明日もまた歩く可し

杜松の実

明日もまた歩く可し




「ごめん、ヒデちゃん。もう限界」

 八回休憩したらにすると決めてあった。そして、これは八度目の僕の休憩宣言だった。隣を歩くヒデちゃんは足を止め、首を回して辺りを観察した。

「ちょっと待ってて。休めそうなとこ、探して来る」

 そう言い残して走り去る背中に、粗く束ねたヒデちゃんの髪が揺れる。この旅の間一度も切っていない僕たちの髪は、肩口に触れるまでになっていた。

 日は地平線からまだ顔を出さず、あるいは既に沈んでいる。それでもまだ真暗にはならず、あるいは既に真暗を逸している。そんな仄暗い時分の空の下、ヒデちゃんを待った。

 しばらくしてヒデちゃんはやっぱり走って戻って来た。少しばかり息を荒くして、

「ここも開いてるお店とかは無かったけど、開いてる家ならあったから、そこにしよう」

 案内された家は古い日本家屋で、ここと同じような小さな山間集落を幾つも超えて来た今となっては見慣れたものだった。縁側に付けられた掃き出し窓に鍵はかかっておらず、それでもレールが錆びているのか、ヒデちゃんは開けるのに少し手こずっていた。

 中はむっとするほど暖かく、他人ひとの家の匂いがした。じいさんが一人、テレビを前にして、座椅子にもたれて胡坐を組んでいる。

 戸棚や冷蔵庫を開け、一日分の食糧を確保する。戸棚からカセットボンベを見付け、振ってみると十分に入っていた。

「ご飯出来たよ」と声がかかる。

 出来立てのあったかいご飯を、居間の座卓に並べて、二人向かい合って食べた。じいさんの背中越しに見るテレビはニュースらしく、画面の隅に五時三十八分とあった。

 この旅でヒデちゃんは随分たくましくなった。十年もひきこもりだった体は、引くくらいガリガリだったけど、今ではアラウンドフォーティー然とした丸みも帯びている。

 元々、僕よりもずっと背が大きくて、恰幅のよかったヒデちゃんが、何も起きなかった世界線でおじさんとなっているようで、嬉しくなった。

「ヒデちゃん、たくましくなったなあ」

「そう? まあ、こんだけ歩いてればな」

「いやいや、体だけじゃなくて。前はこうやって他人の家に入るのだけでも嫌がってたのに。図々しくなったよ」

「うわっ。それ、今更言う? 初めは祐輔が入ろうって言ったんじゃん」

「そうだよ。でも、ヒデちゃんは、ダメだよお、ひとんちだよお、って。で、野宿して。結局、二人とも力でなくて、いつもの半分も歩けなかったよ」

「あれは寒かったね。死ぬかと思った」

「まあね。でも、あれな。風邪も引かないんだな、時間止まってると」

 そんなヒデちゃんが、こうして家主を前にして、他人の家から貰ったご飯を食べて笑っている。これまでのヒデちゃんのことを思うと、何だかぐっと来るものがある。

 温かいシャワーを浴びてから、それらしい部屋を見付けて、布団を二組み敷いて寝た。

 外はいつでも薄明だけれど、カーテンを引いてしまえば部屋は暗く出来てしまう。イベントが起きたのが、真夏の昼盛りでなくて良かった。

 それでも今が寝るべき時なのか、全く分からない。頼みの体内時計も、髪がここまで伸びるだけの期間が経つと、すっかり狂ってしまっている。

 そんなことを考えていれば、眠れるものも眠れない。起きているのはヒデちゃんも同じようだ。

 ヒデちゃんは決まってうなされていた。きっと十年前から毎日だ。「ゆう」と洩らすのは、娘の優子ちゃんを呼んでいる。

 ヒデちゃんは東京の大学に行ってて、地元に就職で戻って来たときには、奥さんを連れていた。ほどなくして子供が生まれ、優子ちゃんとは何度も遊んだことがある。本当に幸せそうだった。

 詳しいことは聞いていないけど、ヒデちゃんはある日突然会社に行けなくなった。ある日突然、そんな訳がないか。何かと戦って、堪え続けた、その結末がそうだったのだろう。

 医者から鬱と診断され、僕の目から見てもそう思えた。ヒデちゃんは家から出なくなり、部屋から出なくなり、代わりに奥さんと優子ちゃんが出て行った。

 一度ヒデちゃんの口から、「俺は娘を捨てたんだ」と、吐きそうな声で聞いたことがある。

 そして十年、ヒデちゃんは家を一歩も出なかった。

 全てのものが止まった時、僕は恐怖から家を飛び出し、助けを求めて村中を走り回った。でも、何もかもが止まっていることが分かると、僕はもうほとんど泣き出しそうにして、叫んでいた。

 遠く、ゆらゆらと歩く人影があった。

「ヒデちゃん!」

 瘦せ果てたヒデちゃんが、十二月の寒空の下、部屋着姿で歩いていた。僕は思わずその背に駆け寄り、

「ヒデちゃん! どうしたの? 何があったの?」

 ヒデちゃんは振り向き、僕を見下ろして、

「祐輔。俺、行かなきゃ」

「行く? どこに?」

 震える肩を見て、まずは家に連れて帰った。ヒデちゃんの話を聞いて、「行こう」と応えたのは僕だった。

「なあ、起きてるでしょ?」

 暗闇から、「うん」と返って来る。

「あのさ。こんなに頑張る必要あるのかな? もしかしたら、このまま時間止まってる方が、ヒデちゃんにとっては幸せなんじゃないの?」

「駄目だよ」

 それきり、言葉を繋げる気配がない。

「じゃあさ、もう少しゆっくり行こうよ。いろいろ寄り道とかして、遊びながらさ。こんな機会、滅多にないよ?」

「ごめん」

 また、それきり。

「ごめんって何だよ?」

「……」

 今度は答えない。痺れを切らして口を開きかけたとき、

「ごめん……。多分、イベントが起きたのは、俺のせいなんだと思う。俺が、時間を拒んだから」

 なんだよ、それ、と思った。

「なんだよ、それ。だったらなんで僕まで」

「だから、ごめん」

 ヒデちゃんは上体を起こし、寝ている僕を見下ろして来た。暗闇にも目が慣れ、ヒデちゃんの潤んだ黒目が分かる。

「多分、それも俺が望んだからだと思う。本当にごめん。こんなことに巻き込んで」

 僕たちの村には学校がなかった。その為に、隣町への登下校は二人一緒だった。喧嘩した日も一緒に帰った。それは中学に上がっても変わらなかった。高校は別々になったけど、駅で顔を合わせれば、わざと自転車を漕ぐ足を遅くして、並んで走った。

 ヒデちゃんが家から出られなくなった十年、僕は何もしなかったとは言わない。でも、何も出来なかった。そうして段々と、やらない事とやらない理由が増えていった。

「ははっ。ヒデちゃん、そんなに僕が好きか! まあねー、むかしっから、ヒデちゃん、僕がいなけりゃ何も出来なかったもんね」

 虚勢だった。虚勢でも張ってなければ、見下ろすヒデちゃんに、泣いているところを見付かってしまいそうだった。

 そこからもまた長かった。伸ばした髪が肩口を越して肩甲骨の辺りまで垂れる頃、最後の集落をあとにした。

 登る山は険しい道程ではなかった。おそらく初心者でも半日ほどで登れるものだったと思う。それともここまで延々徒歩で歩いて来た、僕らだから容易に感じたのだろうか。

 頂き近くになると雪が凍って、足を取られるようになった。僕らはハイキングみたく、何をか話し続けて登った。

 山頂は草木に乏しく、岩がちだった。開けた視界は何処までも薄闇でつまらなく、景色からは登り終えた達成感は得られなかった。

 標高なんかが書かれた山頂碑がある。その上に、手の平大の、丸い赤いボタンがあった。こりゃないよ、ヒデちゃん。あまりに陳腐だ。

「押すよ」とヒデちゃんが手を乗せる。僕も上から重ねた。

「一緒に」と言うとヒデちゃんは黙って頷き、もう一方の手をさらに重ねて来た。

 上から押されて、カチッという感触が伝わる。

 風だ。初めに感じたのは冷たく下から突き上がる風だった。世界が息吹を取り戻したのだ。

「世界が、息を吹き返したね」

「何だよ、それ。ヒデちゃんはホント、陳腐だねえ」

 ヒデちゃんは笑って、それから大きく息を吸った。

「あー。気持ちいい。ほら、祐輔も」

 二人並んで、馬鹿みたく深呼吸をする。

「帰ろっか」

「うん」

「あ、そうだ。お母さんに連絡入れておけよ。急に居ないの分かったら、パニックになっちゃうよ」

「あー、だね。それは大変だ」

 僕は自分のケータイに電源が入るのを確認するとヒデちゃんに手渡した。少し離れると、ヒデちゃんが電話で話す声が、風に紛れて聞こえて来る。うん。うん。今、祐輔といる。今日中には帰るよ。うん。うん。ううん。大丈夫。うん。ありがとう。

「ありがと。祐輔も入れておけよ」とケータイを返される。

「うん。あとでな。メールしとくよ」

「電話しろよ。久しぶりに声、聞きたいだろ?」

「分かった、分かった。あとでするよ。それよりも、その髪じゃあ、帰れないだろ? じゃーん、切ってやるよ」

 取り出したハサミも、途中の家で拝借したものだ。ヒデちゃんは口角上げて、

「カッコよくしてくれよ?」

 僕は生まれて初めて人の髪を切ったし、その割には上手くいった。でも、やっぱりその不細工加減に二人して大笑いし、ヒデちゃんもお返しにと僕の髪を切ってくれた。

 髪を委ねて遠くを眺めていると、地平線の向こうが俄かに赤く色づき始める。空はみるみると青さを取り戻し、大地も釣られて彩色を増す。

 橙色の陽が、僅かに地平線をはみ出して現れた折には、思わず目を閉じた。それはもう、全身が目となってしまっているかのように、眩しかった。光を浴びている、光に包まれているなんて言う、通常の表現では足らず、もっと直接的な物質的な圧力を感じた。

「あったかいなあ。お湯みたい。なんか今、生まれたあ、って感じする」

「はは、なにそれ? でも、ちょっと分かる。産湯だな」

「ウブユ?」

「大学行ってんのに、産湯も知らんのかい」

「知らんなあ」と呟くヒデちゃんの横顔は、朝焼けに照らされて、晴ればれしている。

 この旅の結末は夜明けでした、って出来過ぎなほど画になっていて、陳腐だなあ、と朝日とヒデちゃんの取り合わせにしみじみ思う。

「よし、帰ろっか」

 と僕たちは並んで山を降りる。

 あれ? 何も終わってないじゃないか。僕たちはこれからも歩き続けるし、生きていく。時は再び進み、ヒデちゃんはまた、自分の人生と向き合わなければいけない。僕だって、そうだ。

 結末? この物語は結末に達しました。これまでのことだけが重要ですので、この先の人生はその残りっ屁で、惰性的に決まった未来を歩んで下さい。そんな訳、あってたまるか、馬鹿野郎! 僕たちの旅はいつまでも続くんだよ!

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明日もまた歩く可し 杜松の実 @s-m-sakana

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