因果応報未満<後編>

 悪魔にもっと重い罰を下してもらうために、私はクソ上司の嫌がらせに耐えた。

 下田は相変わらず私の出す原稿に文句を言ってくる。


「村上さん、求人を出したい企業さんにもう少し配慮した表現をしてくれませんか? 彼らは私たちにお金を払ってくれているわけですから、あまりぞんざいにした表現は……」


「そんな忖度して、よい求人になるんですか? 結局採用ができなかったら向こうも喜びませんよね?」


 どうせ直したら直したで今度は求人としてのインパクトが弱いとか、そういうことを言って私を痛めつける魂胆なのだ。

 下田は顔をしかめて、自分の主張を押し通そうとする。


「しかし全く無視していいわけではないでしょう。仕事を減らすような真似は避けてくださいと、前から言っていますよね」


「わかりました。直しますよ。でも気を付けた方がいいですよ、自分勝手な振る舞いはいずれ身を滅ぼすことになりますよ」


 私はもう以前の私とは違う。私には悪魔がいる。近い将来、彼が下田に罰を与えてくれる。私にしてきた嫌がらせに見合うだけの大怪我をする。ざまあみろ、と笑える日が来る。そう思えばこのくらいの嫌がらせはむしろ愉快だ。自分が破滅に近付いているとも知らずにバカなやつめ。

 悪魔の手が伸びつつあることを知らない下田はなんとものんきだ。私には修正を求めておいて、他のライターの原稿はそのままオッケーを出している。あまつさえそのライターと雑談を始める。下田は姪の写真を見せていた。

 好かれているんですね、とライターが言うと下田は照れる。おもちゃにされているだけだよ、なんて喋っている。

 他の同僚と談笑するのは、私に疎外感を与えるための嫌がらせだ。だからそうやって笑って話す度に下田の罪は重くなる。


 だけど思えば下田と一緒になって雑談しているやつも下田と同罪ではないか。下田が罰を受けてそいつが無事というのも不公平だ。私を攻撃した全員に罰を与えなくては。手帳にメモを書いておく。悪魔は私の記憶を読んでいたが、罪は正確に測られなくてはいけない。最初に悪魔が提示した下田の罪の量は少なかった。それでは傷付き損だ。傷付いた分だけ痛い目を見てもらわなければならない。


 念のため悪魔に確認をしておいた。悪魔は私が本を開くと出てくる。


「ええ、クソ上司さん以外の方にも罰と改心を与えることはできますよ」


「本当に?」


「なにを疑っているんですか。本当ですよ。私からすれば食事が増えるのです。遠慮なさることはありませんよ」


 つまりいくらでも告発していいということだ。それなら可能な限り多くの人に罰を与えてやろう。確実に罰が下るように手帳ではなく専用のノートを持つことに決める。


 不快な気持ちになった出来事をメモし始めると、罪を犯す人間ばかりで呆れさえ訪れた。会社の中だけではない。電車やコンビニ、あらゆる場所で軽薄な人間が他人を不快にさせている。

 私が悪魔を動かせば多くの人間が罰せられることだろう。はたして悪魔から罰を下されずにいられる人間がどれだけいることだろう。私はわくわくした。私を傷付けた人々、その中には名前を知らないやつもいる。そいつらが悪魔の罰に苦しむ姿を早く見たい。


 私はクソ上司の罪をもっと重くするためにわざと隙を見せることにした。

 今まではしなかった誤字や脱字をわざと原稿に散りばめた。すると下田はそれを目ざとく見つけて修正を迫ってくるようになった。


「村上さん、このところ単純なミスも増えていますね。体調は悪いようには見えませんが、なにか不調があるなら教えてください」


 こちらを気遣うような言葉では物足りない。私は下田を挑発する。もっと罪を犯すように手招きをする。


「さあ? 強いて言えば毎日毎日原稿を不当にダメ出しされるストレスがあるくらいですかね」


 悪魔が待っていますよ、早く来てくださいよ。心の中の私は舌なめずりしている。挑発を不快にでも思ったのか、下田は眉を寄せて、しかめっ面を隠しもしない。


「難癖をつけているわけじゃありません。村上さんの原稿は以前から問題が多くて、とても通せるものじゃなかった。最近は明らかなミスも多いのですから、これでは私もあなたの評価を下げざるをえないというのは、わかりますよね? できることなら私もそんなことしたくないので、村上さんには頑張ってほしいんですよ」


 評価を下げる。つまりは私の出世や昇給を妨げようということか。それとも私を退職させようという腹だろうか。いずれにしてもラインを超えたと思った。ここまでされて黙っているわけにはいかない。許せない。それにここで行動しなければ私がこの会社にいられなくなるかもしれないのだ。


 下田から不当な評価をほのめかされたその日、悪魔を呼び出した。鶏も出てきた。鶏は前に見た時よりも太っていた。私は悪魔に罰の要求をする。下田と、それとこれまで記録した罪人に罰を与えてほしい。


「わざわざ記録したんですね。ご丁寧なことです」


 悪魔は私を嘲笑しながらノートをめくる。鶏は太りすぎたのか、しんどそうに歩く。


「不当に軽い罰になったら損だからね。今度はちゃんと計測してよ」


「わかりました。しかし今すぐ全員分というのは大変ですから、まずはクソ上司さんに罰を与えてきましょう」


 ろうそくの細い煙のように悪魔はふっと消えた。消えたからには仕事に時間がかかるものかと思ったら、一分もしないうちにまた本から出てきた。そんな早く戻るなら消えなくてもいいのに、と思った。


「ちゃんと罰を与えてきたの?」


 疑って私は尋ねた。悪魔はうさんくさい笑みを浮かべた。


「もちろん。あなたが罪を溜めましたから、きちんと重めの罰になりましたよ。左腕に強めの打撲をしました。しばらくは動かすと痛むでしょう」


「は?」


 打撲が重い罰と悪魔は言ったが、私からすればそれは軽すぎる。だって私は少なくとも骨折を期待していた。腕や脚が折れて生活に大きな支障をきたすこと。できれば入院するような怪我。命を奪ってくれてもいいくらいに思っていたのだ。


「なに打撲って。そんな軽い怪我のためにクソ上司のパワハラを我慢してたわけじゃないんだけど?」


「クソ上司さんはあなたへの接し方を間違え続け、あなたに多大なストレスを与えました。とても大きな罪です。罪は私のごちそうです。しかし彼の罪には雑味がありまして、端的に言って美味しくありませんでした」


 雑味。余分な物が混じっていた?


「どういうこと、それ」


「クソ上司さんは、助言を全く聞き入れずミスを繰り返す部下に対してどう接すればいいのか、随分と悩まれていたご様子。あなたを叱責する時には葛藤と苦悶に満ちた険しい表情をされていましたね。その誠実さは私の食べ物ではありません」


 情状酌量。その言葉が脳裏に浮かぶ。誠実だったから罪を軽くすると言うのか。それは許せないことだ。


「根っからの悪人じゃないから許せって言うの? そんな理屈で、私の傷付いた心が癒えると思ってるの?」


「いいえ、許せとは言いません。同情の余地があるのと、許す許さないは別の話でしょう。そもそも私は情状酌量の余地を見て、罰を軽くしたわけじゃありません」


 悪魔の言葉に私は戸惑う。私の想像とは違うルールが悪魔には働いている。彼の笑みが嗜虐的なものに変わっていく。私を騙していたことを告げる表情に。


「罰は、ごちそうを紹介してくれたあなたへのお礼。そう申し上げましたよね? ごちそうを紹介してくれないとダメじゃないですか」


 私が悪いと言うのか。私は被害者だ。ふざけるな、と私は叫んだ。


「私は被害者、私に不備なんてあるはずない! お前が現れてからもあいつは罪を重ねた、それはお前も知ってるでしょ!?」


「クソ上司さんが改心するチャンスを見送ったのはあなたです。擦り傷程度の天罰でいいとあなたが納得していれば、彼が余分な罪を重ねることもありませんでした。それにあなたは、彼からより酷い言葉を引き出そうと挑発していましたね? それもまた罪の雑味です」


 なんと言われようと納得できない。悪魔も私をからかって楽しんでいるのか。だけど私は今日まで我慢したのだ。それが報われないなんてありえない。


「罪は罪でしょ。私は傷付いた。だからあのクソ上司にもっと重い罰を与えてよ」


「過ちを犯した者を罰することは、安心して生きるために必要です。安心を得るために人間は規則を作るものです」


 悪魔は諭すように優しく私に語りかけた。こういう時の穏やかな言葉は氷のような冷たさで不安をあおる。

 その直感はきっと正しくて、悪魔はただ私をからかうだけじゃなくて、もっと酷いことを私にしようとしている。鶏がさっきよりも膨らんでいた。球体に近い形に肥えて、もはや歩くこともできなくなっていた。


「しかし他人を罰することに快感を覚え、快感を目当てに他人の過ちを期待する心根は、社会の安心から極めて遠い位置にある不誠実だと思いませんか?」


 悪魔はとうとう牙を出すほどに口元を釣り上げて笑う。ようやく理解する。悪魔は私に罰を与えるつもりなのだ。他人に罰を与えたくて不誠実な振る舞いをした罪で、私は悪魔に罰されようとしている。鶏がまだ大きく膨らむ。どんどん膨らんでいく。


「あいつじゃ満足できなかったから私を食べようっていうわけ……?」


「私は悪魔。人間の歪んだ心を糧に生きていく者です。人が畜産をして肉とミルクを得るように、人をそそのかして歪んだ心を育てることもします」


 理不尽だった。つまりこいつは最初から私が目当てだったのだ。私は騙されているとも知らずにぶくぶく罪を太らせた。そういう人間だと見抜かれていて、だからあの日私は悪魔の本に出会ったのだ。


「じゃあどうしたらよかったんだよ。仮にあいつが誠実だけど間違いを犯していたとして、それをどう改心させろって言うの。相手は上司なんだよ。普通、できっこないじゃん」


「普通ならそうです。存在しない選択肢を選ばなくても罪にはなりません。選びようがないのだから当然です。ですがあなたは悪魔の手を借りられました。その超常の力でさくっとクソ上司さんを改心させてあげればよかったんですよ。あなたにはその選択肢があったのです」


 まあ、そんな潔い決断ができる人間ではないと踏んだからこそ私は顔を出したんですけどね。


 とうとう鶏が破裂し、鶏の真っ赤な血肉が部屋に飛び散る。悪魔は懐からナイフを取り出した。それで首を切られ、血が抜けたらやがて羽をむしられるのだろうか。悪魔は私に感謝を述べた。


「美味しいご飯になってくれてありがとうございます」

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因果応報未満 はねのあき @hanenoaki

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