不在の神と地上の神様

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不在の神と地上の神様

 神様、神様。

 どうか、神様。

 神様がいるならば、お願いします。

 私の大好きな人をどうかお救いください━━。


 幼い私はそう神に願った。

 願いを叶えてくれなかった神様に、大人になった私は反逆をしている。




 腕を伸ばし、欠伸にもため息にも聞こえる間抜けな声を上げて背を伸ばす。屋上から見上げた空は日が暮れかかっていて、綺麗なグラデーションを為している。

 夕暮れの夜の匂いのし始めた空気を肺に取り込み、頭に酸素を取り入れる。冷たい空気は煮たって疲れた頭をすっと落ち着かせた。落下防止の手すりに置いていた紙コップのコーヒーをちびちびと飲みながら、ゆっくりといつもの自分を取り戻していく。

 隣の本棟は屋上緑化が進んでおり、いつも人がいて人がいないなら鳥が木の実を啄んでいる。私のいるこの別棟は一度立て替えられている本棟よりも古く、貯水槽や電気設備系統が並んでいてとても居心地のいい場所とは言いがたい。

 ただ今の自分にとっては物も人もない場所が丁度いい。思考しすぎていっぱいになった頭の中を少しずつ取り出すためには、余計な情報はいらないのだ。

 そこに情報が混ざる。金属が軋む音がして、ここと階下を繋ぐ扉が開かれて、私は振り向く。

「先生、やっぱりここにいましたか」

「なぜここが」

「渡り廊下から見えました。先生のところから一番近い屋上ってここじゃないですか。なんとかと先生は高いところが好き、みたいな」

「もしかして、私が馬鹿だと罵ってます……?」

「煙みたいにふわふわどこかに行くけど、大体上の方を探したらいるっていう意味です」

 確かにこの別棟が自分の本拠地から近い、というのもここに来る理由ではある。あまり人に会いたい気分ではなかったけれど、この人なら別だ。

 白地にピンクのラインの入った白衣に身を包むその人は、私の隣にやってくる。たくさんあるポケットの一つに手を入れて、目の前に差し出されたのは美味しそうなものだった。

「お菓子預かってきました」

「ありがとうございます。ちょっと甘いものが欲しいところではありました」

「婦長からの差し入れです。ガトーショコラみたいですね」

 銀色の包装紙を剥がして一口に食べてしまう。甘いものが、疲れた脳に染み渡る。

「難しい手術でしたよね。お疲れさまでした」

 大学病院で外科医をしている自分は数時間前まで手術を行っていた。長引いてしまったためにずれにずれた昼休みを今取っているところだ。看護師のこの人も手術室看護師で、同じチームとして尽力してくれていた。

「下で休憩すればいいのに」

「前に休憩室のソファで寝てたら、教授に怒られたんですよ」

「こんなところで寝るなって?」

「寝るなら家に帰ってちゃんと寝てくれって」

「……優しいじゃないですか」

「まだカルテを見ながら調べたいことがあったので、帰るわけには」

「『神の手を持つ天才』と言われても、その技術はちゃんと知識と練習で裏打ちされてるってことですね」

「そういうことです。だからその呼称は名誉だとは思うけど、あまり嬉しくはないですね……」

 子どもの頃、神様はいるのだと思っていた。けれどどんなに願っても、神様は自分の父親を救ってはくれなかった。心臓病を患っていて、手術の甲斐もなく死んでしまった。

 あのとき私は神様に願うことしか出来なかった。無力で、幼くて、何の知識も無くて、けれど神様だけはいると信じていた自分はあんなに願ったのに、神様などいないという事実を突き付けられた出来事だった。

『神様が叶えてくれなかったなら、それは神様が苦痛から解放された方がいいとお思いになったからよ』

 身近な人はそう言ったけれど、そんなわけない。

 そんなわけないと、私は否定したい。

 この世界には、神など存在しないのだ。いたとしても、そいつは優しくないし私には何もしてくれない。

 ならば自分のすることは一つ。

 私がお前に反逆してやる。お前の決めたその運命を変えてやる。

 新年に神社へ行って、願うことはいつも同じ。

 私が頑張れますように。

 心が折れませんように。

 あなたが願いを叶えないというならば、死すべきことが正しいと言うならば、私はあなたに抗おう。

 私のした努力が、素直に返ってきますように。

 正確には願いではなく、自分への誓い。

 自分と向き合い直し、自らを奮起するためにあなたを使う。

 神は願いを叶えなくても、見守るものではあるだろう。ならば願いは自分で叶えるから、邪魔だけはしないでくれ。

 神へ抗うそんな自分が、どうして「神の手を持つ」などと言われるのだろうか。

 皮肉なものだ。

「先生はあまりに人間らしい神でむしろ信頼できますね。そつなくなんでもこなす万能タイプでは確かにあるけど、頑張っているところも見えるし、今みたいに疲れた顔もする」

「この神は万能じゃないんですよ。神じゃないから。っていうか先生って、呼ばないでくださいよ。ここにいるの二人なんだし」

「仕事中じゃん?」

「休憩中ですよ、先輩」

 この看護師は、高校のときの先輩だった。今は医者と看護師で立場が逆転しているが、私にとっていつだって先輩は先輩のままなのだ。正直、『先生』と呼ばれるのもいまだに違和感がある。

「そう呼ばれるとさ、仕事モードが崩れて高校時代に戻る」

「いいじゃないですか、たまには戻っても」

「良いけどさぁ! あんたは高校時代に戻ると神じゃなく犬になる」

「呼ばれるならその方が嬉しいですね。先輩にはずっと懐いてますよ!」

 その後は仕事や高校のときなどの他愛ない話をして過ごした。休憩時間は終わり、先輩は一つ大きく息を吐くとすっと目付きが変わった。仕事モードの先輩だ。

「じゃあ、そろそろ戻りますね」

「はーい、私ももう少ししたら戻ります。また今度飲みに行きましょうね、先輩」

 『先輩』をわざと強調して甘えるように言うと、仕事モードの先輩がムッとした顔をする。

「あんまり疲れを溜めないようにね」

 一瞬だけ先輩に戻って、表情を緩めて言う。いつだって優しい先輩だ。

 先輩はこの病院の中で、私が人としてしか認識されていなかった時を知っている唯一の人だ。だから気楽で、疲れているときに会うと癒しになる。

 日は暮れてだんだんと夜が近付いてくる。もう少し仕事は残っていたし明日も手術が入っているから、私も先輩にならってそろそろ反逆の続きをしましょうか。




 医者とは得てして字が汚いと思われがちだが、うちの先生もとい後輩は字が綺麗だ。そして、その字は私の字に極めて似ている。

 他の看護師に、一度だけ気付かれたことがある。字が似ていますね、と。それには理由があり、後輩と私の関係の始まりに繋がることでもあった。

「先輩、書いているところ見ていてもいいですか?」

 四つん這いになりながら字を書き、筆を下ろしてふと顔を上げた先にいたのが後輩だった。

 この人は書道部ではない。上靴の色から、一つ年下であることが分かる。どうやら選択授業で書道を取っていて、時間中に納得できるものが仕上がらなかったため放課後に残っているらしい。私が書道室に来たときには既にいて、墨汁の乾いていない半紙で六人がけの机二つを占領していた。

 教科書に載っている孔子廟堂碑という石碑の拓本を臨書(手本を見ながら書くこと)しているようだった。虞世南の書いた美しく品のある楷書体は、臨書をするのに最適だ。

 授業の課題なのだから、適当に済ませればいいのに熱心なことだ。仮にも書道部なのにそんなことを思い、しかしながら熱心に頑張っている姿はどこか微笑ましくもある。

 知らない生徒なので、素通りして教室の後ろの空いたスペースへと行きカバンを下ろす。私は空海の半切臨書をしていた。半切紙は自分の身長ほどもある大きな紙のことだ。当然、机の上には乗らないので、床の上で書くことになる。

 二枚目を書き上げたところで、後輩は私の書いているところを見ていてもいいかと聞いた。

「いいけど……」

「集中力削がれます?」

「いや、見られてもあんまり気にしないからいいよ」

 後輩は私の側に足をぺたんと付けて座り、前のめりになった。私は筆に墨を浸けて、一呼吸置く。そしてまだ真っ白な紙と向き合った。

 教室の静かな空気に、筆と紙の擦れる微かな音だけがする。他の部活の掛け声やホイッスルの音がしたけれど、全ては遠い背景だ。筆を持つ私と後輩が、教室の全てだった。

 二枚を書き終えたところで、後輩は立ち上がり制服を払った。

「ありがとうございます。参考になりました」

「私でいいならちょっとだけ見ようか?」

「いいんですか? ありがとうございます!」

 そうして後輩の書く机へやってきて、並んで座り書く様子を見ることにした。

 一枚を書き上げて、鳥肌が立った。

 さっき書いていた墨の乾いた半紙と、明らかに字が変わり上手くなっている。

 この後輩は、しばらく私が書く様子を観察しただけで、筆遣いや筆運びを自らの中に取り入れたのだ。

 並外れた才能に、人は神を見る。それが努力で成り立っていたとしても、これは神の与えた才能であろう。

 まず目がいい。単純に視力がいいだけではなく、見るべきところをちゃんと見ている。

 次に頭がいい。何を知り、何をすれば最適な結論が出るのかを把握する能力が高い。判断力もあるし、自分の中に落とし込むのも得意らしい。

 それを出力するための、手指がある。持って生まれた細く長い指が、自分の想像するままに動かすことが出来る。これは簡単なようで意外と簡単ではない。それが容易ならば、誰もが細い針に糸を通すことが出来るはずだ。

 そして、それを何度も何度も反復する集中力がある。

 なんて泥臭い才能だろう。

 その後も私が教えつつ何枚か書き続けると、ある程度納得できたものが書けたようで先生に提出して帰っていった。そんなことが何度か続いて、後輩と私は知り合いになった。

 看護学校を卒業し病院に勤め、転職した先で後輩が医者となり神と呼ばれていることを知った。若くして難しい手術を次々と成功させているのだそうだ。

 人は嫉妬し、一目置いている。けれど私はその結果が、あのときと同じように努力で裏打ちされたものだろうということは容易に想像できた。

 勤め始めてから後輩と飲みに行ったことがある。酔った後輩は、助からなかった父親の話をして、神様なんて何もしてくれないとうわ言のように言う。どうしようもなく人間である後輩は神に抗うという信念の元、その才能を伸ばし続け神に近付いているらしい。

 神ではない後輩を知っているのは、この病院に私しかいない。

 同時に、後輩の向こうに神の存在を初めて見たのも、おそらく私なのだった。


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