エピローグ 約束

約束

 ずっと悪夢の中にいた。

 霞がかかったように暗くじめじめした空間。

 苦しい。息ができない。喉を爪で掻きむしっても苦しみは消えない。皮膚が破れ、血が流れ出しても終わらない。


「おまえは、どうして生まれてしまったのだ」

 溜息混じりに聞かされた父親の声が、氷でできた短剣のように胸に突き刺さった。


「その痣さえなければ、少しは家のために役に立ったろうに。嫁にやれない娘など金がかかるだけの穀潰しだ。食費だけではないぞ。服を着せて、家庭教師までつけてやらねばならん。成人したらしたで、修道院にも寄付が必要だ。いっそのこと死産であれば、どれほど良かったことか」


「ごめんなさい。お父様」

 原罪を償うことはできない。ただ永遠に謝罪し続けるだけだ。

 冷たい視線や言葉に耐えるのは苦しい。でも、謝罪をしている瞬間だけは自分にも少しだけ意味があるように思えた。あざけりも無反応よりはマシだ。何よりもそれが、エリスが両親に振り向いてもらえるほとんど唯一の機会だった。


 だからエリスは左の頬にある大きな醜い痣を隠すことはしなかった。

 私は醜い。醜いのだから仕方がない。

 もちろん外出は許されない。姉たちが華やかに着飾ってパーティーに出る時も、エリスだけはいつも部屋にいた。屋敷の中だけが自分の世界だった。


「おまえの行く修道院が決まったぞ。これでようやく肩の荷がおりた。これからは俗世間を離れて、神様のためだけに一生を捧げるんだ。いいな。おまえはもう、二度とこの屋敷に戻ることはない。それが家名を傷つけない唯一の道だ」


 十五才の誕生日にそう聞いた時、エリスは安堵の気持ちで一杯になった。

 もう両親に迷惑をかけないで済む。それにどうせ女性としては価値がない身だ。男性のいない世界で暮らす方が自分には合っている。


 でも……。

 ひとつだけ、エリスには心残りがあった。

 修道女は五十才になるまでは男性との面会は許されない。それが決まりだ。

 だから大好きな兄にも会えなくなる。

 十才年上のベリオスは、何かあるたびにエリスをかばってくれた。それどころか世界でただ一人、エリスのことを綺麗だと言ってくれた。その魔法の言葉に、エリスは何度癒やされたことだろう。


 家督を継げない三男坊として冒険者になったベリオスは、エリスにとって最愛の兄であると共に憧れの英雄だった。Sランクパーティーのリーダーは、貴族の縁者の中にもそうはいない。両親や他の兄もベリオスには一目置いていた。



   ※  ※  ※



 果てしなく続く暗い洞窟を歩いている。

 着ているものは修道女に与えられたペチコートだけ。足をおろすたびに冷たい岩から体温を奪われる。全身にある切り傷からは常に血が流れている。

 倒れてしまいたい。楽になりたい。そう思うたびに天井から雫が落ちて来て、傷をほんの少しだけ癒やす。エリスはまた、歩き続ける。


 どうして歩いているのか。その意味さえもわからない。

 だが、永遠に続くと思っていた洞窟の先にも光が見える時が来た。それは少しずつ近づき、やがて圧倒的な輝きとなってエリスを包んでいった。



   ※  ※  ※



「目を開いてごらん」


 優しい声に誘われるように、エリスはまぶたを開こうとした。だが、何かで貼りついたように動かない。


「乾いた涙のせいだ。目を拭いてあげよう」


「冷たい……」

 現実の感覚に、エリスはビクッと震えた。湿った布がまぶたを優しくなでる。


 ぼんやりとした視界に最初に入ってきたのは、六才か七才くらいの小さい男の子の顔だっだ。まるで天使のようにかわいい。


 開け放たれた窓から風が入っている。

 そうか、この子は空から来たんだ。そうでもなければ、修道院に小さな子どもがいるわけがない。


「どうだい、気分は。君は病気だったんだ。悪魔の作った毒薬を飲まされて眠っていた。でも、もう心配ない」


 その落ち着いた声にエリスは確信した。この人は……いや、このお方は、本物の天使様だ。

 失礼があってはいけない。エリスはあわてて半身を起こした。体がまるで、水分の抜けた枯れ枝のように軽い。

 天使は目の前にある椅子に座っていた。足が床から離れている。


「全能なる神の御使みつかい、偉大なる天使様。私のような者に救いの手を差し伸べていただき、心より感謝いたします」


「天使か……そう呼ばれたのは久しぶりだ」


 不思議なことに、その天使は当惑したような顔をした。


「人が来る前に話をすませてしまいたい。疲れているだろうが、少しだけ我慢してくれ。君のお兄さんのことだ」


「お兄様の?」


「覚悟して聞いてほしい。いいかい。君の兄、ベリオスは死んだ。幼い子どもを救うために、悪魔と戦って刺し違えたんだ。『双頭の銀鷲』のリーダーに恥じない立派な最期だった」


「死んだ……」


 その瞬間、エリスの心臓は凍りついた。

 乾ききった体の中のどこに、そんな水分が隠されていたのだろう。目から自然に涙が溢れ出してくる。


 代わりに自分が死ねば良かった。

 自分にはそんな価値はないのに。兄が生きていた方がずっと良かったのに。自分はただ祈り、泣くことしかできない。女としても、人間としても一片の価値もない存在だ。神様は、どうしてそれがおわかりにならないのだろうか。


「ベリオスは最後まで君の身を案じていた。その心が君を救ったんだ。彼のためにも幸せになってほしい」


 幸せ……幸せとは、何のことだろう。

 でも、それが兄の望みなら。神の意志ならば、命の限り生きなければならない。それが残された自分の義務だ。

 気がつくと、エリスは祈るように指を組んでいた。


「天使様。教えていただき感謝いたします。神の御心に沿う生き方ができて、兄も本望だったと思います」


「ベリオスはきっと天国で君を見守っている。それを忘れないでくれ」


 そのままどれだけの時間、祈っていたことだろう。頬を撫でる冷たい風に気づいて目を開けると、もう天使はいなかった。その代わりにベッドの脇の小机に、紙包が置いてある。

 開いてみると、それは銀色の髪の毛だった。エリスにはすぐにわかった。兄の遺髪だ。こんなに美しい髪は、他に見たことがない。


 ノックの音がした。


「エリス、お薬の時間よ」


 返事を期待しない、棒読みの言葉。目覚めない病人に対しても一応、挨拶はする。それが修道院の決まり事のひとつだった。


「入ってください」


「ひゃっ!」

 エリスが声をかけると、叫び声と共にドアの外で誰かが倒れる音がした。ガラスが割れる高い音が響く。


「え、エリスが。エリスがっ」

 それは悲鳴にも近い声だった。

 

「大丈夫ですか」

 驚かせてしまった。腰を抜かしたのかもしれない。ケガでもしていなければいいのだけど。

 あわてて立ち上がろうとしたが、足がまだふらついていた。そうだ、ずっと伏せっていたから、たぶんひどい顔をしている。せめて髪くらいは整えないと人前には出られない。

 エリスはベッドの脇にある小机の引き出しを開けて、小さな手鏡を出した。


 あ……。

 鏡をのぞきこんでいる顔には痣がなかった。

 奇跡だ。これは奇跡だ。エリスはベリオスの遺髪を胸に抱きながら、再び祈りの言葉を唱え始めた。



   ※  ※  ※



「名乗らなくてよかったの?」

 リディが、オレに聞いた。


 丘の上に修道院が見える。

 その周りには色分けしたように整備された畑や果樹園。のどかで美しい景色だ。農作業をしている修道女の姿もちらほらと見える。


 修道院の近くには大人の男性は立ち入ることができない。だからここに来たのも、リディとオレだけだった。


「ギースの妹は、オレを天使だと思っているようだった。どうせ回復魔法の秘密は明かせない。エリクサーだと誤解されればまた、面倒ごとに巻き込まれる。それならばいっそ、神の奇跡にでもしておいた方がいい」


「そうね……。でも、私は天使でもいいと思うわよ」


「どういう意味だ」


「女の子は誰でも、助けてくれる大好きな男の人のことを、王子様とか天使と呼ぶのよ。あなたはルナちゃんにとっても天使。ギースの娘たちやシャルにも……もちろん、私にとってもね」


 リディはそう言ってから、しゃがんでオレの目をじっとみつめた。

 改めて見ると、その美しさにドキリとする。エルフはみんな美人だが、リディは特別だ。尖った耳がピンク色に染まっている。


「なんだよ……」


「今、女の子って年じゃないだろって思ったでしょう」


「バカ、ギースの奴じゃあるまいし。本当の年なんてどうでもいいさ。実はオレも、年齢にこだわる連中にはうんざりしていたところなんだ」


 リディは笑った。オレはこの笑顔が好きだ。


「あなたは知ってるかしら。天使だって本当は子どもじゃないのよ」


 ちゅっ。額にキスをされた。

 不意打ちに驚いている間に、オレの体がふわっと浮いた。

 リディは軽々とオレを抱き上げると、馬の背につけた二人用の長い鞍に乗せた。

 幌馬車は他の仲間たちが使っている。ギースの家族を連れて、別の村で合流する。そういう段取りだった。


「追手は来るのかしら」

 リディは幅の広い布でオレの体を固定してから、自分の胸の下あたりでしっかりと結んだ。まるで赤ん坊だ。あまり格好のいいものではないが、馬から振り落とされないためには仕方ない。


「たぶんな。伯爵夫人は執事とエリクサーを永遠に失ったんだ。その上、せっかく見つけた秘密兵器にまで逃げられた。イレーヌは黙って引き下がるような女じゃない。オレだけでも必ず取り戻そうとするはずだ」


「まだまだ先は長いみたいね。『暁の不死鳥』がSランクのパーティーになるのは、いつのことになるのかしら」


「でもオレたちなら、いつかは必ずなれる。そうだろう。これだけいい仲間は、世界中のどこを探したっていない」


 仲間を守り、仲間と戦う。

 冒険者のパーティーとはそういうものだ。


 すべてはまた、そこから始まる。




   【完】

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Sランクパーティーを追放された最強のヒーラーは回復魔法の真価を知る 千の風 @rekisizuki33

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