赤いきつねと未熟な勇者

井ノ下功

美味しい出会い


 香りは呆然とする脳にもしっかりと届いていた。

 かつて慣れ親しんだ、懐かしい、出汁と醤油の香り。目の前にごとんと置かれた器からは、白い湯気の固まりがほわほわと漂っている。一瞬白くなった視界が晴れれば、光沢のあるつゆの中にひたりと浮かぶ油揚げ風、半月のかまぼこのようなもの、刻んだネギ類、そしてゆったりと身を沈めた麺が目に入る。

 少年の腹がぐうと鳴った。


「うどん……」

「おら、冷めないうちにとっととお食べよ」


 向かいに座った老女がぞんざいに勧めた。少年は唾を飲み込み、上目遣いに彼女を見やる。


「いいのか、バアさん」

「よくなきゃ出さないさね。箸は使えんな?」

「とーぜんだろ」


 はにかんだ「いただきます」がひかえめに湯気を揺らした。それから不器用に握られた箸の先が、つややかな麺を慎重につまむ。

 つゆの内側からひときわ大きな湯気が湧き立った。雲のようなそれを息で吹き飛ばす。麺が適度な温度になるまでの一、二秒と、箸から滑り落ちるまでの一、二秒との、その隙間でわずかな葛藤が起きた瞬間、少年は火傷を恐れない決意を固めた。

 かぶりつくようにして麺の端を口に収め、一息に啜り上げる。

 直後、少年はぎゅっと眉根を寄せて身を縮めた。熱気が唇をこじ開けて飛び出ていく。その湯気にまで出汁が染み込んでいると錯覚するほど、濃厚な鰹節風の味が口いっぱいに広がった。

 何より、この麺の食感たるや。芯はないのに噛みごたえはあり、なおかつつるりと喉の奥に落ちていってしまう引き際の鮮やかさ。

 息継ぎをする余裕すらない。


「いい食いっぷりだね。最近の若いのは麺を啜れないなんて誰が言ったんだか」


 まして老女のぼやきに反応する余裕など言うまでもなく。

 次の一口を箸が掴む。

 油揚げのようなものを箸でつまめば、そこから出汁が溢れてきた。これに思い切り噛みつくと、中から染み出てきたつゆにやられて、舌と上あごを確実に火傷するのだ――とわかっていながら、少年は思い切りかぶりついた。

 案の定、熱々のつゆに口内を焼かれ、椅子の上で身もだえる。けれどその痛みだってスパイスのようなもの。ほんのりと広がる甘さをよく引き立てている。

 箸が止まらない。止まるわけがない。傷つき、怯え、冷え切った少年の胃袋に、その温かさは容赦なく染み込んでいく。

 それは少年がこの世界で出会った中で、最も美味しいうどんだった。


「――赤いきつね、思い出した」


 少年のつぶやきは空っぽになったどんぶりの底に反響した。

 老女がわざとらしく眉をひそめる。


「アタシのお手製をインスタントと一緒くたにすんのかい、ええ? そりゃインスタントにだって開発者の丹精がこもってんだろーが、それとこれたぁ」

「違う、そういうことじゃねぇんだよ。味とか、そういうんじゃなくって――」


 少年は言葉をつまらせた。


「――オレんち共働きで、よく婆ちゃんに預けられてたんだ。婆ちゃんが出してくる“おやつ”は、いつも赤いきつねか緑のたぬきで……オレも婆ちゃんも赤いきつねのほうが好きだったからさ、毎回じゃんけんすんだけど、婆ちゃん異様に強くて、全然勝てなくてさ」


 五回連続で負けたときはさすがに泣き喚いたなぁ。と、少年はうつむいた顔へ、年に見合わぬ苦しげな微笑を浮かべる。


「そりゃあ、年の功ってやつよ」


 そう言って祖母は絶対に勝ちを譲らなかった。


「世の中にはね、負けていい勝負と負けちゃいけない勝負がある。勝っても負けても美味しいもんが食える勝負なら、勝ち負けなんて無用なのさ」

「じゃ、負けちゃいけない勝負ってどんなんなの?」


 蓋の重しを祖母より二分早く取って、かつての少年は聞いたのだった。

 祖母は少年の七味唐辛子を回収しながら、


「負けたら美味しいもんが食えなくなる、って勝負さ。そういうときだけは、絶対に負けちゃあいけないのよ。争いだけじゃないよ、生き方すべてが、そうだ」


と微笑んでいた。

 少年はぱんっと両手を合わせた。


「ごちそうさま!」


 はっきりと言い、立ち上がる。


「あんがとな、バアさん。やっぱ腹が減ってちゃ戦はできねぇんだな。おかげで腹いっぱいになったし、オレ、行ってくる」

「どこ行く気だい?」

「決まってんだろ」


 少年は床に落としてあった剣を丁寧に拾い上げた。感情に任せて地面に叩きつけ、何度も踏みつけにしたのに、傷一つついていない。“伝説”の名に恥じぬ佇まいで、少年の手の中に収まっている。

 彼はひどく重たいそれを背負った。


「魔王軍に王都を落とさせなんかしない。もう逃げない。これは負けちゃいけない戦いだ。ここで逃げたら、たとえ生き延びても、二度と美味い飯が食えなくなる!」


 きっ、と前を見据えて、少年は断言した。泥にまみれた頬も、擦りむけた膝も、しかしそのどれもがこの小屋に転がり込んできたときとは違っていた。

 戦いに怯え、死を恐れ、逃げろと言われて逃げ出した弱虫の証ではなく、恐怖に立ち向かう戦士の勲章になろうとしていた。


「――よく言ったね、坊や。いや……勇者」


 ぎしり、と椅子の軋む音がした。


「ったく、ずいぶん待たせてくれちまって。おかげでアタシゃこんなにくたびれた婆さんになっちまったよ。まぁ、魔法の腕は今が最盛期なんだがね」

「え?」

「なんだい、カンが悪いねぇ」


 勇者が振り返る、までもなく、老女が隣に並んだ。痩せた老女はまだ幼い少年と比べれば長身だ。その白髪頭に赤いビロードの三角帽子を乗せれば、差はさらに広がる。

 しわだらけの手には、身の丈ほどもある大きな杖。


「だいたい、うどんをこの世界に広めたのは誰だと思ってるんだい?」

「ま、まさか……!」

「そうさ、アタシも転生者だ。勇者を導く魔法使い、って役回りなんだとよ。ったく、気付くようにわざわざ“インスタント”とか言ってやったのに、まったくぼーっとした勇者さまだねぇ。先が思いやられるよ」


 やれやれ、と首を振って、魔法使いはニヤリと笑った。


「さぁて、それじゃあ一丁ぶちかましてやろうかね! 準備はいいかい!」


 驚きは油揚げのつゆみたいに熱々で、勇者はしばらく呆然としていた。が、すぐに理解して、同じように笑う。


「おう、もちろん! ――行こう!」


 そうして二人、暗雲立ち込める王都へ向けて、小屋を飛び出した。




 ――準備はいいか。腹は膨れたか。まだならば数分待て。ここには最高の飯がある。求めるならば与えよう、受け取れ。

 お前にもう一度、前を向くための温かさを。



 おしまい

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

赤いきつねと未熟な勇者 井ノ下功 @inosita-kou

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説