「いただきます」の前に〜後編〜

 店の扉をクローズドに変えた後、思わず椅子に座ったら、どっしりとした疲労感で、しばらくぼーっとしてしまった。


 飲食店は開店直後に、どれだけ店を知って貰えるかが勝負だ。

 広告もうったし、チラシも配った、新しく、物珍しいジャンルだからかもしれないが、開店から閉店まで、ずっと客が絶えずにやってきた。

 それが一週間。喜ぶべきだが、正直一人でこれを続けるのは限界かも知れない。せめて売店の方だけでも人を雇うか。あるいはピークの時だけバイトを雇うか。

 でもこれで一気に客が来なかったら、人件費が……。


 そんな風に思い悩んでいた時に、こんこんと扉をノックする音が聞こえた。

 振り返るとガラス扉の向こうに、琴子さんがいて、笑顔で手を振ってる。それを見ただけで、立ち上がる気力が湧き上がった。

 鍵を開けると、嬉しそうに入ってくる。


「お疲れ様。どう? 調子は」

「おかげさまで。毎日忙しいです。琴子さんが教えてくれた、チラシのアドバイスがよかったんですよ」

「闇雲に配るより、狙った層が手に取りそうな所において貰わないとね。使えるものは弟でもなんでも使ってしまわなきゃ」


 仕事の営業回りの途中で、女性が多く出入りしそうな会社や店に立ち寄る度に、チラシを置かせてくれと頼んで回る、智も大変だと思う。

 でも、智なら少しくらい苦労しろと思わなくもない。


「順調で忙しいってことは……食事する余裕もなかったんじゃないかなって、思って」


 そう言って牛丼弁当をだしてきた琴子さんは、女神か悪魔か。

 朝から味見以外に、ほぼ食事なしで働きっぱなしの腹に、微かに漂う牛丼の匂いが暴力的だ。


「あら? 牛丼嫌いだった? 男はだいたい好きだと思ってたんだけど」

「好きです。凄い食べたいです。もうほんとうに……ありがとうございます。いただきます」


 味が濃い肉料理に舌が慣れてしまうと、薄味が物足りなくなって、店の料理の味付けが変わってしまうから。できるだけ日頃外食しないようにしていた。

 特にこういうジャンクフードは味付けが濃くて、パンチが効いてて、中毒性が高い。


 蓋を開けた時に、湯気とともに立ち上る、甘塩っぱい牛丼の匂いだけで、もはやヤバい。

 挨拶も何もなしに、夢中で口へ運ぶ。

 ああ、美味い。やっぱり肉は牛が一番だな。タマネギの甘さに、砂糖の甘さ。醤油と出汁の濃いしょっぱさが、疲れた体に、痺れるように心地よい。

 最後に牛丼食べに行ったの、いつだったか思い出せないが、たぶん人生で一番美味い牛丼じゃないだろうか?

 〆の紅ショウガが、舌にピリリと残った。

 ああ、もう明日の仕込みは明日にしよう。今日この暴力的な味を覚えた舌が、薄味のマクロビで満足するはずがない。


「美味しかった?」

「はい。とても、ありがとうございました。ただ……すみません、事前に話してなかった俺が悪いんですが……」


 きちんと御礼を言ってから謝罪する。

 好きだけど我慢して食べない理由。せっかくの好意をむげにして、気を悪くされないかと心配したが杞憂だった。


「凄い! 裕人さんストイックね。私そういう人好きよ」

「え!?」

「私もダイエットのために、好きな食べ物ぜーんぶ我慢してるし、それと同じ努力家よね」


 ああ、好きって言葉の意味が違った。一瞬、呼吸が止まるかと思った。

 出会って一ヶ月もたってないはずなのに、開けっぴろげで、大胆で、おおらかすぎる琴子さんの性格に救われて、振り回される。

 まるでジェットコースターみたいに、簡単に心が上下して、心臓に悪い。


 そこで不意に、琴子さんが唇をとがらせて、どんとテーブルを叩いた。


「ちょっと裕人さん聞いてくれる? 前に言った食べ物に煩い幼馴染みが酷いのよ」

「……ひどい?」

「そう。私がダイエット中って知ってる癖に、Twitterに飯テロツイートを垂れ流すのよ。しかも毎回必ず0時に。プロ並みの写真と文章で書かれる、飯テロの暴力!! 許せない」


 バンバンとテーブルを叩きつつ見せてくれたのは『飯テロ女』というアカウントだった。

 それに見覚えがあって驚く。


「このアカウント知ってます。俺もフォローしてますし」

「え? これ裕人さん見ても大丈夫?」

「リアルタイムで見ることは無いし、ネットなら、まあ大丈夫ですね。従兄弟がこの人のファンで。琴子さんの幼馴染みだったなんて、世間は狭いですね」

「凄い偶然ね。運命みたい」


 少女のように無邪気な笑みを浮かべて「これで二人がつきあったりしたら、私達キューピッドよね」などという琴子さんの、あまりの天然ぶりに、少しだけ腹がたった。

 キューピッドがいるなら、俺と琴子さんを、まず結びつけてくれ……なんて言えやしない。


 あまり昏い表情を、人に見せるのは好きじゃないし、いつも堪えてしまうけれど、琴子さんを直視できずに、立ち上がって弁当を片づける。


 カウンターの中に入って、顔を上げずに深呼吸。


「琴子さん、夕食は何か食べました?」

「まだなの……残業が長引いちゃって」


 もう夜の10時だ。きっとお腹がすいてるだろうに、それでも先に俺の為に牛丼を届けてくれたのが、ほんと優しくて。同時にわかってしまった。


「残り物で悪いんですが、食べます?」

「もちろん!」


 やっぱりな。きっとこの時間にローカロリー食を、一番手軽に食べられるのはここだから。

 そういう下心を、包み隠さずからっと言えるところは琴子さんの美点だと思う。

 つい我慢して、遠慮して、くよくよする自分に比べたら、ずっと気持ちの良い生き方だ。


 彼女が俺の飯目当てで、優しいだけなのはわかってる。しかたがない。

 ああ、しかたがない。ちょっと今日の玄米ご飯が大盛りになっても。何故かカロリー高めの、芋の煮物ばかりが並ぶのも、しかたない。しかたない。


「いっただきます。美味しい! この時間に食べて罪悪感のない料理。最高!」


 マクロビは、ヘルシーかもしれないが、決してカロリー0ではない。むしろ炭水化物の摂取量は多い。

 この時間に、炭水化物を取り過ぎれば、カロリーオーバーだろう。

 そういうことは言わないことにしておこう。


 無邪気に食事をする琴子さんを眺めるのは、ほんとうに楽しい。いつも表情豊かに、楽しそうに、美味しそうに食べてくれる。

 喜んでくれるお客さんもいるけど、ここまでオーバーに喜んでくれる人は、他にいないから。


 カラン……。扉が開く音がした。

 やってきたのは、さきほど噂していた従兄弟の桐谷昴だ。


「珍しいな。この時間にお客さんか?」

「えっと……そうだな……昴こそ珍しいんじゃないか? 店に直接来るなんて」


 琴子さんと俺の関係っていったいなんだろう。ただの客と店員。それ以上の関係はない気がする。友達なのかすら、怪しい。

 琴子さんが店のアドバイスをしてくれて、お礼に俺がごちそうする。実にビジネス的な関係じゃ無いか。

 そんな悲しい事実を認めたくなくて、話題をそらす。妙に荷物が大きいのが気になった。


「試食のタッパー返しにきた。忙しそうだし、うちに来て貰うのも悪いかと思って。ついでに土産に買った野菜も」


 そう言ってでてきたのは、聖護院大根、賀茂なす、京せり。


「ネットで買った……にしては新鮮だし。まさか京都まで行ったのか? 仕事じゃないよな?」

「たまには京都料理が食べたい気分の時もある」


 食べたいものがあるからって、ただそれだけの為に、一人でふらっと出かけてくる、謎のフットワークの軽さにいつものことながら尊敬する。

 それに俺が食べられるもので、勉強になりそうな珍しい野菜を買ってくる昴は、ほんと良いやつだ。

 なんでこんなに良い奴なのに、恋人どころか友達すらできないのか……と考え、ふと思い出した。


「そうだ! 飯テロ女」

「え? なんだ急に」

「そこのお客さんの、幼馴染みなんだって」


 食べ物に夢中だった琴子さんが、最後の一口を食べ終えた絶妙なタイミングだったらしい。

 ごちそうさまでしたと、きっちり挨拶してから、立ち上がった。

 楽しそうに、品定めをするように、琴子さんがじろじろと昴を見る。それが少し嫌だと思ってしまった。

 昴に嫉妬する日が来るとは思わなかった。


「へえ……貴方が飯テロ女のファン……」

「ちょっ……まて、裕人。なに勝手にそんなこと言って……」

「初めまして。峰岸琴子といいます」

「初めまして……桐谷昴です」


 その出会いが、ほんとうにキューピッドになってしまうなんて、そんなこと、このときは思いもしなかった。

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飯テロ女と契約料理〜君の飯に恋してる〜 斉凛 @RinItuki

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