ここに水路があったころ
肥後妙子
第1話 稲穂が目を覚ました時
私の家は玉川上水の近くにあるんだけれど、昔はそこから水路を引いて開拓された田んぼだったらしい。今でも緑は多い方だと思うけど、農村だった過去はもう遠くに過ぎ去ってる。今では住宅地なんだ。私の家はそのうちの一軒。庭付き一戸建て。
田んぼを潰しちゃったことについてだけど、お米は言うまでもなく食料。生きていくうえで食料がいらない人なんていないんだけど、時代の流れでその食料を生み出す水田を潰しちゃって、家を建てることになったんだ。それすらももう何十年も前なんだけど。私たちの世代にはあまり実感のわかない話だ。日本の農業が様々な問題を抱えてるのは地域に関係なくもう当たり前になっちゃってるし、何とかした方が良いのは分かるけど、何をどうしたらいいのか、そもそも私のような無知なものが必要とされてるのか、分からないんだ。
だから、農業の問題や水田を手放さなくてはいけなかった当時の農家さんの事なんて日常にはあんまり考えないで生きていたんだけどね。
去年のある秋の日に、私は奇妙なことに気が付いたんだよ。
庭に一本、稲が生えているんだ。実るほど頭が下がる稲穂かな、の言葉通り、お米の粒を実らせて揺れてたんだ。私は色々空想するのが好きだから、これについても考えたね。植物の種って何年も土の中で眠り続けて環境が適した状態になったら芽吹くとかいう話を聞いたことがあったんだ。だから、むむ……これはかつての水田に植えられた稲の残党ではないかってこの時も思った。親にも言ってみた。
「ねえ、お母さん、庭に稲が生えてるんだけど。これ、前世紀の遺産かもよ」
「そんな訳ないでしょ。もうお前も大きいんだから、馬鹿なこと言わないの」
「ねえ、お父さん、庭に稲が生えてるんだけど、これ、前世紀の遺産じゃないの」
「まさか、スズメかカラスが加えてきた苗が根付いたんだろ」
両親からは以上のようなつまらん反応が返ってきた。
目の前にある稲をどうしようかって思ったけど、別にどうしなくてもいいんだよなあと気が付いたので放置しておいた。
スズメか何かの鳥が食べちゃうかなと思っていた。スズメはお米が大好きだしね。
でも、更に少しすると、また不思議なことが庭で起こっていることに気が付いた。
歩くたびに庭の土から水が滲み出てくるのだ。何故。もう玉川上水から水を引いた水路が無くなって何十年もたつのに。私はまた考えたね。この辺を水田に戻そうとする謎の勢力があるんじゃないかってね。
武蔵野の土地って水の扱いに不便で農業にはあまり向いていなくて、そのせいで川沿いにばかり人口が集中してしまっていたんだけど、玉川上水が引かれて、そこから更に水路が枝分かれして伸びていって、農業がしやすくなって、色々なところに人が居住するようになったらしい。かつて私の家があるあたり一帯に水田が広がっていたのは玉川上水のお蔭らしい。
私の家の庭に稲穂が生えてから奇妙なことが起こってる。地面が昔を取り戻そうとしているかのような。
稲穂が水を、いいや、過去を呼んでいるのかなって空想しちゃったりして。こんなこと想像というか予想してるなんて両親にはもちろん内緒だね。言ったとしてもまたお前は馬鹿な事考えてるのね、で終わりな訳だし。
でも、昔の事を考えるのは楽しいよ。もし私の想像が合ってたらって想像するんだ。長い時間の流れの中で出来てしまった様々な物理的な障害を乗り越えて、私の家に一筋の水の流れが届く。そんな日がきっと来る気がするんだ。
庭を、私の空想というより予想が当たっている気がして楽しみなんだ。庭の土の水分は少なくとも減っていなくて溶けたチョコレートみたいになってる所もあるし、今年も稲穂が生えてしかも数が増えて二本になったんだ。きっと水を呼びよせる力も二倍になると思うよ。うちの両親はそうなったら大慌てだろうな。私の家だけではすまないね。近所中大混乱だよ。
私はその時が来たら、大人たちになんて言ってやろうかな。こうなると予想してたんだ、かな。
でもそんなこと言うとやっぱり私の親たちは、そんなことお前に予想できるわけないでしょ!って怒るんだろうな。その反応を想像するのもまた楽しみなんだ。
早く水路を整えて水の通り道を作った方が良いと思うんだ。そして稲穂たちが仲間を呼ぶのに備えるべきだ。奴らは自分たちの種族が栄えていた日を再び呼び戻そうとしてるし、そのために水を呼んでいる。
私はそう信じてるんだ。
終
ここに水路があったころ 肥後妙子 @higotaeko
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