旅する死体



眼下には黒い海が広がっていた。



始めはこんな結末は想像していなかった。

ただ彼女の心臓が止まっていることを受け入れたくなくて、もしかしたら目を覚ますかも、なんてありもしない希望を抱いていた。


刻々と形を失う彼女を見つめ、幾度も恐怖を感じたし、彼女を憎んだ瞬間もあった。

なぜわたしをこんなに辛い気持ちにさせる?

残される者の気持ちは考えなかった?

それすら考える余裕がないほど切羽詰まっていた?

ならなぜ、わたしに何も話してくれなかった?

何度も何度も、息をしない彼女に問いかけた。名前を呼んだ。

一緒にいたかったのだ。


だが今となっては彼女は世界に受け入れられ、わたしはそれを彼女の意思であると受け止めてしまった。


警察に通報しようとも考えた。

だが変死体として扱われ、どこの馬の骨とも知れぬ傍若無人な輩に彼女の体が晒され、挙句の果てに分厚い巨大なビニール袋に入れられるなんて、想像しただけでおぞましい。


彼女は自由なのだ、自ら死を選んだ。

ならばその先はわたしが導くべきなのだ、わたしを死に場所に選んでくれたのだから。


彼女と2人で過ごした10日間、窓は締め切ったままだった。

カラカラカラと、ゆっくり窓をひらく。晩夏の生ぬるい風が吹き込み、体にまとわりつく。

近所に住む人には申し訳ないが、臭いに気が付いた誰かがすぐに通報してくれるだろう。


彼女がトンビになれますように、と口の中で唱え、眼球があったであろう位置を游ぐ蛆を手ですくい、庭に撒く。

昨夜の来訪者がこの部屋を見たら、きっとわたしを許さないだろう。

死体は誰かを傷つけることはないが、人は死の要因を強く憎むことを、わたしは知っている。


どうかわたしたちを見知らぬ人間が、この部屋を見つけてくれますように。

そう願いながら、わたしはゆっくりと彼女がくぐった輪に身を委ねた。

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九相図 三岐 薫 @takubotsu

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