第70話 どうなってんの?

「お、おい……」


 鞘伏はビシャビシャになった顔面に血管を浮かび上がらせる。顔から垂れるココアの雫が膝元を染め上げていく。


 ……や、やってしまった。


 目を伏せ、ゆっくりと口元を拭うマキ。


「テ、テメぇ……」


 雷を落としそうな雰囲気の鞘伏であったが、先ほどの女性店員が駆け寄ってくることに気付いたからか、ただ血管をピクピクさせただけで、それ以上何も言わなかった。


「お客様ぁっ!? だ、大丈夫です……か?」


 店員が鞘伏にタオルを手渡す。


「お、おう、すまねえな」


 タオルを受け取った鞘伏はココアまみれになったサングラスを外して拭くと、店員に向かって微笑んだ。


「わりぃな、姉ちゃん。もう一杯、おかわり頼むわ」

「は、はぃぃぃっ!」


 鞘伏の爽やかな笑みを見つめ、店員は少し頬を紅潮させて駆け足で戻っていった。


「あ、あのぉ……」


 鞘伏を直視できないまま、マキは口を開いた。


「ご、ごめん、なさい。わ、わざとじゃなかったんですけどぉ……」

「……ったく、次から気を付けろよ」


 鞘伏はマキを見ることなく、テーブルと床を拭きながら、さらっと告げた。


「えっ?」


 マキは目を丸くする。


「あ、あの、怒らないんです、か?」


 鞘伏が漸く、手を止めてマキの方を向いた。


「何、不思議そうなツラしてんだよ」

「だって、アン……、鞘伏さんは前会った時、ベイって人に怒鳴り散らしてたし。だから、そういう人なのかなって……」

「おい、その言い方は語弊を招くから止めろ! 大体、ベイは背が低くてひょろっとしてはいるが、一応、大人なんだ。一応な? あ、言っておくが、ベイが大人ってのは、精神的にって意味じゃねえぞ?」


 鞘伏が念押しする。


「そんなに強調しなくても良いと思うけど……」

「つまりだな、ベイと違って、お前はまだガキだ。ガキ相手に一々腹なんか立ててたら、鞘伏家の面汚しになっちまうだろ?」

「顔はココアまみれになっちゃったけど……」

「やかましいわ! 汚したのは!」

「す、すみません……」

「はぁ……。なんちゅう、胆が据わってるガキだよ、全く。あぁあ。ねちゃねちゃして気持ち悪ぃな。甘ったるい臭いするしよぉ」


 マキは感慨深い表情で鞘伏を眺めた。


 やっぱり、良い人なんだなぁ……


 ブツブツ言いながらも辺り一面を拭き終えた鞘伏は、ゆっくり腰掛け、苦笑いを浮かべながらコーヒーカップに口を付けた。


「おっと、危ねえ危ねえ」


 鞘伏は外していたサングラスを掛け直した。マキはその様子をじっと見る。


「あの。なんでまた掛けたの? もう良くない?」

「あ? アホか。さっきも言っただろ。これを掛けてねえと落ち着けねえんだわ」


 マキに釘を刺し、鞘伏はほっとした表情でコーヒーを啜った。


「……でも、さっきの店員さんも、別に気付いてなかったよね?」


――ブッ!


 鞘伏がコーヒーを噴き出した。霧状に舞ったコーヒーがマキの顔をぶわっと包み込む。


「嫌ぁぁぁっ!」


 マキは一心不乱に袖で顔を拭う。


「あ、すまねっ」

「ギヤァァァッ! 穢されたぁぁぁ!」

「し、失礼な! 汚いみたいに言うな! 穢すどころか、高貴なミストだぞ! むしろ喜べや!」

「ひぇっ……」


 マキの全身に悪寒が走る。手で身体を覆い隠し、青ざめた表情で鞘伏を見る。


「わ、わりぃ。今のはさすがに良くなかった」


 鞘伏がマキに謝罪したところで、ココアを手にした店員がやって来た。


「ん?」


 先程までと正反対な状況に、店員は戸惑いを見せる。


「す、すまねえが……」


 鞘伏が伏し目がちに、そっと手を挙げた。


「コイツに、塗れタオルか何か、出してもらえないか?」


 何となく事態を察したのか、店員はすぐにおしぼりを持ってきた。受け取ったマキは皮膚ごと擦り取ろうと言わんばかりに顔を拭う。


「ふふっ……」


 マキの様子を見た店員は口角を上げ、鞘伏に向けて屈み込んだ。


「お子さんですか? 可愛らしいですね!」

「ん?」


 鞘伏の目が点になる。


「何言ってんだ? 俺のガキじゃねえぞ? そもそも俺にガキなんていねえし。コイツのことは良く分からん。多分、どっかの誰かのガキだ」


 鞘伏は腕を組み、顎でマキを指して説明した。


「えぇっ……」


 聞いた店員は怪しげな目を鞘伏に向けて去っていった。





 顔拭きに満足したマキは、少し冷めたココアを口にする。


「いやぁ、すまなかったなぁ」

「いいえ。そもそも最初に私がぶっかけたのが悪いんで……」

「で、話を戻すんだけど、さっきの『忍』ってのは依田の――

「ブッ!? ゴホッゴホッ……」


 マキはココアが気管に入り、激しく咳をした。

 反射的に顔の前で手を構えた鞘伏であったが、安堵の表情を浮かべると、マキの後ろに回って背中を叩く。


「ったく、大丈夫か?」

「はぁ……はぁ……。あぁ苦しかった……。あの。出来れば、飲んでいる時には話しかけないでほしいんですが……」

「それは気を付けるわ。で、その反応を見るに、やっぱり依田のことなんだな」

「うぐっ……」


 誤魔化しきれないと判断したマキは目を瞑り、こくりと頷いた。

 鞘伏は椅子に腰掛け直すと、顎に手を置いてしばらく黙り込む。


 ……や、やばいなぁ。よりによって、一番知られちゃマズそうな人に気付かれてしまった。……私、忍さんに処されるかな?


 マキはガクガクと膝を震わせる。


「いや、やっぱおかしいわ」


 鞘伏が呟いた。


「アイツが忍なわけがない。お前、騙されてるぞ?」

「えぇっ!?」


 マキは耳を疑う。


 いきなり何を?


「いや、あのっ……」

「アイツを忍を言うのは、さすがに無理がある」

「どういうこと?」

「お前。忍ってそもそも、どんな存在か知ってるか?」

「え? どんな? え、うーん、便利屋さん、みたいな?」


 実際そうだし。


「それはまぁ、全く違うってわけじゃないけどよ」


 鞘伏は前置きをし、一度コーヒーを啜った。


「忍ってのは、簡単に言えば農民なんだよ」

「はっ!?」


 マキは目を見開いた。


 は!? 噓でしょ!? 何、さらっと衝撃的なこと言ってんの! 


「ん? そんな驚くか?」


 コーヒーカップを一度置き、鞘伏は怪訝な表情でマキを見る。


「いや、だって。信じられないし……」

「だから、騙されているんだって! 忍ってのは元々、とある貴族に抗おうとした農民が始まりなんだよ。まぁ、始まりというか、それでしかないんだが」

「う、噓でしょ? どーせまた私をバカにしようとしてるんでしょ?」

「嘘じゃねぇよ。忍っつーのは、いわば『農民の夜の顔』みたいなもんだ。あくまで農民だから、大して強いわけでもねぇし、当然、剣術なんてまともに使えねぇ。依田アイツのことは龍刃とやり合った場面しか見てねぇが、それだけでも只者じゃないことぐらいは分かる。素性を隠す理由は分かんねぇが、アイツが忍だってのはさすがに無理がある。まぁ、そういう話だ」


 言い終えた鞘伏は、達成感に満ちた表情でコーヒーを啜った。


――バンッ!


「その話、もっと詳しく!」


 マキはテーブルを叩いて立ち上がり、真剣な眼差しを鞘伏に向けた。


「うん。とりあえず座ろうか」

「あ、はい」


 マキはちょこんと腰掛け直した。

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【~更新お休み中~】斬忍 ~ココロヲキルモノ~ モブリズム @mob_rhythm

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