奇跡の不法投棄

サクラクロニクル

奇跡の不法投棄

 12月の半ばごろ、『ウォッチメン』を読んだ。その作中で、奇跡に関する言及がある。地球上のすべてのヒトが熱力学的な奇跡で生まれてきたのだそうだ。確かにそういう考え方もあるのかもしれない。であれば、俺という人格も奇跡が生み出した歪みだ。十六年も生きたのだから、そろそろ矯正しても構わないだろう。


 熱力学とかいう難しいことはわからない。正しいことがなにかもよくわからないし、自分の考えの正しさすらもわからない。なにをわからないのかわからないし、わからないことが誤りなのかどうかもわからない。何度わからないと考えたか数える気力はもうないし、そんなことで元に戻れるような時期を過ぎたと直感して、それ以上はもう考えることをやめた。


 疲れていた。


「やすめばいいのに」


 会話が成立する数少ない女子、二階堂七日はそう言う。


「休んでも回復しない」

「気のせいだよ」

「その気のせいで苦しんでいる」

「気のせい」

「その気のせいを信じられない」

「お疲れさま」


 彼女は俺の頭を撫でてくれたりはしない。でも「お疲れさま」という言葉はとてもうれしかった。だから、最後に会話が成立したという思い出だけを持ったまま消えてなくなりたいと願った。


「永遠野さんは、死ねば苦痛がなくなると思います?」


 二階堂の彼女がそう言った。二階堂は同性愛を受け入れていて、告白者である三鈴晴菜と付き合っている。その付き合いの三か月目くらいで、晴菜が俺に訊いてきた内容だ。


「わからない」

 正直に答える。

「死んだら人間って無になると思うんですよね」

「その考え方自体は否定しない。でも無ってなんだ。俺は無を知覚したことはない。無を体感したこともない。だから無がなにをもたらすのか、率直に言ってわからない」

「つまり?」

「死んでも苦痛がなくなるとは限らない」

 その言葉は、俺自身の胸にも杭として刺さったままだ。


「七日さんはあたしのこと、好きじゃないと思うんですよね」

 その会話が、死に関する話題の前後どちらにあったものか、もう忘れてしまった。晴菜は俺にとって目障りな存在だったが、それと同時に二階堂への好意を正当化させる要素でもある。故に無視もできず記憶の中に居座り続ける。

「好きでもないヒトと付き合うだって?」

「だって、自分から手を繋いだりしてくれません。それに、キスだってしてくれないんですよ。おかしいと思いません?」

「確かに」と俺は答えた。

 この会話を覚えているのは、俺の中に悪意のある証拠だ。


「死のうかと思う」


 その言葉は、俺が最後に、ついさっき晴菜とコンビニでばったり会った時に話したものだ。


「えっ。死ぬんですか。なんで」

「疲れたから」

「死んでも疲れが取れるとは限らないじゃないですか。やめといた方がいいですよ。どんなに苦しくても、死ねば助かる、なんて。ただの賭博じゃないですか」

「賭博って響きがいいよ。頭がよさそうで。賭けとかギャンブルより、トバクの方が荒涼としている。そう。俺は自分の存在を張ったトバクをしてみようと思うんだ」

 晴菜は黙っていた。俺は、自分の決意を誰かに話すことで、すこし楽になった。死ぬのはとても恐ろしいことだが、他人に宣言しておくことで、その約束を守らないといけないと感じることができた。


 だから、大きな沼にかかった橋の上で、冷たい空気を吸ってみる。胸いっぱいに。なんだかすっきりとしていく。頭の中にかかった靄が、それで晴れていくかのようだ。だけれど沼の表面には、それと半比例するかのように濃い霧がかかって、俺の向かう先になにがあるのかを覆い隠してしまっている。砂漠の蜃気楼がヒトに偽りの希望を見せるなら、沼の霞は希望そのものを視認できなくする。


 鞄を置く。遺書はそこに入っている。靴を脱ぐ。窮屈さから解放されていく。でもこれ以上の軽量化をすることはできない。水を吸って、この身体の枷となって、水のなかでもがくような活力を奪うために、この服は絶対的に必要だと判断していた。


「さようなら、二階堂七日」


 自分の身体はなかなか重く、手摺から乗り上げるのに苦労する。ああ、焦れているな。死ぬことさえも、うまいことできやしないんだ。



 その途上、突然、誰かが俺を引き戻した。

 ひどい音がして、誰かがクッションになったとわかった。


「不法投棄は禁止です。そこの看板にもきちんと書いてあるでしょうに」


 晴菜だった。さっき声をかけたのは失敗だったと悟った。


「俺の人生、失敗ばっかりだ。生まれた時からそうだった。男に生まれたかった」

「私もですよ」と晴菜は言った。「性別まではうまくいったのに。三鈴晴菜なんて身体で生まれてきちゃった。私は永遠野さんに生まれたかった。でも生きてます。だから命を賭博に使うのはよした方がいいですよ」


 俺は笑うことができなかった。

 うれしがることもできず、ただそっと、冬の風で冷たく乾く水滴をひとしずく、頬伝いに地面へと落とした。

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