BESIDE YOU

示紫元陽

BESIDE YOU

□□□


 なかなか起きない顔を横からのぞき込んでいると、カーテンの隙間から差し込む光で彼はようやく目を覚ました。ベッドの上でうんっと伸びをし、あくびを一つして目をこすると、ぼさぼさのショートヘアの下に寝ぼけた顔が朝日に照らされる。

 彼は物置台に置いていた眼鏡をケースから取り出してつけると、時計を見てもう一度あくびをした。

 ベッドから起き上がってふと外を見ると、彼の目に、窓辺に雀が二羽止まっているのが映った。

「おはよう」

 彼は静かに微笑んで、今度は立ったままグッと身体を伸ばした。

 おはよう、と私も言うと、彼は姿勢を戻して「ふぅ」と一息ついて言う。

「休みが終わるのは早いな」

 ほんとにね、と私は答えた。

 洗面所で顔を洗って髪を整えた彼は、窓を開け、キッチンで朝食を作り始めた。食パンをトーストしている間に電気ケトルでお湯を沸かし、熱したフライパンに卵を落として目玉焼きを作る。その後切れ込みを入れたウインナーも焼いて、これには醤油をひとさじ。ジューッという音と香ばしい匂いが辺りに広がった。

 チンッという音でトーストの完了が知らされると同時に、おかずも出来上がったようだ。お皿に移し、ミニトマトとブロッコリーも添えてテーブルに運ぶ。さてと、と私が思った時、ちょうどケトルが笛を吹いた。

「おっと、忘れてた」

 彼は慌てる様子もなくケトルのもとへ行き、インスタントコーヒーを淹れ、そのマグカップを手にテーブルに戻ってきた。

「いただきます」

 きちんと手を合わせた後、彼はマーマレードを塗ったトーストにかじりついた。テレビもラジオも電源を入れず、静かに朝の時間を過ごす。

 私は朝食は食べないから、ちょっと外に行ってくるね、と言って窓の横の扉から庭に出た。ちょうど窓から風が入り込み、私の空色のワンピースとカーテンが揺れる。彼はこちらをチラリと見たが、すぐにマグカップを持ち上げてコーヒーを一口飲み朝食に戻った。

 庭に出ると、朝露がキラキラと輝いていた。庭自体はこぢんまりとして華やかではないが、花壇が並べられた軒先は鮮やかに陽の光を浴びていた。

 そこに植えられているのはキンセンカ。漢字で書くと金盞花。黄色から橙色の明るい花。そして何より、彼との思い出の花。

 私はこの庭が好きだった。日本庭園のような格調高いものではないし、西洋のように立派な噴水やかぐわしいバラの道もない。それでも、息を吸い込むと胸の中がスーッと涼しくなるこの庭は、私にとって一番と言える庭。特に今日のような、雨上がりの澄みきった朝は格別だった。

 しばらくすると、カチャカチャと食器の当たる音が小さく聞こえた。彼が朝食を済ませたらしい。私はもう一度朝の空気を胸いっぱいに吸い込んで、家の中に戻った。

 彼は洗面所で歯磨きをすますと、クローゼットから取り出したスーツに着替えて自室から出てきた。その後再び洗面所に赴いて、鏡を前にネクタイを締めた。私がネクタイを結んであげようとするといつも恥ずかしがって逃げるから、それはとっくに諦めていたが、代わりに身だしなみのチェックはしっかりさせてもらう。

 今日もバッチリね、と私は言ったが、几帳面な彼に指摘するところはそもそもない。ちょっとくらいテキトーなところがある方が、可愛げがあっていいのに。でもこれを聞くと彼は赤面するだろうから、口に出すのはやめておいた。

 そうこうしている内に家を出ないといけない時間になったため、彼は鞄を手に取り、玄関へ向かった。上がりかまちの手前にある棚に小物入れが置かれている。彼は革靴を履くと、その小物入れから鍵をつまみ、キーホルダーのリングを指に引っかけて手に収めた。その仕草が、なんだかカッコイイ。

 棚の上にはキンセンカを二輪挿した花瓶と、その横に写真を映す小さな液晶ディスプレイも立てられていた。映っているのは彼と私。今表示されているのは、去年、近くの公園にピクニックに行ったときに撮ったものだ。晴れた空が透き通っている。

「いってきます」

 私がその写真に近寄って柄にもなく懐かしんでいると、彼はこちらを見ながら一言告げて玄関扉を開けた。

 いってらっしゃい、と私が手を振ると、扉が閉められ、ガチャリと鍵がかけられた。


■■■


 僕はバスと電車を乗り継いで、四十分程度をかけて出勤する。車で行く方が若干早く着くが、大差ないので公共交通機関を使うことにしていた。

 朝の電車はもちろん混んでおり、ターミナルから乗るわけでもないからいつも立つしかない。といっても、別段それが苦であるということはなかった。

 日ごろ怠けて過ごしてはいないし、むしろアクティブな生活をしている方だと思っている。彼女とはピクニックに行ったり、ちょっと遠出して軽いハイキングもよくしたものだ。彼女もどちらかと言えば活動的だったから、お互いそこに不満はあまりなかったと思う。そう信じたい。

 玄関に置いてあったスライドショーは概ねそういった外出時の写真で埋められており、ピクニックの他、水族館やテーマパークなどで撮影したものも含まれている。毎日違う写真が表示されるが、いつ見ても、どれも楽しそうに映っていた。

 そんなフレームの中の風景を思い出しながら車窓の外を見ると、太陽がそれなりに高い位置まで登っていた。日の出が早くなったな、と思いながら目線を手前に戻すと、ビルや道路を走る車、電柱や電線が右から左へと通り過ぎていく。目の端に何か現れては、あっという間に消えていく。

 着々と近づく勤務時間を意識すると、気づかないうちに小さく溜息をついていた。

(なんだかなぁ)

 それ以上は思考には上らなかったが、憂鬱であることは否めなかった。職場がいづらい環境であるとか、理不尽な要求が多いとか、そういうことではない。むしろ仕事場としては良好な部類だと思っている。しかし、良い環境が空虚さを埋めてくれるかと問われれば、それはまた別の話なのだ。


『次は、○○――』


 それでも最寄り駅のアナウンスが耳に届くと、よしっ、と心の中で気を引き締めた。

 同時に、そういえばと思い立ち、カバンからスマホを取り出して通知を確認した。特に何も来ていないようだ。ついでにSNSを一通り閲覧すると、駅への到着アナウンスが流れた。

 電車が止まり扉が開くと、僕は押し出されるようにホームへ出て会社に向かった。


■■■


 勤務を終えた帰り道、僕は花屋に顔を出した。暮れかけている日は灰色の雲に隠れ、すでに周辺は電灯がありがたく感じる薄暗さだった。

「あらお兄さん、久しぶりだね」

「こんばんは。ご無沙汰してます」

 話しかけてきたのは店主のおばちゃんだ。本人のキャラクターもあるのだろうが、よく使い走りでこの店でお花をいただいていたから、内気な僕でも気軽に会話できる間柄になっていた。

「前に買ってくれたキンセンカはどう?」

「おかげさまで、綺麗に咲いてくれています」

「そりゃよかった」

「ありがとうございます」

 僕は無難な返事をして、店に並べられた花たちを見回した。


 僕がキンセンカを購入したのは、二年ほど付き合っていた彼女の働きによるものだった。その日はたまたま帰りが一緒になり、僕が何かの拍子にこの店のことを口にすると、寄って行こうという話になったと記憶している。その時はまだ庭に花を植えるなんて考えてもいなかったが、彼女が「せっかくだから綺麗にしようよ」というものだから、まぁ悪い気もしなかったし従うことにした。

 しかし、僕にはどの花がいいとか言えるほどの好みも知識もなかったため、花屋に赴いても色とりどりの花を目の前にしてよく分からなくなった。彼女も同じだったようで、そこかしこに目移りして迷っていた。だが彼女は分からないことはすぐに訊くタイプの人間で、その日も表にいた店主に、おすすめやらなんやらを尋ねに行ったのを覚えている。

 するとすぐさま僕のところへ戻ってきて、「どんなのがいいかな?」と相談を持ち掛けてきた。確か僕は、「慣れてないし、簡単に育てられるのがいいかな」と答えたはずだ。

 彼女もそれには納得顔で、「そうよね」と頷き、店主にもう一度尋ねた。

 そして店主が紹介したのが、キンセンカだった。僕も彼女も、その小さくも可憐な花をすぐに気に入った。この時買ったものが、今、家の軒下で咲いている。


「今日は何か買ってくのかい?」

 回想に少しボーっとしていた僕は、その言葉で我に返った。

「あ、いえ、今日は少し寄って行こうかと思っただけで。すみません」

「いいよいいよ。最近はうちに来てくれる人なんて少なくなってるからね。話し相手になってくれるだけでも嬉しいよ」

 僕はこの返答に困って、店主に合わせてハハハとだけ笑った。

「まぁ、何かご所望があったらいつでも来てくんな」

「ありがとうございます。自分でも調べてみます」

「あぁ、またのお越しをお待ちしてるよ」

 店主の気さくなセリフに「さようなら」と告げて、僕は家路についた。


□□


「ただいま」

 玄関の扉を開けるなり、彼は気だるげに帰宅を告げた。

 おかえりなさい、と私が答えると、彼はリビングに足を運んで電気を点けた。声色からも足取りからも、疲れていることが分かる。

 ご飯たべる? と私は訊いた。

 でも彼は、キッチンの方を一瞥しただけだった。

「先にお風呂入ろうかな」

 彼はスーツを脱いでネクタイをさっさと解き、それらを自室にしまって風呂場に身を隠してしまった。覗きに行く趣味はないので、私は大人しくリビングで待つことにする。掛け時計のチクタクという音と、時々吹く風で揺れる木の音が、空間を支配していた。

 明日は雨が降るのか、重たい雲が空を覆っていた。


■■■


 風呂から出ると、僕はリビングに戻って冷えた夕飯をレンジで温めて食べた。朝と違って不穏な天気で、外の風の音を聞くとなんとなく寂しくなったから、テレビの電源を入れた。しばらくして画面が映り、アナウンサーがペラペラとニュースを伝えてくる。

 最初に耳にしたのは都市郊外での火災のニュースだった。幸い重傷者はいなかったようだが、その住宅に住んでいた家族が軽いやけどを負い、また家具類はかなりダメになってしまったようだ。

 でも、これが文字通り対岸の火事というものなのだろうか。可哀そうにとか、大変だろうなと思いはしたが、それ以上は心配も何も抱かなかった。そんな自分にふと気が付くと、「まぁ、どうせその程度だよな」と自嘲せずにはいられなかった。

 しかし、キャスターが告げる次のニュースを耳した途端、背中に冷たい何かが走った。


『次のニュースです。○月△日に、○○で大型トラックが歩行者数名をはねて電柱に衝突した事故について、意識不明だったトラック運転手が今朝意識を取り戻し、警察の事情聴取が行われました――』


 ガタンッと音を立てて、僕はいつの間にかテーブルに手をついて立ちあがっていた。目はテレビにくぎ付けになっている。


『――警察によると、運転手は自身の飲酒運転を認めているようです』


「ハハハ……マジかよ」

 僕は椅子に座り直すと片肘をついて、その手で顔を覆った。

(それだけのことか……)

 トラック運転手が酒気帯び運転で人をはねた。世間にとっては、事実はただそれだけ。本当に、それだけのことなのだろう。

 もちろん今流れているのはただのニュース番組だから、情を期待するのが場違いであることは承知している。それに、他人に憐憫などの感情を抱いてほしいということでもない。だがどうしてか、虚しさを感じてしまうのは避けられない。

(他人の一コマでしかないからな……)

 だからと言って、何か気を利かせたような言葉は絶対にかけられたくなかった。よく決まり文句のように「お悔やみ申し上げます」と言うが、淡々と語るのを聞くと、どうにも白々しく聞こえてしまう。

(だいぶひねくれてるのかもな)

 でも誰も恨みはしないし、呪詛を唱えたりはしない。それよりも悲しさが胸のほとんど占めていたから。

 僕は顔を上げるとテレビのチャンネルを変えて、棚に乗せてある写真立てをテーブル越しに眺めた。デジタルではなく、印刷されたものだ。白い襟付きシャツを着た僕と、淡い空色のワンピースに包まれた彼女が映っている。

 その写真立ての横に小さい木箱があった。

 箸を置いて席を立ち、棚まで歩いて木箱を開けた。中には指輪が一つ入っている。

 それを見ると僕は、右手で自分の薬指の付け根あたりに手を当てた。細くて円い金属に触れると、とたんに目が熱くなった。

小夜さよ……」

 口を開くと、何かが頬をつたって流れ落ちるのを感じた。



 名前を呼ばれて、なぁに? と私は訊いたが、彼は振り向いてはくれなかった。その代わりに、彼は頬を涙で濡らしていた。

 私は、彼を必死に励まそうとした。

――大丈夫よ! 私はいつでもそばにいるから!

 気づいてはくれないけれど。

――まぁ、他の女の人が来たら、さすがに大人しくしようとは思うけどね。

 そんな冗談も、彼には届かない。

――だから、泣かないで。

 それでも彼を、この家を守りたかったから。

 触れられない彼を、私は抱きしめる。温度も何も感じないが、確かに彼はそこにいるし、私もここにいる。そう信じたかった。

――私は、あなたの笑顔が見たいから。


■■■


 しばらく突っ立っていると、自然と涙は収まった。胸を苦しめていた重しも、少し軽くなったような気がする。涙を流すと楽になるというのは本当のようだ。

 木箱を閉じ、食卓へ戻ってちゃっちゃとご飯を食べ終える。食器を片付けるとテレビから聞きなじみのある歌が流れていた。


 『星に願いを』


 非科学的でなんの効果もないものかもしれないけれど、いつの時代でもしていることを歌った歌。誰でも望みは叶えたい。だから願わずにはいられない。天を仰いで、夜に煌めく数多の星々に。

 でも今日は、あいにくの雨だった。黒い窓の中に見えたのは、雨粒に濡れたガラスに映る僕の姿だけだった。

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