九番目の雲

白川 小六

九番目の雲

 小さい頃、単眼鏡を目に押し当てて、雲の隙間から地上を覗くのが好きだった。

 私たちは高高度を浮遊するシャボン玉のような、ジオデシック・ドームに住んでいて、幼い私は最下層の透明な三角板に座り込み、分厚い雲が切れるのを何時間でも待った。大抵青くてのっぺりした海しか見えなかったけれど、たまに、緑や赤錆、琥珀色の凸凹した陸地が見えた。もっと運が良ければ、町や農場の真上に雲の穴が開くこともあって、そんな時は地上人がいないかと目が痛くなるまで必死に探した。玩具同然の単眼鏡では、地上で動くちっぽけな点々が、車なのか人なのか、牛や犬などの家畜なのか判別できなかったが、とにかく何かが生きて動いているというだけで不思議で仕方なく、点が見えた日は興奮のあまりほとんど口がきけなかった。あの場所に行ってみたいと憧れた。

 そんな私の十歳の誕生日に、母たちは倍率の良い双眼鏡を買ってくれた。何ヶ月も前から行商人のヴラナさんに頼んで探してもらったらしい。私は梯子を上り、螺旋階段を下り、ドームの中を隅々まで駆け回って、母たち一人ひとりに抱きついた。

 私にばかりずるいと、双眼鏡は姉たちにも引っ張りだこになったが、彼女らはすぐ飽きて、いつもの遊びや、蝶と蛾の飼育、音楽や物理の勉強に忙しくなり、ドームの一番底の狭い場所はまた私だけのものになった。

 双眼鏡で見ると、海が本当はざらついていて、チラチラするのは反射ではなく魚影に群がる海鳥たちだということ、雲の一部に見えていたのが実は地表に積もった雪だということがわかった。人と車と家畜の区別もつくようになった。人は小さくて丸く、車は長方形、動物は楕円の片端に点を打ったような形で、どれにもみんな影がある。

 行商の輸送機は月に一度やって来て、ドームに接舷した。母たちは食料や日用品をあれこれと買い、不要になったものを売った。私と姉たちは、毎月小さいものを一つだけ、小遣いで買って良いことになっていた。ドームの安定飛行のために、守らなければいけない重量と容量の制限があった。

 ジアに最初に会ったのは、十二の時だ。

 いつものように接舷した行商の輸送機に上がり込み、所狭しと並べられた商品を吟味していたら、地味な背表紙が並ぶ書棚の奥に黒く光る目があってギョッとした。

「あんた誰?」

「ジア。きみは?」

「コゼル」

 ジアはヴラナさんの子で、どうしても空中都市に行ってみたくて潜り込んだのだと言った。じゃあ、あんたの家は地上にあるの? うん。どこまでも歩いて行けるってどんな感じ? べつに普通。動物を飼ったことある? あるよ、猫と犬と。病気が流行ってるって本当? 時々はね。それよりさ、ここには女の人しかいないって本当? そうだよ。男の人には会ったことないの? 赤ちゃん以外はね。でも十八歳になったら、首都で大勢の兄さんたちに会うの。

 密航が見つかるまでの五分間、私たちはお互いを質問攻めにした。ヴラナさんはジアを引っ叩き、倉庫に放り込んでから、真っ青な顔で平謝りした。どうか御内密に願います。今日のお代は結構ですから。母さんたちは私を十日も隔離室に閉じ込めた。地上人は汚染されているかもしれないのに。しかも男の子と話すなんて。ジアは男の子なの? そうよ。でもヴラナさんだって男の人でしょ? あの人は行商人だし地上人だから男も女もないの。じゃあジアだっておんなじじゃない。それはそうなんだけどねえ。

 二度目に会った時、私は十六で、ジアは正式に登録された行商見習いになっていた。それからは毎月会えるようになった。私とジアは正反対で、でも鏡に写したようにそっくりだった。彼のする地上の話は、いつも新鮮で荒々しく、驚きに満ちていた。

 あんたが空に来るように、私も地上に行けたらいいのに。ある日、私が書棚の陰でジアに向かってそう呟くと、ジアは、じゃあ、俺と一緒になりなよと言った。商売を継いで、二人で世界中を飛び回るんだ。雲の上でも雲の下でも。

 姉たちは口々に反対した。そりゃ遠くから見る地上は綺麗だけど、実際に行きたいなんてどうかしてる。いけない? いけなかないけど、市民権は奪われて、二度と空には住めなくなるよ。でも、私はどうしても地上に行ってみたいの。ジアと地上とどっちが好きなの? どっちも、多分同じくらい。ここの暮らしは楽しいのに、きっと空が恋しくなるよ。たった一人の男の人と年中一緒にいたら、きっと息がつまるよ。

 けれど母たちは、好きになさいと言ってくれた。お前にはいつかこういう日が来ると思ってた。籠の中でも自由になれる娘もいれば、籠を自分で選びたがる娘もいる。地上は古臭くて、生きにくい場所だろうけれど、幸せを祈っているよ。

 旅立ちに向けて、母と姉たちは服と外套と靴を贈ってくれた。いつも裸足に薄いドレス一枚でいた私は、それらをすべて身につけると一歩も歩けなかった。慣れなきゃいけないものがたくさんあるね。硬い靴の中で痛む足を我慢して、私は無理に笑顔を作った。

 ジアは私を輸送機の補助椅子に座らせて、シートベルトを締めてくれた。雲に入ると揺れるんだ。

 確かにそれはひどい揺れで、私は何度も悲鳴をあげた。大丈夫だよ、怖がらないで。操縦席のヴラナさんが振り向いて笑った。

 雲の下では雪が降り、どこもかしこも灰色だった。あそこが空港だ、見えるかい? ジアが指差す先には、弱々しい灯りが見えた。

 輸送機は灯りを目指し、一つの不自由から、もう一つの不自由へと降りていった。

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