第15話 北領の法家

 窓の外にまなざしを向けるヴァンボロー領主である父、フレドリック・ヴァンボローの背の向こう側には、この領都ハーディントン特有の、色の濃い雲と降りしきりる雨でぼやけた景色が広がっていた。


 「正直なところ、私はまだ腹落ちしきれてはいません」


 父の背に向けて発するその声は、少し震えていた。

 それは、父の意に反している事への畏怖と、父の下した決断に対する憤りとが、ない交ぜになった震えだった。


 「お前が今、何を思おうと、過去は変えられん。腹落ちできないからとこの先の行動を躊躇えば、それが本当にエリナーに酬いることになると思っているのか?」


 父の声は低く、冷淡で、感情の起伏を感じさせない。

 それがことさらに、レイリック・ヴァンボローの心胆を煮えたぎらせた。


 「だからといって、エリナーを死に至らしめた事を、微塵も省みないのですか?あなたは」


 感情に揺さぶられ、声が上ずった。

 それでも、父の背は微動だにしない。


 「個に固執するな、レイリック。そうやって統治者が個の感情や願望に翻弄されるから、国が病むのだ。見るべきは民だ。そしてまつりごとは、統治者の意思など超越した、法ということわりによって行われるべきなのだ。今の腐敗したアングリア王政がまさにそれではないのか?」


 言いながら父、フレドリックが振り向く。

 レイリックに向けられたまなざしの奥深くに、あいの色が見え隠れしている。それを見せられてようやく、父もまたエリナーの死の全てを、飲み込めた訳ではないのだと気づかされた。

 その時不意に、部屋の扉が叩かれる。


 「入れ」


 フレドリックの声に、扉が開く。入ってきたのはフレドリックの側近、ギルフィ・ルナルソンだった。


 「報告が幾つか」


 ギルフィがフレドリックの前に跪く。フレドリックは顎をしゃくって、話を先に促す。


 「まず、アプナー・ショア攻略の援軍であるベルジュラクからの第一陣三千が、モンフォール麾下の一団の奇襲により、殲滅されました。更に我が軍は、進軍の方向を急転させた国王軍一万に、ティエール湖付近で足止めされています。戦況は、芳しくありません」


 レイリックは横目に、ギルフィの報告を受ける父の顔を盗み見る。

 フレドリックはその報告に、僅かに唇の端を吊り上げていた。


 「こちらの策を飛び越えていくようなこの周到さ、グレン・ワイズの顔がちらつくな」

 「サー・グレンは、この戦には参じていないようです」


 即座に否定するギルフィのその言葉に、さすがの父も眉根を深くする。

 

 「アングリア王マシューや皇太子リーアム、武骨なだけのモンフォールのアシュリーに、これ程の立ち回りはできるまい。絵を描いているのは誰だ?」

 「まだ確証は得ておりませんが、サー・グレンの徒弟、フィル・モンフォールが指揮を執っているとの声が聞こえてきています」

 「フィル・・・アシュリーの次男坊か。まだ若輩のはずだが、グレンが化けさせたか」


 そう呟き、フレドリックは小さく、改めて不適に笑む。そして少し間を置いてから、ギルフィに向け、言葉を続けた。


 「領東コットナムの守備に就かせているへルマンの所に、騎兵はどれくらいいる?」

 「七千の軍勢のうち、四千」

 「へルマンに指揮を取らせてその四千を早急に南に向かわせろ。三千はこのハーディントンへ戻せ」


 それまで目を伏せていたギルフィが、初めてフレドリックに向けてまなざしを上げた。


 「モンフォールに対し、領東を無防備に晒すのですか?」

 「奴等は我が軍の強行を止めるのに必死だ。すぐに攻めては来ないだろう。それにアプナー・ショアが攻略できれば、ハーディントンは捨て、拠点を南に移す。南北に伸びきった領土の全てを守るなどという無駄なことに、兵力を割くつもりはない。最終的に王都を陥とせれば、それでいいのだ。領民のストックハム転居は進んでいるな?」

 「滞りなく」


 そう答えて、ギルフィは再び視線を下げ、改めて言葉を継いだ。


 「最後に、サー・ルベン・ペレスがこの城に参られ、ロード・フレドリックに謁見をご所望されております」


 フレドリックはその名を聞き、再び唇の端を吊り上げた。


 「通せ」


 フレドリックが答えると、ギルフィは淀みなく立ち上がり、素早く踵を返して、部屋を後にした。

 ルベン・ペレス。

 ギルフィがサーと称するからには、騎士なのであろう。

 騎士の称号を持ち、更に父に謁見が叶うような者であれば、レイリックもどこかで名を聞いていてもおかしくはなかった。が、その名は記憶にない。

 暫くして部屋に入ってきた男は、確かに見知らぬ男だった。その顔に深く刻まれた皺から、父と同年代か、もう少し上に見受けられた。が、服の上からでも判る程の体躯の厳つさは、そのよわいには明らかに不釣り合いだった。


 「ルベン・ペレス・・・か。聖典に記された神のひとりから偽名を引用するなど、らしくないことをする」


 フレドリックが男に向けて言うと、男は濃い髭の下で薄く笑った。


 「俺じゃない。グレンだ。そういうものを考えるのも煩わしくてな。全てグレンに任せた」

 「その偽名にわざわざ騎士の称号を添える事もか?そんなもので見栄をはるような性分でもあるまい」

 「称号があれば何かと便利だ。人ひとり育て上げるのにはそれなりに手間も金もかかる。手間はどうとでもなるが、潜めている身で稼ぐのは難しい」

 「称号で税を得る、か。それもグレンの入れ知恵だろう?」


 男は答える代わりに、薄く笑みを声を返した。

 

 「まあ、座れ」


 フレドリックはペレスという男に応接用の長椅子を促し、自身もその対面に座った。


 「偽名、ですか?」


 二人の会話の意図が飲み込めず、レイリックは二人に向けてそう訪ねた。

 視線をその男、ペレスに向けたまま、答えたのは父だった。


 「この男の本名はヨハン・グジョンセン。先代の赤の騎士だ」


 感嘆のあまり見開かれたレイリックのまなざしは、その男に釘付けになった。

 まだレイリックが幼子の頃に、アングリアの地をベルジュラク、カサンドロスの合従軍から救った、祖国の英雄、モンフォールの先代赤の騎士サー・ヨハン。あの戦以降、行方が知れず、すでに死んでいるのではないかという噂すら流れた男が、今、目の前にいる。胸のうちに、熱く滾るものを感じる。

 が、同時に、不安も過る。

 この元モンフォール麾下の英雄にとって、今、王家に反旗を向けているヴァンボロー家は敵方になるのではないのか。

 レイリックは握りしめた掌の中に、生ぬるい汗を感じた。

 ルベン、もといヨハンの口が、父フレドリックに向けて開かれる。


 「合従軍撃退以来、二十年ぶりか」


 レイリックの杞憂とは裏腹に、ヨハンの声色は凪いだ海のように穏やかだった。


 「そうなるな」


 返した父フレドリックもまた、穏やかに笑む。それは先程までの、どこか挑発的な雰囲気を携えたものではなかった。

 ヨハンが続ける。


 「お前と一緒だったのは、古都ジュールでカサンドロス軍に包囲された、あの一戦が最後か」

 「そうだな。ロチェスター領主に就く前のカールと、ヴァンボロー領主に就く前の俺、そしてグレン。従ずる兵もなく、あそこで命運も潰えるものと覚悟した」

 「俺からすれば、二大領主の嫡男をあの場でカサンドロスに討たせる訳にはいかなかったからな。俺とグレンには随分とやっかいな足枷だった」

 「俺もカールも若かったのだ。功を焦りすぎて、あの場に取り残された。あそこから生還できたのは、お前とグレンの裁量もあったが、とは言え、奇跡だった」

 「奇跡・・・か。本当はあれは奇跡などではなく、これから迎えるかもしれない災厄の始まりかもしれんがな」


 そのヨハンの言葉で、二人は黙り混む。

 昔を懐かしむような、和らげな二人の笑みはそこで、僅かに濁った。


 「で、俺の元を訪れた目的は何だ?」


 その濁りを拭うように、フレドリックはまなざしを尖らせ、ヨハンを見据えた。

 ヨハンがそれを受けて、頷く。


 「お前の志は、十分理解している。今のアングリア王に国政を委ねる事の愚かさは、俺にも判る。助力はしないが、それに同意はする。その上で、お前に訊きいておきたい」


 フレドリックは話を先に促すように、無言のまま小さく顎を振った。


 「何故ロチェスターを攻めた?カールもお前の野心には同調していた。謀反を企てるなら、両家で共に反旗を掲げた方が遥かに容易かったはずだ」


 それを受け、一度大きくゆっくりと頷いてから、フレドリックがヨハンの問いに、意味深に返す。


 「エドモンド・ロチェスターが、アーリアの素性を知った」


 その言葉に、ヨハンのまなざしの色が変わった。

 それは鈍く濁った瞳のずっと奥に、刺すような鋭さを携えた、どこか矛盾した不思議な色合いだった。

 エドモンド・ロチェスター。

 前ロチェスター領主で、慣例に倣って隠居を由とするのではなく、アングリア王直参の臣の最高位である、“王楯おうじゅん”を冠するため、領主の地位を捨て、それを息子であるカールに譲った男だ。

 また、その所以ゆえんで、現在の王政の実権を握った男でもある。


 「そしてヨハン、お前と俺が二十年前に危惧した通り、カールは父エドモンドに屈したのだ」


 フレドリックの言に、ヨハンは深いため息と共に背もたれに深く身を預け、腕を組む。

 フレドリックは続ける。


 「アーリアの素性を知ったエドモンドは、そのアーリアを自身の傍らに置くべく、我が娘エリナーを婚約者であるクリフを使って死に追いやった。そしてクリフの新たな婚約者にアーリアを立て、彼女を王都へ引き入れようとした」

 「カールはそれを素直に受け入れた、と言うことか。アーリアを王政下に引き渡す意味を知りながら」


 フレドリックの言葉を継ぐように、ヨハンが続けた。

 フレドリックは頷く。

 アーリア・ロチェスターの素性。

 以前、父から聞かされていたその事実は、まだレイリックの中でうまく噛み砕けていない。が、仮に事実とするならば、それが王政に引き込まれた時、父フレドリックの野望は、それに留まらずこのアングリアの大地の未来は、そこで潰えるのは間違いなかった。

 父が、続ける。


 「結局のところ、カールは父エドモンドの傀儡から脱する事が出来なかった。幼少の頃から刷り込まれてきた父親への畏怖を拭えなかったのだ。とは言え我らからすれば、アーリアを王政の中に引き込まれる事はまかり通せん。だからストックハムを陥とした。その混乱があったからこそ、カールも最後は、父エドモンドになびくではなく、予言通りにお前の元にアーリアを向かわせたのだろう」


 ヨハンは虚空を仰いだ。

 それを伏し目がちな視界の隅に捉えながら、レイリックは思う。

 ロチェスター領主カールの追いやられた境遇。その原因となった父エドモンドへの畏怖。その畏怖は、レイリックの中にもある。

 存在感の大きすぎる父を持つ子は、その重圧に苛まれ、萎縮し、自身の器の矮小さを、悲嘆する事しかできない。

 それは、レイリックも、きっとカールも同じなのだ。

 暫く間を置いたあとで、ヨハンが父フレドリックに問う。


 「エドモンドにアーリアの素性を明かしたのは、カールなのか?」

 「それはカールではない」

 「では誰が?」

 「枢機卿フアン・グラティアーニだ」


 ヨハンが鋭く、フレドリックを見据え、更に問う。


 「フアンだと?何故そう言い切れる?それだけじゃない。エドモンドがアーリアの素性を知り得たこともそうだ。何故お前がそれを知っている?」


 フレドリックはそこで一度、深く息を吸った。そして何かを噛み締めるような重い声色で、ヨハンに返した。


 「エリナーだ。エリナーはクリフの婚約者でありながら、我らヴァンボローの“草”でもあった。故に、王政の深い内情を我らが知り得ることができた。フアンがクリフを取り込み、エドモンドにアーリアの素性を明かした時点で、エリナーをこの地に引き戻すこともできた。が、エリナー自身が草であり続けることを望み、それを俺が許容し、そしてエリナーは、命を絶たれた」


 父の言葉に、レイリックは奥歯を力ませ、胸に込み上げてくる何かをその奥へと押し返す。

 エリナーを救うことはできたはず、という想いは、今も拭いきれない。自身の父への畏怖が、エリナーの意思を飲んだ父に抗う事を躊躇わせた。全ては自身の弱さが生んだ結果なのだ。瞳の裏側に熱が籠る。

 ヨハンが、重い声色で続ける。


 「いずれにせよ、教会も知りうるところなのか、アーリアの素性を」

 「連中がどこまで何を把握しているかまでは掴めていない。が、フアンの小飼にユルゲン・ブレーメという男がいる。フアンはこの男こそが、この時代の“ジョルジオ”の器だと思っているようだ」

 「それはありえない」

 「そうだ。ありえない。が、フアンがそう確信するに足る何かが、その男にはあるという事だ」


 ヨハンの大きなため息と共に、二人の会話がそこで途絶える。

 思い沈黙が、部屋に落ちてくる。

 アーリア・ロチェスターの素性。

 エリナーの死も含む、これまでに起こった災厄、これから起こりうるであろう全ての災厄の起因は、そこにある。

 始まりは、二十年前。

 古都ジュールの地で起きた、父を、ヨハンやグレンやカールを救ったという奇跡。

 全ての始まりはそこにある。

 信じがたいことではあるが、父が以前レイリックに語ったことが、本当に事実であるならば。


 「まさかアーリアの古都巡礼が、このような形で幕を切られるとはな」


 しばらくの沈黙の後、呟くように言ったのはヨハンだった。

 ヨハンは続ける。


 「もう一つ訊いておきたかったのは、その事だ。なぜアーリアに追手を差し向ける?始まりはどうあれ、この巡礼は過酷なものになる。全てはグレンと、予言通りジェレミーに託したのだ。静観はできんのか」


 その打診を受けて、フレドリックは顔を顰めた。


 「俺は追手など差し向けてはいない」


 フレドリックの返しに、ヨハンもまた、眉根を寄せる。


 「それもフアン、か」フレドリックが呟くように言い、続ける。「恐らくは奴の謀略だ。グレンがいれば、うまく火の粉を払えるとは思うが・・・」

 「俺が聖都サンクチュアリに向かおう。奴等の真意を探る。まさかラウラの再臨を教会が望むことはあるまいが、アーリアを奴等の手に渡すわけにもいかん」


 ヨハンの進言に、フレドリックは力強く頷く。


 「すまんな。俺は俺の本懐である王政転覆をこの機に成さねばならん。卑下た貴族共が財力に依って蔓延る今の腐敗した王政を覆し、法の治下の世界を実現するには、この機を以て他にない。アーリアの支援はお前に、そしてグレンに託す」


 父の言にヨハンも頷き返し、立ち上がると、重い足取りで部屋を出ていった。

 その背を見据えながら、レイリックは思う。

 大きな波が、アングリアの地に打ち寄せようとしている。

 その波の中にあって、自分が何を成し得るのか。

 自分の存在とはなんなのか。

 ただ父への畏怖の束縛の中で萎縮するだけの器なのか。

 打ち破ることができるのか。

 レイリックはそれを、見極めたかった。

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