茜色した思い出へ
けんこや
茜色した思い出へ
その茜色の光景が何であるのか、謙吾はどうしても思い出すことができない。
謙吾には子供の頃から心の中にいつでも思い浮かぶ、ある情景がある。
それは丘一面を真紅に染め上げるかのように咲き乱れる彼岸花と、その向こうにそびえたつ黒々とした山々と、その頭上に広がる、灼熱の炎のような夕焼け空である。
その強烈なコントラストが、まるで瞳の奥に焼きついてしまったかのように、謙吾は幼いころから、その光景を細部にわたって自在に描くことができた。
幼稚園の『おえかきちょう』にもその景色が鮮やかに描かれているのを見ると、よほど古い時からその光景は謙吾の記憶に刻まれていたようである。
その『おえかきちょう』の絵でさえも、実際に風景を見て描いたわけではなく、みんなが外に出て遊んでいる中、たったひとり教室の中で一心不乱にクレヨンを塗りたくっていた覚えがある。
と、すれば幼稚園児のころにはその光景は既に謙吾の心象風景の一部となっていたということになるわけだが、しかしそれ以前のいったいいつ、どこで見たものなのか、謙吾にはさっぱり心当たりがない。
謙吾が生まれ育ったのは都心のマンションであり、周囲の景観はおよそかけ離れたものだし、両親の郷里も同じ都内である。小さな頃に行った家族旅行の経路にもまったく当てはまるものはない。
きっと物心がつくかつかぬかの内にテレビか何かで目にした景色が、偶然的になんらかの強いイメージを謙吾の心の奥深くに残すことになったのかもしれない。
そんな風に解釈をしていた。
◇
だが不思議なことにその光景は月日を追うごとに、謙吾の心の中により鮮やかな像を結ぶようになっていった。
謙吾が高校に上がるころには、それまで平面的だった景色がVRのように奥行きをもつようになり、上下左右を振り向けばそこにどんな映像が広がっているのか自在に描くことができるようになった。
謙吾は美術部に入り、しきりに絵筆を動かした。
モチーフにするのは常にその心の中の風景だった。
俺だけの場所…。
俺だけの心の風景…。
この俺だけが知っている魂の
とかなんとか、あたかもそれが自分だけに与えられた特別な能力でもあるかのように優越感にひたりながら、ひたすらその景色を表現することに夢中になった。
そして描けば描くほど、緻密にその映像を表現することが出来るようになり、絵筆に慣れれば慣れる程、彼岸花の一本一本も、こちらにのしかかろうとしてくるような山々も、燃えながら飛び散ってゆくような雲の切れ端のひとつひとつも、まるで目の前に迫り来るかのように写実的に描き出すことが出来るようになっていった。
やがてその技量がいよいよ顧問の先生がため息を漏らすほどに「高校生離れ」したころには、謙吾にはその場所における空気の質感や、香り、更にはその場所に聞こえる風のざわつき、虫のこえ、自らの足音までも五感に感じ取ることができるようになっていった。
ところがそんな感覚を覚え始めると同時に、謙吾はこれらの現象に対して、ある種の恐怖感を抱き始めるようになっていった。
というのも、そうした幻の中に精神をどっぷりと没入させた後には、決まって必ず胸をかきむしりたくなる様な、とほうもない悔しさと悲しさと切なさと虚しさ寂しさと…、ありとあらゆる負の感情が一挙に襲い掛かってくるのだった。
まるで魂を抜き取られてしまうかのような、とてつもない虚脱感。
それが一体どこから来るのか分からないが、ただそんなことが続いてゆくうちに、それまで思い描いてきた夢のような情景が、なにやら毒々しい悪夢であるかのように思えてきたのであった。
野一面を色鮮やかに覆い尽くす真紅の彼岸花。
しかし彼岸花について検索してみると、不吉なワードばかりがヒットしてくる。
別名、死人花、幽霊花、地獄花、お墓の傍らに咲く死の華、毒の華。
もしかすると自分が見ているあの光景はこの世のものではなく、もしかすると自分はその地に踏み込むことで、少しずつ魂を吸い取られているのかもしれない。
そんな空想が次第に謙吾の精神を圧迫するようになり、さて、大学の進路を決めようかというころにはとうとう自ら描いた夕焼け空を前に震えがおさまらなくなってしまった。
以来、謙吾は絵筆をとることもなく、心にその光景を思い浮かべることを可能な限り封じて、日常を穏やかに過ごすように心がけることにしたのだった。
そうして数年が過ぎた。
◇
謙吾は大学を卒業し、社会人になって3年目を迎えていた。
心の奥底に封じ込めたあの光景におびやかされることは、もうなくなっていた。
もちろん、その記憶を一切忘れてしまったわけではない。
ふとしたはずみで、それは例えば道端や公園にふと彼岸花の紅を目にした瞬間や、夏の終わりの頃の猛烈な光を放つ夕空を見たときなど、まるで隙間から滑り落ちてくるかのように、脳裏にその光景がよみがえることはある。
しかしそれまでの経験から、謙吾は瞬間的に、それを思春期特有の妄想による一種のトラウマだと認知して、心理的にやりすごす術を身につけていた。
また、現実のあわただしさがその思いを忘れさせてくれるということもあった。
就職した光学機器メーカーのプロモーション担当としての業務は多忙で、次から次へと押し寄せる日常業務の中で、しだいに得体のしれない幻想も薄れていった。
このまま、あの光景は心の中から完全に消失してゆくだろうと思われた。
しかし、その安堵はある日を境に突然瓦解した。
◇
それは、ある産業技術系の学会に併設する企業向けの展示会に、商品を出展した際の出来事だった。
会場は地方都市の公民ホールで、ひと駅、ふた駅もゆけばとたんに田園風景が広がるような環境にもかかわらず、都心でもなかなか見ることができないような近代的で豪奢な建築物の中で行われた。
だが、学会の規模こそ大きく、参加者もそれなりの人数ではあったものの、会期中は商談らしい商談もなく、展示ブースは同僚と交代しながら休み休み立っているだけといった状況だった。
そもそも、上層部の技術者同士のつきあいで出展したようなものである。もてあました時間に館内をふらふらと散策しているうちに、ふと、人気のない上階の一角で、謙吾の足がピタリと止まった。
そこには壁一面に掲げられた、タテヨコ2m程もある巨大な風景画があり、そしてそこに描かれている光景こそは、まさに謙吾が何度も何度も何度も心の中に思い描いてきた景観が、まるで謙吾の来訪を待ち構えていたかのごとく慄然としていたのである。
謙吾は思わずその場に立ち尽くし、目を見張った。
茜色の彼岸花、黒く立ち上がる山々、燃えるような夕焼け、それらは完璧な程、謙吾の描いてきた風景と合致していた。
それどころではない。
その描画は細部にわたるまで、例えば雲の切れ端の一つ一つ、野に咲く彼岸花の一本一本にいたるまで、どことなく謙吾が高校時代に描いてきた性質と実によく似ていて、おそらく謙吾があのまま絵を描くことをあきらめずに大成していれば、数年後にはこれとまったく同じ表現になっていただろうと容易に想像できるような、作者だけが分かる特有の一致があった。
それはまさしく謙吾の絵であり、同時に謙吾の絵ではなかった。
しかしその絵にはたったひとつだけ、今まで謙吾が思い描いてこなかった、あるものが描かれていた。
それは画面の中心付近に小さく描かれている、着物を着た少女の後ろ姿だった。
周囲の彼岸花と同じ、紅色の着物を身にまとった一人の少女が、いまにも茜色の光景の中に溶けてしまうかのように、儚げに描かれている。
謙吾はその少女の存在に気がついた瞬間、心の中ではじけ飛ぶような衝撃を覚えた。
同時に、長年の間封じ込めてきた蓋の隙間からこぼれ出すかのように、かつてこの絵を描いた記憶が謙吾の頭の中で洪水のようにあふれ出してきたのである。
自分はまさしくこの場所を知っている。
紛れもなく、この情景の中にいたことがある。
この茜色の光景の中で、この少女を見送っていた。
それは耐え難い記憶だった。
歯が砕けそうなほど食いしばり、涙を堪えた悲しい別れだった。
どうしようもない運命の中で引き裂かれた辛い辛い思い出だった…。
謙吾は、まるで持病の発作でも起こしたかのように、その場にうずくまった。
足元から得体のしれない寂寥感が沸き起こってきて、意識を保つべく必死で目を見開いた。
と、絵の下にその絵のタイトルと作者の名前が銘された小さなプレートが貼り付けられているのが目にとまった。
【『望郷』 笛木兼吉】
謙吾の苗字は、「苗元」という
笛木兼吉と、苗元謙吾。
名前の奇妙な字づらの類似にもなんらかの因縁めいたものを感じずにはいられなかった。
その後、謙吾は同行している同僚を不安にさせるような朦朧とした状態で残りの展示期間を終え、帰路につくと真っ先にタブレットを手に取り、検索に取り掛かった。
すると、笛木兼吉という大正時代の画家の情報が、ほんのわずかながら検索に引っかかってきた。
ただ、若くして結核のために夭折してしまったため、活動期間も作品数も少なく、東北地方の貧しい農村に生まれ育ったこと、主題は主にその土地の風景画としていること、現存する数点の作品を同地区の美術館や公民館などに見ることができることといった、ごく限られた情報しか得ることができなかった。
結局、数少ない作品を所蔵している美術館のスタッフブログに掲載された数行の情報がそのほとんど全てで、その他何をどう検索しても、それ以上の情報をWebの中から発掘することはかなわなかった。
ただそのブログには素晴らしいことに、笛木兼吉の自画像が添付されていたことで、その容貌に示される、気味が悪いほどの“生き写し的要素”は、もはや謙吾自身が「生まれ変わり」であることを疑う余地が無い説得力を備えていた。
◇
次の休日に、謙吾は旅支度を整えて自宅を出た。
行き先は先日の出張で行った同じ地方である。
「その場所」はその後、不思議な程簡単に場所を特定することができた。
それはまるで、膨大なWebの海原の中にもぐりこんだ指先が勝手に獲物の方へと吸い寄せられてゆくように、謙吾はたいした労をせず、タブレットの地図上にそのポイントを示すことができたのだった。
その山々がどの山脈をどの角度から見たものなのか、その丘がどの地域のどの集落のものなのか、想定すれば想定する程、紛れもなくその座標は笛木兼吉が描いた「その地」であり、苗元謙吾が心の中に幾度も思い描いてきた「かの地」に間違いなかった。
そしてそこにはいまでも彼岸花が広がっていて、どこかの誰かがSNSに掲載した風景画像がその決定打となった。
◇
新幹線を降りてレンタカーを借り、タブレットにインプットした目的地に向かって車を走らせる。
自分は一体なぜ、その地に向かおうとしているのか。
その地に着いたところで何がどうなるわけでもない。目的は漠然としている。ただ、これまで自分を困惑させてきたその正体をこの目で直に確かめたいという思いに駆られているだけだった。
しかしその渇望が、まるであらかじめ予定されていたかの如く、謙吾をその地へ、その地へと引き寄せるのであった。
道中、その地が近づけば近づくほど、心の中に次々と遠い過去の記憶が浮かんでは消え、浮かんでは消えてゆく。
貧困に震えた板敷の寝床、おなかをすかせて泣いている弟たち妹たち、寒冷、干ばつ、病床からほっそりとした笑みをたやすことがなかった母、唯一の楽しみは、砂地に描く花や草木や動物たちを楽しんでくれた、隣家の三女の…今やその名も克明に思い出すことができる…“おりん”の、この世のものとは思えない愛らしいほほ笑み、つややかな髪、百姓の娘なのに不思議と華奢で色白の手、まっすぐな瞳…。
そしてあの日、生まれてから見たこともないような艶やかな紅色の着物を着せられ、人買いに引っ張られて村を出てゆく“おりん”の後ろ姿…。
何度も何度もこちらをふりかえりながら、村の端の彼岸花に囲まれた一本道を遠くへ、遠くへと見えなくなってゆく“おりん”の後ろ姿…。
フロンドガラスの向こう側に、もう何度も心に思い描いてきた山脈が見えてきた。
川沿いの国道をそれて旧道に入り、坂道を駆けのぼり、集落の外れでハンドルを切る。
次の瞬間、謙吾は思わずあっと息をのんだ。
そこには野ざらしのまま群生する彼岸花が、道の両側にこぼれるかのように広がっていたのである。
空いているスペースを見つけ、車を停める。
外に出て周囲を見渡すと、そこにはまさに謙吾の心を幾度となく悩ました景観が、見事にその場所に出現していた。
おお…、と謙吾は感嘆の声を漏らさずにはいられなかった。
たまらず、彼岸花の群生へと足を向ける。
まるで絵の中に体中が吸い込まれてゆくかのような錯覚を覚え、体中が得体のしれない安らぎに満ちてゆくのを感じた。
そのまま一歩、二歩と踏み進めてゆくうちに、謙吾ははたと足を止めた。
少し離れた彼岸花の群生の中に、先客がいた。
謙吾と同世代ぐらいの女性が、一面に広がる彼岸花に向かって一眼レフのシャッターをひたすら切っている。
突然、謙吾の全身が、何か強烈な金縛りにあったかのように動くことが出来なくなった。
その女性を見た瞬間に、謙吾を構成する全細胞という細胞が、まったく予期もせず、歓喜にうち震え始めたのだった。
謙吾は訳も分からずその場に立ち尽くし、その女性の姿をまるで神々しい何かであるかのように見つめた。
◇
女性は周囲に人の気配を感じて、ファインダーから目を離し、その方を振り向いた。
それから謙吾と同じようにくわっと目を見開いて、まるで幻を見るかのように呆然とその場に立ち尽くした。
その姿は、彼女が生まれてからずっと夢の中でみてきた男性の容貌と瓜二つだった。
茜色に染まる光景の中で、何度も何度も何度も手を振り、いつまでもいつまでもいつまでもこちらを見送っている、悲しげなまなざし。
女性はその幻影をもとめて、たった今この地に到着したばかりだった。
それもこの場所を知ったのはごく最近のことで、それまで何度も夢に見続けていた光景について暇さえあればWebの中を徘徊するも、一切かすることもなかったのが、つい先日偶然SNS上に写真をみつけ、場所を特定することが出来たのだった。
それからの女性の行動は驚くほどのスピードで、ふだん大学と家を往復する以外、ほとんど自宅にこもりがちの生活だったのが、親が心配するほどの素早い段取りで宿を決めチケットをとり、友人から譲り受けたもののほとんど使うことが無かった一眼レフのカメラを手に取り、まるで弾丸が飛び出すように旅立ったのだった。
その一連の行動力は彼女自身も理解できず、まるで何か大きな力に突き動かされているような気がしないでもなかった。
◇
ふたりはその場に立ち尽くしたまま、一言も発せずに視線だけをひたすらからませあっていた。
ふたりとも、まるで時代をはるか遡った昔からずっとその場所に居て、ただ周囲の風景だけがぐるぐると舞台転換を繰り返したかのような、時間と空間をつらぬいてきたかのような不思議な感覚に戸惑っていた。
それからお互いにすぐにでも走り出して、その体を抱きしめたいという衝動を、ぎりぎりの理性と常識感覚でかろうじて抑えていた。
周囲に広がる彼岸花が、二人の行く末を見守るかのように、優しく風にそよがれていた。
ところで二人が偶然見つけたSNSの写真はその後消失しており、二人ともどれだけ探しても、二度と確認することができなかった。
一体どこの誰がこの風景を写真に撮りSNSにアップしたのか、それとも本当にアップされていたものだったのか、もしかすると二人とも何かの幻をSNS上に見たのか、それは誰も知ることができない、永遠に謎のままである。
《茜色した思い出へ》終わり
茜色した思い出へ けんこや @kencoya
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