恋は盲目

長尾たぐい

恋は盲目

 青黄青黄青黄の旗は水の中から見上げても、青黄青黄青黄だった。鼻をつまんでいた手を放して息を吐く。泡に遮られた二色は千切れてバラバラになった。足が滑って姿勢が崩れる。勢いよく鼻に入った水は肌で感じるよりずっと冷たくて、痛みで涙が滲んだ。大丈夫? と声をかけてくれた子の顔はゴーグルが曇ったせいでわからなかった。ゴーグルを外す。やっぱりわからない。

 先生のこともはじめはわからなかった。

 いや、先生だけじゃなく、お母さんもお父さんも世界のこともわたしはよくわかっていなかった。お母さんはやわらかくてよく通る高い音。お父さんは硬くてかすれた低い音。毎日世界でたくさんの匂いと音と色がくるくる入れ替わるのをわたしはぼんやりと眺めていただけだった。

 病院はじゃがいものスープの色で、たくさんのこどもがいた。水色のお兄さんのいうとおり、へんな機械におでこをあててのぞいたり、ピンクのお姉さんに黒い輪っかがとぎれているところをおしえたりした。

 今から目にお薬をポタッとします。おめめをがんばって開けてね。お姉さんによって左目に落とされた冷たいものにびっくりしているあいだに、右目にはもう一滴が落とされていた。今思うと、この技師さんの点眼はとても上手だった。一回で成功したのはたぶんこのときだけだ。

「すみません、目薬は苦手で」

 みたいだね、と左の二回目の点眼を失敗した技師さんが困ったように笑う。もう一度、の声に従って上を向く。三度目は成功した。

 視界はだんだんと濁っていく一方で、うるさいほど明るい。黄ばんだページの上で文字が崩れていく。プレイコーナーではしゃぐ眼鏡の子どもたちの間を縫って本棚に『はてしない物語』を戻す。これを最初に手に取ったのは二年生のときだった。それから五年経っても一度も最後まで読み通せたことはない。

 病院の中は去年と違う所と、同じ所が混ざっている。赤と青の小さな熱帯魚がたくさんいた水槽には大きな金魚が三匹だけ泳いでいる。売店のアイスコーナーはずっと変わらずレジのすぐ横。あとで買ってもらおうと品定めをする。毎年おねだりするのは忘れるけど。中庭の窓の向こうの夏の日差しが辛くて眼鏡を取る。より視界がぼやけただけだった。

 わたしは自分の世界の見方を思い出す。先生がやさしい声の青色でしかなかったときのことを。

 先生は白と胸のあたりからピンクの何かをとりだして、このキティちゃんをみてて、といった。わたしはレンズでおおきくなったりちいさくなったりするそれをみつめた。部屋がいきなりくらくなって、でてきたオレンジ色の光につつまれたキティちゃんから目をはなさなかった。

 それから、先生はお父さんがしているのとは全く違う、何枚もレンズがついた重くてすごく変な眼鏡をわたしにかけた。レンズ越しの世界は園長先生が号令をかけたあとみたいに、何もかもがお行儀よく並んでいた。よく見える? とお母さんが聞く。わたしは頷いた。お母さんの目や口の周りが少し動き、よかったあ、と「あ」が高く上がった。これが「見える」ってことで、これがお母さんの安心したときの顔なんだ。その発見は嬉しかった。でも、目に映るあらゆるものはもう今までのように柔らかく揺らぐことはなくて、強すぎる輪郭がわたしの目にすごい勢いでぶつかり続けた。頭が痛かった。

 これから眼鏡をかけ続けていれば、もっとよく見えるようになるはずだよ、と先生は言った。もっと? そうだよ!

 そのときの先生の表情が、わたしの不安を消し去った。これをまた見たい。その願いを叶えるようにその一瞬をわたしの網膜は完璧に拾ったから、こうして何度頭の中で取り出してもぼやけたりはしない。小さい頃は目薬を使って力づくで開かれた瞳孔の奥にまだそれが残っていて、先生に見えてしまうんじゃないかとずっとドキドキしていた。

「こんにちは。目薬は効いてるかな?」

 先生の声はやっぱりやさしい。先生は青い制服に白い白衣。先生はグレーのスニーカーに黒い靴下。先生は銀縁の眼鏡。先生は左利き。ごつごつと骨が出ていて素敵。先生は。

「じゃあこれから目を見るね」

 先生はいつもキティちゃんの指人形が付いたボールペンを白衣のポケットに入れている、はずだった。

「このピカチュウを見ててね」

 わたしはボールペンのてっぺんでポーズを取るピカチュウを見つめる。二つの黒目が合体して、そこに鼻が合流して、ピカチュウの顔は分からない。でもこれはピカチュウだ。黄色いし、飛び出た耳の先が黒くて、たぶんカミナリの形をした尻尾があるから。

 レンズをかざす先生の左手の指のあたりで、白っぽいものが光った。もうこれ以上開かないはずの瞳孔がもう一回り大きくなった気がした。部屋の電気が落ちる。かちりと電灯のスイッチを押す音がする。

「眩しいだろうけど、頑張って目は開けてね」

 レンズ越しの光は強すぎて、涙が出そうになった。

「視力はまた少し落ちていますが、眼底の状態は悪化していないので安心してください。――今年、中学生になったのかな。スマホは持ってる? そう、なら使い方には十分気を付けて。じゃあまた来年ね」

 今のわたしに病院の外は眩しすぎた。駐車場までお母さんが手を引いてくれた。ほの明るい瞼の裏に先生の笑顔はもう浮かばない。またアイスは買い忘れてしまったけれど、来年があるからいい。駐車場を出た車が横断歩道の前で立ち止まる。青色で三角の道路標識には白で人の姿が描かれている。顔はわからない。プールの中ではないからそれでもいい。

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