第14話 復仇の斬合
ハリル・チャハノールの亡き父への追憶は決まって、その背中から始まる。
兵団の群れの先に隠れては覗く父の背は、雄大で、豪壮で、だから遠かった。
そのすぐ後ろにはいつも、兄ハミトの背があった。
父ほどの雄大さも豪壮さもない。ただ、父以上の俊敏さと器用さと聡明さを、兄は携えていた。
いつからか父は、自身の兵団の指揮を、その兄に委ねるようになった。
―――お前には兵を束ねる才がある。それを繰る才が、俺以上にある。俺はこの兵士達の先頭を行く旗印であればいい。
父はそう兄を称え、兄はそれを受けて、父も含めた兵団を、まるで一個の生き物のように駆った。
その日も、そうだった。
すり鉢状の谷の底にあるカサンドロスの要衝に向け、兄の率いる一団を除くすべての兵を、怒涛のごとく走らせ、兄の一団の降らせた矢の雨を受けて混乱した敵兵を薙ぎ倒していく。
順調に思えた。が、違った。
ハリルも含む父の兵団が谷底に至った機を見計らったように、兄の立つ崖上を除く他の三方から、カサンドロス軍が突如現れ、自兵もろとも殲滅させようと、火矢を降り注がせた。
ハリルは炎に包まれ、仰け反った馬から振り落とされた。
兵たちの上げる怒号と悲鳴の混じり合った混沌を、ただ呆然と腰を落として見ていたハリルに駆け寄ってきたのは、父だった。
―――お前は生きろ。生き抜け。
父はすぐ脇で嘶き、取り乱す馬を瞬時に宥め、ハリルをその背に乗せて、馬の尻を叩いた。
炎の中、自軍を背に走りつつ、兄の姿を探した。
兄さえいれば、まだ父を救えるかもしれないと思った。
が、兄を見つけた瞬間、それは叶わないことを知った。
ハリル・チャハノールの亡き父への追憶は決まって、崖上に立つ兄の薄く笑んだ口許で、終わる。
◆
剣を握る掌に力が篭る。
右肩が、力む。
それでは駄目だと力を抜こうとするが、身体が意思を蔑ろにして、緩んでくれない。
『感情は意識を、意思を、凌駕する。御するべきは身体ではない。まず、感情だ』
耳の裏側で師の言葉が蘇り、静かに木霊する。
息を大きく吸い、目を閉じ、息を止める。
胸の内側に沸き上がった熱を、ゆっくりと、そのもっとずっと奥へ、押しやっていく。
息を吐く。再び目を開き、対峙する兄ハミトを見据える。
右肩から先の力みが、すっと引いていく。
「久しいな、ハリル」
ハミトの、白々しさを滲ませる言に、再び沸き上がろうとする熱を、抑え込む。
言葉に何かを、これ以上、委ねるきはなかった。
だから、返す言葉もなしに、踏み込む。
間合いに入った刹那、水平に剣を薙ぐ。
ハミトは状態を反らし、剣筋から外れる。
更に踏み込みつつ、でも滑らかに、空を切った切っ先を素早く返す。
その一閃は交わしきれず、ハミトは自身の剣でそれを受ける。
ぐっと力み、押し込む。
抵抗するように、ハミトが押し返す。
狙い通り。
押し返される勢いを反動にして反転し、回りながら左斜め下から右斜め上へ、剣を振り抜く。
会心の立ち回りだった。
剣筋は、ハミトの顎を抉るものだと思っていた。
が、手応えは軽すぎた。
瞬時に背後へ飛んだハミトの頬を、切っ先が掠った程度だった。
「その筋、剣聖ジョシュアの流れか」
頬に刻まれた薄らとした切り傷を左手の人差し指でなぞりながら、ハミトはハリルの師の名を言い当てた。
そして、挑発的にほくそえむ。
その笑みにまた胸の奥で熱が沸き立とうとするが、ハリルはそれを、静かに抑えた。
十五年前、兄ハミトが父を裏切ったあの時、ハリルの技量は、僅か二つ年上なだけのハミトの、足元にも及んでいなかった。それが今は、こうして互して渡り合える。父が死に、ハミトが故郷アウレリオを去った後、剣聖ジョシュア・ディーニーに師事したことで、ここまで差を詰めることができた。
が、互したその先は、全く読めない。
立っていられるのは、自身か、ハミトなのか。
不意に、フィル・モンフォールとの約束を思い出した。
ハリルがハミトとこうして対峙するよう筋を書く代わりに、フィルがハリルに託したこと。
この結び合いにどう決着がつくにせよ、せめてその心残りだけは払っておこうと思った。
ハミトと対峙したまま、ハリルは剣を天に向けて突き上げる。それが、合図だった。頭上から、腹の底に響くような地鳴りが響いた。
「全軍俺たちを抜けて先へ!ためらわず走り抜けろ!」
恐らく全てを察したのだろう。ハミトが叫ぶ。同時にハミトの率いる軍の群れの頭上に、湖岸沿いの崖上から、無数の岩が落下してきた。
ハミトの軍が走り出す。
が、遅い。
ハミトの軍の殆どは落下してきた岩に押し潰され、およそ二十騎程度が、その砂煙の中から抜け出して、ハリルとハミトに迫ってきた。
「行かせるかよ」
ひとりごちて、向かってくるハミトの一団に向けて構えた。しかしそれを阻むように、ハミトの剣がハリルに向けて撃ち下ろされる。
それを受ける。刹那、二人の脇を騎馬たちがすり抜けていった。
逃した。が、およそ五百からの一団を、二十騎程度にまで削れたのだ。フィルへの義理は果たしただろう。あとは、対峙するこの男を斬り伏せればいい。
「ハリル、お前も我が主、フレドリック・ヴァンボローの元へ降れ」
剣身を合わせたままの状態で、不意にハリルが言った。
「ふざけるなよ」
奥歯を力ませながら、返す。
「ハリル、お前は領主ウナイに何を期待する?何を託す?アングリア王に言われるがまま、カサンドロスと弛緩した戦を続けるだけの男だ。ただ生まれ落ちた地の主だと言うだけで、何を盲信する?」
言葉はいらない。
お前に語らせる言葉などない。
剣身を押し返し、再び間合いを取る。
縦の斬撃。
ハミトが受けようとする刹那、剣を返し反転しながら後ろ手に下から上に薙ぎ上げる。
すかさず剣を下げ、ハミトがそれを受ける。
ハリルはさらに翻そうとするが、そのまま力で強引に、剣身を押さえ込まれる。
「南西に剣聖がいれば、北東には剣神がいる」
ハミトがそう呟いた瞬間、得体の知れない悪寒と圧を感じる。
そして凄まじい力が、ハリルの剣を押しきる。
それは、何の余地も容赦もない、圧倒的な力だった。
切っ先が、地面に刺さる。
前屈みになったところで、顎を蹴りあげられる。
その勢いに掌から抑え込まれた剣をはがされ、のけ反るように、ハリルは後方に飛ばされた。
そのまま、仰向けに倒れ込む。
顎先が痺れて、感覚がない。
頭の中で何かが揺れている。
だからなのか、手足が言うことをきかない。
それでも、意識だけは何とか繋ぎ止めた。
「この国は病んでいる。気付かんか?それに」
倒れ込むハリルのすぐ傍まで歩みより、見下ろしながら切っ先を眉間の僅か先に突きつけて、ハミトが言う。
「財を撒いて官職を貪る貴族ども、それを反故とする王、悪しき慣例のごとくにただ王に隷属するだけの領主たち。何の才とも知恵とも無縁なまま、愚人がただ血で繋がれているというだけで、地位を継承する。それでは国は病むのだ。いずれ朽ち果てるのだ。だからそれを覆し、王政を廃し、法の元に国を治める。我が主フレドリックが成そうとしているのは、そういうことだ」
ハミトは剣を地に突き刺し、屈みこむと、ハリルの喉元に人差し指と親指を充てがった。
身体は動かない。動かせない。
「取り敢えずは今のこの戦の舞台からは降りろ。そして、その先をよく考えるのだ。お前には才がある。俺はいつでもお前を受け入れる」
充てがわれた親指と人差し指に、力が込められる。
意識が遠のいていく。
視界が、焦点を失いながら、ぼやける。
そのぼやけた焦点の向こう側の、ハリルの瞳に、光るものが見えた気がした。
気がしたところで、完全に、意識が途絶えた。
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