厳しいな)


 狼は鋭い爪を交わすべく、足を入れ替える空隙を狙って素早く踏み出す。蹴りを受け止め、ナイフを突き立てる。


 寸前、ディートリッヒが胸のポケットに手を当てり。


 向けられた万年筆に、狼は力任せに足を押し返して飛び退いた。


 破裂音が上がり、壁に小さな穴が開く。


「さすがにいい反応をするな。だが――」


「っ」


 着地した先には、サイドテーブル。足がひっかかり、体が揺らぐ。


「地の利はこちらにある」


 一瞬で、懐に踏み込まれた。万年筆の先端が喉を目掛けて突き出される。


 回避不能、狼は左手を贄と差し出した。


 ズブリと手の甲が痛みを訴えるが、そのまま斬り返す。


「ほっ」


 サイドテーブルに載っていた琥珀色の液体が視界を覆い尽くした。


「ぐっ」


 強烈なアルコールに視力が奪われるも、蹴りを繰り出す。


 向こうが離れたのを感覚で悟り、防御体勢を取る。


「いい姿になったじゃないか。んん、丁度いい」


 ゴソゴソと引き出しを弄るような音に擦過音。


 かすかな熱の気配に目を開くと、ぼやけた視界にオレンジの点。


「父と同じ、煉獄に抱かれて死ね」


 ディートリッヒが放った光りは狼の肩に当たる。


 ゴウッと言う音に、視界が真っ赤に染まる。熱が襲い掛かってきたのは、その直後だった。


 狼は体を丸め、窓ガラスを突き破った。


 空中へと体を投げ出すと、腕輪へ命令を下す。


 包帯をしていた時は命令できなかったが、手に穴が開いた今は違う。


 流れ染みた血が体表の電磁波を正確に伝達。指令を聞いた腕輪はワイヤーを射出し、彼の体をマンションの壁へと叩き付けた。


 ワイヤーの束を棘状に展開。コンクリートを穿ちながら狼は下へと転がり落ちていく。


 壁面へと叩きつけられる体は、酸素の供給を阻害し、燃え盛る炎を少しずつ弱めて行く。


 寒空のせいか、狼の思考は炎にその身を蝕まれてもなおクリアだった。


 あの男は確かに言った。セルゲイノフは父ではないと。では、ボイスレコーダーの声は何か。そして、同じ煉獄とは何か。


 思考は巡る。地面への着地にあわせて、全てが繋がった。


 それはしかし、もはや通常の思考ではどう間違っても及ばぬ結論でもあった。


 狼は僅かに火を抱いていたジャケットを脱ぎ捨てながら、後ろへ下がる。


 まるでミサイルの如く、上空からの飛来物が彼の居た場所へ落着した。


「しぶとい男だ」


 狼を追ってきたディートリッヒは、腕を地面へ突き立てたまま、彼をにらみ付ける。


「あんたも、往生際が悪い」


「今更、助かろうとは思わんっ。貴様を殺せれば十分だ!」


 片手逆立ちのまま、ディートリッヒは跳ねた。


 地面が抉れ、狼へと飛び掛る。


「っ!」


 鋼線で盾を編み上げる。のしかかる重みに、傷ついた腕が悲鳴を上げた。


 バキバキと音を立て、ワイヤーが引きちぎられて行く。


 盾を解き、つんのめるディートリッヒの喉元目掛けて、牙を振りかざす。


 そのナイフを、相手の左手が軽々と受け止めた。


 伝わってくる硬質な感触。


 義手だ。


 掴まれた得物は、引く事も押す事も出来ない。


 狼はさっとナイフを放すと、腰に提げていたもう一つの牙を引き抜いた。


(センサー式の自動防御。最新鋭の機械義手、か)


 部分的なサイボーグと言って差し支えない代物だ。 センサーが起動した以上、正面からの、一対一では圧倒的な不利。


 狼はじりじりと相手との距離を測り、決して間合いに入らず、入らせず、勝機を探る。


「ち、せせこましいっ」


 ディートリッヒは徐に屈みこみ、地面に手の平を当て、握り込む。


「っ」


 狼は、疾駆した。


 瞬間、最古の遠距離攻撃。投石が襲い掛かった。


 人力の限界を超えたパワーで放たれるコンクリートやアスファルト片は散弾銃と変わらない。


 狼は走る。走り続ける。必要なのは、一定の幅に収まらない事だ。


「おのれ!」


 狼の素早さは、向こうの予想を超えていたのだろう。


 かすりもしない命中率に、その表情には焦れが見え始めた。


 狼は彼とマンションに対面して扇状に動き回り続ける。止まれば命は無い。人間としての体すら保っているかどうか。


 隙を探し続ける狼と、どうしても攻撃が当たらぬ相手の呼吸は徐々に上がり出す。


 根競べの中、グラリ、と狼の体が揺らぐ。相手の投げ散らかした瓦礫に足を取られたのだ。


「もらった!」


「っ」


 直撃を確信し、大きく振りかぶったディートリッヒ目掛け、狼はナイフを投げ付ける。


 体勢を崩しながらも放たれた牙は正確無比に、相手の眉間へ吸い込まれて行く。


「ぬうっ、悪あがきを」


 センサーが反応し、義手がナイフを弾く。


 狼は倒れこむ。命は繋ぎとめていたが、回避の術はもはや無い。


 ディートリッヒが彼を見下ろす。その顔には歪みきった笑みが浮かんでいた。


「鬼ごっこもこれまでだな。死ね、狼!」


 ディートリッヒが散弾をばらまこうと高らかに腕を上げる。


 狼は、避けなかった。ただ、左手を掴み、力いっぱい後ろへ引き抜く。


「うおぁ!?」


 瞬間、夜の闇に白銀の煌めきが走る。


 ディートリッヒの体がスローモーションの如く、背中から地面へと吸い込まれて行く。


 彼の視界に映ったのは、赤い雫を沸き立たせて立つ右足だったに違いない。


 立ち上がり、大きく肩で一息をついた狼の左手に、一本の鋼線が吸い込まれて行く。


「やはりあんたは老いたよ、ゲオルグ」


「き、貴様っ。よくも、よくも!」


 出血や痛みよりも怒りが勝っているのだろう。


 ハイパワーの義手で体を引きずりながら、狼に向けて這い進んでくる。


 彼を見下ろし、狼はさっと左腕を引く。


「おおっ!?」


 ゲオルグの体がググっと後退して行く。彼の左足にも糸は仕掛けられていた。


 狼は彼の両足に糸を仕掛けていたのだ。


 散弾をよけながら、じわりじわりと、義手のセンサーにも感知されぬように、静かに潜行させていたのである。


 ゆっくりと糸を巻き込んでいくと、ゲオルグの体は電柱を竿として、吊り上げられた。


 頭に血が上って気を失うか、足が自重と鋼線に耐え切れずに壊死して落ちるか。もはや彼の待つ結末はソレしかない。


「投降しろ。あんたの負けだ」


「まだだ、まだっ!」


 ディートリッヒはもがくが、ワイヤーが足に食い込むだけだ。


 元々赤かった顔がさらに赤くなり始め、額に青色が見え始めた辺りで、彼はだらんと力なく両手を地面に向けた。


「何故、殺さんっ」


「言ったはずだ」


「くっ、くくく。まったく、貴様と言う奴は!」


 高笑いと共に、ディートリッヒが動く。


 強引に上体を持ち上げたかと思うと、自らの義手で左足を切り落とす。


 義手によって着地した彼は、そのまま己の体を跳ね上げると、右足の下へ。


 そして、掴んだそれを狼に向けて投げつけた。


「うっ!」


 飛び散った血飛沫が目晦ましとなる。


 顔を上げた狼の眼前に、飛び込んでくるディートリッヒの姿があった。


 かすかな反応の遅れ。それは、ディートリッヒが心臓を貫くには十分な隙であった。


「むうっ!?」


 しかし、その指先が彼にたどり着く事は無かった。


 目と鼻の先。パン一枚すら挟まりそうも無い距離で、ディートリッヒの体は動かなくなってしまう。


 まるで縫い付けられたように、空中で静止していた。


 狼は、驚愕と混乱に包まれたディートリッヒに、左腕のリングを取り外しながら告げる。


「あんたを、俺は殺さない。借りもあるが、何より、俺の仕事じゃない」


「なん、だと?」


 狼は、腕輪を放り上げる。


 暗闇の中、キラキラと光を放ちながら飛んで行った先には、先ほどディートリッヒが吊り上げられていた電柱が。


 目で追いかけた彼は確かに見た。


 腕輪が、地面に落ちる前に止まったのを。そして、浮き上がる、黒い和服の女を。


「まったく。何時こちらに任せていただけるのか、待ちくたびれてしまいましたわ」


 現れたのは猟犬。蜘蛛だった。


 本来の持ち物である腕輪を受け取り、袖へ収めた彼女は、ニッコリとディートリッヒへ笑いかける。


「数時間ぶりですわね。ご機嫌はいかがかしら?」


「な、何故だっ。何故お前が!?」


 まったく予想外の登場だったのか。噛み付かんばかりに、彼は尋ねる。


 答えたのは、狼だった。


「俺は、蜘蛛が死んだとは言っていない」


「ついでに言えば、私が病院送りになったとも言いませんでしたわね」


 もちろん、狼はそう勘違いするように仕向けたわけだが、それに嵌った時点で、ディートリッヒの勝ち目はなかったのだ。


「さすがに二人分の盾を作って新型爆薬相手に無傷とは行きませんでしたけど」


 蜘蛛はそっと包帯が巻かれた腕を覗かせつつ、伸ばした糸をピンと弾く。


 振動が、ディートリッヒの体中に伝わった。


「い、いつから貴様そこに!?」


「最初から居ましたわよ。そこの人がマンションに入った時からずっと、ね」


 まるで合点が行かないとばかりにディートリッヒは吠える。


 彼にしてみれば、光学迷彩でもない猟犬が、まったく視認できていなかったのだから無理も無い。


 くすり、と蜘蛛は口元を隠しながら嗤う。


「蜘蛛は待つもの、忍ぶものですわ。機械はともかく、人間の脳など、気配を完全に断てば誤魔化す事などわけないですわよ」


 そして、それこそが、糸と言う得物以上に彼女が蜘蛛と言う名を頂く事になった技能でもある。


「後は、任せる」


 狼は、巣にディートリッヒが完全に囚われたのを確認し、背を向ける。


 蜘蛛は小さくお辞儀を返した。


「ま、待て! このまま貴様を、行かせるものか!」


 ディートリッヒは力任せに腕を伸ばす。


 義手のパワーに、糸が一本、切れた。


「あなた、向かい合う相手を間違えてますわ」


 蜘蛛は糸が地面に落ちるのを確認し、巣の糸を巻き上げる。


 彼の左腕が、弾け飛ぶ。残っていた両足の腿も切断された。


「があっ」


「ネタは上がっていますし、殺しても構わないのですけれど、優先命令が変更されてますのよ」


 蜘蛛は踏み潰した蟻を見るように、地面へ叩きつけられた老人を見下ろした。


 ディートリッヒは、残された義手に縋るようにして、地面から立ち上がろうとする。


 だが、蜘蛛の差し出した糸の一本が、彼の肩口に触れるや否や、機械義手は彼の体を手放した。


「なっ、あっ?」


「もう貴方には、不要ですわよ」


 組織の権限によるコードが、糸を通じて流されたのだ。


 ディートリッヒにはもう、残されていたのは頭だけだった。


「ま、待て。待てっ!」


 彼はひたすら狼を呼ぶ。


 だが、狼は答えない。振り向かない。彼にとっての仕事は、完了しているのだから。


「父の仇だ、生かしておくものか」


 段々と、狼の背後から投げかけられる言葉が震え出す。それは、泣き声と呼んでも良かった。


「父の、父さんの仇いいいっ! 逃げるな、戦え! 畜生がああああ!」


 とても、人生の終わりを迎えようとしている男とは思えない、子供染みた嗚咽と絶叫が轟いた。


「聞くに堪えませんわね。子供はもう、寝る時間ですわ」


 蜘蛛は、退行を起こして涙でぐしゃぐしゃになったディートリッヒの顔を、容赦なく蹴り飛ばす。


 共食いの犯人、猟犬の本当の標的はあっけなく、意識を失った。




 静寂が戻ったマンション群。狼の進む先から、丸い四つの光が灯る。


 独特な音を響かせて、黒塗りのリムジンが滑り込んでくる。


 いにしえの高級車、チャイカだ。


 外側をピカピカに磨き上げられた四輪のカモメは、狼の横にピタリと停車する。二十年以上の時を経て尚、ロータリーエンジンは軽快な音を立てていた。


 運転席から降りてきたのは、ベルトに腹を載せた中年の男性だ。


 どこか落ち着きなく、ん、と呟く、狼に取っては馴染みある顔だった。


「終わったようだね」


 よほど快適に過ごしていたのか、はたまた緊張のせいか、冷え込む夜だというのに、男は汗を拭いていた。


「聞いていた通りだ」


「ん、まあ、そうなんだがね。ん、この目で見てちゃんと確認するまでは生きた心地がしなかったものでね」


 狼は首の包帯を外す。下からは薄型の無線機が現れる。


 テープ止めのそれを外し、彼は車の屋根へと置いた。


「ん、全部録音してある。いやね、うん。これで私もようやく一安心だ」


 そう言って、組織の連絡員である中年男性は、自分の首をトントンと叩いた。


「あんたには、感謝しているよ」


「ん、そうあって欲しいものだ」


 狼は男のエスコートで車へと乗り込む。


 ガラスの向こうでは、蜘蛛がディートリッヒをミイラのように拘束して引きずってくる姿が映っていた。


「まったく、一時はどうなる事かと思ったものだがね、ん。だが、次はないよ」


 運転席へと戻った男は、振り向き様にそう告げる。その瞳は、先ほどまでの落ち着きのなさは微塵も無く、プロの職業人のソレであった。


「ああ」


 狼はシートにぐっと背を預けて目を閉じる。


 この男の協力がなければ、今頃彼はいまだ逃走劇を続けていた事だろう。


 何時間も前。シェルターの爆発から十数分後のあの時こそ、本当の意味で彼の命は懸かっていたのかもしれない。




 マンション爆発の一報が報じられる少し前、蜘蛛が編み上げた鋼線の盾で致命傷を逃れた二人は、避難者と野次馬の混乱に乗じて、現場を離れた。


 その後、蜘蛛にこの連絡員を呼び出してもらい、車に半ば強引に乗り込んだのだ。


 緊急通報のボタンを押そうとした男は蜘蛛によってあっさりと拘束された。


「これはどういう事かね。何故、ん、君達二人が仲良く揃っているのだ?」


「私は猟犬ですもの。主の意向には従いますわよ。だから、判断を仰ぐべき事案を持ち込んだだけですわ」


 蜘蛛の言葉に、男はチラリとルームミラーで狼の姿を確認する。


 軽傷、とはとても呼べない。重傷だ。蜘蛛もそれなりの怪我を負っている。彼女の言い分は、猟犬の範囲をギリギリだが逸脱はしていない。


 話を聞く、と言う選択肢が僅かによぎる。だが、それに対する警鐘も、ガンガンと鳴り響いていた。


「しかしだね。ほっ」


 突然、股に違和感を感じて連絡員は尻を浮かせる。


 彼の股間に蜘蛛の鋼線が巻き付いていた。


「私、貴方に仕えているわけではありませんの。そこを勘違いなさらないでいただけるかしら?」


 ぐっと彼は口を噤むしかなかった。


「まずは出してくれ。幹線道路を周回するんだ」


 狼の指示に従い、車を走らせる。


 高級車自体はそれなりに目を引くとは言え、怪しむ者は居なかった。


 いや、居たとしても警察や市民では、声をかける事はできなかっただろう。


 これは、そういう車なのだ。


 車を渋滞の流れに押し込めて、連絡員は二人の話に耳を傾けさせられた。


「ん、つまり、なんだ。あくまでも彼は冤罪、と言う事かね?」


「そう考えざるを得ませんわね。特に、あのシェルターでの一件。冤罪だと誤認させるには、すべてにおいてリスクが高すぎますわ」


「向こうの目的はただ一つ。俺を殺す事だ。ユーリ・セルゲイノフと言う存在を間に挟み、仇討ちを利用している」


 連絡員はむう、と唸る。


 狼達の主張には一定の筋は通っている。問題は、それを説明しているのが当事者という事だ。


「話はわかった。だが、組織はそれだけでは納得しない。今のままでは狼少年の立場と変わらんぞ」


「証拠なら、ここにある」


 狼は連絡員の耳元に回収したボイスレコーダーを差し出し、音声を聞かせる。


 セルゲイノフ最期の夜の音声に、連絡員の目は見開かれ、開いた口は塞がらなくなる。


「んん。これは、どこで?」


「シェルターに置かれていましたわ。ご丁寧に、血文字の下にありましたわよ」


 このデータを本来もてる人間は二種類。組織か、当事者か、だ。


 セルゲイノフは元は組織の人間だ。離れた後も最低限の監視は行われている。その盗聴データの可能性が一つ。


 そしてもう一つは、彼に手を下した者が、己の行為の証拠として持っている場合だ。


 前者はありえない。セルゲイノフ殺害を依頼した彼だからこそ知っている。


 殺害が終われば、不要なデータは全て破棄される。今際の言葉など、尋問時のモノでない限り不必要極まりない。早々に監視時のデータは最小限にまとめられているはずだった。


 そして、後者。こちらはもっとありえない。それは、狼でなかろうとも変わらない。


 言ってしまえば決定的な証拠である。狼自身、そこに居た事の一つの証といえる。


 己の犯罪の証拠を残したがる犯人が居るとすれば、それはシリアルキラーであって、組織には属さぬ対象であった。


「あの日誰かが居たんだ。あの夜、あの場所で起こる事を監視していた何者かが」


 狼の結論は、連絡員の頭に浮かんだ結論と全く一緒であった。


 同時に、何故わざわざ自分が二人の回収の為に呼び出されたのかも、彼は理解した。


「それを知る事が出来るのは、依頼を持ちかけられた者しかいない、と。ん、君はそう言いたいわけだ」


「そうだ。俺が依頼を済ませるまでは、セルゲイノフの監視は行われていたはず。それならば、素人には監視は不可能だ。あんたは言ったな。セルゲイノフ殺害の依頼を、誰も受けたがらなかった、と。その中に、居るはずだ。共食いの犯人が、な」


「ん、なるほど。だが、すべては推測だ」


 狼が証明したのは、彼が今回の共食いの犯人でない、と言う事だけだ。


 それだけでわざわざ、彼が声をかけた他の殺し屋の名前を、狼に告げる必要はどこにも無い。


「だが、答えなければあんたの命はないだろうな」


「どういう事かね、ん?」


「猟犬が俺を狙わなくなったとして、犯人はどう思うだろうな。俺とあんたが接触した。それに気付かれたら、あんたが口を割っていようが居なかろうが、相手にとってはリスクでしかないぞ」


「ん、むうっ」


「そういえば貴方、娘さんがそろそろ良い歳ではありませんの? 下手を打てば――」


 ゴクリと、彼は唾を飲み込んだ。


 これは、脅されていないだろうか。しかも猟犬に。


 それは別としても、リスクを背負ってしまったと言うのは事実である。


 仮に、ここで組織に通報したとして、彼らの推測が間違っていた所で、狙ってくる対象が共食い犯から組織に変わるだけだ。


 もはや彼らと接触してしまったことが最大のリスクとなってしまったのだ。


 連絡員は、よかろう、と呟くしかなかった。


「名前を言ってくれればいい。後は、こちらで判断する」


 連絡員が一人一人、セルゲイノフの案件を持ち込んだ殺し屋の名前を挙げて行く。


 その中から、狼は絞り込む。


 共食いで殺された相手に警戒される事無く近づける者。


 狼が間違われるほどのナイフの技術。そして、兎に対する手馴れた拷問。


 さらには狼のシェルターへの侵入。爆弾までの工作は彼があそこへ辿り着く事を確信していたと言っていい。


 徹底して、彼の行動を分析し、予測していた。


 なせるのは、よほどの天才かベテランだけだ。


 拷問、ナイフ技術、心理・行動分析のプロフェッショナル。


 どれもセルゲイノフの教え子ばかりではあったものの、要件を満たす者は居なかった。


「合致しませんわね」


「ん。どうやら、犯人の推察は間違っていたようだね」


 狼は考え込む。とてもではないが、考えにくい。ここで当てはまらないなど。だとすれば、犯人は一体何者だと言うのだ。


「だが、まあ君は確かに共食いに関しては無実らしい。そのレコーダーと私達の話があれば、制裁命令は取り消される事だろう」


「本当に、今言った名前で全部か?」


「ああ。私が君に嘘を言った所で何の得があるというんだね、ん?」


 狼は目を細め、窓に映った自分の顔を見つめる。何か、見落としているのではないだろうか。何か、を。


 その時、ああ、と連絡員は声を上げた。


「依頼を持ちかけたわけではないが、そうそう。君と同じような反応をした人物がいたね、ん」


「何?」


 連絡員が言うには、どこかで聞きつけた、組織の構成員の一人が彼に声をかけてきたのだという。


 その時、狼が依頼の内容を聞いた時と同じように「これは誰も受けたがらないよ」と笑っていた、と。


「誰だ、そいつは?」


 その名前を、連絡員は何の気兼ねもなく告げた。


 それを聞いた時、真っ先に反応したのは蜘蛛だった。


「そいつですわね。やられましたわ」


「心当たりが?」


「その男が、あなたのセーフハウスを教えてくれたんですのよ」


 狼はその言葉に、じっと目を閉じて、シートに大きく体を預けた。


 どうやら、完全に、自分達は向こうの手の平の上で踊らされていたようだ。


「しかし、だ。ん、さっきも言った通り、証拠は何も無い」


「それなら、これから掴めばいい」


「何か、手がありまして?」


「古典的だが、な。今ならむしろ、利用できるはずだ」


 連絡員は、狼の言葉に大きく息をついた。


「ん、こうなれば私も出来る限り協力はするとしよう。どっちにしろ、ん、賭けざるを得まい」


 首を叩いてみせる連絡員に、狼は必要な事を説明した。


 そこからは、トントン拍子に準備が進んでいった。


 組織には狼の無実が説明され、受け入れられた。


 そして、犯人あぶり出しの為、テレビ局を通じて偽の情報を流して油断を誘い、相手の居場所へ突入。標的である狼自身が赴く事で、相手に口を滑らさせる、と言う作戦が承認された。


 古典的ではあったが、完全に虚を突く事にも成功し、十分な効果が得られたのだ。


 そして、共食い犯、ゲオルグ・ディートリッヒは確保された。




 もし、相手から証拠をつかめなければ、身内を疑った罰を受ける事になるのは目に見えていただけに、狼としては協力してくれた連絡員に感謝をしないわけにはいかなかった。


 ドアの開く音にゆっくりと目を開ける。


 蜘蛛が抵抗不能になったディートリッヒをトランクへ放り込み、乗り込んできた所だった。


「さて、後は彼を引き渡すだけですわ。貴方、どうしますの? 猟犬ではありませんし、適当な所まで送っていく事もできますわよ」


「いや、構わない。出してくれ」


 狼の言葉に、チャイカはゆっくりと走り出した。


 合流地点まで十数キロ。三人は、一言も喋る事はなかった。


 全てを見届けるまで、この夜は、今日と言う日は終わらないと、判っていたのだ。


 張り詰めた気を閉じ込めて、黒塗りのカモメは、モスクワの夜へと消えて行くのだった。




 機械義手は、組織も滅多に許可しない、最新技術である。技術流出はもちろんだが、義手によって可能になる動作が極めて大きな危険を孕んでいるからでもある。


 組織のスポンサー達はあくまでも実験の側面があるため、安易にリミッターをかける事も無いのだ。


 それだけに、義手装着の許可を受けるものは、相応の審査がなされる事になる。


 ゲオルグ=ディートリッヒはその許可を受けた者である。


 にもかかわらず、彼は共食いを起こした。


 組織によって完全に拘束された彼を待っていたのは、徹底した尋問である。


 極刑である事は既に決まっていた。だが、原因は徹底的に追究し、解明しなければ、今後の組織運営に関わるとあって、四肢を失った老人に対して、およそ人道に反するありとあらゆる手段が用いられた。


 心臓が止まれば蘇生させ、強壮剤により薬漬けにしての延命措置も行われた。


 ロシアでは革命の主導者としてレーニンの遺体が保存処理を施され、美しく残されている。そこには、良くも悪くも、近代ロシアの父としての尊厳が認められている。


 ディートリッヒにはもちろん、そんな扱いは許されない。犯罪者としての最低限の権利も、だ。


 組織は、社会の裏に在るものだ、と尋問に立ち会った者達は実感していた。


 そしてそれ以上に、人権、倫理と言った存在は、双方に尊重する意思がなければ何の意味もないのだという事を思い知らされた。


 カウンセリングが必要な人間を数名出しながらも、つつがなく、二週間で尋問は終了した。


 その結果、ゲオルグ=ディートリッヒと言う人間は、ほぼ全て解明される事となる。


 組織に所属するに当たって、事件以前に判明していた事実は、以下の通りである。


 東ドイツ出身。物心ついた時には、既にドイツは分断されていた。


 父親はドイツの軍人だったが、大戦中に行方不明。母子家庭で育つ。彼は勉学に励み、シュタージへ入省。


 その後は工作員として対西ドイツ工作を熱心に行うと共に、ロシア側ともパイプを強めていく。


 一流のエージェントとしてその地位を手にした彼は、ギョーム夫妻事件による人質交換を機に、ドイツに見切りをつけた。


 その後は、手腕に目を付けた組織にスカウトされ、以後は組織の殺し屋として働き、六〇も半ばになった頃に一線を退き、組織の施設管理人として生活を行う。


 そして、今回判明した、共食いを起こした根本的な原因は、その子供時代にまで遡る。


 ソ連の影響色濃い、東ドイツでの生活。彼ら母子の安息は、ラジオを聞きながらの食事だけだった。


 顔すら覚えておらず、写真しかない父親への思いが増していく中で、ラジオ放送を聴いていた彼の母親はふと呟いた。


「これ、お父さんの声に似ているわ」


 それは、ロシア語の放送であった。だが、その時の、少年だったディートリッヒには関係が無かった。


 父親は死亡が確認されていない事で、少年だったディートリッヒの心に、ある思いが芽生える。


 ロシアに行けば、父さんに会えるかも知れない。


 父親の事を調べるには、情報が必要だった。


 彼は、たった一つの目的を胸に、勉強に励み、そして、情報にもっとも近いであろう、シュタージへと入省する。


 その後は、自分で様々な情報を精査でき、目的の地、ロシアへのパイプも作れる工作員として馬車馬のように働いた。


 気付けば、彼は梟と呼ばれる、一流のエージェントとしての地位を確固たるものにしていた。


 だが、時を同じくして、母親を失ってしまう。


 天涯孤独となった彼の思いは、ひたすら消息不明の父親へと向けられる。


 そして、組織のスカウトにより、ロシア行きが可能になると、その思いはもはや一種の炎となって燃え盛る事になる。


 ひたすら、父親を探し求めながら、仕事をこなす日々。


 シュタージ時代の技術もあって、彼の仕事は正確で、迅速。組織の覚えも相応のものを獲得していた。


 そんな折、爆弾テロリスト抹殺の仕事を遂行した彼は、標的を仕留めた代償として、片腕を失ってしまう。


 組織は彼のマジメな仕事ぶりを評価し、義手の装着を許可する。


 そして、東西冷戦の終結を病室で見届けた彼は、退院。リハビリのため、訓練施設へと送られる。


 そこで彼は、運命の出会いを果たす。


 相手は、訓練施設で教官をしていたユーリ=セルゲイノフ。


 挨拶を交わした瞬間、彼の体には電流が走りぬけた。


(ラジオの声、父さんの声だっ)


 無論、そんなはずは無い。正常な思考があれば、わかるはずなのだ。


 時代は大きく外れており、年齢もセルゲイノフが年下。彼の父の生存はありえないはずだったが、父親探しを半生の道標としてきたディートリッヒには、些細な問題であった。


 同時に、彼は、その声を、声だけを父親と認識するに至る。


 彼は、父親との離れていた時間を取り戻す為に、ひたすらセルゲイノフの音声を録音し続けた。


 来る日も来る日も、可能な限りセルゲイノフと接触しては、音声を録り溜めていった。


 彼は、その音声を心の拠り所として、組織の仕事も継続し続けた。


 時が経ち、セルゲイノフが組織を離れてからも、彼は監視者の目を盗んでは録音を続けた。


 セルゲイノフ殺害の依頼が組織に持ち込まれたと知ったのは、一線を退き、暫く経った頃の事だ。


 当初は、セルゲイノフの人柄や元教官と言う立場から、引き受ける人間が果たしているのか、と楽観視していたが、万が一を考えて、彼は施設管理者という身軽な立場を利用して、ストーカーもかくやという見張りを行った。


 かくして殺し屋は、セルゲイノフの前に現れた。


 狼だ。


 彼は狼を追跡した。


 セルゲイノフの逃走が巧みで、狼が追跡に集中していた事もあって、偶然にも、気付かれる事なく、後をつけることが出来た。


 そして、彼は気付いたのだ。セルゲイノフが、逃走の途中、遺言を残している事に。


 新たな父親が誕生しつつある事に。


 狼の目的はあくまでもセルゲイノフの殺害。父親は無関係。事が終わってからゆっくりと連れ出せばいい。


 そう考えていた矢先、狼はその遺言が入ったボイスレコーダーを持ち去り、あまつさえ焼却してしまったのだ。


 彼は発狂した。


 あの男は、私の父を、よりにもよってスラムのゴミ溜めで焼き殺しやがった。


 復讐と言う炎が心の中に燃え上がり、彼は実行に移した。止まるという選択肢など、頭をよぎることすらなかった。


 それこそが、共食い事件。狼に罪を着せ、猟犬に処分させる。失敗してもセーフハウスの仕掛けにより、追い詰められた狼が自殺したように見せかける。


 年老いた自分に出来る、もっともリスクの少ない方法だった。


 だが、その思いもあえなく費える事となった。




「ん、つまり、奴の言う父親とは、レコーダーの声そのものだったわけだな、ん」


 狼がディートリッヒと刃を交えたマンションの部屋で、中年太りの連絡員は汗を拭きながら、尋問の内容を報告していた。


「何故、俺にそれを伝える?」


 ハードディスクなどの記憶媒体を片っ端から電子レンジにかけながら、狼は聞き返す。


 まるで興味がないのは、顔を向ける事すらしない点からして明らかだった。


 連絡員は腑に落ちなかったらしい。


「ん、何だね。可能な限り捕縛、と言う手続きに拘っていたからね。てっきり知りたいと思ったのだがね、ん」


「あの男は、俺の復讐だと強調させたいが為に、殺す前に甚振っていた」


「ん、そうだな。で、それがどうかしたのかね?」


「掟で、極刑は決まっていた。だが、相応の報いはあって然るべきだと思った。それだけだ」


 狼の言葉に、連絡員はほう、と眉を跳ねさせた。


「君は、ん。信仰がないと聞いていたが、ん。本当だな」


 そんな大層な話ではないと思いながら、狼は電子レンジの中身を入れ替えて、スイッチを入れる。


 ヴン、と唸り声を上げて、マイクロ波がHDDをスクラップへと変えていく。


 物事には因果があるなら、報いもなければならない。それが、組織と言うもののはずだ。


 言外の意味を悟ったのか、はたまた単純な手続きか。連絡員は話題を変えた。


「で、先ほどから何をしているのかな」


「見ての通りだ」


 HDDやメモリーカードの破壊。中身は、もちろん、セルゲイノフの音声データである。


「いいのかね?」


「必要な分は、提出してある。それ以上、コレが存在する事に意味は無い」


「ん、そういう事ではないのだが」


 口ごもる連絡員を尻目に、狼は三回目の分を放り込む。ディートリッヒはよほど大切に残していたらしい。バックアップも含め、二重三重程度ではすまない。


 連絡員の言おうとしている事は、狼にも良くわかった。だが、それならば尚の事、彼の答えは、見ての通りであった。


 養父、と呼ぶべき存在ではあっただろう。だが、彼にとっては、最後は標的だ。


 悼む事は無いし、殺し屋にとって感傷は不要である。


 必要なのは、自分との関係が不用意に強調される要素は排除する事なのだ。


 だからこそ、あの遺言染みたレコーダーも捨てたのだ。


「まあ、君がいいなら良かろう。ところで、ん。君は、なんだね。猟犬を殺そうとは全くしなかったようだね」


「理由が無い。火の粉は払うが、消す必要はない。消せば、本当に、俺の問題になる」


「んん、結構」


 連絡員が大仰に頷く様子を感じとり、ようやく狼は彼の方を向いた。


 不審の目を向けると、連絡員は一際、大量に汗を拭い始める。


「ん、君も知っての通り。今回、猟犬が二人も居なくなってしまってな」


「断る」


 相手が言い終わる前に、狼はすっぱりと告げた。


 内容は、それだけで十分だった。


 猟犬としての立場を特別に用意する、という事だろう。濡れ衣を着せた手前、組織がより明確に彼の立場を保障しよう、と言う申し出だろうが、彼には無用以外の返答はなかった。


「んん、そうかね。悪くない話だと思うのだがね」


「ある程度の評価はありがたい事だが、俺は首輪は苦手でね。濡れ衣に対する慰謝だと言うのであれば、少しの休みと、後は今まで通りさせてくれれば、それでいい」


 六回目か、七回目。最後のデータを電子レンジで破壊しながら、そう告げる。


 しばらくむむむ、と連絡員は唸っていたが「そのように伝えよう」と呟いた。


 全ての処理を終え、彼は、すれ違い様に連絡員の肩を叩く。


「俺は、狼だ。これしか知らないし、ここしか知らない。抜ける心配は、無用だとも伝えておいてくれ」


 やるべき事はやり、言うべき事も全て伝えた。


 連絡員が反応するのを待つ事なく、彼は部屋を後にする。


 残る処理は、全て組織がやってくれる。


 恐らく、跡形もなく、ここにゲオルグ=ディートリッヒが住んでいた事実すらも消滅する事だろう。


 だが、それでいい。それが正しい、組織の在るべき、取るべき姿勢なのだ。


 これは共食い、内部の事件だったのだから。


 狼に取っての、今回の事件は、マンションを出た瞬間に完全に終了した。


 彼はただ、己のあるべき場所へと、日常へと戻って行くのであった。




 狼が部屋を出るのを確認し、蜘蛛はトイレから姿を現した。


 呆然と立ち尽くす連絡員に、一部始終を聞いていた彼女は、あくび交じりに声をかける。


「振られてしまいましたわね」


 連絡員は呻きと共に額を押さえた。


「んんっ、どう伝えればいいのだ」


「そのままで良いではありませんの。何か問題がありまして?」


「君は、ん、無いと思っているのかね?」


 どこか恨みのこもる目で睨まれるが、彼女はひょいと肩をすくめた。


 問題はあるだろう。狼は、組織と言うシステムには帰属している。だが、猟犬のように、上層部は帰属しないと宣言したのだ。


 時と場合によっては、牙を剥くと、そう言ったに等しい。


 自然と、彼女の口元には笑みが浮かぶ。


 実に彼らしいではないか。不器用だが、仕事人としては実直そのものだ。


 組織に所属している通常の殺し屋であれば、多かれ少なかれ、思っている事だ。


 有用だから、属しているに過ぎない、と。


 彼は分をわきまえている。だからこそ、敢えて言ったのだ。


 連絡員もそれは判っているからこそ、頭を抱えたに違いない。


 普通なら、彼が思うままに告げて、上から拳骨の一つでも狼に食らわせてしまえばいいだけの事なのだから。


 察しがいいのも時には考え物かもしれない。


「あの人がこちら側に来なかったのは少々名残惜しいですけど、まあいいですわ」


 ひとしきり笑って、蜘蛛は襟を正す。


 狼の去就は確かめた。彼女ももうこの部屋には用はない。


「ん、行くのかね」


「ええ、講義が残っていますのでね。次の飛行機でさっさと帰りますわ」


 蜘蛛の表の顔は大学生なのだ。


 連絡員は頭を掻きながら、入り口まで見送ってくる。


 彼はこのまま、ここで処理を行う者が来るまで待たなければならないのだ。


「それでは。次は観光で来たいですわ」


「ん、そうそう。一つ聞かせてもらってもいいかね?」


 珍しい申し出に蜘蛛はどうぞ、と促した。


「彼を、ん、猟犬に推薦したそうだがね。ん、今回の件といい、君は狼と面識があったのかね?」


 隠す事でもない。蜘蛛は頷いた。


「ええ、昔一度だけ。仕事をご一緒した事がありましてよ」


 狼が受けた仕事ではあったが、パーティー会場への潜入が必要となり、手の空いてた彼女がパートナー役をあてがわれたのだ。


 下手な人間を見繕うより、組織の人間の方がよほど信頼が置ける、と言う当たり前の行為だ。


「東洋系の風貌で、まあ吊り合いが取れなければいけませんでしたからね」


「んん。では、今回、君が呼ばれたのは――」


「ええ、私も、試されていたのでしょうね」


 どれほど訓練された犬であっても、飼い主の手を噛む事はある。


 まして猟犬は人間だ。目がちゃんと開いているのかも問われていたのだろう。


 すると、連絡員は少しばかり悩ましげに顎に手を当てる。


「その割には、ん、なんだね」


「機会があったのにすぐ殺さなかったのが不思議なのかしら?」


「ん、まあ、そういう事だね」


 蜘蛛はどこか懐かしむように目を伏せて、微笑む。


「何となくですけど、彼の仕業ではないような気がしてたんでしょうね」


「と言うと?」


「一緒に仕事した時の事ですけど、あの人マナーは完璧でしたわ。ただ」


「ただ?」


「エスコートは下手くそでしたから」


 実直だが実に不器用な立ち回りを演じたその時の狼と、今回の回りくどいやり口が、どうしても彼女は結びつかなかったのだ。




 マンションを出た蜘蛛は、タクシーを拾い、空港へと向かう。その道すがら、彼女は川を眺めながらそっと相棒でもある腕輪を撫でた。


 本当に、惜しい事だ。彼に首輪を付けられなかった。


 ディートリッヒ捕縛の前、彼女は狼に糸の使い方を指南した。


 時間にして数分だったが、彼は基礎をマスターしてしまった。


 手の平に蜘蛛の巣を作り上げられた時には、嫉妬すら覚えたものだ。


 それだけに、彼女は、彼の事が一層気に入ってしまった


。同じ首輪をつけられて、一緒に散歩に行くのも悪くないと思っていたのだが、彼は去った。自分と同じ所には来てくれなかった。


 その淡白さは、動物の子が、親から狩りの仕方を、見るだけで学ぶ。そして、実践が成功したら巣立っていき、赤の他人となるような、様を彷彿とさせる。


 本当に、獣のような人、と彼女は微笑んだ。


「今なら、もう少しマシなダンスも踊れたでしょうに」


 誰にともなく呟いた言葉は、タクシーの運転手にすら伝わる事無く、寒気の中へと消えていくのだった。





 その日、年老いた墓守は気付いた。ある墓に、珍しいものが供えられてる。


 供えられていたのはナイフがつきたてられた一枚の色褪せた写真、そしてフィルムが数本。


 墓守は、ナイフを抜いて写真を取り上げる。


 写真には、初老の男性と少年が写っていたが、その間にはざっくりと刃の跡が刻まれている。


 彼は理解した。これを置いていった者は二度とここには現れないだろう、と。


 誰だか知らないが知らないが、随分と大切なものを捨てていったものだ。


 墓の主は、ユーリ=セルゲイノフ。面白みの無い名前だが、かなり慕われていたらしい。


 わざわざ訣別の挨拶をしに立ち寄ってもらえるのだから。


 日の光に照らし出された写真の中の二人は、本当の親子のように不器用ながらも心からの笑顔を咲かせていた。




                       《了》



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