四角い。

折り紙

 四角い。四角い。正方形の空間。


 薄暗い。そこに人がいるのは見えるけど、表情までは見えないくらいの暗さだ。


 ざらつくコンクリートブロックの壁がのっぺり四方を塞ぐ。

 ブロックの連なりが遠く積み上がり、見上げれば、空は小さく、白い、四角。


 椅子に縛りつけられている女子。

 その子を固定するのはワイヤー。


 頑丈そうな銀色の線が、スカートを巻きこんで太腿に食い込んで、椅子の座面の下に消えている。

 痛々しい姿だ。


 薄暗い中なのにその子がうっそりと笑っていることを、ぼくは知ってる。


 助けてほしい、とその子は言わない。だから、ぼくは助けられない。


 でも、そうなのだろうか、と疑問が降りてくる。

 というのは、ぼくはその子が悲鳴を上げたり泣いたりすれば、ちゃんと助けに行くのだろうか、という疑問だ。


 ぼくはなぜか、この四角い空間のルールを知っていた。

 ここのルールは、生死の逆転だ。


 ぼくは、交代してくれ、と叫びたかった。心臓に腕をねじこんだ。


 生死が逆転した。


 普通なら心臓が潰れたら死ぬはずなのに、ぼくが生まれた。

 もう一人のぼく。


 ぼくは、そっちのぼくに期待した。

 目の前でがんじがらめになっている女子を、ぼくの代わりに助けてくれ、と。


 だけど、ぼくはどうしようもなくぼくでしかなくて、その子を助けられなかった。


 そっちのぼくは戸惑い、焦燥に駆られながら、しかしその女子が困っているように見えないから助けられない、と自分に言い聞かせた。


 つまり、始めのぼくと同じように。


 ぼくと、もう一人のぼくと、四角の真ん中にいる女子は、三人とも無言で痛いほど空気が張り詰めていた。


 ぼくの目が、ぼくは期待に応えられない、そんな責任は負いたくない、交代してくれ、と叫んだ。


 ぼくは首を折った。

 普通は死ぬはずが、生死が逆転してしまい、新たなぼくが生まれた。

 それを繰り返す。


 大量のぼくはやがて四角い空間に入りきらなくなって、コンクリートブロックの壁にのめりこんだ。


 大勢のぼくが壁の中で生活を始めた。

 もちろん壁の中だと息が詰まって生活できないため、ブロックを切り削って部屋を作った。


 ……その労力を、拘束された女子をたすけるために使うという考えが、すべてのぼくの頭に一度はぎった。


 けれど、すべてのぼくが、誰か別のぼくがその子を助けるだろう、と思いたくて、その考えを振り払った。


 たくさんのぼくは四方の壁の内側で、上に上に部屋を作っていった。中庭のあるアパートみたいな感じだ。


 部屋ができて、ぼくは全員、窓を作った。自分の顔と同じくらいのサイズの窓。

 四角の内側に面した、つまりはその子の姿を見ることができる窓だ。


 音もなく匂いもない。代わりに、ぼくの視覚はいつまでも正常だ。


 その女子は、大勢のぼくがおっかなびっくり見下ろすのを、何も映していないような瞳でどんより眺めていた。

 口元はまだ笑みの形。


 ――実は、一人だけ、壁に入れなかったぼくがいた。


 ぼくは拘束されている女子の近くから離れることも目を背けることもできなくて、自傷し続けて、次々とぼくを生み出し続けた。


 でも、ぼくは――全員のぼくは、ぼくがそうやって目を離さずにいることをどこかで望んでいたと知っていた。

 見て見ぬ振りをすることは、本当は、自傷するより痛かった。


 全員が壁にのめりこんでいないなら、まだ、ぼくにも救いようがあるかもしれないと思った。




 ――――。


 小学校の授業と授業の間は十分じゅっぷん休憩だ。

 そのたった十分じゅっぷん。いじめをする人間たちは、その女子の元に向かう。


 教室の、ぼくの斜め二個後ろ――将棋で言うと桂馬の動く場所の席にその子は座っている。


 いじめをするだけに生きているんじゃないかと思える人間たちが、その子の持ち物を物色する。


 人間たちがその子から取り上げたのは定規。分度器、三角定規、十五センチの普通の定規。

 どれもプラスチックで汚れてひび割れが入っている。


 その女子の家庭はきょうだいが多くて、文房具は全部お姉さんやお兄さんのおさがりらしい。

 だから定規はボロボロだった。


 人間たちの一人が大袈裟に声を上げた。どこか嬉しそうに。


「これ、一発殴ればパキッて割れそう!」


 取り上げたのは長方形の定規。


 四角。四角。ひびだらけ。


 その人間は左手で定規を軽く振り、右手で拳を握った。空中で殴るような仕草。


 周囲の人間たちから賛同が集まる。その人間たちはどこまでも遊んでいるつもりなのだ。


 でも、だったら、いじめている人間たちは同じことを学校の先生にもできるのだろうか。


 他の同級生にできるだろうか。

 例えば、上級生にお兄さんがいて、いつも最新のゲームを貸してくれる子にもできるだろうか。

 クラスで一番可愛くて頭が良いあの子にもできるだろうか。

 ひょうきん者で先生に可愛がられる子にもできるだろうか。


 彼らがいきがるのは先生の、親の、死角だけ。自分たちの後ろめたさの、死角だけ。


 その人間たちは、その子を同じ人間だとは、思ってもみないようだった。


 冒涜ぼうとくに見えた。その子の存在そのものをおとしめる卑怯な行為だと思った。


 でも、その女子はいつもうっすら笑っていた。


 だからぼくは、これはいじめではないと、ぼくに言い聞かせてきた。


 その子を苦しみに縛りつける目に見えないワイヤーを、目に見えないからこそ強く強く感じてきたのに。


 だから今日は、まだぼくにも救いようがあることを、証明する。


 ぼくは席を立ち、振り返り、その女子の席の側までたった数歩、歩いて行った。


「――あのさ、そこのひとたち。ぼくを、いじめろよっ! それさ、ひとっつも、なんも面白くないから」


 そう叫んだ。言ってしまった。


 一気に血の気が引いたからか、緊張からか、ぼくの呼吸が浅く速くなる。

 どろんと空気のかたまりが心臓をおおい、圧迫している気すらした。


 いじめていた人間たちが、ぼくを見据えて、不愉快そうな顔をした。


 そのうち一人は、こめかみを人差し指で指して、半笑いしながらくるくる回してみせた。頭がおかしい、みたいな意味のジェスチャーだとぼくは気づいた。


 いじめのターゲットが、ぼくに移行する気配が、教室中に漂い始めた。

 ぼくと同じく傍観者だった皆が、雑談していたところから一気に声を潜めた。


 その女子はもう笑っていなかった。

 顔が強張っていた。目線が揺れ動き、ぼくを不審そうに見た。


 ――ごめんなさい。今まで傍観者で、ごめんなさい。


 それを口に出すことはできない。

 口に出してしまうと、ぼくは以前からいじめに気づいていたことになり、ぼくに罪があることを認めなければならなくなるから。


 いじめられていたその子がぼくをいぶかしむ気配を感じた。

 案外するどい目、まるで刺客のような。ぼくが本当に、その子を救う役に立つのか、見定めようとしているのだと思う。


 実際、その女子は、ぼくのわずかばかりの良心が差し向けた刺客かもしれない。


 これで、死んだ。

 ぼくの小学校時代の安寧あんねいが、死んだ。




 ――――。


 ぼくは放課後、その女子と靴箱のところでばったり会った。というよりか、その子、ぼくを待ってたみたいだ。


 ぼくは筆箱に、何かあった時のために常に入れている二百円をその子にあげた。

 足りないかもしれないが、十円二十円ならその子でも何とかするだろう。


「これ……、定規、新しく買ったらいいと思う……」


 我ながら、えらそうな言い方だ。


 その子は目を泳がせながら戸惑い気味に受け取った。




 後日、その子は体育の授業の後スポーツドリンクをぼくにくれた。

 ぼくの二百円で買って、持って来てくれた。


 ぼくは悔しくて、泣きたかった。

 飲み物は、飲んだら消えちゃうじゃないか。無駄じゃないか。


 目ざとい人間たちの誰かが「うえ、カップルだ」とぼくとその子を、はやし立てた。


 その子はどこかが痛んで仕方ないような表情で、はにかんだ。泣くのをこらえていたんだろう。


「……あ……ありがと」


 その子は消え入るような声で。


 ぼくは夢で心臓を貫くより大きな衝撃を、受け取っていた。

 心はここにあったんだ、と気づける強さで脈打っていた。


 ぼくはつい、変なことを口走った。


「こ、心って漢字、四画しかくで書けるよね」


 その子は首を傾げた。


「……『しかく』じゃなくて『よんかく』でしょ?」


 そう指摘されて、ぼくは急にその子が強気になったように錯覚した。


 でも、そっか。こっちのほうが普通なんだ、たぶん。


 その子の顔を正面から見た。ちょっとつり目がちの顔立ちで、勝気そうな一人の女の子だった。


 もしかしたらもしかすると、きょうだいとは喧嘩をしたりわがままを言ったり、するのかもしれない。


 その子がぼくに笑いかけた。


「ふふ、でも四角って私好き……。

 丸は角がないから優しく見えるけど、四角は丸より何にでもなれる気がする……。

 折り紙とか四角じゃないと作れない形がたくさんあるから」




〈完〉





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四角い。 @kazura1441

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