アクリルガラスと僕らの距離

寺音

アクリルガラスと僕らの距離


「水族館って、怖くない?」


「え、突然、何?」

 数ヶ月ぶりの再会で、突然夏帆さんがそんな事を言い出した。そちらから会う場所を水族館に指定しておいて。


 彼女は水槽から視線を逸らさず独り言のように言った。深い照明の光に照らされて、青い頬がゆらゆらと光る。

 夏帆さんが見ている水槽はこの水族館のメインである巨大水槽だ。平日の午前中の為それ程お客はいないはずだが、この水槽前は女子大生やら家族連れで賑やかだ。

 皆魚達の群れに夢中で目を輝かせたり、カメラを必死に向けたりしている。


 彼女は水中に静かな眼差しを送り、困った様な微笑を浮かべている。

「いや、僕は、綺麗だと思うけど。でも、確かにここまで大きな水槽だと怖いかなあ。吸い込まれそうで」

 それと、水族館独特の照明は雰囲気があって怖いかもしれない。僕がそう言うと、夏帆さんは数秒ほど目を伏せた。

 そして、無理矢理作った様な笑みでニコッと笑った。僕がその笑みに怯んでいる隙に、彼女はさっさと次の水槽に向かって行ってしまう。空色のワンピースの裾がひらりとひるがえった。

 慌てて後を追う。


「ごめん。そう言う話じゃ、なかったのかな? ごめん」

 夏帆さんが水族館のどんな所が怖いのか、僕はそれを尋ねることすら躊躇する。

 あの偶然の出会いから半年、実際に会ったのはまだ三回目。

 彼女は今度は小さな水槽の前で立ち止まった。色とりどりの熱帯魚がひらひらと泳いでいる。


「良いの。うん。私こそ変な話してごめんね」

 夏帆さんは微笑む。また固い笑みで。人一人分の距離を空けて僕たちは肩を並べた。この愛らしく綺麗な魚達は、恐怖とは無縁だと思うのだけれど。


「——この魚達を見ても、怖い?」

 こんなこと一つ聞くだけでも、心臓が痛い。理由は解っている。嫌われる要素は、一ミリだって出したくないからだ。

 彼女が右手で髪を耳にかけた。現れたその横顔からは、笑みが消えてた。


「水槽とか、雰囲気とか、魚が、とかじゃないの」

 ただ、と彼女が言い淀んだ。

「人ってダイビングとかの道具なしでは、海を分厚いガラス越しにしか見られないでしょう。やっぱり距離があるんだって思い知らされて、怖いと言うか、寂しいと言うか、ね」


「距離があるって……」

 そもそも人間は陸上で生きる生物だし、住む世界が違うのでは。

 そう思ったが、口には出せずに飲み込んだ。彼女がおそらく本気でそれを怖がっていると思ったから。

 もう一度夏帆さんの表情を確認するのが嫌で、僕は水槽の中に視線を戻した。

 ゆらゆら青い光に合わせて魚達が泳ぎ回る。その優雅さを夢の様だと思うのは、やはり距離があるからなのだろうか。


「見て、あっちのお魚キレイだよ!」

 先程巨大水槽の前にいた子ども達だろうか。歓声を上げて熱帯魚の水槽に近づいてくる。不意に夏帆さんがグッと一歩、僕との距離を詰めた。


「ねえ」

 驚く間もなかった。耳元で彼女の囁き声がやけにはっきりと聞こえた。



「もしも私が人魚で、もう少しで海に帰らないといけないとしたら、どうする」



「え——」

 何を、言っているんだろう。冗談だろうと笑い飛ばしたいのに、また僕から離れていった彼女の顔が、酷く悲しげで。

 それにはっきり否定できるほど、僕は彼女の事を知らない。いやそれどころか、ほとんど彼女の事を知らない。



 彼女との出会いは真夏の海岸。大学の友人と海水浴に来て、うっかり溺れかけた僕を助けてくれたのが夏帆さん。

 それからお礼を理由に連絡先を交換して、何とか二人で会えたのが八月の終わりのこと。直接会えずともメッセージのやり取りはしていたけれど。どこに住んでいるのか、何をしているのか、恋人はいるのか。不思議と、そう言ったことは話してこなかった。彼女がそう言った話題を避けている様に感じたから。

 それに、僕自身が知ってしまうのが怖かったから。


 夏帆さんの秘密を知ってしまったら、それこそ彼女は泡の様に消えてしまいそうだったから。


 思わず片耳に手を当てて立ち尽くす僕を、夏帆さんは静かに見つめていた。

 彼女が軽く息をついて一歩下がる。足元の照明が彼女の白い足首を照らしていた。

「ぼ、僕は」


 僕はさっきまで彼女を知らなくても良いと思っていた。特別な関係ではないから、セーフだと思ってたんだ。

 でも、今まで踏み込まなかったこの距離を、僕は縮めたいと思うから。


 真偽はどうだって良かった。僕は一歩踏み出して、彼女の手を掴んだ。

「夏帆さんが何者でも大丈夫。出会ったのも海岸だし、それならまた海岸で会えば良い。距離を感じる必要なんてないよ。水族館だって分厚いガラス越しかもしれないけど、こんなに海を近くに感じられる。海岸が駄目なら——お、泳ぐの練習してどこまでだって素潜りで会いに行くよ!」



「何で、素潜り……?」

 そうだ。他のお客さんも居たんだった。

 僕の声が大きくて聞こえたらしく、女子グループの一人が思わずと言った様子で呟いた。

 彼女はハッと息を飲むと、軽く会釈をしてそそくさと立ち去る。急に全身が熱くなってきた。


「私が、ダイビングの機材の話をしたからだね」

 夏帆さんが少し顔を伏せて言った。僕は小さく頷く。

「出会った時、すごいカナヅチだって聞いてたけど?」

「そこは、死ぬほど練習するから大丈夫! 多分、いや、絶対に!」

 もう一度声を少し強めて言うと、夏帆さんの手が僕からスルリと抜けた。

 サッと血の気が引いた僕に、コロコロと楽しげに笑う声が聞こえる。


 夏帆さんが両手を口に当てて笑っていた。


「そうだね。怖がることなんて、ないよね」

 薄暗い水族館の中でも、輝いて見える笑顔だった。さっきとは別の意味で、僕は頬を紅くした。

 彼女は目尻に光る涙を指でサッと拭って、もう片方の手を僕に差し出した。ダンスを申し込むように、優雅な仕種で。


「私、キミに聞いてもらいたい話が、たくさんあるんだ」

 一目惚れしたあの時と同じ、太陽のように温かい笑顔だ。


「聞くよ。何時間でも」


 今日はもっと彼女と話をしよう。本当は聞きたいことがたくさんあったんだ。


 僕は大きく一歩踏み込んで彼女の手をとった。一瞬僕の目には彼女の肌が虹色に光った気がした。海で泳ぐ魚の様に。


 人魚の夏帆さんが海の中で笑う。それも最高だと思うのだ。

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