第8話:ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア

 降り立ったのは、たしかに、あの海岸だった。見覚えのない建物や船はあっても、山や入江の形で自分が生まれ育った故郷だとわかる。照りつける太陽。海も、陸も、空も、あのころと変わっていない。


 僕がこの土地を離れてから、きっと何百年も経っているのだろう。もし僕に子や孫がいたとしたら、ずっと昔に死んでしまっているはずだ。ここに、僕を待つ人は誰もいない。


 それでも、この場所に帰ってきたかった。あれほど逃げ出したかったこの場所に。


「オトちゃん、聞こえてるかな?」


 僕は、どこかで見守ってくれているはずの彼女に呼びかけた。三線を取り出して、砂浜に腰を下ろす。


「約束どおり、あのときの歌、歌うよ」


 あの日も、海を眺めながら歌った。誰かが聞いているなんて、思いもせず――。


 大切な人たちを失った僕は、毎日どうやって生きていけばよいのかすら、わからなくなっていた。すぐ死ぬつもりはなかったけど、それは、自分がほんとうに生きているという感じがしなかったせいなのだろう。


 潮騒と交じりあう三線の調べ――


 意外と忘れていないものだな。あの日と同じ歌。だけど今日は、たしかに聞いてくれる人がいる。僕の人生は、あのとき新しくはじまったのかもしれない。


     ◇


 歌い終わった僕のまえに、彼女からの贈り物がおかれている。


 うるし塗りのように光沢のある黒い箱。鏡のようなその表面に、僕の顔が映る。ここへ来てからわずかのあいだに、僕の髪は白くなっていた。ああ、残された時間、ほんとうにないんだな……。


 僕は、箱を開けようと手を伸ばした。


 この箱を開くと――彼女と過ごした日々を、僕はもう一度見ることができる。彼女からの最後の贈り物だ。


「だから、悲しまないでね」


 もうこの星に、僕を待っていてくれる人は一人もいない。その代わり、あの日、この場所で出会ってからの思い出が僕を待っている。


「願いをかなえてくれてありがとう、オトちゃん」


 黄泉よみの国がどんなところなのかは、わからない。でも、もしこの世でどんな一生をおくったのかと聞かれたら、僕には話したいことが山ほどある。


 この海辺の景色と、君のこと、そして、ここからはじまったすばらしい日々のこと――。

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人はそれを玉手箱と呼ぶ maru @maru_kkym

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