殺し屋・狼
長崎ちゃらんぽらん
狼のないた日
1.
雪が舞い始めたモスクワ郊外に放たれた、彼はまさに獣だった。
指折りのロシアンマフィア。その首魁の乗る高級車の前にふらっと飛び出してきた青年はボンネットに跳ね上げられて動かなくなった。
この国のこの時期、薄着としかいいようのないジャケット姿で、人気の少なくなった通りと相まって、運転手は浮浪者だと思ったのだろう。
参ったとばかりに降りてきて、生きているのか確認すべく覗き込んだ。
運転手は、注意すべきだった。
警護の車が車間距離も狭く前後に控えていたにも関わらず、バンパーではなくボンネットに乗る角度とタイミングで出てきた事に。
青年の動作は一瞬だった。袖からナイフを滑り出させて一閃。運転手の喉笛を切り裂いた。
勢いそのまま転げ降りた直後に血が吹き出した為、警護のメンバーは、動くのが遅れた。
その数秒で、彼には十分だった。
前の車両の下に滑り込み、爆薬をセット。横に転がり出ると同時に起爆する。
頑強なオフロード車は下からの衝撃にひっくり返り、中の四人を押し潰した。
後ろの車両から大慌てで降りてきた屈強な男達は、ゆらりと煙の中から立ち上がった彼に向けて発砲する。
一足早く、彼は跳んだ。弾丸は、身を低くした彼の頭上をかすめて行く。瞬き一つの間に三台目の運転手に肉薄。すれ違い様に、血のシャワーの蛇口を捻る。
あまりの速さに、他のボディーガード達は六人目の犠牲者が倒れるまで次弾を撃てなかった。
彼らがようや発砲を再開した時には、七人目の首が食いちぎられた。
もはや連携も何も無くなった彼らが地に倒れ伏すまで、一分とかからなかった。
上体を低く、ボディーガード達の間を舞う姿は、さながら四足の動物のようだった。
控えていた警備を倒した彼が最後に残ったセダンを見ると、バックランプがついていた。
中のガードは殺戮者の打倒ではなく逃走を図ろうと運転席へ乗り移ったようだ。
ボディーガードとしては正しい判断だが、外に邪魔者がいなくなった今、彼が見過ごす理由もなかった。
死体の手を掴み、タイヤに向けて発砲させる。破裂音を立てて、車体が傾いた。
走行不能となった車から、意を決して飛び出す男に向けて、彼はナイフを投げつける。
一直線に刃は首の骨まで貫き、男は絶命した。
彼は淡々とセダンの後部座席に近付き、ドアを開ける。
そこにいるのはボス一人。
口ひげを蓄えた眼光鋭い初老の男性が腕を組んで座っていた。
ボスはちらりと彼を一瞥し、引く落ち着いた声で「入りたまえ」と告げる。彼は無言で、もうひとつのナイフを滑り出させる。
「君に狙われた以上、無駄な抵抗はせんよ。それに知っているだろう。私は武器を持つのは嫌いでね」
組織の長であるならば自ら武器を取るなど無粋だ、と言うのがこの男の信条だった。
彼は黙って、男の隣に腰かけた。
「見事なものだ。私も人を見る目はあったつもりだが、十人をものの数分で片付けられてはな。自信を無くす」
呆れたように首を振るが、彼は何も言わず、ただ黙って座っていた。
「だが、私の冥土の土産には十分過ぎる。さあ、狼よ。その牙で食らっていくがよい、我が命を」
男はゆっくりと天井を見上げた。
彼は待たせる事なく、その首に刃を突き立て、切り裂く。
ボスの死に顔は、笑顔であった。
彼は車を降り、ボディーガードの首に突き立ったナイフを回収する。
ふっと空を見上げた彼の瞳は冷たく、眉一つ動かさないで降りしきる雪を受け止める。
初冬の寒さすら、彼は感じていないかのようだった。フードを被り、その場を歩き去る姿はやがて、カメレオンのように周囲に溶けて消えて行く。
残された足跡も、真っ白な雪が全てを覆い隠した。
2.
モスクワ東部の場末のバーに、彼はいた。
ビールを一杯傾けて、テレビのニュースを見つめている。夕方からずっと、マフィアのボスが殺害された事件で持ちきりだった。
彼にとってはこれが慣習だった。
彼は仕事の後は決まった酒場で、そのニュースを聞くのだ。大手でやらなければラジオの地方局も利用する。
何故かと聞かれても明確な答えはない。あえて言うならば仕事の確認と言った所だろうか。
キャスターが次のニュースに移った所でグラスの残りを飲み干して、腰を上げる。
と、彼の前に贅肉のついた腹をベルトに乗っけた中年の男が現れた。
汗を拭きながら、んっと呟く、落ち着きに欠ける相手を、彼はよく知っていた。
彼の所属する組織の連絡員だ。
彼は椅子に座り直すと、ビールを二つ注文する。
男はメガネの角度を直しつつ、向かい合って腰かけた。
程よく黄金色の液体がなみなみつがれて運ばれてくる。水滴まみれのグラスをうちならして一口飲んでから、男は話し出す。
「ん、まずはさすがだったね。皆一撃必殺。誰が見たって君の仕事だ」
「用件は?」
「ん、すまない。二つあるんだ。一つ目は、ん。アレの使い勝手はどうだったかね、ん?」
彼は問題ないと短く告げる。
アレ、とは彼が現場から去り際に使用した光学迷彩の事だった。
彼が所属する組織は非公式に開発業者と繋がりを持ち、彼のような仕事をする者に最新の開発品を実地試験させているのだ。その代わりに、爆薬などの既存の製品はタダ同然で提供してくれている。
「起動が面倒なのと防御と耐久性は心許ないが、迷彩の観点だけならば完璧だ」
必要な事だけを手短に伝えると、男は満足気に頷いた。
「ん、結構結構。スポンサーに伝えるとしよう」
「もう一つと言うのは?」
「ん、次の仕事の話だ」
言いながら男は鞄の中をがさごそ探る。
「そっちから指定とは珍しいな」
組織が持ってくる仕事は、お抱えの仕事人全員が好きな時に好きな依頼を選べるのが基本だ。
自主性や得手不得手が考慮されていることもあるが、何より「いつでも仕事を取れる」と言う安心感を与える意味がある。
もちろん、仕事の内容によっては組織が指定する事もあるが事例は極めて限られていた。
「ん、簡単な仕事の割りに、誰も受けたがらなくてね。受領から長引いてもいかんし、君に白羽の矢が立った」
ますます珍しい話だ、と彼は思う。
組織側が簡単と言うからにはよほどの事だ。ただ標的の命を奪えば方法は問わないと言うレベルになって来る。
男は鞄から目的の物を見つけたようで、それを差し出す。
「仕事はこのターゲットの始末だ。手段は一切問わない。報酬は一千万だ」
写真に映っていたのは、軍隊出身らしいがっちりした体に格生真面目さが顔に現れた、一人の年行った男性だった。
写真を手にした彼は小さく「なるほど」と呟いた。
「この依頼を受ける奴はまずいないだろうな」
「ん、だが、それでは困るのだよ」
「だが、よりによって俺に持ってくるとは」
「ん。組織の信頼の証だ、と思ってもらいたいものだな」
ヒラヒラと写真を降る彼はわずかに目を伏せた。
「それとも、君も断るのかね、ん?」
身を乗り出した男は、トーンを落とした声で尋ねる。
彼は男の手からタバコを奪うと、写真に火を放った。
「ん、成立だね。結構結構」
灰皿に落ちた燃えかすを粉々に砕きながらタバコを消した男はニカッと笑ってビールを飲み干しながら立ち上がる。
踵を返した男に、彼は声をかける。
「よく受けたな、この依頼を」
「ん。私に言わせれば、ん、組織の義理のない相手だからね、ん」
「それは、そうだな」
彼はそれっきり、黙って男を見送ると、そっと目を閉じる。
寒さにすら震えなかった眉が、確かにピクピクと動いていた。
(事情は知らないし、知る気もない。ただ、せめて――)
彼は自らを律するかのように、金色の液体を飲み干して、席を立つ。
店を出る彼の背中は、どこか力ないものだった。
3.
まったく、息が上がってしまった。我ながら歳を取ったものだと思わざるを得ない。
酷い声だが、構わない。
この言葉を聞くものなど居ない。いや、あってはならないのだ。
だが、何故だろう。今は無性に話していたい気分だ。
すまないが動き続けなければならないので、聞き苦しい所は許してもらいたい。
私の名はユーリ・セルゲイノフ。祖国ロシアで悠々自適な生活を送っている。歳は、いくつになったものやら。
四十を超えた所で数えるのをやめてしまった。
そんな老いぼれの私は今、スラムと都会の狭間と化したモスクワの外れをさ迷っている。
かつて私は軍人だった。まだ祖国がソビエトだった時代、あの頃の私は、ウォッカが無くとも冬の寒さなど気にならぬくらい心を燃やしていたものだ。
あれがアメリカへの敵愾心だったのか、それともただただ愛国に燃える若い志か、はたまたその両方か。今となってはどうでもいい事だ。
歳を取ってからは鬼と新米に恐れられたりもしたが、所詮私も一兵卒。時代の流れには逆らえなかった。
ソビエト連邦の解体と共に私の心も解体された。
軍を辞めた私は、故郷へ帰ろうと思っていた。
育った土地が恋しくない者など居ない。いるとすれば、よほど精神的に恵まれぬ時代をすごした者だけだろう。実に同情に値する。
だが、私は生憎と恋しいばかりであった。両親が共に去った身であっても、だ。
いや、だからこそ、久しぶりに墓参りをしたかったのだ。
何はともあれ、私は故郷へ向かう電車へと飛び乗った。
そして、その車内で私の運命は代わった。
さる人物が、そう、スカウトしてきたのだ。私を、とある組織に招き入れたいと。
その組織と言うのは一風変わっていた。それでいて、実に社会的に必要でもあった。
さて、その組織がいかなるものかを説明する前に、一つ質問をしよう。
人を殺す事は、金になるのか。
答えは、もちろんはい(ダー)、だ。
人を殺す、と言うのは時代も場所も問わず金になる。もっと言えば、生業となる。
殺し屋と言う職業が認知されている中、今更と思うかも知れないが、あえて言わせて貰おう。
人を殺すのは金になるのだ。
いつだって、どこでだって、事情は様々あれど誰かを殺したいと思っている人間はいるものだ。
例えば社会的に邪魔な相手を排除したい、もしくは近しいものに危害を加えられた恨みを晴らしたい、等々。理由は千差万別。
楽しみにとっていたピロシキを食べられた時、子供心に兄弟に殺意を抱いた事がなかったと言い切れる人間がどれほどいるものか。
だが、そうして相手を殺したいと渇望しようとも、ほとんどの人間は実行しない。
法律で認められていない国がほとんどだという事もあるが、それ以上に、リスクが高い。高すぎるのだ。
例えば、父親の復讐をしたいと思った町娘が居たとしよう。
その仇がもしも筋骨隆々のスポーツマンであったらどうか。
正面からでは返討ちにあうのが関の山。不意打ちをするにしても覚悟が居る。
どれほど憎い相手であっても、いざ殺そうとなるとほとんどの市民ならば躊躇ってしまう。
そうなれば、警察等のお世話になるか、正義感に駆られた他の民衆の私刑モドキを味合わされるかどちらかだ。
ならばどうするか。
人を頼ればいい。躊躇う事なく、人を殺める事が出来る相手にだ。
掃除が面倒なら代行業がある。ならば、殺人にだって代行業があっておかしいことなどない。
面倒な事はとかく人に押し付けるに限るのだ。
ここまで言えばわかるだろう。私に接触してきた人物と言うのは、殺しの代行組織のスカウトマンだ。
この組織と言うのがまたそこらの生粋の、先祖代々人殺しと言う連中とは一線を画していた。
彼らは代行者、いわゆる殺し屋を組織として抱え、専門部署が依頼を一括で受ける。後は、殺し屋が好きなように依頼を選ぶシステムだ。
もちろん、依頼主との折衝は一切合財組織の専門部署がやってくれる上、依頼主の詳しい事情などは実行する殺し屋が知る事はない。
しかも、組織内に所属する殺し屋を殺害して欲しいと言う依頼は受けないとなれば、仕事はいつでも請けられる上、同じ組織に属する同業者からは命を狙われる事もない。
殺し屋を稼業としてみればわかることだが、これはかなりありがたい。警戒をする必要が〇になるわけではないにせよ、フリーでやるよりよほど枕を高くして眠れるのだから。
また、殺しと言うのは色々と準備にも金がかかるが、そちらもルートを通じて申請すれば組織の方でそろえてくれるのでありがたいことこの上ない。
パトロンに某大手兵器メーカーや防犯装置のメーカーがいるという話もあったが、あながち的外れでもないだろう。
我々殺し屋と言うアウトローに新製品の実験をさせられるのだから。
まともな身分ではないにせよ、心にぽっかりと穴が開いていた私には、とても耳障りよく聞こえたものだ。
ソビエト時代の元軍人と言う身分は、肩身が狭く、再就職のあてもなかったのだから、仕方ない。
バカと笑ってくれてもいい。
私だって迷いはしたさ。
いかんせん私はピークを過ぎていたし、果たして暗殺などでどこまで役に立てるかわからなかったからだ。
あの時、いっそスカウトが言ったその場で聞いた話を忘れる薬とやらを飲んでいれば今頃はどこで何をしていたかわからないが、少なくともこんな街の隙間を縫い、果ては下水道をかけずるような身分ではなかった事は間違いない。
しかし、スカウトは言った。殺し屋として私を迎え入れるのではない、と。
経験未熟な新人の鍛錬や、休養から復帰したい殺し屋達のリハビリを指導して欲しいというのだ。
つまり、軍に居た時と同じ、教官をやれというのだ。
それならばお手の物である。
私はスカウトの話を受け、その場で握手を交わした。
両親の墓参りを一日で済ませた私は、そのまま祖国の片田舎にて、放棄された基地を改造した訓練施設へ着任した。
表向きは民間軍事組織の訓練場となっていたその場所で、第二の人生は幕を開けた。
予想以上に、教官の専業と言うのは充実していた。
殺し屋と言うのは、事故か自然死以外で死ぬというのは実に面倒が多いので、新人にはとにかく兎のように臆病に命を大事にする事を叩き込んだ。
何しろ、新人と言ってもほとんどがチンピラ上がりで鉄砲玉である事がカッコいいと思っている、センスはあるのに精神がどうにもならない連中だったからだ。
いざという時は何も言わずに死ぬ覚悟も大事だが、それ以上に、生き延びる事にこそ殺人の代行者には求められる事を、嫌と言うほどに叩き込んだ。
技術面などは個別に得意とする事がちがったので、窮地を切り抜ける格闘術や道具を使う技術を除いて個別に面倒を見て行った。
青瓢箪の尻を叩き、性根を叩き上げて絶対の命令系統を維持させ、一定以上の基礎能力を持った者にする軍の教官時代以上に、様々な専門知識をこちらも要求されたが、実に面白く、まったく飽きる事無く何年でも新人の鍛錬が続けられたものだ。
そして、もう一つのプロのリハビリだが、こちらは今思い返しても私が役に立った部分があったのかどうか。
リハビリが必要とは思えぬほどで、私と同い年の専門が爆弾だった殺し屋の相手をした時は、前髪をあらかた持っていかれた。
あまりにも体のいいサンドバッグにされたものだから、私もムキになって、自らの体を絞り直した。不要な贅肉を絞り終えた頃には、新人達から暗殺教官と言う、あまり喜ばしくないあだ名を頂戴していたものだが、結局一度もプロのリハビリに組み手で勝てた事はなかった。
得意としていたはずのナイフで勝てなかったのだから、私を現場に出さなかったスカウトマンの見る目の正しさが口惜しい。
そして、気付けばアメリカから小生意気な家庭用のパソコンソフトが売り出されて世間が大騒ぎをしていた年、私には第三の人生の幕開けとなる出来事があった。
まだ雪も融け切らぬ春先の早朝、航空会社の飛行機が訓練場の近くで墜落したのだ。
表の顔もあるので、仕方なく通報もしたし、救助活動にも参加したが、機体が真っ二つで燃え盛っていた事もあり、ろくに救助活動などできなかった。
事故は、組織とは一切関係の無い、我が祖国に恨みを持つ隣国のテログループから声明が出た事で、その日の内に全容が判明。
乗客の家族から復讐の依頼が組織に入っていたかも知れないが、教官の私に知らされる事などもなく、私にとっての事故は終了した。
はずだった。
乗員乗客は一部を除いて全員死亡。残りは行方不明者だが、空中で機体が爆破された際に放り出されたものとして、生存は絶望視されていた。
私とて、そう考えていた。あの時までは。
事故から数日後。乗客乗員の名簿が全て判明して間も無く、一人の児童を私は保護した。
施設のフェンスに沿って日課のランニングをしていた私の目に、ふらふらと焦げ付いた服を着て歩く東洋人の子供が飛び込んできたのだ。
その時、私はあまりの出来事に思わず駆け寄ってしまった。
子供は、虚ろだった。その目は何も捉えていなかった。
体は小さな火傷や擦り傷に溢れ、服はボロボロ。靴もボロボロで、指には初期の凍傷があったが、彼は泣き喚く事もなければ痛みを訴える事もなかった。
もはや、心はそこにはなく、ただたださ迷う幽鬼のようであった。
ズボンのポケットには飛行機のチケットがあり、すぐに事故の生存者だとわかったが、それはあまりにも異様だった。
まだ物心ついたばかりと思しき子供が、寒さ残るロシアの野山を徒歩で、基地の側までやって来たのだ。
私が育てている新人ですら、そんな事が出来る人間がどれほどいる者か。
リハビリを受け持ったベテランの中には、練習がてらと称してツンドラを徒歩で突っ切ってきた猛者も居たが、 基地で面談した時には酒の匂いしかしなかった酔狂な相手なのでなんの参考にもならない。
彼の口の周りには獣の血がついてたので、おそらく狼の食べ残しやお菓子としてもっていたキャンディで飢えを凌いだと思われるが、生きてそこまで来たのはある種の啓示だったのだろう。
私は迷わず基地の医療施設に放り込んだ。
スポンサーから近場の病院よりもよほど充実した医療設備を提供されていた基地での治療により、その子供は四肢のいずれも失うこと無く、一命を取り留めた。脳障害はおろか、大きな病気も患っていなかったのは今でも奇跡としか言いようがない。
だが、彼はただ一つ、命の次に大切であるべきものを、記憶を、失っていた。
まるで、人形か、機械のようで、医療スタッフの問い掛けにもは頷くか首を横に振るだけで、日がな一日窓の外を眺めているだけとなっていた子供を、肉体の怪我も治りきった頃、近くの病院へ突き出し、警察に連絡するべきだ、と言う声が上がった。
当然の判断だった。
しかし、できなかった。
理由は簡単で、少年は、何故か私には医療スタッフ以上に反応を示したからである。
保護者と勘違いされたのでしょう、とスタッフは言った。
虚ろの心に、私が飛び込み、刷り込みが起きてしまったようだ。
迷惑な話である。
動けるようになった彼は、事ある毎に私の後をついて周り、医療スタッフや新人を見るたびに私の背後に隠れるようになった。
まったく、鳥にでもなった気分である。
しかし、事情が事情だ。そんな事になってしまって私も早く警察に突き出すべきだと言い出しにくくなってしまった。
何より、組織は私が接触した時の状況とその頼り具合から、面倒を見てくれないかと持ちかけてきた。
すぐに実験をさせたがっているとわかった。
小さい内から育てさせてみよう、というわけだ。
私は結局は雇われの身だし、軍人気質も抜けていなかったので、逆らうと言う選択肢はなかった。
それから、成年に達するまでと言う条件の下、彼を育て始めた。
相手があまりにも幼かったので明確なプランは何もなかった。
ただ、後ろをついてくるというので、私の日課の鍛錬につき合わせた。
ランニングに始まり、筋トレ、格闘術の反復鍛錬などなど。
くわえて爆発物の取り扱いやサバイバル術の確認に始まり、様々な自主学習。
他にも、マナーの学習などは新人と一緒に早い時期からやらせておいた。
カルガモ親子などと揶揄されつつも、黙々と私の指示に従って課程をこなしていく彼の姿に、新人達も触発されたのか、いいところを見せようとでもばかりに鍛錬へ一層精を出し始めた。
一年が経とうと言う時に、組織は彼に新たな身分を用意した。
私の身内になっていた。元々の経歴もハーフだったようで、父親の実家へ顔を出すため、家族で飛行機に乗っていた所を事件に巻き込まれたようだ。
とにかくこれで名実共に私が保護者となった。
彼は、ますます鍛錬に打ち込み始めた。
本能的とは言え、極限状態を打破して基地に辿り着いた彼は、天性の才能の持ち主だった。
見る見る内に多くを吸収し、新たな戸籍で十を迎える頃にはマナーを完全にマスターしていた。
最初は虚ろだった彼の精神も徐々に変化し、人形、機械と少しずつだが感情表現や会話の自主性などに改善が見られ始めたが、それはあくまでも私の前だけ。
結局、彼が来た時に受け持っていた新人が無事にデビューを果たし、お礼を言いに来た時でも私を挟まねば貝同然だった。
彼がまともに他人と意思疎通ができるようになるまでには、さらに三年を要した。
その頃には、サバイバル術についてはベテラン顔負けとなっており、鹿や虎の存在を雪の中ですら感じ取れる、一流のハンターになっていた。
基地にある食材倉庫の一角で彼の獲った獲物が結構な存在感を示していたのは今思うとなかなかに愉快だ。
しかし、そんな彼が殺し屋として現場に出れるようになるには、さらに一年を要してしまった。
彼は、生存の為に命を奪う事には呵責がなかったが、対象に感謝を抱けぬ殺生には強い抵抗を示したのだ。
恐らく、東洋の血がそうさせたのだろう。
仏教徒でなければキリスト教徒でもなく、信じていたのは国家だけの私が、そんな精神を教える事はできないのだから。
彼は失った記憶の一部を思い出していたのだろう。肝心な時に応えてくれなかったのだから神はいないと、いつからか言うようになっていただけに、私はその反応を驚く以外に受け止める方法がなかった。
かといって、そのままにも出来ない。私に与えられた役目は、彼を使える殺し屋に鍛える事なのだから。
何でも、彼の故郷である日本には、三つ子の魂百までと言う諺があるようだが、実に然り。
我が祖国の若者達にも当てはまる事だが、とにかく、思春期も過ぎた相手の心を鍛え直すのは楽ではない。
軍時代の方式は時間をかければ有効だが、すでに彼は大人へ片足を突っ込んでいて、猶予はあまりなかった。
そこで、私は一番手っ取り早い方法をとることにした。
壊して鍛える暇がないなら、麻痺させればいい。
私は組織に死刑囚の横流しを依頼した。
嘆かわしい事だが、汚職や賄賂というものは我が祖国でも蔓延っていたので、組織が金を出せばあっさりとその身柄は引き渡された。
私は、彼に、死刑囚を殺させた。来る日も来る日も、流れ作業のようにだ。
銃は使わせなかった。銃はいけない。人を殺したと言う感覚がとにかく希薄になりがちな銃は、簡単に人を殺せ過ぎる。
それはすなわち、武器に、銃自体に責任転嫁を謀れてしまうのだ。
偶然、はずみ、そうした理由付けを、自己の正当化をいくらでも出来てしまう。それでは意味が無い。
そこで私はナイフを使わせた。ナイフはいい。覚悟が要求される武器だ。切るにも刺すにも、明確に己の意思を持って臨まねばならない。
そして、人を殺す感触を生で感じ取る事が出来る。例え命令であったとしても、手を下すのは己である。
ゆえに、その感覚に慣れること以外に心の均衡を保つのは容易ではない。
くわえて言えば、彼はナイフの扱いに非常に長けていたと言うのもある。
私の目論見は成功した。
我が祖国にはこれほど死刑囚がいたのか、と私が悲嘆にくれ始めた頃、彼は淡々と、標的と認識した対象であれば躊躇う事無くその命を奪えるようになっていた。
彼が慣れて来るに従い、死刑囚には抵抗させるようにした。
勝てば新しい人生を与えると、ただ一言言うだけで、死に物狂いに彼らは戦ってくれた。
よほど酷い目にあったのか、破れかぶれかは私には関係のない事だ。
しかし、栄養状態も何もかもが劣っていた死刑囚では彼に勝つ事など出来るはずもなく、最終的には屠殺の様相を呈していた。眉一つ動かす事無く、彼は的確に致命傷を与え、あまたの血を抜いていった。
特に首を切り裂く姿はある種の美しさすらあった。施設に居るベテランですら見惚れた程だ。
骨さえなければ、あるいは得物が日本刀であったなら、確実に体と頭を分断させていただろう。
誤算があったとすれば、彼が虚ろに戻ってしまった事だ。
感情と言うのは、ジェンガと同じだ。他人にはおよそ理解不能な状態でバランスを保っている。
本来であれば長い時間をかけて訓練する事で、その時々に合わせて不要な感情を抜き差しできるようになる。
だが、彼にその時間を私は与えなかった。結果、彼は簡単にして明快な方法を、抜き差しできない枠で囲う事を選んだ。
おかげで、無味乾燥で機械の方がまだ豊かと言えるほどの鉄面皮になってしまった。
待てよ、そうすると虚ろではない。むしろ満杯になってしまったのだ。
ならば、何故だ。
どうして私は当時、初めて会った時と同じに戻ったと、そう思ってしまったのだ?
いや、詮無い事か。それに、今顧みるべき内容でもあるまい。
重要な事は、結果だ。組織が求めた存在として彼が成立したと言うことだ。
そして私は組織の要請もあって、予定より一月早く、彼に最初の仕事をさせる事になった。彼に限らず、ここで鍛錬した者の初仕事は、私の成果を試す意味もあって組織の指定だ。
それが成功すれば、後は施設に戻る事なく殺し屋稼業をしていく事になるし、私の契約も延長になる。
彼に指定された依頼は、ある不良グループの壊滅だった。
総勢十二人。不良グループと言えば楽そうに聞こえるが実態はとあるマフィアの末端組織で、警察も手をこまねく荒くれ者達だ。
油断すれば川に沈められるのはこちらで、どんなベテランでも変わらない。
もちろん、彼は難なくその仕事を終えた。
グループであっても一人ずつ襲えばいい。
彼は狩人としての本領を発揮し、一人また一人と路地裏等に誘導して殺害していった。彼らは所詮グループだ。義の繋がりを重んじるマフィアの“家族”ほど連携はないから、時には標的の前にわざと姿を晒しつつ、プレッシャーと逃走本能を利用すれば簡単に一対一を作り出せてしまうのだ。
これを私の想定外の人物が聞くなら不思議に思うだろう。最終的に十二人を仕留めたとしてそんな話は聞いた事がない、と。
三年前の新聞を読んでくれたまえ。メディアは個別の殺人事件として扱った。組織の力だ。とは言え、最初の三人以外は九人まとめて彼は始末したのだが。
さすがに向こうもメンバーが続けて殺害されれば狙われた事に気付いたのだろう。
しかし、それ以上頭は回らなかったらしい。
いつも利用している溜まり場の空き地で集会を開いたのだ。そこを彼が一網打尽である。
自分達のテリトリーだと油断した相手を狩るのほど楽な事はない。これがプロの軍人なら瞬く間に指揮が飛び体制を整える所だが、彼らは不良グループだ。
混乱したメンバーの首を彼は片っ端から刈りとった。
記事によれば現場は、まるでお互いに撃ち合ったような、乱射戦の有り様だったと言うが、死因は全員首を斬られた事による失血死だった。
何故私がそんなに詳しいか、と言われれば当然教え子の初仕事。結果を追いたくもなるものだ。
だが、以後の仕事は決して追わない。
これは、彼に限らず担当した全ての者に共通させている事だが、巣だった雛にかまける親鳥はいないのだから。
私と彼の関係もそこで決着がついたのである。
最後に彼の姿を見たのは、施設から仕事へ送り出す時だ。
私はいつもの通り軽く抱擁をしたが、彼は眉一つ動かさず、ただ黙って頭を下げて去って言った。寒さのせいか、珍しく瞳が横に動いたのをよく覚えている。
それきりだ。
風の噂では、狼の名をもつ若い殺し屋が居ると聞いたが、おそらく彼だろう。一撃必殺、喉笛を噛み切る彼にふさわしい名前ではないか。
彼を送り出した後も私は教官役を勤めたが、どこか心が宙ぶらりんに感じられる事が増えてしまった。
何故か指導に身が入らなかったのだ。
潮時だな、と思った私はすぐに職を辞する事にした。結局、彼の後は一年と続かなかったわけだ。
幸い、組織はあっさり私の脱退を認めてくれた。
今までの謝礼としてかなりの額の退職金を渡された。口止め料やその他込み入っているのは一目瞭然だったが、無用な配慮だ。
わざわざ組織の不興を買う真似など、どうして出来ようか。
向こうとてはそれはわかっているだろうに。
だが、突き返す手続きも面倒だったし、私のこれまでの評価と自惚れて、そのまま懐へ収めた。
それで私と組織の関係も終了だ。
私は再び両親の墓を参ると、モスクワ中央近くにマンションの部屋を買った。
家族なき今、私は祖国の一員として、国家中枢の傍に居る事に安寧を見いだしたのだ。軍時代から鍛えておかないとどうも落ち着かず、毎日トレーニングで汗を流して、夕方にはクレムリンを眺めに散歩へ出かけ、帰りはバーで気ままに酒を飲む。
時期が来れば墓を参り、ついでに小旅行にも言ったりする。
軍時代から組織に属した三十年余りとはまた違った、武器ではなく本やカメラを友とする、ゆとりがありながらも充足感に満ちた生活。血生臭さは魚屋か肉屋でしか感じる事がなくなって何年も経ち、老いさらばえる時までこの生活が続くと私は疑わなくなっていた。
そう、今日までは、だ。
私は今日、まったく予想外の再会を果たしてしまった。
あの組織が、より正確には、その殺し屋が私の前にその姿を現したのだ。
虫の知らせかわからないが、どうも気分が乗らず、行き着けのバーでは酒を一杯だけしか飲まず帰路についた私の前にそいつは立ち塞がった。
一目で誰かはわかった。より精悍になっていたが、自ら鍛えた相手を見間違えるはずもない。
今思えば「狩る」と言う宣告だったのだろう。私が今生きているのがその証だ。
いくらでも機会はあったはずだが、敢えて姿を晒して逃げる隙を与えてくれたのだ。
私は最初、頭が真っ白になり、動けなかった。だが、彼がただ一歩踏み出しただけで、全てを悟った。
同時に、今易々と殺されてたまるか、と奇妙な反骨心が沸き上がって来た。
まったくおかしな話だ。相手の実力は私が一番わかっている。依頼を受けたならば成し遂げられる確信があって来た。そんなプロに対抗しようと言うのだから。
私は逃げた。足が千切れんばかりにモスクワの街を疾走した。
市街地に逃げ込む事を考えたが、相手を撒くにはそれでは足りない、とスラムに片足を踏み入れた。
一度振り向いた時には姿は見えなかったが、確かに追ってくる強烈な気配を感じた。
殺気とは違う。もっとこう、視線に似た気配だ。
草原で馬や鹿が姿の見えない肉食獣の存在に気付く時も、きっとこんな気配を感じているに違いない。
私はひたすらスラムの匂いに身を晒した。上着を脱ぎ、己と言う存在を隠そうとした。
それでも向こうは迷わずこちらに迫っていた。
幸い私には地の利がある。自分の祖国の現状を知ろうと何度か足を踏み入れた事があったのだ。
私は待ち伏せなどを去れないように見通しのいい道を選びつつ、時には打ち捨てられたボロをまといつつ、目的の場所へ向かった。
それがここ。今私がいる、下水道だ。
たまたまマンホールが壊れていたのを覚えていたのだ。
相手は暗視装備を持ち合わせていない。
いきなり乗り込むリスクは犯さないだろうし、何より向こうは実に動物的な追跡をしている。
どんな痕跡も汚物と腐臭が隠してくれるここにいる限り追い付かれる心配は無用だろう。
にしても、私もいつまでもいられる状況ではない。長時間居れば死んでしまう。
とにかく足の向くまま歩き回り、適当な所で脱出せねば。今後の事は、向こうを撒いてから考えるとしよう。
この下水道を出たら、録音は再開する。
おお、何という事だ。追っ手を撒いたのを確認して、安全かつ暖の取れる場所を求めてさ迷い歩いたせいだろうか。
信じられるだろうか。いや、当の私が信じられないと言うのに無理な話しだろう。
今私の目の前にあるのは、他でもない。マンションだ、私の部屋のある、マンションだ。
この私が、何と初歩的な、いや、違う。ミスではない。
私にはもう、これしか残されていなかったのだな。
だから、結局、ここに来てしまった。
感じる。あの視線を、ここに来てまた、私は感じている。
当たり前だ。むしろここに網を張っていないわけがない。
居るのだな、お前は。どこかで、見ているのだ、私を。
さて、どうやらここまでのようだ。
だが何故だろう。私は今、とても落ち着いてる。ほんの一、二時間前まで息を切らせて走っていたなど嘘のようだ。
きっと、こうして話してすっきりした所があるのだろうか。
違う。それはあくまでも要素の一つ。そう、私は納得している。
ここで、真の決着を迎えるという、その事実は変わらないのだ、と。
何より、それでもいい、と今は思っている。
理由は、ここに今、私が立っている。私が最後に帰るべきと思った、自分のマンションの前に。それだけで十分ではないか。
ここで、この話は終わりだが、ついでだ。この機械にも、最後まで付き合ってもらうとしよう。
胸のポケットで、うむ、丁度いい。
それでは、行くとしようか。私の、人生と言う舞台の上へ。
私は待つ。自分の部屋で、今見ているであろう、彼の為に。
……ギイという鈍い音と共に、再び声が始まる。
入ってきなさい。遠慮する事は無い。わかっているはずだ。私は丸腰だよ。ポケットにある十徳を気にしているのか。手紙を開ける程度にしか役に立たん代物だ。まさかこれをお前の胸にでも突き立てようなど、考えてはいない。だが、いい判断だ。
久しぶりの再会だ。顔を見せてくれ。そうでなければ、わざわざ壁を背にした甲斐がないではないか。
久しいな。何年ぶりになるかな。お前には関係の無い話かも知れないが、私のように老いた人間には意味があるのだ。
新しい物事より昔の事を思い出す事が多くてな。
壮健そうで何よりだ。何、先ほどはちゃんと向き合うわけにも行かなかったじゃないか。
それでは、少し話しに付き合ってもらおうか。
誰の依頼だ、などとバカな事は聞かんよ。お前が知っているはずがないからな。
だが、おおよその予想はつく。
あそこを抜けてからと言う物、善良な引退老人として生きてきたのだ。
そうそう、狙われる理由など作っておらんよ。
ふむ。あれは半年ほど前だったかな。今もよく覚えている。バーの帰り道だ。ちょうど店が騒がしくなって来たので、私は帰ることにしたのだ。
その途中、寝静まった、と言ってもあまり人の居る地区ではなかったがな。その路地から、女の悲鳴が一瞬だけ聞こえた。
すぐに聞こえなくなってな。当然だ。その時既に男に口を押さえられていたのだから。
とにかく、私は思わず相手を探してしまった。面倒事になるのはわかっていたのにな。
本来であればさっさと去ればいいのだ。場所といい、時間といい、酒が絡んでいるのはわかりきっている事だ。
だが、私は探してしまった。正義感か、違う。私にとってのソレは、連邦が解体した時に霧散していたのだから。
退屈、が一番近いだろうな。引退後も充実した日々でいたつもりだが、その実、私はどこかで飽きていたのだろう。
ちょっとした荒事を、求めていたに違いない。
少し路地を探せば、すぐに声の主は見つかった。
わざわざ身を隠そうとしたわけではないからな。大して探す必要はなかった。
状況は簡単だ。若い、と言ってもどちらもまだ若かったが、酒に酔った男が女を人目につかん場所へ連れていき、強引に事に及ぼうとしただけだ。
女は、そう、お前くらいの歳だったか。
あんな時間にあんな場所にいれば、絡まれる事もあるだろう。非がないわけではないが、それでも男の方が非は大きい。
私は歩み寄って声をかけた。男にして見ればこんな老人に邪魔をされて不愉快だったろう。酔っていたとは言え、バツの悪さもあったに違いない。
私に突っかかって来たから、パンチをお見舞いしてやったよ。
我ながら綺麗に入ったモノだ。
男は吹っ飛び、ゴミ箱にゴールだよ。
後は女をさっさと帰らせてそれまでさ。その日はね。
ところがどうだ。次の日の新聞に私が殴り倒した男が死んだと来た。頭の打ち所が悪かったんだな。まったく、頭が良くなる所か止まってしまうとは。
私はそれとなく事件の経過を追ってみた。方法もツテも幸い揃っていたからな。
バーというのはそう言う出会いに恵まれる。たしなむといい。
集まった情報によると、男は国内有数の医者の息子だと言うじゃないか。
遊び癖が酷く、地元警察ではよく知られた顔だった事もあって、捜査はろくにされてないとも教えられた。一応檄は飛んだようだが、ポーズだけだそうだ。
ほっとなどしなかったよ。そもそも捕まる恐怖や殺めた罪悪感もありはしなかったのだから。虫を払ったら死んでしまった、それだけだし、警察も似たような気持ちだったに違いない。
だが、親はそうもいくまい。
どれほどデキが悪かろうが親にとっては大切な子供だ。それが行きずりの誰かの手にかかったとあれば犯人を吊るさねば気はすむまい。
それが親の、当然抱くであろう心情と言うものだ。
ならば私を狙わせた相手は、わかるだろう。警察が頼りにならず、自分の手には限界があるとしたら、第三の選択をするのは正しい。実に正しい。
今お前がいるそこは、その為にあるのだから。
私は、しかし、自分の行為を恥じはしない。結果には多少問題はあったかも知れないが、必要な事をしたに過ぎないと信じているからだ。
とは言え、全ては推測だがね。
名も正体も知らぬ依頼者は、目的の為に正しい手段を選んだだけだ。恨みも何も湧いてはこない。
必要なのはこの現状を受け入れるだけだ。
ここに戻って来てしまった時に、私は悟ったよ。
さて、お話はここまでだ。さあ、お前の仕事を終わらせるのだ。
ああ、何と言う顔をしているのだ。
何を迷う。
私は命乞いや同情を買いたくてこんな話をしたわけではない。
見ろ、私を。私は今、どんな顔をしている。
笑っているだろう。そうだ、望んでいるのだ。この命の終焉を。
死神の鎌ではなく、お前の刃での幕引きを。
実に良い、鬼ごっこだった。
きっとこれは、最後に神がくれたチャンスだったのかもしれないな。
私は、お前には何もしてやれなかった。
教官として、多くを授けた。技術も、知識も。だが、最後まで、子供として何もしてやれなかった私に、お前と遊び興じる時間をくれたのだ。
神などいないと言っていたお前も、少しは存在を信じたかな。
さあ、私を、我が屍を超えていけ。それが、お前の仕事であり、務めなのだ。
お前が私を、父親として認めてくれるならば、この喉笛を割いてくれ。
どうした、まったく。お前は、向いていなかったのだろう。
だが、それも今は喜ばしい。
そう、そうか。わかったぞ。私はあの時、悔やんだのだ。
お前が、感情に蓋をしてしまったあの時、確かに自分の行いを悔やんだのだ。それが虚ろに戻してしまったと、勘違いしたのだ。
はは、なんという事か。まったく我が事ながら、ここまで身勝手な人間だったのかと嗤いたくもなろうというものだ。
いいだろう、ならばせめて、最後くらい、お前の手助けをせねばならん、なっ!
…………金属がぶつかり、柔らかいものが破砕する音が響く。
ふふ、見事だ。そうだ、これでお前も、真の一流だ。
その腕は、きっと組織の役に立つ。
声が、出ん、か。
だが、これだけは、言わねばならない。
お前は、私の息子だ。自慢の、息子だ。
立派に、育ってくれて、ありがと――ぅ。
音声は、そこで終わっていた。
青年は、ノイズしかしなくなったボイスレコーダーの電源を切ると、徐に、炎が燃え盛る空き缶の中へ放り込んだ。
もったいないとばかりに暖を取っていた浮浪者達が覗き込む。
言われなくとも、誰よりもそれを惜しんでいるのは彼だ。
彼は浮浪者に金を払い、未開封のウォッカを受け取ると、ぐっと飲み込んだ。
顔が熱いが、この寒い夜には心地よい。頬が熱い、まるで焼け爛れた皮膚が溶けている様だ。
これは、アルコールの影響だ。そうでなければならない。
なぜなら、自分は、殺し屋なのだ。
仕事を終えての一杯の昂揚、それだけだ。
ふと空を見上げると、無数の星が瞬いている。
まったく、自分の酒の弱さは嫌になる。
あんな量で酔いが回ってしまったらしい。
これほどに星が美しく、一つ一つのきらめきが、滲んで見えるのだから。
《了》
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